百錬ノ鐵

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「ガチの百合」で何が悪い?~百合専門誌「コミック百合姫」の《レズビアン嫌悪》#百合姫 #コミック百合姫 #こばらゆうこ

言わずと知れた一迅社コミック百合姫」は、日本国内で唯一現存する百合漫画専門誌である(同人誌の「ガレット」を除く)。

ゼロ年代前半の『マリみて』ブームに便乗して創刊された「百合姉妹」を前身(当時の版元はマガジン・マガジン)とするこの雑誌は、なもり『ゆるゆり』、サブロウタcitrus』、未幡『私の百合はお仕事です!』などのヒット作とともに日本の百合文化をリードしてきた一方で、

まさに『マリみて』ブームの負の遺産と呼ぶべき精神性偏重志向――すなわち「友達以上恋人未満」こそが「百合」の理想とする凝り固まった百合観を、読者に刷り込んできた側面も否めない。

ossie.hatenablog.jpそのような精神性偏重志向は、初代編集長・中村成太郎の偏った嗜好が如実に反映されたものであったが、

中村が編集部を退いた今となっても、なお連綿と受け継がれている。

2023年2月号「編集後記」より(P.574)

はじめまして、ぷぺと申します! 生まれたての百合読者です。女の子同士の友情の延長線上にある、恋っぽいけど恋じゃなさそうな微妙な関係性がだ~~~~~いすきです! どうぞよろしくお願いいたします!

あれは一昨年のことだったか。秋葉原のコミック専門店を巡っていたら、ちょうど前を歩いていた二人組から、

「ガチの百合じゃなくて、うっすらと百合ってところがいいんだよねー」
「わかるー」

といった軽薄な会話が聞こえてきて、

「ガチの百合の、何が悪い!」

と叫びだしたい衝動を抑えるのに必死だったのを昨日のことのように思い出す。

加えて《新米百合カップルが映画で百合のお勉強★》という触れ込みの、こばらゆうこ『フィルムに咲く百合の花を集めて君に贈りたい』という連載(P.567-569)では、

女性異性愛者同士の「恋愛」を伴わない「友情」を描いた岩井俊二監督のシスターフッド映画『花とアリス』が《たとえ恋愛(引用者註:この場合は異性愛が絡もうとも切り離すことができない(引用者註:女性同士の)絆 それも百合と言えるんじゃないかしら…》という強引な解釈で「百合」として紹介されている。

「友情」と「恋愛感情」の境目をどうやって分けるか、という議論があってもよい。だが作品内において女性キャラクター同士の「恋愛(同性愛)」の可能性が明示されない(あるいは否定されている)作品を「百合」と“曲解”する試みは、逆に女性同士の「恋愛」をも「友情」の範疇に押し込めるレトリックを可能とする。

さらにその女性同士が異性愛者であれば、同性愛者の女性キャラクターに対しても男性(異性)との「恋愛(異性愛)」を要求・期待するバイセクシズム――すなわちヘテロセクシズム(異性愛至上主義)が形を変えた“両性愛”至上主義――の“解釈”を誘発する。

ossie.hatenablog.jp

そのような詐術は、現実社会におけるマジョリティの「異性愛」とマイノリティの「同性愛」の社会的・政治的非対称性を考慮せず、観念の上だけで「百合」を弄ぶマジョリティ特有の傲慢な差別意識のなせる業であり、

さらには、それをよりによってマイノリティ当事者である「百合カップル」に行わせるというグロテスクさに吐き気がする(なお作者自身のセクシュアリティは不明だが、いずれにしてもそんなことは関係ない)。

かくしてコミック百合姫」は、ひいては「百合姉妹」の時代から「百合」を掲げながらも、どうにかして「恋愛(同性愛)」の可能性を切り離そうとする、じつに奇妙な精神性を保持し続けている。

それにしても《女の子同士の友情の延長線上にある、恋っぽいけど恋じゃなさそうな微妙な関係性》をもてはやす一方で「ガチの百合」を敬遠する精神性の根底には、いったい何があるのだろうか。

けっきょくのところ、それは「百合」を、異性愛至上主義社会の体制維持に都合の良い次元に矮小化する《レズビアン嫌悪》に根差した差別的な消費であり“搾取”のありように他ならないではないか。

レズビアン」に対する《性的搾取》としては、しばしばポルノグラフィなどによって、ことさら“性的”なイメージばかりが強調される事例が挙げられる。

しかし一方で「レズビアン」から、ことさら“性的”なイメージを排除しようとする作為もまた、

いわば「精神的な同性愛」は認めるが「肉体的な同性愛」は許さないといった御都合主義にもとづいてレズビアン」という生身の存在を“性的”とそうでないイメージに二極化している点では表裏一体であり、これはこれで《性的搾取》の一形態にすぎないのである。

ossie.hatenablog.jp

もっとも、そのような「百合姫」編集部や一部の偏狭なユーザーの固定観念とは裏腹に、

実際の「百合姫」に掲載されている作品の多くは、上述の『citrus』とその続編『citrus+』に象徴されるとおり、女性同士の「恋愛」をナチュラルに肯定する、むしろ異性愛至上主義と対極にあるものだ。

SNSに目を向けると、本年度の「次にくるマンガ大賞」でWebマンガ部門の第1位に輝いた新井すみこ『気になってる人が男じゃなかった』のような「ガチの百合」に対する需要が高まっているのを実感する。

(KADOKAWAオフィシャル 書誌詳細ページ)
CDショップで働いているミステリアスな「おにーさん」が気になってしょうがない女子高生・あや。しかし「おにーさん」の正体は、話したこともない、クラスメイトの目立たない女子・みつきだった――。
SNSで最高に注目を集める女同士の「愛情」を巡る物語、待望の書籍化。みつきの過去をめぐる描き下ろしストーリーを収録。

また『機動戦士ガンダム 水星の魔女』が『ガンダム』シリーズ史上初となる女性主人公【スレッタ・マーキュリー】とヒロイン【ミオリネ・レンブラン】の「同性婚」をテーマにしていながら、

「月刊ガンダムエース」に掲載された主演声優のインタビュー(2023年9月号)では、その電子版において「結婚」の文字が削除されたことが批判を受けて“炎上”した一件も記憶に新しい(もっとも後に発売されたブルーレイ最終巻の付属ブックレットでは、監督自身の発言によって二人が“結婚”して正式にパートナーとなった事実が認められ、ファンに一応の安堵をもたらした)。

令和の新時代に突入してもなお、旧弊の異性愛至上主義と《レズビアン嫌悪》を反省しようともしない「百合姫」編集部と一部の頑迷なマニアを尻目に、現代の百合作家とそのユーザーは、よりアップデートされた深みのある百合コンテンツを求めている。

平成の百合文化をリードしてきた「百合姫」が、今や百合文化の足を引っ張っている状況なのは皮肉なものだ。

《レズビアン差別》を正当化する『百合にはさまる男は死ねばいい!?』は真の百合好きこそボイコットすべし #百合はさ #次にくるマンガ大賞

(2023年10月3日 加筆修正)

niconicoダ・ヴィンチが共催する「次にくるマンガ大賞」の2023年度Webマンガ部門で《女同士の愛情》をテーマにした新井すみこ『気になってる人が男じゃなかった』が、百合作品としては歴代初の第1位を獲得した。

prtimes.jp

【あらすじ】
CDショップで働いているミステリアスな「おにーさん」が気になってしょうがない女子高生・あや。しかし「おにーさん」の正体は、話したこともない、クラスメイトの目立たない女子・みつきだった――。
SNSで最高に注目を集める女同士の愛情を巡る物語。

また同時に、南高春告/鴉ぴえろ/きさらぎゆり『転生王女と天才令嬢の魔法革命』がコミックス部門の第14位、ゆあま『君と綴るうたかた』がGlobal特別賞を受賞。それなりに認知されてきたとはいえ、未だニッチな印象が拭えない百合作品が、にわかに脚光を浴びる機会となった。

次にくるマンガ大賞2023 Webマンガ部門

https://tsugimanga.jp/winner/2023/web.html

日陰者の百合ファンとしては、快哉を叫びたいところではある。が、手放しに喜ぶことはできない。

ランキング全体を見渡してみると、19位に蓬餅『百合にはさまる男は死ねばいい!?』なる不穏な存在が鎮座している。

prtimes.jp

本作は「LINEマンガ インディーズ」への投稿をきっかけに「LINEマンガ」トライアル連載を経て本連載にステップアップした人気作で、現在紙の単行本も2巻まで発売されています。
昨年「次に来るマンガ大賞2022」Webマンガ部門にノミネートされており、今年は入賞を果たしました。
吹奏楽部に所属し、トランペットの1stを担当していた片桐千早。ところが全国レベルの強豪校でトランペットの1stを吹いていたという相川響が転校してきて、そのポジションを奪われてしまい……。タイトルからは容易に想像できない、少女たちの青春ドラマと恋心を丁寧に描いた百合マンガです。

※強調は引用者

昨年度のWebマンガ部門にもノミネートされていたが入選には至らず、本年度では当落ラインすれすれの順位でランクインした(ランキングは20位まで)。一方で、うたたね游『踊り場にスカートが鳴る』、桜木蓮アネモネは熱を帯びる』、ちうね『紡ぐ乙女と大正の月』、肉丸『ばっどがーる』、なうち『雪解けとアガパンサス』といった純然な百合作品は、あえなく落選となっている(ただしいずれもコミックス部門)。

それにしても『百合にはさまる男は死ねばいい!?』とは、なんとも奇を衒った露悪的なネーミングで、視界に入るたびギョッとしてしまう。もっとも、それゆえにWebマンガ(LINEマンガで配信)という媒体では人目を惹きやすく、そうした一種の炎上マーケティングによってアクセスを稼いだ事実は否めない。

さて「百合にはさまる男」の問題については、過去に当ブログでも折に触れて批判的検証を試みてきた。

詳細は『「百合に挟まる男」問題』のカテゴリーから辿っていただきたいが、いまのところ直近の記事がよくまとまっていると思う。

「百合に挟まる男」を擁護する「レズビアン作家」王谷晶(tori7810)の“バイセクシズム”~あるいは「百合に挟まる男」の批判的考察
https://ossie.hatenablog.jp/entry/2022/10/23/172811
※なお、この記事を公開した後に王谷昌からはTwitter@tori7810 ※アカウント削除済み)でブロックされている。

あらためて簡単に説明すると「百合にはさまる男」とは、しばしば誤解されがちだけれど、たんに百合作品に男性キャラクターが登場すること(あるいは百合作品に登場する男性キャラクター)を指すのでは、ない。

もとより『マリア様がみてる』の【柏木優】、昨今の話題作では『機動戦士ガンダム 水星の魔女』の【グエル・ジェターク】など、いわゆる「当て馬」としての男性キャラクターが登場すること自体は、百合作品において一つの定石・お約束となっている。

しかるに「百合にはさまる男」とは、平たく言えば、レズビアン(同性愛者の女性)のカップルと「3P」をしたがる男性異性愛を、婉曲的に言い換えたものである。

あるいは、あえてレズビアン(非異性愛者の女性)とSEXをしたがる男も、これに含まれるであろう。

  • なお、今日において一般的に「百合」という用語は、もっぱらフィクション作品の表現ないしその解釈に用いられ、現実の「レズビアン当事者」を指すものとしては用いられない。
  • ただし《男が「百合」にはさまる》といった場合には、実質的に「レズビアン(同性愛者の女性)」の隠語――正確には「百合」の語源である「百合族」――としての意味をもつのである。

自身のセクシュアリティを公にしているレズビアン当事者の多くは男性から、実際の行為を見学させてほしい、自分も混ぜてほしいといった提案を受けたことがあるという。また女性の百合作家が、男性の読者から作中の「百合ップル(女性キャラクター同士の恋愛関係)」に“はさまりたい”といったセクシュアル・ハラスメントを受ける事案も発生しており、深刻な社会問題となっている。

《百合に男が挟まりたい》問題の“震源地”を探る~女性百合作家へのハラスメント事案をめぐって
https://ossie.hatenablog.jp/entry/2019/07/28/070048

このような男性異性愛者のセクシュアリティ――女性同性愛者がこのような言動をするといった話は寡聞にして知らないので、やはり男性異性愛者に固有のセクシュアリティといえよう――が、たんなる異性指向の発露ではなく、

  • 女性は男性を愛するべきである
  • 男を愛することこそが「女の幸せ(あるいは成熟)」である
  • 男性(ペニス)を必要としない女同士のSEXは不完全である

……といったヘテロセクシズム(異性愛至上主義)の政治的イデオロギー、そして《レズビアン差別》の構造に依拠していることは論を俟たない。

ゆえに、そのような《レズビアン差別》に依拠するレズビアン」への性的加害の表明(言うまでもないが、レイプといった身体的・直接的な手段によらず、言葉だけであっても性的加害・性暴力は成立する)が、批判を受けることもまた至極当然である。

そこをいくと「百合にはさまる男は死ねばいい」という言辞は、一見すれば「百合にはさまる男」を“批判”するものであるかのように思える。ゆえに、そのような言辞を“批判”する試みは、ともすれば「百合にはさまる男」を擁護する立場によるものと誤解されかねない。

しかし「百合にはさまる男は死ねばいい」という言辞が、仮に「百合にはさまる男」を“批判”する立場からなされたとしても、その“批判”に際して「死ねばいい」という暴力的・脅迫的な文言を用いることで、

じつのところ、むしろ「百合にはさまる男」への同情を惹く効果が生じているのである。

もっとも、仮に「百合にはさまる男は死ねばいい」と実際に発言する人がいたとして、

問題があるとすれば「死ねばいい」という表現が暴力的・脅迫的で不適切だというだけであり、

男が「百合」に“はさまりたい”などと主張する行為を正当化する理由には、まったくならない。

すなわち『百合にはさまる男は死ねばいい!?』というタイトルは、

  • 男性によるレズビアンへの性的加害に対する正当な批判を、露悪的にパラフレーズすることで、批判者を“悪魔化”し、その批判を無効化すると同時に、
  • 「百合にはさまる」という男性異性愛者の、ヘテロセクシズムと《レズビアン差別》に依拠した欲望を正当化する

――このような二重に倒錯したレトリックの上に成り立つ、一種のヘイトスピーチとして機能するものだ。むろん「ヘイトスピーチ」の対象となるのは「百合にはさまる男」ではなく「レズビアン」に他ならない。

じじつ、作者の蓬餅(よもぎもち)はタイトルの「百合にはさまる男」について、まさしく上述したように「百合作品に登場する男性キャラクター」と混同したうえで、その存在を“肯定”する発言をしている。

女子高生たちの“百合”描く作者の疑問「なんで毎回、男女の恋愛が優先?」、実績ゼロで“次にくるマンガ大賞”ノミネート
https://www.oricon.co.jp/special/60275/2/

――片桐と相川の間に入る唯一の男の子が日向です。彼が出てくることで、百合好きからは拒否反応のコメントもありましたが、女子同士の話にまとめなかった理由は?

蓬餅さん 女性だけで完結しない世界での女性同士の繋がりが好きなんです。マンガで時々ある展開で、「主人公(女)に親友(女)が恋するけど、主人公にはヒーロー(男)がいるので失恋が確定されていて、親友は親友ポジションで落ち着く」みたいな流れがあるんですが、それを見て毎回「なんで男女の恋愛が優先されるんだ…?」と思っていまして…。男女の恋愛を扱うマンガが多いので、当たり前なのは分かっているんですが。自分で見たいものを描いたらこうなりました。

もっとも、実際に作品を読んだ人によると、上掲した解説文や作者自身のコメントにあるとおり、その奇を衒った露悪的なタイトルに反して、とくに差別的な印象を受ける内容ではないという感想も散見する。

そも作者が「百合にはさまる男」という用語の、本来の由来や意義を完全に誤解したまま、なおかつそれを肯定・擁護する意図で用いてしまったことが、さらに事態をややこしくしている。

  • げんに作者はTwitter@4049forever)でも、そのような誤解に基づいて「百合にはさまる男」を擁護する論陣を張っていたが、筆者を含む百合ファンからの反論を受けて一連のツイートを削除している。

しかし、作品のタイトルが内容を正確に表していないというのであれば、

作者ならびに出版社は、今からでも作品のタイトルを実際の内容に即したものに変更するべきではないか。

まして先述のとおり『百合にはさまる男は死ねばいい!?』は、内容以前にそのタイトル自体が、逆説的に《レズビアン差別》を正当化する「マンガの形を借りたヘイトスピーチ以外の何物でもない。

だいいち、そのようなレズビアン(非異性愛者)」に対する異性愛(男性を愛すること)の要求という明確な人権侵害を示す言葉を、面白おかしくジョークのネタやネットミームとしてカジュアルに消費してしまう平坦な言語感覚に、寒気がする。

したがって、百合文化を愛し、現実社会の《レズビアン差別》に反対する私が、この奇を衒った露悪的な炎上マーケティングに加担することは、金輪際ない。

また良識ある多くの百合ファンも、真の百合好きを自認するのであれば、同様に本作のような「マンガの形を借りたヘイトスピーチをボイコットすることを強く推奨する。

「レズビアン」の概念から「女性」を切断する「非男性」の“男性”至上主義~米ジョンズ・ホプキンズ大学の「LGBTQ用語集」をめぐって

(2023年11月20日 加筆修正)

メリーランド州のジョンズ・ホプキンズ大学の公式サイトに掲載されている「LGBTQ用語集」の中のレズビアン(Lesbian)」の項目が、なにやらおかしなことになっていると話題になっていた。

要約すると「レズビアン」という言葉に関して、かつては《女性を愛する女性》と定義されていたが、

現代では「女性」としてのアイデンティティをもたない、いわゆるノンバイナリーの人々の存在を考慮して《非男性を愛する非男性》“update”されるべき、と主張されていたのである。

JKローリングは、これを「女性」の抹消として提起しているけれど、

じつのところ、むしろ《男性を愛さない女性》を「女性」とは認めない(ゆえに「非男性=女性と似て非なる何か」である)という直球の異性愛至上主義の宣言に他ならない。

しかし、そのようにして「レズビアン」のセクシュアリティに対しては“update”を要求する一方で、

「ゲイ」については「Gay Man」として「男性」に限定され、その定義も《男性を愛する男性》という従来の定義が温存されている。

上掲の定義は、異性愛至上主義の問題に加えて、このような男性至上主義に基づく「レズビアン女性」と「ゲイ男性」の非対称性も特筆すべきであろう。

もっとも「非男性」には「女性」も含まれると解釈するなら、従来の《女性を愛する女性》が否定されるわけではないとする見方もあるかもしれない。

ところが「ノンバイナリー」には、当然ながら身体女性のみならず身体男性も含まれる。

昨今、トランスジェンダリズム運動においては、

レズビアン(女性を愛する女性)」の多くが「トランス女性」を性的対象に含めないことを「トランスフォビア(トランス差別)」と決めつけた上で、

《(現時点では困難であっても、将来の可能性においては)トランス女性を愛する可能性》に“開かれる”べきであるとする「クィア理論」が幅を利かせているけれど、

ここへきてレズビアン」は「トランス女性」に加えて「ノンバイナリーの身体男性」も性的対象に含めるべき、ということになったらしい。

  • もっともトランスジェンダリズムおよびクィア理論において所謂「体の性(生物学的性別)」はないものとされており「身体男性/身体女性」という言葉自体が“差別語”と見なされる。
  • よって《レズビアン」は「トランス女性」に加えて「ノンバイナリーの身体男性」も性的対象に含めるべき》とは、なにもトランスジェンダリズムおよびクィア理論の信奉者たちが言葉通りの主張をしているということではなく、その本質を言い表したものであることに留意されたい。

あるいは、この場合の「ノンバイナリー」を身体女性に限定したとすれば、

それは男女間に性別学的性差が存在する事実を認めざるをえなくなり、

トランスジェンダリズムおよびクィア理論の教義に反することになってしまう。

そうした自己矛盾に編者自身が気づいたせいか、上掲の記事は後に削除されたようだ。

  • あるいは、仮に「女性」を「非男性」に包摂・統一するのではなく「女性あるいは非男性」という表記であったなら特に問題はなかったであろう。

しかし裏を返せば、トランスジェンダリズムおよびクィア理論の信奉者たちにとっては、やはり上述の定義のほうが都合が良かったようで、

かつて存在した「クィア学会」の元・代表であるマサキチトセ(@MasakiChitoseが,、以下のような擁護論を展開している(なお、この人物はどういうわけだかしょっちゅうアカウント名を変更する習性があり、現在は「瀬戸マサキ」を名乗っているが「マサキチトセ」で統一する)。

(※以下にスレッドをまとめる。強調は引用者)

レズビアン」の定義に "non-man"(男性でない人)という語が使われたことが「女性の抹消」だと思われてる件、まさにその定義のとこになぜ "non-man" という語を使ってるか書いてあるじゃん…。

レズビアンの中には自分を「女」と思わないノンバイナリーの人々もたくさんいるから、って。

女性を消したくてそうしたわけじゃなく、実際のレズビアンコミュニティの実情を反映して包括的な表現にしただけだよ。同じ資料の他の項目には "woman" って語は使われてるし。

女性の抹消(「偉人として名が残ってる歴史的人物が男ばかり」とか)は大きな問題だけど、この件は関係ないでしょ。

「男は "non-woman" と呼ばれてない。その非対称性が問題なんだ」という意見が複数来てるけど、そんなのコミュニティの実態を反映してるだけ。実態よりも整合性を優先したら辞書としては失格です。

そもそもノンバイナリーなど男女以外のアイデンティティを持つ人には、性的指向に関係なく、出生時に女児とされた人々がかなり多い傾向にある。(なぜかは私も知らん。) また、レズビアンコミュニティには男性的な振る舞いの人々(ブッチなど)が常にたくさん含まれていた。

ノンバイナリーなどの言葉に出会って「ずっと自分が女ってことに感じてた違和感はこれか」と気づき名乗るようになった人も多い。コミュニティ内部でもそうした多様なアイデンティティを持った人々として「レズビアンコミュニティ」を理解する傾向が強い。

(中略)とにかく辞書的には実態を反映しただけだよってこと。今後もっといろんな背景のノンバイナリーが増えて行くし、出生時に男児とされた人々にも増えているから、「ゲイ」の説明に non-woman という言葉が使われるようになるのも時間の問題だと思う。

「実態」ということであれば、

レズビアン当事者」の中には「ノンバイナリー」や「トランス女性」を性的対象に含む人もいれば、含まない人もいる

というのが「実態」である。

もとより概念としての「レズビアン」の定義と、実際の多様な「レズビアン当事者」のありようが《どうあるか(ザイン=存在)》または《どうある”べき“か(ゾルレン=当為)》ということは、全くの別問題だ。

このように「概念の定義」と「個別の事例」を混同することは、「存在」から「当為」を導く詭弁の典型である。

まして先述のとおりジョンズ・ホプキンズ大学による「レズビアン」の定義は、けっしてニュートラルな客観視点ではありえず、

《「レズビアン」は「トランス女性」に加えて「ノンバイナリーの身体男性」も性的対象に含めるべき》というクィア理論の政治的イデオロギーを前提としていることは論を俟たない。

マサキチトセは《実態よりも整合性を優先したら辞書としては失格です。》というが、

むしろ「概念の定義」よりも政治的イデオロギーを優先することこそ《辞書としては失格》であろう。

加えて「レズビアン」という概念の定義と、レズビアン・コミュニティ」というものに参加する人が、実際にどのような人々であるかということも別問題だ。

コミュニティ内部でもそうした多様なアイデンティティを持った人々として「レズビアンコミュニティ」を理解する傾向が強い。

マサキチトセは「レズビアン(という概念の定義)」を「レズビアン・コミュニティ」の問題に摩り替える。言い換えるならマサキチトセは「レズビアン」と「レズビアン・コミュニティ」を何の疑いもなく同一視しているのである。

しかし、もとよりレズビアン当事者」の誰しもが「レズビアン・コミュニティ」に参加するわけではない。

たとえば「ゲイタウン」といえども新宿二丁目のような飲み屋街は、下戸の人間は足が向かない。また一般に「コミュニティ」とは(それこそトランスジェンダリズムクィア理論といった)特定のイデオロギーを共有できる者のみが集まり、そうでない者は自ずと遠のいてしまう性質のものである。そも「レズビアン」がどうとかいう以前に、他人と群れるのが苦手という人もいるだろう。

  • 余談であるが、ゲイ男性が彼氏ができても馴染みの「ゲイバー」に通うのに対し、レズビアン女性は彼女ができると宅呑みに移行して「レズビアンバー」からは足が遠のくという消費傾向の違いがあるという。
  • そうした実際のレズビアンコミュニティの実情》を踏まえると「レズビアン・コミュニティ」が狭義の「レズビアン」だけを相手にしていても商売として成り立たない――よって「バイセクシュアル女性」「パンセクシュアル女性」「アセクシュアル女性」「ヘテロセクシュアル女性」「トランス男性」そして「ノンバイナリーの身体女性」などの人々も迎え入れる必要がある――という“実際問題”も考慮せねばなるまい。

そこをいくとマサキチトセの議論は「レズビアン当事者」の誰しもが「レズビアン・コミュニティ」に帰属しているはずだという勝手な思い込みを前提としており、

それこそレズビアン当事者」の多様なライフスタイルを否定する傲慢な物言いである。

マサキチトセは実際のレズビアンコミュニティの実情固執するが、けっきょくのところレズビアン・コミュニティ」といっても、実際の「レズビアン当事者」の中で参加している人はごく一握りというのが「実情」であり、そのような特殊な状況を一般化して論じること自体が失当なのだ。

まして言葉の定義には、社会的・政治的拘束力が発生する。だからこそ、かつてゲイ/レズビアンの当事者たちは、国語辞書の「同性愛」の項目における《変態性欲》という記述を削除するように働きかけていたではないか。

もっとも、その意味では「レズビアン」の定義が《女性を愛する女性》に加えて《男性を愛さない女性》を含んでいることが、性的指向流動性・可変性を妨げる「枠」になりうる、という批判がクィア理論の文脈でなされてきた。

ossie.hatenablog.jp付言すれば、クィア理論においては、この《性的指向流動性・可変性》こそが人間の“本質”として称揚されており、

  • その意味で「クィア理論」は、男女の生物学的性差を社会的・政治的に“つくられた”虚構”であると断じる「構築主義」を装いながらも、
  • そうした社会的・政治的影響さえなければ誰もが性別に関係なく“自然に”“自由に”性愛を謳歌できるようになるはずだ、という思い込みを前提としていて、そのじつ「本質主義」に陥っている点に無自覚である。

ゆえに「レズビアン(非異性愛者)」が《性的指向流動性・可変性》を拒むことは「異性愛規範」の加担であるとする倒錯した帰結が導かれる。

しかし異性愛規範(異性愛至上主義)」を批判する上では、言うまでもなく《異性を愛すること》自体の社会的・政治的特権性が問われなければ話にならない。

そこへきて、性的指向流動性・可変性に“開かれる”べきだといえば聞こえはいいだろうが、そのじつレズビアン(非異性愛者)」に対して《男性(異性)を愛すること》を要求・期待する口実にすぎない。

異性愛規範(異性愛至上主義)」を基幹とする現代社会において《異性を愛すること》と《同性を愛すること》が等価の選択肢となりえないのは自明だ。

  • なお、ここで《男性を“愛さない”こと》と《「非男性」を愛すること》の意味の違いにも留意されたい(理由は先述のとおり)。

すなわち「レズビアン」に対して性的指向流動性・可変性に“開かれる”ことを要求・期待するクィア理論」とは、そのじつ形を変えた異性愛至上主義に他ならないのである。

その上で「クィア理論」およびトランスジェンダリズムが「レズビアン」に対して「トランス女性」や「ノンバイナリー」を性的対象として差し向ける試みは、

じつのところ「トランス女性」や「ノンバイナリー」の存在を「男性」の代用として位置づける行為となる。

換言すれば「トランス女性」や「ノンバイナリー」を“男扱い(ミスジェンダリング)”しているのはレズビアン」ではなくクィア主義者およびトランス主義者の側なのである。

そも「レズビアン」が《男性を愛さないこと》について、セクシュアリティを拘束する「枠」ととらえる発想は、

それ自体が《女は男を愛するべきである》という「異性愛規範(異性愛至上主義)」に端を発するものだ。

ゆえに、たとえ現実の「レズビアン当事者」のセクシュアリティやライフスタイルが多様であろうとレズビアン」の概念から「女性」を切断する試みは許されない。

なぜならば、それは《男性を愛すること》をもって「女性」の概念を定義する、異性愛至上主義・男性至上主義の追認に他ならないからだ。

その意味でマサキチトセのいう《そもそもノンバイナリーなど男女以外のアイデンティティを持つ人には、性的指向に関係なく、出生時に女児とされた人々がかなり多い傾向にある。》というのは、

それこそ《男性を愛すること》をもって「女性」を定義する異性愛至上主義・男性至上主義が「レズビアン当事者」のジェンダーアイデンティティに影響した――結果として「レズビアン当事者」であっても異性愛至上主義・男性至上主義を内面化してしまう――可能性が考えられる。

むろん、そのような社会的・政治的影響だけが原因であると断定するつもりはない。が、そうした“可能性”にすら思い至らず《なぜかは私も知らん。》とふんぞり返っていられるとは、いかにも“男らしい”無邪気で無責任な物言いではないか。

とはいえジョンズ・ホプキンズ大学の編者も、それを無批判に支持するマサキチトセも、おそらくは「女性」および「レズビアン」の存在がこの世から“抹消”されるような事態を望んではいないだろう。

しかし右(右翼思想=家父長制など)でも左(左翼思想=トランスジェンダリズムクィア理論など)でも、

いかなる理路を辿ろうとレズビアン」の“女性”を否定・否認するあらゆるレトリックは、

ただ《「女性」が女性を愛する・男性を愛さない》という事象を、ありのままに受け止められず、どうしても認めることができないという、

当人の無自覚な異性愛至上主義・男性至上主義を露呈するほかないのである。

未だに《レズビアンがトランス女性と付き合わないのは「差別」だ》と言い続ける「トランス主義者」シオヤギくん(Gay_yagi)の“屁理屈”ふたたび

(2023年3月20日 加筆修正)

しばらくご無沙汰していたが、久しぶりのブログ更新も「シオヤギくん(@Gay_yagi)」のネタである。

このところTwitterアルゴリズムとやらに変更があったようで、フォローしていないアカウントのツイートが「おすすめ」としてTLに表示されるようになった。シオヤギくんからは本垢ではブロックされているが、副垢の方に流れてきたので図らずも彼の、相変わらずなトンデモ言説を目にする羽目になってしまった。

ところでシオヤギくんから引用リプライで噛みつかれている「井上巻き貝(@inoue_goku)」なる人物。じつは過去に当ブログでも取り上げたことがあり、その当時はむしろ「トランスアライ」というスタンスでシオヤギくんと異口同音の主張をしていたはずだが、いつのまにかトランスジェンダリズムに批判的な立場へと転向し、逆にトランス主義者たちから石もて追われる身となったようだ。まぁ「理論」を学べば学ぶほど「実態」を知れば知るほど、正常な知性を有する人であればその異様さに気が付くのがトランスジェンダリズムでありクィア理論なのだから当然といえば当然である。

ossie.hatenablog.jpさて、しばしば「同性愛者」に関する説明で《同性に“惹かれる”人》という言い回しを目にすることがあるけれど、じつのところ、それは不適切な表現である。

性的指向にかかわらず、人が、たんに他の人に“惹かれる”ことと、その人と恋愛関係や肉体関係といったいわゆるパートナーシップを結ぶことを希望(あるいは夢想)するかどうかは、まったくの別問題であるからだ。

すなわち「性的指向」の概念が指し示す「愛」とは後者(継続的ないし一時的なパートナーシップの希望)であり、

ゆえに「性的指向」は個人のセクシュアリティにとどまらず、同性婚やパートナーシップの問題などともリンクしながら、人間の尊厳にかかわる「人権問題」「社会問題」として議論されている。

これを上掲したシオヤギくんの言説に当てはめるなら《人はパンツの中身を確認してから》つまり相手がトランスジェンダーであることを知ったうえでもなお《恋に落ちたり性的魅力を感じる》か否かというのが問題の本質なのだ。

なお、かつて物議を醸した国連機関「UNAIDS」の広告Would you still love her if she were transgender?(彼女がトランスジェンダーであっても、まだ愛しますか?)は、まさにそうした事態を指し示したものである。

ossie.hatenablog.jpこの問題について原理原則で答えるのであれば、人それぞれ、というほかないだろう。いわゆる「異性愛者」の男性であっても、男の娘バーやニューハーフヘルスに通う人がいることと同じで、それこそ性的指向(sexual orientation)」ではなく「性的嗜好(sexual preference)」の問題でしかない。

しかし現実問題として、レズビアンの女性が女性とコトに及ぼうとする際、事前に相手がトランスジェンダーであることに気が付かず、直前になって「身体性別」を理由に拒否したのであれば、

そのレズビアンは「トランスフォビア」さらには「ペニスフォビア」として“糾弾”されてしまうのが実情なのである!

togetter.comそして《Would you still love her if she were transgender?》を手放しで礼賛する発言(上掲記事参照)に象徴されるとおり、シオヤギくんは【トランス女性を性的対象に含めないレズビアン】を「トランス差別主義者」と決めつけたうえで(現時点では困難であったとしても、将来の可能性においては)トランス女性を愛する可能性に“開かれる”べきであると主張する、まさしく「レズビアン差別主義者」のトランス主義者である。

トランスジェンダーを「恋愛対象(性的対象)」に含めるか否かという問題について《個人の好みであってゲイやレズビアン全体の話ではない》と言いながら(それ自体は正しいが)、

一方で《シスは同性愛者/異性愛者としてトランスジェンダーと恋愛もする》などと、自ら「主語」を勝手にデカくして「ゲイやレズビアン全体の話」にしてしまう。こうした議論のブレもシオヤギくんの特徴だ。

ossie.hatenablog.jpシオヤギくんの「勘違い」は、ようするにゲイ/レズビアンないし同性愛者/異性愛者の中にはトランスジェンダーを性的対象に含める人もいる、という至極単純な事実の「話」を、

トランスジェンダーを性的対象に含める“べきである”》という倫理・規範に摩り替えている点にある。

こうした「ザイン(存在:~である)」と「ゾルレン(当為:~べきである)」の混同は、ごく初歩的な論理的誤謬である。

また、そんなシオヤギくんはトランス主義者の例にもれず、この期に及んで《「身体性別」という言葉の定義》がわからないなどとしらばっくれている。再び引用しよう。

そもそも"身体性別"という言葉自体何を指しているのか定義も曖昧なのですが、それをさも明瞭な線引きであるかのように語ってしまうのも典型的な勘違いなんですが…

仮に"身体性別"が「出生時に割り当てられた性別」を指すとなると、もうそれは「外見では判断できない」ということになりますね。そもそも人はパンツの中身を確認してから恋に落ちたり性的魅力を感じるわけではありませんし。

このようなシオヤギくんの“屁理屈”は、ざっと見ただけで何重もの間違いがある。

まず一つは、上述したとおり問題の本質が《パンツの中身を確認》する前ではなく、その“後”の話(Would you still love her if she were transgender?)であることを摩り替えている点。

また《そもそも人はパンツの中身を確認してから恋に落ちたり性的魅力を感じるわけではありませんし。》というのは、ようするに人間の性別は外見・外面からでは判別できないと言いたいのであろうけれど、

それを言うなら人間の「内面」すなわちトランス主義者が唯一絶対の価値基準として称揚する「性自認」など、なおさら外見・外面から判別しようもない。

性自認」とはあくまでも自己申告に委ねられる、言い換えるなら“性善説”に立脚した概念であるが、人間はウソをつく生き物だ。

げんにシオヤギくん自身が《レズビアンがトランス女性と付き合わないのは「差別」だ》と言いながら「差別」とは言っていない、とウソばかりついているではないか。

ossie.hatenablog.jpそも「身体性別」つまり生物学的性別は、性器の形状(パンツの中身)のみならず、子宮の有無、性腺、乳腺、ホルモン、染色体、骨格……など、単一でなく複合的な基準によって判定される概念だ。

このように書くと、トランス主義者はしたり顔で「科学者でもないのに、どうして他人の染色体がわかるのか?」と絡んでくるけれども(もっとも、それをいうなら精神科医でもないのにどうして「性自認」がわかるのか? ということになってしまうが)、

私たちの日常生活で他者の性別を認識するにあたって、そこまで正確・厳密な科学的定義など必要ない。電子レンジの構造が分からなくても、電子レンジを使って調理することができるように“だいたい”合っていればじゅうぶん事足りる場合がほとんどだ。

また、言うまでもなくトランスジェンダーはマイノリティであり、実際のトランスジェンダー当事者の人口比は、わずか1パーセントに満たないという統計がある。

トランスジェンダーはどれくらいいるのか – はじめてのトランスジェンダー trans101.jp

すなわち、たまたま好きになった相手がトランスジェンダーである可能性も、きわめて低いと言わざるをえない。

そして一般に、自分の性的対象から外れる相手との性行為を想定して嫌悪感を抱くことは、ごく自然な心理だ。

仮にそれが「トランスフォビア」であるというなら、むしろ《Would you still love her if she were transgender?》などと不要な想定を強要することで「トランスフォビア」を煽動しているのはシオヤギくんに代表されるトランス主義者の側ということになる

もっとも「身体性別」を基準にして性的対象を選別する人であっても、ただ「身体性別」が男性ないし女性でありさえすれば相手は誰でもいい、というケースは稀であろう。

たしかに性的対象は「身体性別」のみならず、いわゆる性自認・性表現、さらには性格、趣味嗜好、思想信条、経済力、SEXの相性……などを含めて複合的に判断される「人間性の事柄である。

ところが、こうした「複合的性別」および「人間性の問題について、シオヤギくんに代表されるトランス主義者は、

「身体性別」のみならず複合的に判断する、というのを「身体性別」は“無関係”である、とミスリードするのだ!

こうした十分条件」と「必要条件」の意図的な混同は、まさしくトランス主義者に特有の詭弁術であり、かれらの認知の歪みきった単一的・一元的な貧困きわまりない世界観を如実に示すものとなっている。

ossie.hatenablog.jp

 

「百合に挟まる男」を擁護する「レズビアン作家」王谷晶(tori7810)の“バイセクシズム”~あるいは「百合に挟まる男」の批判的考察

(2024年1月29日 加筆修正)

現代日本の文壇において「レズビアン」をカミングアウトしている数少ない作家の一人に、『完璧じゃない、あたしたち』『ババヤガの夜』などで知られる王谷晶@tori7810 ※アカウント削除済み)がいる。

Twitterのプロフィール(2022年10月時点)には次のように書かれている。

小説家/うまい酒とBLとフィクションのために働くレズビアンフェミニスト/全ての差別に反対

王谷晶はBLの嗜好を表明する一方で、自らが「当事者」である「百合」については、これまで積極的に言及してこなかったように思う。たんに興味がないのか、意図的に言及を避けているのかはわからないけれど、少なくとも王谷の読者ではなくアカウントをフォローもしていない私が目にする機会はなかった。

そんな王谷晶の、百合文化に対する姿勢が垣間見えるツイートがRTで回ってきた。

異性とファックした程度で女同士のラブは揺らがんし、みたいなの好きですね……(いわゆる百合に挟まる男にそんなに怒りが沸かないのも、挟まったところでどうでもいいでしょ、メインの二人のスパイス程度にしかならんでしょという気持ちがあるからかも)
https://twitter.com/tori7810/status/1576252805815287808

百合に挟まる男死ねみたいなミーム、女同士の結び付きがその程度で崩れる一時的で脆弱なものだというそれこそ有り触れた偏見を前提にしたものではないかという懸念がずっとある

https://twitter.com/haifi2ch/status/1576532044053553152

「男が挟まると百合の構造が脅かされる」としたらそれは「男を教えてやれば治るだろう」というコンバージョンセラピー的な差別思想となんら変わりないのでは

https://twitter.com/haifi2ch/status/1576532931937333248

まぁだから「可愛い女の子だけ目に入れてたいから百合が好き」みたいなオタクはダメなんだよな

https://twitter.com/haifi2ch/status/1576533309340807168

そうか、「百合に挟まる男」ってつまり舞台装置的なキャラクターとしてのみ想定されてる訳ではなくそういうクソなヘテロオタクも射程に入った批判とも言える訳か

https://twitter.com/haifi2ch/status/1576547275630780416

2ツイート目以降は無関係の一般人maelstrom@haifi2ch)によるものだが、王谷の発言を補足するものであるため、便宜上これらを一まとめにして扱うことにする。

さて、この「百合に挟まる男(あるいは百合に挟まりたい男)」という言葉は、百合文化におけるパブリック・エネミーとして位置づけられている感がある。

  • なお「百合に挟まる男」と「百合に挟まりたい男」とでは言葉の上での意味が違ってくるけれど、「百合に挟まる男」に“なりたい”と公言する「男」は即ち「百合に挟まりたい男」でしかないので、ここでは両者を同じものとして扱う。じっさい、とくに使い分けはされていない。

ところがネットミームの宿命からか、いつしか言葉自体が勝手に独り歩きを始め、その文脈・背景を知らない“イッチョカミ”“知ったかぶり”の輩が言葉尻だけを捉えて短絡的な反応を示す場面にも直面するようになった。

そこへきて「百合に挟まる男」に対する百合ユーザーの批判は、あたかも百合作品に男性キャラクターが登場すること自体を感情的に拒絶しているかのような誤解を受けている。

中にはそうした偏狭なマニアが一部に存在することも事実だけれど、そのじつ百合作品に男性キャラクターが、いわば「当て馬」「噛ませ犬」として登場することは、けっして珍しくないどころか、むしろ一つの“定石”“お約束”ですらある。それを頭ごなしに否定するのであれば『マリア様がみてる』『青い花』『citrus』『神無月の巫女』といった主要な百合作品をことごとく切り捨てることになってしまう。

しかるに本来「百合に挟まる男」とは、ようするに、レズビアン女性のカップルと「3P」がしたいという欲望を公言する「男」の存在を想定したものだ。ただ「3P」「SEX」「ファック」といった直接的な表現を用いると、あまりに生々しいため「百合」に“挟まりたい”という抽象的な言い換えがなされているようである。

男性異性愛者向けのポルノグラフィにおいて、そのような趣向がこれまた“定石”“お約束”として用いられてきたことから、百合コンテンツを嗜む男性異性愛者のユーザーもまた、しばしばそのような「男」と誤解・混同されがちなきらいがある。しかし言うまでもなく、男性異性愛者が百合コンテンツを嗜むことと、百合作品に登場する女性キャラクターたちと男性である自身の性行為を妄想することは、まったく別次元の欲望であり「当事者」の一人として異議を唱えたい。

話を戻すと「百合に挟まる男」を議論するにあたって重要なのは、たんに男性異性愛者が複数の女性との性行為を望むというだけでなく、その相手となる女性を、あえて《男を知らない》あるいは《男嫌い》の「レズビアン(非異性愛者)」に設定している点だ。

それは言い換えるなら、男性異性愛者が複数の女性との性行為を通して快楽を得るだけでは飽き足らず、レズビアン(非異性愛者)」に〈男性(異性)〉との性行為を強要することで、嗜虐的・倒錯的な優越感を味わう、一種のレイプ・ファンタジーの産物である。

よって《男が百合に挟まる》という行為ないしシチュエーションは、必然して「性暴力(レイプ)」とならざるをえないのだ。

もとより今日の「百合」という用語は、前述のとおり主に漫画などのフィクション作品において、女性キャラクター同士の恋愛関係およびその表現を指す。その意味では、女性がバイセクシュアル(あるいは異性愛者)同士の恋愛関係であっても「百合」は成立することになる。

しかし、こと「百合に挟まる男」といった場合には上述の動機とその歴史的経緯により、むしろ本来の意義・語源における「百合族」すなわち「レズビアン」――まさしく〈女性〉であり〈同性愛者〉であり、なおかつ〈非異性愛者〉である人々が想定される。

また一般的な「百合萌え」の男性が、あくまでも創作物として女性同士の恋愛を表現するコンテンツを消費するに留まるのに対し、

「百合に挟まる男」は人間としての「レズビアン女性」自体に性欲を向けるという違いがある。

これによって「百合に挟まる男」の存在は、「レズビアン」の性的主体性(セクシュアル・アイデンティティ)を侵害する、ヘテロセクシズム(異性愛至上主義)およびレズボフォビア(レズビアン嫌悪)の「暴力装置として機能するのだ。

具体例を挙げると、ネット上でカミングアウトしているレズビアン当事者(あるいはバイセクシュアル女性も)の多くは、見ず知らずの男性から《実際の行為を見学したい・混ぜてほしい》というメールを受け取った経験があるという。「百合に挟まる男」が指し示すのは、そういう「男」である。

もっとも「百合」がフィクション作品の用語である以上「百合に挟まりたい」と公言する男性が、かならずしも現実の「レズビアン当事者」に性的加害を働くとはかぎらないとする意見もあるだろう。

しかし実際には、これをマンガの表現だけの問題と割り切るわけにはいかない。なぜならば女性の百合作家が、男性読者から「百合ップル(※女性キャラクター同士の恋愛関係・カップリング)の間に自分も挟まりたい」といったセクシュアル・ハラスメントに曝される事例も発生しているからだ。

仮に「百合に挟まる男」が一つのセクシュアリティとして肯定・尊重されるべきであるとするならば、そのような百合作家のセクハラ被害をセクシュアル・ハラスメントとして適切に対処することが不可能となる。

ossie.hatenablog.jpそのような「百合に挟まる男」のわかりやすい事例が、ちょうど上掲ツイート群と同じタイミングで流れてきたので、ご覧いただこう。

この場合の「百合」が、仮にバイセクシュアル女性を想定したものであったならば、あらかじめ〈両性愛者〉である女性が男性と性行為することを“堕とされる”とは形容しないであろう。したがって、ここでいう「百合」とは広義の百合表現のことではなく「百合族」すなわち「(男を知らない・男嫌いの)レズビアン」の符丁であることに疑いの余地はない。

  • もっとも男性異性愛者向けポルノグラフィにおいては、男性主人公が「レズビアン」の女性をレイプした後で、じつは【彼女】が過去に男性経験のある「バイセクシュアル」であったという理由でレイプを正当化するといった後付け設定も散見する。
  • いずれにせよ「レズビアン」のみならず「バイセクシュアル女性」への偏見も露呈しており、まさに《ポルノの形を借りたヘイトスピーチ》に他ならない。

その上で《百合が男に堕とされるのが好き》「一つのジャンル」として認めるべきとする主張は、たとえば小児性愛をLGBTと同様の「マイノリティ」として保護するべきというのと変わらない、差別主義者特有の屁理屈だ。

そも《百合が男に堕とされるのが好き》というセクシュアリティ自体、神聖なもの・美しいものを穢すことに背徳的な興奮を得るという嗜虐趣味の一種であり、まさに「百合」を“神聖視”する思想に依拠している。

つまり「百合」を勝手な思い込みから一方的に“神聖視”した上で、それをわざわざ“穢す”という、なんとも倒錯したマッチポンプを自作自演しているにすぎない。

言い換えるなら「巨人ファン」も「アンチ巨人」も同じ「巨人軍(読売ジャイアンツ)」という球団に注目していることに変わりないという理屈であるが、それをもってmaelstromは「男の百合萌え」を「百合に挟まる男」と同一視するのだ。

しかし、そのような極論に至るのは、たんにmaelstromが「百合」という文化を否定的に捉えているがえゆえの偏見の表れでしかない。

それでも「百合」を肯定するのはいいとして“神聖視”するにまで至ったならば、やはり「レズビアン」の存在を特殊視・異常視する裏返しの「差別」に陥ってしまうのでは? といった危惧には、たしかに一理あるかもしれない。

じっさい百合作品の作風や世界観は多様であるが、もっとも「百合」すなわち女性同士の恋愛関係が、ごく日常的かつ自然な事柄として表現されるものが大半であり、それ自体をことさら“神聖視”するような作品はごくわずかだ。

百合コンテンツのユーザーからは「百合は尊い」「百合は至高」といった物言いがなされることもあるけれど(個人的には苦手なノリであるが)そのようなネットミーム特有の修辞的な言い回しを額面通りに受け止めるのは、それこそ“ネタにマジレス”というものであろう。

むしろ「百合」を必要以上に“神聖視”するか、それともその“神聖”なるものを“穢す”かの両極端な価値基準しか認められない視野狭窄で硬直した思考に陥っている点において、そのじつmaelstromのごとき「アンチ百合」こそが「百合に挟まる男」と親和性が高いといえる。

何より「百合に挟まる男」というのは、まさに「男」の加害性・差別性の問題であるにもかかわらず、なぜか「百合(あるいはレズビアン当事者)」の問題に責任転嫁されている。

ようは「痴漢されて悦ぶ女性もいるから痴漢を取り締まるべきではない」と言っているのと変わらない。性暴力をめぐる議論において、加害者の存在が透明化され、被害者の“心のもちよう”に還元されてしまう悪しき風潮が、ここにも表れている。

そこへきて王谷晶の発言は、上掲のポンチ絵に表されるヘテロセクシズムとレズボフォビアに根差した「百合に挟まる男」の欲望に対して「レズビアン当事者」の立場から“お墨付き”を与える格好となっている。

じじつゼロ年代以降に「百合」が社会的認知を得る以前のフィクション作品において「レズビアン」のキャラクターは主として、男性とSEXさせられる、あるいは女性のパートナーを男性に寝取られるという役割しか与えられてこなかった。

ossie.hatenablog.jpすなわち従来の「レズビアン」とは、まさに《女同士の結び付きがその程度で崩れる一時的で脆弱なもの》であることを示す記号にすぎなかったのだ。

もっともmaelstromは「その程度」というけれど、ポリアモリーでなおかつバイセクシュアルといった事例を除けば、男女間であってもパートナーの不貞は関係性を終わらせるのに十分な理由である。

換言すれば王谷やmaelstromは《女同士の結び付き》すなわち女性間の同性愛に対して、男女間の異性愛にはない“強さ”を要求していることになる。

だがじつのところ、それこそ異性愛者〉のありようを価値基準の中心に据えたうえで、〈同性愛者〉の存在を異常視・特殊視するヘテロセクシズム(異性愛至上・中心主義)の「偏見」以外の何物でもない。

あまつさえ《女同士の結び付きがその程度で崩れる一時的で脆弱なもの》でないことを証明するために、敢えて「百合(レズビアン女性)」を〈男性(異性)〉とSEXさせるという発想は、

じつに倒錯してはいるものの、つまるところ〈非異性愛者〉に対して「異性愛」を強制するというヘテロセクシズムの試みを正当化する口実でしかない。

こうした類のヘテロセクシズム言説として他に《百人の男とSEXしてみてから、自分が“本当に「レズビアン」であるのか”を判断すべきだ》というものもあるが、本質は同じだ。そのようにして同性愛の“強さ”を“試す”という発想それ自体の傲慢さ・暴力性についても特筆すべきであろう。

たしかに、主人公たちが何らかの「試練」を乗り越えて成長するという筋書き自体は物語の定型である。しかし、ここで問題となるのはそうした構造が、

女性キャラクターに対して《男性(異性)を愛すること》を成長・成熟のための「通過儀礼」として設定する一方、〈男性(異性)〉との恋愛ないしSEXを経験しない「非異性愛」の状態を《未成熟(あるいは成熟拒否)》と決めつける「前提」に成り立っている事実だ。

そのような「偏見」を疑いもしない、独善的かつ封建的な“差別意識”の根底にはヘテロセクシズム(異性愛至上主義)と併せてミソジニー(女性蔑視)も内面化されている。

もっとも、このような世界観については〈男性〉の存在を〈女性〉が成長・成熟するための“踏み台”として記号化(非人間化)することで、むしろ《女性上位》を賛美しているのだと主張する向きもある。

しかし、いずれにせよ〈女性〉が成長・成熟するにあたっては〈男性〉の存在を不可欠とするものであり、

けっきょくのところ〈女性〉を〈男性〉に依存する――それこそ、女はペットボトルの蓋を開けるにも男に頼らざるをえないのだ、といった――非主体的な存在に貶めている。

ossie.hatenablog.jp男性異性愛者向けのポルノグラフィにおいて、そうした「百合に挟まる男」の存在は、より直截的に「ペニス」として表象されてきた。ようは《ペニスを必要としない女性同士のSEXは不完全である》という決めつけ・思い込みにすぎないが、

しかしじつのところ「男」が「百合」に“挟まる”という欲望を満たす上で「百合」を必要としているのは、まさに「男」の側なのだ。

煎じ詰めれば、それは女性同士の性愛関係に〈男性〉が介入・干渉する“試み”を正当化する、もっともらしい口実でしかない。

個々の主体性(アイデンティティ)をもつ「百合(レズビアン女性)」に対して、いったい何の権限で、そのような「試練」を課すのか。

それこそ《女同士の結び付きがその程度で崩れる一時的で脆弱なもの》という「前提」「偏見」があるがために、女性同士の恋愛を“ありのまま”に見守ることができないのではないか?

そして繰り返すがその「前提」には、やはり《男を愛さない女は未成熟・成熟拒否》《たとえ「レズビアン」であっても「女」である以上は「男」を愛せるはずだ・愛するべきだ》といったヘテロセクシズムとミソジニーに根差す《有り触れた偏見》が横たわっているのである。

あまつさえ、そのような「百合に挟まる男」に表象されるヘテロセクシズムとミソジニーに対しての批判が《コンバージョンセラピー的な差別思想》であり《クソなヘテロオタク》《なんら変わりない》とは、まさしくmaelstrom自身に当てはまる言葉で他人を攻撃しているにすぎない。

同性愛者の性的指向を“矯正”する「矯正治療(conversion therapy)」の目的は二通りある。まず同性に対する性的欲求をなくすこと。そして異性に対して性的欲求を抱くように働きかけることである。

実際の「矯正治療」は〈同性愛者(非異性愛者)〉だけでなく〈両性愛者〉も対象とされてきたが、少なくとも「バイセクシュアル女性」を男性とSEXさせたとしても〈両性愛者〉の性的指向(両性指向)を“矯正”することにはならない。よって、ここでも「百合」は〈同性愛者(非異性愛者)〉すなわち「レズビアン女性」が想定されていることになる。

また人間の性的欲求をめぐる問題に関しては、いわゆる「恋愛感情」と「性欲」を区別できるのか? 両者の線引きは存在するのか? といった、さらなる疑問も出てくる。

そこをいくと王谷が示す《異性とファックした程度で女同士のラブは揺らがんし》という事例は、両者を排他的な二項対立として設定することで、同性とは「ラブ」をするが、異性とは「ファック」をするという一つのバイセクシュアリティを理想化したものだ。

このような思想は《「精神的な同性愛」は認めるが「肉体的な同性愛」は許さない》というヘテロセクシズム言説とも相性が良く、じっさい当該ツイートは100件を超える「いいね」を獲得している(2022年10月時点)。

こうした「レズビアン」を“矯正”して〈非同性愛者〉にする試みが、〈同性愛者〉であることを認めた上で〈男性(異性)〉とSEXするように“矯正”するという方針に転換されたとして、それは《よりましな矯正治療》といえるだろうか?

否、そも「矯正治療」自体をやめるべきだ。なぜならばそれは「レズビアン」の性的主体性(セクシュアル・アイデンティティ)に干渉する《人権侵害》以外の何物でもないからだ。

言い換えるなら王谷晶は「レズビアン」をやめる必要はないから「バイセクシュアル」を目指せばいいと言っているにすぎない。

あるいは「レズビアン」に対して《女性とは「ラブ」をし、男とは「ラブ」をせずに「ファック」だけをする》という在り様を求めたところで、それはレズビアンアイデンティティの肯定・尊重ではなく、バイセクシュアルの一つの在り様を押し付けているだけである。

すなわち、そのようなレトリックはヘテロセクシズム(異性愛至上主義)」が「バイセクシズム(両性愛至上主義)」に“上位互換”されたものだ。しかし、そのじつ「レズビアン」に対して《男性(異性)を愛すること》を要求・期待している時点で、けっきょくのところバイセクシズム」とは形を変えた「ヘテロセクシズム」に他ならない。

  • 付言すると「バイセクシズム」が指し示す「バイセクシュアル」とは、あくまでも「ヘテロセクシズム」の政治的イデオロギーに基づいて言わば“超人化”された、観念・表象としてのバイセクシュアル像でしかなく、現実社会を生きる「バイセクシュアル当事者」のエンパワーメントに何ら繋がるものではない。
  • したがって「バイセクシズム」が社会に浸透しつつある状況は、現実の《バイセクシュアル差別》が解消ないし緩和されたということをまったく意味しない。
  • 元より《バイセクシュアル差別》とは、性的指向が変化・流動するというセクシュアリティに対する「差別」ではなく、その変化・流動する先に〈同性(非異性)〉を含んでいることを理由とした「差別」であり、その意味では《同性愛者差別》の延長線上にある。
  • しかしながら、一方で「バイセクシュアル(両性愛者)」が〈同性愛者〉であると同時に〈異性愛者〉としての政治的・社会的立場性を――当人の内面的なアイデンティティや“生きづらさ”などといった問題とは別に――担っていることもまた事実であり(だからこそ上に見た「バイセクシズム」のような形で「ヘテロセクシズム」の差別構造に組み込まれる)、その政治的・社会的特権性について指摘することは《バイセクシュアル差別》の告発・批判を無効化する「バイフォビア」には相当しない。

そして、そのようなバイセクシズム」を具現化するギミックこそが、まさに「百合に挟まる男」の存在なのである。

男性からすれば「レズ(※この場合は女性同士の性行為を指す。文脈上の判断から、あえてこの語を用いる)」を鑑賞しながら「レズビアン」とSEXすることで性欲と優越感を満たすことができ、「レズビアン」はその代償として女性同士で愛し合うことの承認を得る。両者の関係性は、一見するとwin-winに見えるかもしれない。

しかし、それは錯覚だ。女性が女性同士で愛し合うのに、もとより男性からの承認など必要ないからだ。

さらにいえば「レズビアン」だろうが「バイセクシュアル」だろうが、当人の内面的な自認がどうあろうと〈異性〉をパートナーとして選んだ時点で、その人は〈異性愛者〉としての社会的・政治的立場性を獲得し、併せてその社会的・政治的特権性を担うことになる。

そのような人間のありようを無批判に美化する「バイセクシズム」の表現、およびそれを無批判に肯定・称揚する評論は、たんなる表現に留まらず「百合に挟まる男」と同様に現実社会の「差別装置」として機能している。

むろん王谷が「レズビアン当事者」として「バイセクシュアル」を目指したいというのであれば(私の知ったことではないが)それは自分の私生活で実践すれば良い。もっとも「バイセクシュアル(両性愛)」とは《両性を愛する可能性》に“開かれて”いる状態を指すのだから、人が「バイセクシュアル」を“目指したい”と思った時点で(あえて“目指す”までもなく)すでに「バイセクシュアル」に“なっている”のだが。

だが、そのような「バイセクシズム」の価値観を人に押し付けるのは間違いだし、ましてや百合作品にそれを求めるべきでもないだろう。「百合」を《ヘテロセクシズム=バイセクシズム》の道具にしてはならない。

また「レズビアン当事者」である自身の作品において、そのような「バイセクシズム」を表現したならば、それは「非当事者」による「バイセクシズム」の表現と同様に、その差別性・特権性を批判されるべきである。

* * *

ところで、かつて「レズビアン・タレント」という枠組みでマスメディアに登場していたある人物(今はどこで何をしているのかわからない)も《レズビアンは「レズビアンとSEXしたい」という男性の気持ちに寄り添うべきだ》と、私に主張していた。

王谷晶にかぎらずマスメディアに登場するレズビアン・タレント」の類は、ほぼ例外なくと言っていいほど「レズビアン」の非異性指向(※この場合は、レズビアンが男性を性的対象に含めないこと)を声高に否定してみせる傾向がある。

ossie.hatenablog.jp

レズビアン当事者」であっても――否「レズビアン当事者」であるからこそ、ある意味では「非当事者」以上に「レズボフォビア」を内面化し、社会の《レズビアン差別》に過剰適応しようと試みるのだろう。

そう考えると上掲ツイートの「ファック」というマチスモじみた露悪的な物言いも、そのじつ「百合に挟まる男」を許容する社会とどうにか折り合いをつけて、この社会のマジョリティに成り上がらんと虚勢を張っているかのような痛々しさがある。

だが前述のとおり「百合に挟まる男」は、けっしてLGBTと同様に保護されるべきマイノリティなどではなく、社会最大のマジョリティである〈男性異性愛者〉の一派に他ならない。

【彼ら】は「小児性愛者」などと同様に、たしかに〈男性異性愛者〉の中では“少数派”であるかもしれないけれど、その欲望の対象となる「レズビアン女性」に対しては明らかなマジョリティであり、ゆえにその欲望の表明・公言は、それ自体が「レズビアン」に対する非物理的暴力の行使とならざるをえないのだ。

それにもかかかわらず――否、それだからこそ「百合に挟まる男」を自ら許容し、ひいては「レズビアン」との連帯を訴えることは「レズビアン当事者」にとって処世術となりうる。

しかし〈異性〉をパートナーに選ぶ人が必然して〈異性愛者〉としての社会的立場性を獲得し、その特権性から免れないのと同様に、

たとえレズビアン当事者」であっても「百合に挟まる男」と連帯するのであれば、それは「レズビアン」を迫害し、嘲笑する立場に回るということだ。

何が「差別」であるかは「当事者」が決めるという“当事者原理主義”の発想は、裏を返せば「当事者」の“お墨付き”さえ得られれば「差別」を「差別」でなくせてしまうという《差別主義者の論理》を可能にする。

レズビアン当事者」の発言であるからといって無批判に“聖域化”する考え方は、「百合」を“神聖視”する発想と同様に、けっきょくのところ「レズビアン」の存在を体良く社会から隔離する思考の一環にすぎない。

 

 

『評論家を燃やせ!(いいニオイさ)』更新情報

映画評論サイトを更新しました。

今回は以下の6作品のレビューを追加。基本的にはかつて公開していた個人サイトの記事を加筆修正した内容ですが、『空の記憶』と『750ライダー』は新規書き下ろしとなります:

http://zakuro-no-mori.girlfriend.jp/

「百合」のレゾンデートルを完全否定する松澤千晶の《頭のおかしな持論》の自己矛盾~「 #コミック百合姫 」2022年9月号『オフレコ×ガールズトーク』 #百合姫

本年度1月号からリニューアルした「コミック百合姫」は、連載作品の他に『オフレコ×ガールズトークと題し、各界の女性有名人の「百合」にまつわるエピソードや思いを述べるコラムを掲載している。

自分のことを棚に上げているようで気が引けるが、私は他人が「百合」について論じた文章を読むことを好まない。なぜならばそれらの多くは「百合論」にかこつけて、論者自身が内面化したヘテロセクシズム(異性愛至上主義)やレズボフォビア(レズビアン嫌悪)を無批判に(あるいは形だけの自己批判を装いながら)垂れ流すだけの、言わば「評論の形を借りたヘイトスピーチにすぎないからだ。

特に、第9回にあたる今号(2022年9月号)のフリーアナウンサー松澤千晶による『何を以って百合とするのか』は、さすがに常軌を逸していると言わざるをえない内容だ(P.472 ※強調は引用者)。

 百合とは、一般的に女性同士を表す言葉だとは思いますが、自分が百合と感じるものは、そうとも限らないのではないか。仮に男女だとしても、あるいは男性同士でも、もはや性別など知らずとも、「百合」とは、その二人の間にある空気や関係を示す言葉なのかもしれないと私は考えています。もちろん、これは頭のおかしな持論であり、異論はおおいにあると思います。

松澤がこのような「持論」に至ったのは《物心がつく前の幼少期》にサンリオのキャラクター【キキララ(リトルツインスターズのキキとララ)】を女性同士と“勝手に勘違い”したことにあるのだという。むろん、これは松澤がキャラクターの性別を誤認していたというだけの話だから【キキララ】というキャラクターの設定とも「百合」という概念の定義とも一切関係がない。

ところが松澤は、二人が男女であったことを知ってもなお《キキとララに対する百合は諦めきれず》《何故この二人を「百合」と感じたのかを分析した結果、性別というよりは、その佇まいから、お互いのパワーバランスが等しく感じられたからだという考えに至》ったのだという。

これに関しても松澤は《もちろん、これは頭のおかしな持論です。》というエクスキューズをつけている。これは一見すると自嘲的であるようだが、あらかじめ「頭がおかしい」と自己批判してみせることで、他者からの批判を一方的に退ける、そのじつ傲慢で独善的な態度だ。

 この考えは未だ根強く自分の中にあるもので、その後、『美少女戦士セーラームーン』などの通過儀礼を経て(『少女革命ウテナ』が百合か否かについて触れると10000字は必要なので割愛させていただきます。)私が本格的に「百合」というものを確信したのは、『マリア様がみてる』3巻・いばらの森における佐藤聖久保栞でした。

 この二人の関係を目にしたとき、愛とも、恋とも、友情とも違うような…どの言葉にも当てはまらず、しかしながら、どの思いも含むような、お互いを同じくらい求め合う関係だと感じたのを今でも覚えています。一般的な言葉を使うと「受け」や「攻め」といったものを感じなく…いえ、どちらも受けであり、攻めである。そう感じたのです。

まず「受け/攻め」というのは、BL業界の専門用語であり「一般的な言葉」ではけっしてない。

この時点で、すでに“一般的な”言語感覚から逸脱しているけれど、いずれにせよ松澤は、ようするに対等な(パワーバランスが等しい)関係性のことを、性別に関係なく「百合」と名状すべきという考えのようだ。

しかしその定義に従うのであれば、たとえ女性キャラクター同士であっても、先輩と後輩、先生と生徒、上司と部下、主人と従者、姫と騎士……など非対等な「パワーバランス」に基づいた関係性は、すべて「百合」と認められないことになってしまう。

ようは松澤が、現行の百合文化のありようと無関係に、ただ自分好みの理想にあった偏狭なシチュエーションのことを独自の言語感覚で「百合」と呼んでいるだけであり、一方で松澤の気に入らないシチュエーションは言外に「百合」から駆逐される。他者性の欠落した、きわめて自己中心的で不寛容な“オレ様定義”に他ならない。

もとより言葉というものは共有されてこそ意味をもつのだから、自分が「百合」と“感じた”から「百合」なのだ、とか言い張られてもこちらの知ったことではないし、ましてやそういった価値観を人に押し付けるのは迷惑だ。

何より松澤自身が認めているとおり、このような「百合論」は本質的な自己矛盾を抱えている。

 そして、私の中で、その「百合とされるもの」を追求していくと、やがて言葉は用をなさなくなり、上記の佐藤聖久保栞に関しては、「百合」という言葉に収まるわけがなく、「聖と栞」以外の何物でもないという結論に至りました。

 しかしながら、この状況をわかりやすく伝えるとき、こうして彼女たちを「百合」という言葉に閉じ込めようとしている。ああ、もし彼女たちが「百合」だと言われていることを知ったら、どんな顔をするでしょう。きっと何事も無かったかのように二人は少しばかり微笑んで、こちらのことなど相手にせず、その場を立ち去ることでしょう。そもそも、この二人は、もう……。

 このように、考えれば考えるほど、無限の可能性を秘めた二人を言葉の檻に閉じ込めて良いのか、知れば知るほど、時が経つほどに、言葉の持つ可能性と拘束力に苛まれるようになりました。

 (中略)言葉というものは時代と共に変化を遂げるものだと私は考えています。その上で、「百合」とは性別や状況にとらわれず、あらゆる思いの可能性を、その在り方を示す言葉であってほしい。

 そして、これもまた時代と共に更新されてゆき、「違う、そうじゃない」を繰り返し、「百合とされるもの」の解釈が当事者たちにとって報われる方向へ進むことを心より願っております。

「言葉というもの」《時代と共に変化を遂げる》のは当然のことであるが、それでも「百合」が男女や男性同士をも内包するなどという珍解釈は、今日において一般的なものではない。

強いて言えば、これもBL業界の符丁として「受け」の男性キャラクター同士のカップリングを示す「百合BL(ホモ百合)」という用語が存在する。ただしこれは「受け」を「女役」と位置付ける性別二元制のジェンダーバイアスにとらわれた発想であり、そのような「差別語」が一般化されるべきではないだろう。

ところが、上掲のごとき愚にもつかぬ《頭のおかしな持論》であっても「百合」の解釈は人それぞれ、といった安易な相対主義が蔓延る現状では「百合コミック専門誌」の中であたかも一つの傾聴すべき意見に祭り上げられてしまう。結果《自分が百合と感じるもの》という超個人的な内面の問題が、いつのまにやら《性別や状況にとらわれず、あらゆる思いの可能性を、その在り方を示す言葉》という普遍的な概念に格上げされてしまっている。

しかし「百合」でない《性別や状況》が存在するからこそ「百合」という言葉が成立する。裏を返せば《性別や状況にとらわれず、あらゆる思いの可能性を、その在り方を示す言葉》が仮に存在したとすれば、そのような言葉は言葉として、まさに“用をなさない”のである。

それでは「百合」である《性別や状況》とは何か。

今さら歴史的経緯を確認するまでもなく「百合」の語源とは、女性同性愛者(レズビアン)を示す「百合族」であり(※70年代中頃にゲイ雑誌『薔薇族』編集長・伊藤文學が提唱)、

よって「百合」とは、あらゆる《性別や状況》を示すものではなく、あくまでも「女性」同士の、そして「恋愛(あるいはそれに結びつく可能性)」を示す言葉として流通しているのだ。

あるいは女性同士の関係性について「恋愛」という“強い”言葉を用いることで、その他の可能性が否定されてしまうという言い分もあるだろう。

もとより「恋愛」とは、そのような排他性にもとづく関係性であるからだ。言うなれば、これは「恋愛」のネガティブな側面に着目した解釈である。

しかし「恋愛」が排他的であるというなら、それは当然ながら男女の関係性(異性愛)にも当てはまる問題だ。ところが男女の関係性においては、ことさらポジティブな側面ばかりが強調され、「恋愛」の解釈にためらいがないどころか《男女の「友情」は成立しない》というクリシェすらまかり通っているのが実情である。

ossie.hatenablog.jpすなわち「同性愛」を語る際には「恋愛」のネガティブな側面が強調される一方で「異性愛」を語る際には「恋愛」のポジティブな側面が強調されるというダブル・スタンダードが存在する。

そして、こうしたヘテロセクシズム(異性愛至上主義)とホモフォビア(同性愛者嫌悪)に基づくダブル・スタンダードが「百合」の定義の恣意性にも表れている。

もし「百合」が松澤の定義するとおり《性別や状況にとらわれず、あらゆる思いの可能性を、その在り方を示す言葉》であるとするなら、同時にそれを《無限の可能性を秘めた二人を閉じ込める言葉の檻》と見なす解釈は矛盾している。

つまり松澤が【佐藤聖久保栞】の関係性を言い表す際に《無限の可能性を秘めた二人を閉じ込める言葉の檻》として否定しているのが、まさしく本来の定義に基づいた、女性同士の「恋愛」すなわち「同性愛」の符丁としての「百合」であり、

しかし一方で松澤は「百合」を《性別や状況にとらわれず、あらゆる思いの可能性を、その在り方を示す言葉》として“曲解”してみせることで「百合」を肯定する。

加えて松澤は【佐藤聖久保栞】の解釈を通して「百合」を《愛とも、恋とも、友情とも違うような…どの言葉にも当てはまらず、しかしながら、どの思いも含む》と定義しているが、

それは女性同士の「恋愛」の可能性を否定する解釈をも《あらゆる思いの可能性を、その在り方》として許容することで、

じつのところ《しかしながら、どの思いも含む》という建前とは裏腹に「百合」の定義を「恋愛(同性愛)」から切断する言説として機能しているのだ。

このような“曲解”にもとづく「百合論」は、ひとえに「同性愛者(非異性愛者)」をネガティブな存在と決めつけるヘテロセクシズム(異性愛至上主義)に根差したホモフォビア(同性愛者嫌悪)の産物にすぎない。

言い換えるなら《性別や状況にとらわれず、あらゆる思いの可能性を、その在り方を示す言葉》という解釈は、まさしく「百合」をヘテロセクシズムおよびホモフォビアの正当化に都合良く“政治利用”する行為に他ならないということだ。

このようにして「百合」の業界には、どうにかして「百合」を本来の「恋愛」の定義から切り離し、女性同士の「友情(非恋愛)」の範疇に押しとどめようと画策する、姑息な“業界人”が跳梁跋扈している。

そしてこれは松澤千晶という一個人に限った問題ではない。げんに本年度「百合姫」2月号のキャッチコピーは《“恋”とか“愛”とか、勝手に決めるな。》というものであった。

もはや「百合姫」自らが「百合」のレゾンデートル(存在意義)たる《女性キャラクター同士の「恋愛」の表現》を完全否定しているのだ。

なぜなら女性同士の関係性を「恋愛」と認めたら、それは「同性愛」ということになり、ひいては《同性愛者は嫌悪されるべきである》という自らの同性愛者嫌悪(ホモフォビア)の対象となってしまうためだ。

ゆえに、そうしたヘテロセクシズムとホモフォビア――これがすなわち現代の日本社会の基幹そのものであることは言うまでもない――に基づく「百合論」が《当事者たちにとって報われる方向へ進む》などというのは“おためごかし”であり、結局は松澤自身のヘテロセクシズムとホモフォビアを正当化するのに都合良く「百合」の定義を恣意的に歪めているだけである。

  • このように書くと、例によって自分は同性愛に偏見はない、なんならレズビアンの友達もいる、と言い張るだろうけれど、そうした“言い訳にならない言い訳”自体が凡庸な《差別主義者の論理》でしかない。

そのようなホモフォビア(レズボフォビア)と誠実に向き合おうともせず《私の中》という排他的な精神性で自己の卑小な内面を“聖域化”したまま――さらには上に見た論理矛盾を何ら解決しないまま「百合」の定義・解釈を弄んだ末に、女性同士の「恋愛」どころか《女性同士》という前提すら否定する結果となった。

かくして「百合」の定義を《性別や状況にとらわれず、あらゆる思いの可能性を、その在り方を示す言葉》に改変する松澤の試みは「百合」の拡充ではなく、否定に帰結する。

そして松澤が認めるとおり、言葉は一定の「拘束力」を帯び、ゆえに既存の概念の定義を改変する試みは必然して、その定義に依拠した人々の価値観を根底から否定・否認する。

松澤にその意図がなかろうと、ヘテロセクシズムとホモフォビア現代社会の基幹を成している以上、それは松澤の「中」で自己完結する問題ではありえず、異性愛至上主義社会の政治的力学に依拠して《女性同士の「恋愛」の表現》の「可能性」を駆逐するものとなる。

言葉が《時代と共に更新されてゆ》くのを待つまでもなく、そのような《頭のおかしな持論》に対しては、松澤千晶と「コミック百合姫」編集部を除いた「百合」を愛する者すべてが、今この場で「違う、そうじゃない」を突きつけるべきである。