百錬ノ鐵

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【まとめ】まさに「クィア・ベイティング」の見本のような『琴崎さんがみてる』は異性愛至上主義の下に「百合」を貶める“男尊女卑”ラブコメディだ! #琴崎さんがみてる

ブログに先立ち、Twitter上で『琴崎さんがみてる 俺の隣で百合カップルを観察する限界お嬢様』五十嵐雄策・著 弘前龍・原案 KADOKAWA電撃文庫 ※なお本稿では「原案」の弘前龍を「原作者(作者)」と位置づける)に対する批判を投稿していたところ、

《百合垢です。百合は生きる希望。》と称するフォロワー数1千以上を誇る大手百合アカウント(@katoyama1)から、次のような反応が寄せられた。

名指しこそされていないものの、私のツイートにはそれなりの反響があり、実質的に私(百合魔王オッシー)という個人を当てこすっているものと思われるので、この場でお答えしよう。

まず『琴崎さん』をめぐる今回の一件にかぎらず、文芸作品を批評する上で、実際の内容(本文)を引用することは、むしろ必要不可欠だ。

たんなる印象批評では説得力がないし、ソースを提示することで資料性が高まると同時に「悪意をもって、原文を必要以上に悪しく歪めているのではないか」という疑問を払拭することができる。

あげく他人を「自粛警察」呼ばわりしながら、自身の「不快」「嫌だな」という“おきもち”を理由に、見ず知らずの他人の批評行為に“自粛”を要求するという、なんとも矛盾に満ちた、傲慢な物言いである。

それこそ「自粛警察」「民意の暴走」「ネット私刑」でなくて、いったい何なのか?

健全な批評なくして、表現文化の発展は望めない。このようなアカウントがフォロワー数1千以上というのだから、百合文化がいつまでたってもニッチな隙間産業から脱却できない要因の一端(さらには「出る杭は打たれる」という日本型“ムラ社会”の同調圧力)を見た思いで、腹が立つというより、むしろ情けなくなってきた。

もっとも、その“おきもち”自体は理解できる。たとえ批判が目的であるとはいえ、購入してしまうことで劣悪なコンテンツに金が落ちるという“炎上マーケティング”に加担することに変わりないのではないか? という危惧もわからないではない。

私も、仮に『琴崎さんがみてる』が、何処の馬の骨だかわからない無名の素人が書き散らかした同人作品(あるいは成人向けのポルノグラフィ)であったなら、スルーを決め込んでいただろう(さらに言えば、上掲した「誹謗中傷」がフォロワー数一桁二桁の弱小アカウントによるものであったなら、こうしてブログ上で取り上げることもなかった)。

しかし『琴崎さんがみてる』は、KADOKAWA電撃文庫という業界最大手のライトノベル・レーベルから出版された商業作品であり、

また発売前の時点から百合コンテンツのユーザーからの猛烈な非難を浴びて“炎上”するという異例の事態を迎えたことで、良くも悪くも世間の注目を集める結果となってしまった。

加えて、真摯な百合ファンの怒りの声が殺到する一方で

「(百合萌えという)特殊な嗜癖をもつ、一部の声の大きな“ノイジーマイノリティ”が騒いでるだけ」といった無理解な冷笑が散見したことも事実だ。

そこをいくと、

身勝手な“おきもち”を盾に、自分の気に食わない作品だとか、あるいはそれに対する自由な論評を排除してもいいと信じて疑わない、

世間知らずの「限界系百合オタク」たちは、

そのような自らの立ち振る舞いが、不特定多数の他者にどのような心証を与えるかという視点に欠けている。

いちユーザーの立場としては、不快なコンテンツから目を背けるのも自由であろう。しかし『琴崎さんがみてる』は、たんに百合愛好者たちが不快に感じているというだけでなく、

その内容が異性愛至上主義」「男尊女卑」という“差別性”に立脚していることが問題である。

『琴崎さんがみてる』は「百合」を題材にしながら、そうした「百合」の本質と真逆の「異性愛至上主義」「男尊女卑」に依拠することで「百合」を貶める作品であり、

なおかつ原作者・弘前龍をはじめとする制作者および関係者(宣伝に利用されたVTuberも含めて)が、その“差別性”にまるで無自覚であることが批判に値する。

そうしたコンテンツの“差別性”を明確に言語化しないまま、ただ「単純にその内容が不快」「嫌だな。TLに流れてきて欲しくないな」などといった“おきもち”をブツブツと呟いているだけなら、それはただの「ワガママ」と切り捨てられ、今後、似たような差別的コンテンツが量産される事態に甘んじるほかなくなるだろう。

よってここに、実際の本文を引用しながら『琴崎さんがみてる』および原作者・弘前龍に対する徹底批判を、合計6ページに亘って展開する。

前編 原作者・弘前龍の言説

中編・上 公式ページの「試し読み」

中編・下 YouTubeのプロモーション・ビデオ

後編 実際に作品を購入し、読破した結果 ※ネタバレ有

総括 一連の問題の根源とは? ※ネタバレ有

追記 原作者・弘前龍の「百合萌え」とは?

そして『琴崎さんがみてる』にかぎらず、実際の内容を引用しながら批判するという手法は筆者の基本姿勢であり、

見ず知らずの誰かの“おきもち”に忖度して、それを“自粛”する意思は毛頭ないことも、ここに宣言しておく。

 

 

【追記】まさに「クィア・ベイティング」の見本のような『琴崎さんがみてる』は異性愛至上主義の下に「百合」を貶める“男尊女卑”ラブコメディだ! #琴崎さんがみてる

さて、これまで『琴崎さんがみてる』について異性愛至上主義・男尊女卑という観点から批判を展開してきた。

ここへきて、新たな視点を提示してみたい。

それは、そもそも「百合萌え」とは何なのか? という今更ながらの根本的な疑問である。

繰り返し述べてきたが「百合」とは――その語源である「百合族レズビアン」は別として――おもに漫画やアニメなど、いわゆるオタク・カルチャーに属する娯楽フィクション作品において、女性キャラクター同士の恋愛関係およびその表現を示す符丁である。

そして「百合萌え」とは、そのような女性同士の恋愛をテーマにしたフィクション作品を消費するという行為であり、

だんじて現実の「レズビアン」を性的対象にするという意味ではない。

しかるに『琴崎さんがみてる』の主人公たちがやっていることは、いったい何なのか。

「あの、琴崎さん、やっぱりまだ……」

 そう……琴崎さんには、彼女特有の趣味というか、ライフワークのようなものがあった。

 猫丘学園に入学する前からアイデンティティとなっていた、彼女にとって唯一にして至上のたしなみ。

 琴崎さんが力強くうなずく。

「それは当然ですわ。わたくしにとってこのたしなみは生きとし生けるものにとっての空気のようなもの……人生に不可欠な彩りですから」

「そう、だよね」

 

「――ええ、そうです。咲き誇る花々のような麗しいご学友の皆様が、仲睦まじくお戯れになっている様子を陰からそっと見守り愛でること……それはまさにこの世界でもっとも美しく、もっとも尊い行いと言えましょう。それこそまさに理想の想起なのですわ……!」

 

 両手を頬に添えながら、うっとりしたような目でそう口にする。

 ああ、うん、まったく変わっていない。

 記憶にある彼女の姿そのままだ。

 そう、これが琴崎さんのライフワーク。

 

 ――女子同士が仲良く懇ろに交流している様子をつぶさに鑑賞して、その尊さを存分に堪能する。

 

 もう少し下世話に言ってしまえば、百合をリアルタイムで観察、実況すること。

(中略)

 ひどく興奮している様子がこっちにも伝わってきた。というか「ふんふん!」という荒い吐息がここまで聞こえてくる。

 だけどその気持ちは俺にもよくわかった。

 目の前で咲きかけている百合の気配にソワソワと昂る気持ち。

 だってそれは、俺も同じだったから。

作中に登場する「百合カップル」は、言うまでもなく架空の存在である。

しかし作品世界においては“現実”に存在することになっている。

そのような“現実”の女性同士の恋愛を「観察」と称してコソコソと覗き見る行為は、つまるところ“出歯亀”であり“視姦”に他ならない。

そのようなものが「百合萌え」なのだとすれば、百合コンテンツのユーザーは男女を問わず、性犯罪者ないしその予備軍と誤解されてしまう。

もっとも近年ではU-temo『百合オタに百合は御法度です!?』、カエルDX『観音寺睡蓮の苦悩』といった、女性主人公が他の女性キャラクター同士の恋愛に“萌える”というコンセプトの「メタ百合作品」が目につくようになってきた。

たとえその行為者が女性であろうと、そのような行為を現実に実行したならば、やはり性加害と見なされる。それがかろうじて許されるのは、

あくまでもフィクションの「百合」の世界観において、女性が女性同士の恋愛に“萌える”こともまた「百合」の一環として機能しているためだ。

言い換えるなら「メタ百合作品」においては、女性同士の恋愛に“萌える”女性もまた〈当事者〉として作中の「百合関係(同性愛)」を構成するのである。

そこをいくとYouTube版の『琴崎さんがみてる』が「メタ百合作品」として認知されていたのも、ひとえに〈女性〉である【琴崎イリア】を主人公としていたからだ。

ところが原作者・弘前龍は、自身の分身である【新堂瑛人】を【琴崎入愛=イリア】と“男女カップリング”したため、

【琴崎さん】の「百合萌え」は「百合」として機能を喪失した。

その結果「メタ百合作品」の中で保たれていた、ひじょうに微妙で危うい均衡は崩壊した。すなわち【琴崎さん】が〈異性愛者〉すなわち「百合関係(同性愛)」の〈非当事者〉と位置づけられたことで、

マジョリティである〈異性愛者=非当事者〉が、マイノリティである女性同士(百合カップル)のプライバシーを興味本位で暴き立てるという、

きわめて暴力的かつ“差別的”な構造に陥ってしまったのである。

一方、仮に『琴崎さんがみてる』が初めから【新堂瑛人】を主人公としていた場合、それもまた「百合」になりえず、たんなる男性異性愛者による“出歯亀”の変態行為になってしまう。

すなわち男性主人公が「百合カップル」を“視姦”する行為は、そこに【琴崎さん】という〈女性〉が同伴するからこそ不問とされる。男性主人公が存在しなくても「百合」は成立するが、ヒロインである【琴崎さん】なくして「百合」は成立しえない。

原作者・弘前がかつて【ムギちゃん】を必要としていたように、じつのところ男性主人公こそが「百合カップル」を“視姦”するという自身の性癖を実行するにあたり、それを正当化してくれる〈女性〉の存在を必要としているのだ。

が、それにもかかわらず作品の中では、逆に【琴咲さん】が〈男性〉である【瑛人】に依存せざるをえない状況が設定されている。

結果、ペットボトルのフタすらも男の力を借りなければ開けられず、「男性に対するトラウマ」のせいで甘美な「百合」の世界に逃避しているといった、きわめて脆弱な女性像が構築された。

このような男尊女卑に根ざすネガティブ(否定的)な女性観をもとに、女性同士の恋愛を描いたとしても、それがポジティブ(肯定的)な意味合いをもつことなどありえない。

いや、むしろ主人公たちは「百合」を“肯定”しているではないか? ――このような反論も返ってくるだろう。

しかし「百合」を“肯定”することと“美化”することは違う。

すなわち主人公たちが「百合の素晴らしさ」として挙げる「美しさ」「尊さ」などといった基準は、

いずれも現実社会における「レズビアン」および女性同性愛のステレオタイプなイメージ(偏見)を無批判に受け売りしたものでしかなく、

ゆえにそれは《美しいモノ=レズビアン》を《醜いモノ=ペニス(男根)》で穢すことに倒錯的快楽を見出すという「レズボフォビア(レズビアン嫌悪)」にも容易に転じうる。

原作者・弘前は『琴崎さんがみてる』を通して《百合に触れたことがないライトノベル読者にも、百合の素晴らしさを届けたい》《1人でも多くの読者が百合の沼に引きずり込まれてほしい》と述べていたが、

作者自身の異性愛至上主義・男尊女卑に根ざした「肉欲」を優先してしまった結果、その目論見さえも果たされることなく潰えてしまったのだ。

かつて百合文化の間口を広げることに成功した『マリア様がみてる』『青い花』『citrus』『やがて君になる』などは、それぞれ固有の世界観を有しながら、いずれも奇を衒わない正攻法の「百合作品」として読者に訴求し続けた歴史的名作である。

「百合の素晴らしさ」を伝えるのに「百合」でないものを提示して、いったい何になるのだろうか。蕎麦の美味しさを伝えたいといいながら「濃厚激辛魚介豚骨つけ麺」を出したところで、それは「濃厚激辛魚介豚骨つけ麺」を食べさせたいという当人のエゴの押しつけでしかない。

【総括※ネタバレ有】まさに「クィア・ベイティング」の見本のような『琴崎さんがみてる』は異性愛至上主義の下に「百合」を貶める“男尊女卑”ラブコメディだ! #琴崎さんがみてる

これまでの検証を通して『琴崎さんがみてる』が「百合作品」ではなく、あくまでも「百合」をダシにした異性愛至上主義のラブコメディである事実が明らかとなった。

しかし、そうなると新たな疑問が湧くであろう。

「男女のラブコメディ」と割り切って読む分には面白いんじゃないの?――と。

これについては、まず繰り返し引用してきた、原作者・弘前龍によるTwitter上での独白に明らかなとおり、

そも『琴崎さんがみてる』とは弘前自身の《男性である自分が愛する女性と「百合」について語り合いたい》という超個人的な性癖を満たすために創られた作品である。

ゆえにそれは《愛する女性と「百合」について語り合いたい》という特殊性癖を共有する男性読者のみが共感しうる世界観であり、

一般的な男性の百合ユーザーを含めた不特定多数の読者が感情移入することは、きわめて困難であると思われる。

また一方で弘前は『百合ナビ』のインタビューの中で『琴崎さんがみてる』を通して《百合に触れたことがないライトノベル読者にも、百合の素晴らしさを届けたい》《1人でも多くの読者が百合の沼に引きずり込まれてほしい》という狙いを語っている。

はたして、その目的は果たされているだろうか?

結論から言う――これもまた、明確に「NO!」だ。

なぜならば『琴崎さんがみてる』における「百合」は、

あくまでも作者の分身である男性主人公が、自分好みの美少女を独占するための口実でしかなく、

じつのところ、作品自体のテーマとは何の関係もないからだ。

その事実は、けっして下衆の勘繰りなどではなく、他ならぬ原作者・弘前龍自身のインタビューに明らかである。ふたたび『百合ナビ』の記事を引用しよう。

YouTube版では語り部的な立ち位置の琴崎さんでしたが、小説版では琴崎さんの男性に対するトラウマをはじめとした暗い過去などにも触れており、一人の人間として深く掘り下げる内容となっております。
・小説版の主人公は男性ですが、百合を愛する同志として、ただ一人、琴崎さんの傍にいることを例外的に許された存在です。

裏を返せば【新堂瑛人】が〈男性〉でありながら《ただ一人、琴崎さんの傍にいることを例外的に許され》るためには、まず共通の趣味となる「百合」が必要となる。

とはいえ男女が同じ趣味を共有するということであれば「百合萌え」でなくとも、アイドルの追っかけだろうと登山だろうとフォークソングだろうと、他の趣味でもじゅうぶん成り立ってしまう。このままでは【瑛人】が【琴崎さん】の「傍」まで接近することはできても《ただ一人》《例外的に許され》るという寡占的・特権的立場を獲得するには弱い。

そこで原作者・弘前龍は、【琴崎さん】に「男性に対するトラウマを植えつけることによって、主人公以外の〈男性〉を排除することを可能とした。そしてダメ押しのごとく二人が通う学校には《全寮制オンリーの女子校から、自宅からの通学を含めた共学化への移行。》によって《お嬢様あふれるクラスに男子は俺一人という稀有なこと極まりない状況》が設定されている。

そして「百合」の世界観においても〈男性〉が必要とされないことから、同時に【琴崎さん】が〈男性〉から逃避する口実としても「百合」が機能することになる。

言い換えるなら【琴崎入愛】の人物造形において――というより、むしろ【新堂瑛人】が【琴崎入愛】を独占するという目的において「女性の百合萌え」と「男性に対するトラウマ」は、どうあっても不可分なのである。

そのような本作のテーマとは、やはりこれまで見てきたとおり

《女は男を愛するべきである》《男を愛することが女の成熟である》という異性愛至上主義と男尊女卑に他ならない。

じじつ【琴崎さん】が抱えていた「男性に対するトラウマ」「百合」によっては癒されず、ただ「男(新堂瑛人=作者の分身)」を愛することによってでしか癒されない。

作品世界の中で「百合」すなわち女同士の愛は、それこそペットボトルのフタさえも男の手を借りなければ開けられないほどの、無力かつ卑小な現実逃避の手段にしかなりえていないのである。

じじつ本作の主人公たちは「百合好き」を自認しながら、その「百合」に対する評価と言えば、やれ美しいだの尊いだのといった表層的な次元に留まり、

なぜ異性愛者である自分たちが、女性間の同性愛を肯定する物語に惹かれ、追い求めずにはいられないのかといった根源的な問題については、いっさい省みられることがない。

従来、百合作品――ここではゼロ年代マリみて』ブーム以降に隆盛した現在進行形の作品群を指す――に登場する男性キャラクターは多くの場合、女性キャラクター同士の恋愛を引き立てるための“当て馬”という位置づけがなされてきた。

裏を返せば、女性キャラクター同士の恋愛に男性キャラクターが絡むという設定自体は百合作品の定石ともいえる。kujira『GIRL×GIRL×BOY 乙女の祈り』、月子『彼女とカメラと彼女の季節』、しおやてるこ『レモネード』などが思い浮かぶし、

さらにいえばゼロ年代以降の百合文化を牽引した『マリア様がみてる』『青い花』『citrus』などがモロにそのパターンだった。

すなわち百合コンテンツのユーザーたちは『琴崎さんがみてる』について、たんに百合作品に男性キャラクターが登場するというだけの理由で拒絶していたわけではない。しばしば「百合に男が絡むなんて」といった短絡的な物言いも見かけるけれど、それは言葉の綾というものであり、誤解がないよう、くれぐれも強調しておかなければならない。

しかるに『琴崎さんがみてる』が批判されるべき理由とは、

そうした男性の異性愛者を“当て馬”に留めず、作品の主人公に据えた点に集約される。

たとえば前述した【瑛人】が見知らぬ女子からキスされる件には、

それを見た同性の親友の嫉妬心を煽情することで、二人は晴れて「百合カップル」になるという、これまた“お決まり”のオチがつく。

言い換えるなら、この二人の女性キャラクターはその片方が【瑛人】にキスした時点では「親友」の状態であり「恋人」の関係ではなかったわけが、

しかし作品のコンセプトと世界観に照らし合わせて、彼女たちが「百合カップル」になることは容易に想定できる展開であり、

なおかつ〈男性〉である主人公の立場からそのような女性同士の関係性に介入するという「ラッキースケベ」の趣向は、

やはり「百合に挟まりたい・混ざりたい男」の亜種でしかないのだ。

そして対するヒロイン【琴崎入愛】もYouTubeの時点では――〈同性愛者〉とまではいかなくても――少なくとも〈非異性愛者〉であったのに対し、

小説化に際して〈異性愛者〉という後付けの設定が加えられた。

【琴崎さん】が〈異性愛者〉であったという設定が、たとえ原作者の言うようにシリーズ制作当初からの構想であったとしても、

作品発表の時系列を追っていくと、ユーザーの立場からすれば、やはり性的指向が〈非異性愛者(≒同性愛者)〉から〈異性愛者〉へと転向したとしか捉えられないのである。

したがって『琴崎さんがみてる』という作品の世界観の基幹を成すのは、どこまでいっても男性主人公とヒロインの「異性愛であり、

むしろ「百合」こそが『琴崎さんが見てる』という作品世界における男女のラブロマンスを引き立てるための“当て馬”にすぎないといえる。

『琴崎さんがみてる』は、さしずめそのような異性愛至上主義と男尊女卑の下に「百合」の存在価値を貶める作品だ。

そのようなものを通して「百合の素晴らしさ」が伝わることは、金輪際ありえないと断言できるし、

また仮にそのようなものによって「百合の素晴らしさ」に目覚めたという人がいたとしても、それはやはり異性愛至上主義に都合の良い「百合」のありようでしかないだろう。

もっとも、周知のとおり百合コンテンツの女性作家および女性ユーザーの大半は、いわゆる「レズビアン当事者」ではなく、異性愛者の女性たちである。

その意味で、女性異性愛者である【琴崎さん】が「百合」を嗜好することは、むしろ“現実的”ですらある。

しかし現実社会の力学に目を向けるのであれば、たとえ【琴崎さん】の性的指向や【瑛人】の性自認がどうあろうと、異性をパートナーとして選ぶからには、その誰しもが「異性愛者」としての社会的・政治的特権性から免れることはできない。

『百合ナビ』のインタビューにおいて原作者・弘前龍は主人公である【新堂瑛人】というキャラクターについて《自分自身が男であることに起因する「肉欲」への忌避感や罪悪感》を抱えた人物と語っていたが、

その「苦悩」を解消するにあたって弘前は、

あろうことか「女」の方から求めてきた(のだから仕方がない)という姑息なエクスキューズ――性加害者の典型的な言い分!――に逃げ、

そうした自身のアイデンティティにかかわる本質的な問題からは、とうとう目を背けたままである。

けっきょくのところ弘前龍という作家は、

自身が〈男性〉であり〈異性愛者〉であるという特権的な立場から「百合」を消費する行為の“業”と真摯に向き合うことなく、

たんに百合萌えなどと称する手前勝手な「肉欲」を満たすことしか頭になかった。

その“甘え”“驕り”こそが『琴崎さんがみてる』のもたらした一連の“惨状”の根源である。

(追記に続く)

【後編※ネタバレ有】まさに「クィア・ベイティング」の見本のような『琴崎さんがみてる』は異性愛至上主義の下に「百合」を貶める“男尊女卑”ラブコメディだ! #琴崎さんがみてる

これまでのおさらい。

YouTubeで公開されていた百合アニメ『琴崎さんがみてる』は、その小説化にあたり、主人公が「百合」を愛でる女性(琴崎入愛=イリア)から、その女性に恋愛感情を抱く男性(新堂瑛人)に変更されたことで、百合コンテンツのユーザーから猛烈な批判を浴びた。

その後、原作者・弘前龍は『百合ナビ』および自身のTwitter上で釈明を行うも、火に油を注ぐ結果となった。

じじつ発売前に版元の公式ページ上で公開された「試し読み(作品の序盤部分)」を読めば、その内容は男性異性愛者の作家による無自覚の異性愛至上主義と男尊女卑に根ざした、むしろ「百合」の世界観を全否定するに等しい代物である事実が判明する。

当ブログでは、これまで3回にわたり、公式ページの「試し読み」や宣伝文、YouTubeのプロモーション・ビデオ、原作者の発言など、発売前の時点で入手できた情報にもとづいて、作品の問題点を検証してきた。

そして発売日の10月8日。いよいよ明らかになったその全貌とは――

【琴崎さん】は男性主人公と「恋人」にはならないまでも「両想い」にはなり、将来的にはやはり「恋人」になることを暗示してエンド。

結論としては上掲ツイートのとおりだが、より詳しく補足する。

そも【琴崎さん】が「男性に対するトラウマ」を抱える原因となったのは、過去に自身の父親の浮気現場を目撃したからであった。

これを機に《男女の性的な営みと、それに類するものについて明確に忌避するようになった》という【琴崎さん】は、自身が恋愛をすること――作中の表現に倣えば「当事者」になることも同様に“忌避”する一方で、他の女性同士の恋愛を覗き見るという性癖に“よりいっそうのめりこむように”なる。

「わたくし……恋などいたしません」

「男女の恋だとか愛だとか……そのような汚いものは必要ありません」

「わたくしには清らかで美しい百合の花々と、そして瑛人さんがいてくれれば……それだけでいいんです」

ところが「百合」という共通の趣味を通して【瑛人】と行動を共にするうちに、いつしか男性である彼に対して恋愛感情を抱いている自分に気がつき始める。

それが決定的となったのは、【瑛人】がふいに他の女子からキスをされた事件。

「ええ……たった今、気がついてしまいました。自らの心の在り様を懸命に探っていたら、それを見つけてしまいました。わたくしの胸がこのように痛んでいるのは……」

「――瑛人さんが、あの行いの相手だったからなのです」

やがて物語の最後、いよいよ【琴崎さん】の方から【瑛人】に愛を告白する。

「あの、瑛人さんを見ていると……何だか顔が熱くなって胸がそわそわとするんです」

「それだけではなくて瑛人さんの傍から離れると動機息切れがして、何だか落ち着かない心地になって……ですからできる限り近くにいようと思ってこうしてお袖を拝借させていただいているのですが……」

「ですが間近で瑛人さんのお顔を目にしたら、それはそれで何だか急に気恥ずかしいような、そうしているのが照れくさいような妙な心持ちになってきてしまって……どうしてしまったのでしょう……? 今まではこんなことはなかったですのに……」

執拗に迫ってくるビッチ系ギャルの【獅子内マナ】に対しては「たとえ触ったりできなくても、そういう欲求を充足できなくても、俺は琴崎さんの隣にいるって決めたんだ。キラキラした、心と心の繋がりを大切にするって」と殊勝に宣言していた【瑛人】は、

しばしの戸惑いを見せながらも、けっきょくは据え膳食わぬは男の恥とばかりに【琴崎さん】の求愛を受けるのであった。

 いずれにせよ、今はまだ突き詰めるべき段階じゃない。

 琴崎さんの今の状態は、花にたとえたらそれこそつぼみどころかようやく双葉が生えてきた新芽のようなものだ。まだまだ発展途上もいいところ……なのだと思う。

 とはいえその反応が嬉しいものであることもまた事実であり……

「あの、もしお邪魔なようでしたら控えますが……」

「! い、いや、邪魔なんてそんなことはぜんぜんないって!」

「そう……なのですか?」

「う、うん。そうしてくれると俺としてもめちゃくちゃ嬉しいっていうか、むしろいつでもウェルカムっていうか……」

「……?」

 ああ、うん、自分でも何を言っているのかよくわからない。

 琴崎さんの前だと常にこんな感じだ。

 だけど琴崎さんと過ごすそういった予測不能で刺激的な毎日が意外と気に入っていたりもする。

 そんな俺の顔を、

 ――琴崎さんは、不思議そうな目でみていたのだった。

end

言わずと知れた元ネタである百合小説の古典『マリア様がみてるの【祐巳ちゃん】と【祥子さま】がそうであったように、

【琴崎さん】と【瑛人】の関係性は、作品の中で「恋人」には至らず《花にたとえたらそれこそつぼみどころかようやく双葉が生えてきた新芽のようなもの》にとどまっている。

創作物において、作者と主人公の関係性もまた、ケースバイケースであろう。

しかしTwitterにおける原作者・弘前龍の独白にあったように

【新堂瑛人】なる男性主人公は、あくまでも原作者の超個人的な性癖を具現化するための憑代にすぎない。

したがって【琴崎さん】と【瑛人】の関係性も、かつて原作者が【ムギちゃん】との“結婚”を夢想していたように、

やがては二人の未熟な男女が「恋人」となり、そして「夫婦」となる保守的な未来

「予測不能であるどころか、むしろ自明のものとして暗示されているのだ。

しかし、そのようにして【瑛人】と【琴崎さん】は“結婚”する未来の可能性が保障されているのに対し、

彼らが日々「観察」と称して一方的に面白おかしく覗き見ている「百合カップル」たちは、

いくら互いに深く愛し合っていたとしても、同性であることを理由に“結婚”することができない。

そのような異性愛至上主義社会の不条理について【瑛人】と【琴崎さん】――そして作者は、一度でも思いを馳せたことがあるだろうか?

なお最後の一文《そんな俺の顔を、――琴崎さんは、不思議そうな目でみていたのだった。》は、これもマリみて』第1巻のパクリである。

 祐巳紅薔薇のつぼみの妹となった夜。

 月と、マリア様だけが二人を見ていた。

女性同士の恋愛の可能性を肯定する、まさに「百合」という概念を一般層にまで周知した金字塔ともいえる『マリみて』第1巻のラストを締めくくる抒情的な一文が、

このような陳腐極まりない異性愛至上主義のパロディに回収されてしまう。

「冒涜」以外の言葉が存在するだろうか。

むろん「百合作品」は、現実の、いわゆる「レズビアン当事者」をエンパワーメントするために創られているわけではない。あくまでも〈異性愛者(非当事者)〉に向けた娯楽コンテンツだ。

また原作者・弘前龍のインタビューによれば、本作の対象ユーザーが既存の百合ユーザーではなく「百合に触れたことがないライトノベル読者」であることから、

社会のマジョリティである〈異性愛者〉の読者が感情移入しやすい世界観――本当にそうなっているかについては別項に譲る――をあえて選択したとの解釈もできるかもしれない。

しかし、だからといって女性同士の恋愛(同性愛)の表現を〈異性愛者〉のエンパワーメントに利用しようとする試みは、きわめてグロテスクであると言わざるをえない。

そも〈異性愛者〉にエンパワーメントなど必要ない。

なぜならば、私たちの生きる現実社会そのものが、すでに異性愛至上主義を基幹として成立しているからだ。

そこへきて、男と女が愛し合うこと(異性愛)の「素晴らしさ」を、ことさらに誇示する作品が、もはや執拗かつ強迫的といえるまで、現実社会に流通し続けている。

そのような異性愛至上主義社会において、女同士が結ばれた『マリみて』のエンディングを、女が男と結ばれるエンディングに書き換えた『琴崎さんがみてる』の試みは、はたしてどういう意味をもつのか?

――それはマリみて』の【祐巳ちゃん】と【祥子さま】のみならず、

現実の「レズビアン当事者」に対しても

《女は男を愛するべきである》《男を愛することが女の成熟である》

という異性愛至上主義・男尊女卑への迎合を要求・期待する社会的・政治的圧力の一環に他ならないのだ。

 * * *

ちなみに上述の【獅子内マナ】は【瑛人】にフラれた後どうなったのかというと

「とにかくあたしは諦めないからねー。首とあそこを洗ってあたしとヤる日を待ってればいいし」という、引き写す指が腐りそうな捨て台詞を吐いて、何処か?へ行ってしまう。

ギャルとお嬢様というカップリングは「百合」の定石であるけれど、そのような百合展開もなく、

たんに【獅子内マナ】という女性キャラクターが【琴崎さん】の清純さを引き立てるための噛ませ犬にしかなっていない。

男性異性愛者向けの低俗なライトノベルフェミニズム的視点を求めるのはつまらないかもしれないが、

しかしこのようにして「女性」という存在に「聖女」か「娼婦」かの極端な二項対立的役割を押しつけるのは、まさにミソジニー(女性蔑視)の最たるものであることは指摘しておかなければならない。

(総括に続く)

 

 

【中編・下】まさに「クィア・ベイティング」の見本のような『琴崎さんがみてる』は異性愛至上主義の下に「百合」を貶める“男尊女卑”ラブコメディだ! #琴崎さんがみてる

すでに発売前の時点で“炎上”している小説版『琴崎さんがみてる』だが、版元のKADOKAWA電撃文庫」の公式ページにある宣伝文では、次のように記載されていた。

dengekibunko.jp

俺は百合が好きだ。 隣にいる、琴崎さんも好きだ。

 名門お嬢様学校が今年から共学化して、クラスに男子は俺ひとり。普通の男ならハーレム万歳みたいになるんだろうけどあいにく俺は……百合が好きだ。
 そして、この学園には俺の同志がいる。
「はぁあああああ、尊いですわ……!」
 幼馴染の琴崎さんと二人。
 息を潜めて百合カップルを観察する。それが俺の……いや、俺たちのライフワークだ。
 この楽しい時間をいつまでも続けていくため、俺には守るべきルールがある。
 たとえば、琴崎さんが興奮のあまり俺に抱きついてきたとしても、邪なことを考えてはならない、とか……。

>たとえば、琴崎さんが興奮のあまり俺に抱きついてきたとしても、邪なことを考えてはならない、とか……。

予想外の“炎上”にイモを引いてのことか、締めの一文は現在《『琴崎さんを好きになってはいけない』だって、百合を愛する観察者は、自分が当事者になってはいけないんだから。》という比較的穏当な表現に変更されている(なお、変更前のスクリーン・ショットが『百合ナビ』の原作者・弘前龍のインタビュー記事に添付されている)。

しかし宣伝文を書き換えたところで、実際の作品中に《「百合」に興奮した【琴崎さん】が男性主人公に抱きつく》というシーンは登場する。

これについては、発売前日の10月7日になってYouTubeで公開された、小説版のプロモーション・ビデオの中でも言及されている。同PVでは、男性主人公【新堂瑛人】のナレーションによって作品の世界観が語られる。

www.youtube.com

うっとりとした表情で、ほとんど抱きつくように全身を擦り付けてくる――

琴崎さんは昔からこうだった。落ち着いた見た目に反して、とにかく感情表現が豊かで――高校生になった今も、子どもみたいに無邪気だ。

琴崎さんのスキンシップがあまりにも無防備なのと、目の前で繰り広げられる百合のクライマックスがあまりにも尊いので――心臓が口から飛び出してしまいそうなほど激しく脈打っている――

うっ……いかん、いかん。彼女に対して、邪なことを考えてはならない。肉欲は、百合の対極にあるもの。彼女の同志でありたいなら、俺は琴崎さんのことを、好きになってはいけないんだ――

こうした【瑛人】の【琴崎さん】に対する「感情」について、原作者・弘前龍は『百合ナビ』のインタビューで次のように説明している。

少なくとも、主人公(男性)は琴崎さんに対して限りなく恋愛に近い感情を抱いています。そのうえで「百合を愛する観察者は、自分が当事者になってはいけない」つまり「琴崎さんを好きになってはいけない」と苦悩します。自分自身が男であることに起因する「肉欲」への忌避感や罪悪感、という部分も小説版で描いております。

《限りなく恋愛に近い感情》ということは「恋愛」そのものではない、と解釈できる。

なぜその「感情」が「恋愛」そのものではないのかといえば、それを「百合を愛する観察者は、自分が当事者になってはいけない」という自身の矜持や《自分自身が男であることに起因する「肉欲」への忌避感や罪悪感》によって抑えつけているからだという。

しかし「感情」を抑えつけるということは、裏を返せばそうした「感情」が存在することの何よりの証明である。初めから「感情」が存在しなければ、それを抑圧するという行為も成り立たない。

すなわち【瑛人】が【琴崎さん】に抱いている「感情」は、たとえ原作者本人がどのように言い繕ったところで、やはり「恋愛」および「肉欲」に他ならないということだ。

また、このような男性主人公の「苦悩」は、けっきょくのところ【琴咲さん】の実際のセクシュアリティがどうあろうと、

他ならぬ【彼】自身が【琴咲さん】を「レズビアン(同性愛者=非異性愛者)」として認識している実情をも露呈している。

もし【琴崎さん】が初めから〈異性愛者〉であることがわかりきっているのであれば、そのまま相思相愛の恋人同士になればいい話であって《自分自身が男(=異性)であることに起因する「肉欲」への忌避感や罪悪感》に苛まれる必要はないからだ。

そしてその上で、男性主人公が、いくら「百合」に対してストイックな態度に徹しようとしたところでレズビアン(=琴崎入愛)」の方から迫ってくる――

こうした受け身の男性像によって、しかし逆説的に、当人――本作の場合は作者の分身である――の“弁明”に反して、男性の「レズビアン(=琴崎入愛)」に向ける「肉欲」が正当化されている。

言うまでもないことだが、男性異性愛者が女性同士の恋愛をテーマにした創作物に惹かれる心理とは、

人間としての「レズビアン」に「肉欲」を向けたり、あわよくば男性である自身が「レズビアン」とSEXしてみたい(=百合に挟まりたい・混ざりたい)と欲望することとは、まったく違う。この場合は、そも「肉欲」自体が発生していないのだから、それを抑圧する必要すらなく、したがって「苦悩」だの「忌避感や罪悪感」が発生する余地もないのである。

原作者・弘前龍も「百合」を愛する男性の一人として、自身の「百合萌え」が、そのような異性愛至上主義と男尊女卑に根ざした《レズビアン差別》と結びついてしまう事態を潔しとはしていないのだろう。

もっとも一方で、たとえそれが《レズビアン差別》の欲望であろうと、創作物の中でそのような“差別的”な欲望を表現すること自体は自由だ、とする皮相な見方もある。

たしかに、フィクションの上ではどのようなものも表現することが出来る。ゆえに作者が望もうと望まないと、フィクション作品は作者の内に秘めた「肉欲」をおのずと表出してしまう。

しかし、それが作者の望まないことであったなら?――たとえそれを支持する読者がいたとしても、そのような表現は“失敗作”と呼ばざるをえないだろう。

言い換えるなら、皮肉にも発売前に“炎上”を経験した『琴崎さんがみてる』は、やはり発売前から“失敗作”となることが運命づけられた作品だったのである。

(後編に続く)

【中編・上】まさに「クィア・ベイティング」の見本のような『琴崎さんがみてる』は異性愛至上主義の下に「百合」を貶める“男尊女卑”ラブコメディだ! #琴崎さんがみてる

あらためて説明すると『琴崎さんがみてる』とは、

名門女子校に通うお嬢様キャラの【琴崎イリア】が、校内の女性カップルを見て百合妄想に耽るというという「メタ百合」とも呼べる構造のアニメ作品(※ただし声優が声を当てているものの静止画なので「漫画」と見なす解釈もあり)である。

YouTubeで全5話が公開された後、2021年10月8日にKADOKAWAライトノベル部門「電撃文庫」からライトノベル版が発売された(なお原作者は弘前龍だが、実際に小説を執筆したのは五十嵐雄策という作家)。

ところが――そのサブタイトルは『俺の隣で百合カップルを観察する限界お嬢様』

作品の舞台は女子校から共学へと移り、

さらには主人公が女性キャラクターの【琴崎入愛(※小説化に伴って「イリア」から改名)】から、その【琴崎さん】に恋愛感情を寄せる男性異性愛者【新堂瑛人】に変更となった。ちなみに男性キャラクターは主人公ただ一人という、いわゆる学園ハーレム物の御都合主義的な設定をそのまま踏襲したシチュエーションである。

「メタ百合作品」であったYouTube版から一転して「百合」の世界観(女性同性愛)とは真逆である、異性愛を主軸とした男女物のラブコメディへの路線変更。あまつさえ自身も「百合キャラ」であったヒロインの【琴崎さん】までもが、男性(異性)である主人公と恋愛関係(異性愛)に陥るという。

こうした“改悪”としか言い様がない改変に対して、心ある百合コンテンツのユーザーたちは一斉に「NO」を突きつけ、小説版『琴崎さんがみてる』は発売前から“炎上”の憂き目に遭った。さらには原作者の弘前龍が『百合ナビ』および自身のTwitter上で行った“釈明”も、その無自覚の異性愛至上主義に根ざした差別的かつ独善的な発言によって、かえって火に油を注ぐ格好となった。

ただ、発売前の“炎上”という事態から、そうした背景を理解しない部外者からは「まだ読んでもいないのに批判するのは如何なものか?」というお決まりの物言いがついたのも事実である。

しかし発売前であっても、電撃文庫の公式ページで「試し読み」を閲覧することが可能だ。

作品の冒頭部分(プロローグと第1話)が無料で公開されているが、

その時点ですでに小説版『琴崎さんがみてる』が、異性愛至上主義と男尊女卑に根ざしたまごうかたなき愚作である事実は、すでに明白である。

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マリア様がみてる』におけるひびき玲音に象徴されるとおり、ライトノベルという表現様式において、イラスト(挿絵)はたんなるおまけではなく、文章と同等のプライオリティを占める。

また原作者の弘前龍は『百合ナビ』のインタビューの中で、小説版『琴咲さんがみてる』を通して《「百合作品を男女ハーレム作品にする」という目的ではなく》《百合に触れたことがないライトノベル読者にも、百合の素晴らしさを届けたい》といった「想い」を述べている。

だが、作品冒頭に掲載されている3枚の扉絵の内、女性キャラクター同士がよくわからない会話をしている1枚を除けば、残りの2枚は【琴崎さん】を含む2名の異なる女性キャラクターがそれぞれ男性主人公に迫るというもの。これらは、それこそ「男女ハーレム作品」にありがちな意匠であり「百合の素晴らしさ」は何一つ伝わってこない。

のっけからして嫌な予感しかないが、本文も推して知るべしである。

(※以下「試し読み」から抜粋。強調は引用者)

 と、いつのまに買っていたのかお茶のペットボトルを差し出してきてくれた。

「喉が渇いたかと思いまして。百合花茶、お好きでしたよね?」

「覚えててくれたんだ」

「それはもう、瑛人さんの好物ですもの」

「そっか……あ、ちょっとそっちも貸して」

「?」

「はい、琴崎さん」

 自分の分に加え、琴崎さんの分のペットボトルのフタを開けて彼女へと戻す。

 琴崎さんがちょっと驚いたような、だけど嬉しそうな顔をした。

「ありがとうございます。わたくし、いまだに一人ではフタを開けられなくて。やっぱり男の子なんですね

【琴崎さん】は女性であるがゆえに握力が弱く、ペットボトルのフタすら自分で開けられないのだという。

――しかし、だとしたら【瑛人】が入学してくるまではどうしていたのだろうか?

ちょっと考えればすぐにおかしいとわかる不自然な人物造形だが、

ようするにこれは女性の非力さを強調することで、男性である主人公の存在意義をさりげなくアピールするという、あざとい演出なのだ。

  • じじつ、この箇所にはわざわざ挿絵まで付けられており、作者としては余程読者に印象付けたかったシーンであることがうかがえる。

その根底にあるのは、女性は男性に依存せざるをえないという男性作家の女性蔑視・男尊女卑の意識であり、

そしてそれこそが、男性を必要としない女性同士の恋愛を、男女間の異性愛よりも本質的に劣るものと位置づけ、ひいては女性同士の恋愛に対する男性の介入を正当化する《レズビアン差別》の論拠となっていることは、言うまでもないだろう。

(なお、ペットボトルのフタを開ける器具(オープナー)は、100円ショップで売っている。男性作家の男尊女卑的な意識は、同時に男性の存在意義をも消費税込110円以下に貶めているのである)

torasantei.com

ここで『百合ナビ』における原作者・弘前龍のインタビューから引用する。

YouTube版では語り部的な立ち位置の琴崎さんでしたが、小説版では琴崎さんの男性に対するトラウマをはじめとした暗い過去などにも触れており、一人の人間として深く掘り下げる内容となっております。

・小説版の主人公は男性ですが、百合を愛する同志として、ただ一人、琴崎さんの傍にいることを例外的に許された存在です。

つまり【琴崎さん】は「男性に対するトラウマ」があるから、女性同士の甘美な「百合」の世界に逃避しているという設定であるらしい。

だが女性の「百合萌え」を、男性からの逃避などといった不純かつ不健全な動機にこじつける短絡的な発想は、

これもまた《男が嫌いだから「レズ」に“走る”のだ》というレズボフォビア言説の焼き直しにすぎない。

そしてこれも同様に「男嫌い」の“治療”“克服”と称して、非異性愛者(※「レズビアン」であるとはかぎらない)の女性に男性(異性)との恋愛やSEXを強要する、男性異性愛者向けポルノの定石をなぞったものである。

しかし、引用は前後するけれど、「男性に対するトラウマ」をもつとされる【琴崎さん】が、どういうわけだか男性である主人公に対しては、出会い頭に乳房を押しつけるといった過剰なスキンシップを厭わない。

「お久しぶりですね、瑛人さん。お会いしたかったですわ……!」

「!」

 彼女はそう言うと、俺の頭を包み込むようにがばっと抱きしめてきた。

 柔らかな感触とともにびっくりするくらいいい匂いがふわりと漂う。

 変わっていない。昔からの彼女の、親愛の情を示す時の行動だ。

「ふふ、四年ぶりだというのにぜんぜん変わっていませんのね。瑛人さんの抱き心地がいたしますわ」 

これでは、【琴崎さん】は百合好き女子というより、たんなる男好きの痴女ではないか。何より「男性に対するトラウマ」をもつという設定と完全に矛盾している。初っ端から人物造形がブレブレで、わけがわからない。

(なお、作品全体を通して【琴崎さん】がこのようなスキンシップを行う相手は男性である主人公のみであり、女性キャラクターとこのような関係性になることは一切ない)

そうそう、痴女と言えば、本作には【琴崎さん】とは別に、男性主人公に唐突かつ明け透けに肉体関係(!?)を迫るビッチ系ギャル【獅子内マナ】が登場する。前述の扉絵に登場した女性キャラクターの片方だ。

以下に【マナ】のセリフを抜粋する:

(えー、エイトにはなくてもあたしにはあるし。ていうか男子の匂いで/ちょっとスイッチ入っちゃったかも

(ほらほら、もっとくっつけていい的な? なんなら触ったりめくったり/ハグしてくれてもぜんぜん/オッケーっていうか、むしろウェルカム?

「それで知ってるとか知らないとかの話だけどさ、そんなのどうでもよくない? 知らないならこれから知っていけばいいだけじゃん。付き合えばどうせ隅から隅まで色んなところを全部知ることになるんだし

「あはは、ウケるなにそれ。マジでヤバいんだけど。てかそんな難しく考えなくていいじゃん。一度しかない人生、とりあえずヤッたもん勝ちっしょ。何ならカラダだけの関係でもいいし

男性主人公【新堂瑛人】のキャラクター造形に関して、作者は『百合ナビ』のインタビューで《「百合を愛する観察者は、自分が当事者になってはいけない」つまり「琴崎さんを好きになってはいけない」と苦悩します。自分自身が男であることに起因する「肉欲」への忌避感や罪悪感》を抱えた人物と説明する。またそれゆえに『琴崎さんがみてる』は男性を主人公としながら「男女ハーレム作品」とはならないのだという。

たしかに【瑛人】は【琴崎さん】に対しても【マナ】に対しても、男性の立場から女性には積極的にアプローチすることなく受け身に徹しているようだ。

しかし、そのようにして受け身の男性主人公が女子たちから積極的にアプローチされるというシチュエーションは、それこそ「男女ハーレム作品」の定石である。

加えて【瑛人】は「幼なじみ」という特権的な立場と「百合萌え」という共通の趣味によって、男性でありながら《ただ一人、琴崎さんの傍にいることを例外的に許され》ているのだという。

しかしじつのところそうした御都合主義的な設定は、逆に【瑛人】の側が【琴崎さん】を独占する口実にすぎない。そして一人の男性が複数の美女を独占するという排他的な構造もまた、やはり「男女ハーレム作品」の基幹を成す世界観だ。

こうしたことからも『琴崎さんがみてる』は、それ自体が「百合作品」ではなく、あくまでも「百合」を題材(というかネタ)にした、異性愛者のラブコメディであるという本質を見て取ることができる。

(中編・下に続く)

 

【前編】まさに「クィア・ベイティング」の見本のような『琴崎さんがみてる』は異性愛至上主義の下に「百合」を貶める“男尊女卑”ラブコメディだ! #琴崎さんがみてる

YouTubeで公開されていた百合アニメ『琴崎さんがみてる』が、その小説化にあたり、

「百合」を趣味とする女性の主人公から、その女性キャラクターに恋愛感情を抱く男性を主人公に変更したことで、

作品の世界観を根底から覆す結果となり、百合コンテンツのユーザーからの猛烈な批判に晒されている。

note.com

もっとも【琴崎さん】こと【琴崎イリア】は、作品の中で元々「レズビアン(女性同性愛者)」と明言されていたわけではない。

しかし、一方でレズビアン“ではない”とも明言されない。その上で《女性同士の恋愛を愛でる女性》という属性を付加したことで、自身もまた「レズビアン(女性同性愛者)」と解釈可能であるかのように“匂わせ”ている。

このようにして、レズビアン異性愛者女性を、あたかも「レズビアン」であるかのごとく見せかけることで世間の注目を集める手法クィア・ベイティング(queerbating)」と呼び、

さながら『琴崎さんがみてる』は(用例として事典に載せてもいいくらい)その悪しき見本と言える事例だ。

ossie.hatenablog.jpさて、こうした“炎上”を受け、作品の原作者(原案者)である弘前龍(@ryu_hirosaki_17が、百合情報サイト『百合ナビ』および自身のTwitter上で釈明を行った。yurinavi.com

YouTube版は、小説版から見るとプロローグ(1年前の話)になるような位置づけで制作しました。まだ公開されていないYouTube版5話でいくつか新しい設定を明かし、小説版へ繋げる予定でしたが情報公開の順番が前後してしまい、小説版のあらすじのほうが先に世に出てしまった結果、想定外の反響をいただいてしまった、という次第でございます。

とはいえ、YouTube版と小説版の設定がまったくの別物に見えてしまい、大きな混乱を招いてしまったのは事実です。YouTube版5話の公開時期調整も含め、もっと丁寧な導線を引くべきだったと反省しています。

それでは、上掲記事の直後に公開されたYouTube版の第5話(最終回)を観てみよう。

www.youtube.com

(【琴崎イリア】の台詞を抜粋)

そして語り部の役を担うのは/わたくし一人ではございません/実は・・・来年の春/わたくしの幼なじみが/百合の花の美しさを語り合う同志が/この猫丘学園に入学してくるのですわ/ご入学おめでとうございます/さぁ! 心ゆくまで語り合いましょう/ここは……尊き百合の花々が咲き誇るわたくしたちの楽園なのですから/今そう遠くない未来が見えたような気がいたします/ともに語り合い/切磋琢磨できる同志がいるならば/わたくしもさらなる高みへと/昇ることができるはず・・・

この期に及んでも【琴崎さん】の言う「幼なじみ」「百合の花の美しさを語り合う同志」が男性である事実は明かされていない。よって原作者のいう「導線」にもなっていない。問題の小説版に先んじてYouTube版5話」を公開していたとしても“炎上”は避けられなかったであろう(しかし、騒動を機に初めて観たが「百合」に男が混ざる云々を抜きにしても冗漫で退屈極まりないアニメである)。

次に、原作者・弘前龍のTwitter上の“釈明”を引用する。

(以下、連投ツイートを整理。強調は引用者。)

記事にもあるとおり、小説版の主人公を男性にしたことは、編集部の意向ではなく私自身の意向です。

企画初期からYouTube版と小説版をセットで構想しており、YouTube版は「百合好きのお嬢様が1人で語る」作品、小説版は「百合好きのお嬢様と百合男子が語り合う」作品にしたいと考えていました。

この「百合好きのお嬢様と百合男子」というコンセプトが百合ファンの皆様に上手く伝わらず、大きな誤解を招いてしまった気がします。

なので、そもそも弘前龍とは百合を語るに足る人物なのか、どうやってこの発想に至ったのか、補足説明あるいは自分語りをさせてください。

と言いつつ、ヘテロの話から始まるのですが……

約10年前、私は「けいおん!」のムギちゃんにガチ恋をしていました。 ムギちゃんの隣で、唯が梓に抱きつく様子を眺めている「俺」の姿をいつも妄想していました。

そして、そんな妄想こそが「琴崎さんがみてる」の原点となりました。

けいおん!」は当時、多くの一般人を百合の沼に引きずり込んだ作品です。 私もその一人で、唯梓、澪律、和憂がジャスティスでした。

彼女たちの日常をいつまでも見守っていたい、と思う一方で……

私は、ムギちゃんへの想いだけが、他と性質の違うものであることに気づきます。

ムギちゃんと結婚したい。

その気持ちを自覚した瞬間、私は大きな矛盾に直面しました。

壁や観葉植物やスッポンモドキではなく「俺」として「けいおん!」の世界に存在したいと願っている。

そんな輩には、百合男子を名乗る資格がないのではないか?

百合を愛する気持ちも、決して嘘ではないのです。

澪と律の間に挟まりたい訳ではなく、ほんの少し離れた場所で、2人の会話を聞かせてほしいのです。

漫才のような会話の中に幼馴染カップルならではの深い絆を発見した瞬間の歓びは、間違いなく本物でした。

その歓びを一人で噛みしめるのも悪くありません。

しかし、その瞬間、きっとムギちゃんも同じ歓びを抱いている…… 私は、ムギちゃんと二人で、澪律の尊さを語り合いたいと願ってしまったのです。

それは世界に「俺」を介入させる行為であり、当時の過激派に殺されてもおかしくない思想でした。

宗派によっては、自己をムギちゃんに投影する、自分がムギちゃんだと思い込む、というアプローチを取る人もいました。

「俺」の介入と比べたら、遥かに穏当な解決手段だと思います。

しかし、私はムギちゃんになることができませんでした。

何度考え直しても私は「俺」だったのです。

『ねえ聞いて! さっき、唯ちゃんが梓ちゃんに……』

嬉しそうに語るムギちゃんの笑顔を思い浮かべるとき……

こには、聞き手としての「俺」が存在していました。

「俺」がいなければ、ムギちゃんは誰と唯梓を語ればいいのでしょうか?

※まだ菫が登場していなかった頃の話です。

こうした葛藤を抱えたまま、月日は流れていきました。

劇場版の公開も続編漫画の連載も終わり「けいおん!」は少しずつ思い出に変わっていきました。

同時に、百合作品の多様化が進み「捏造トラップ」など革命的な作品も現れるようになっていきました。

今なら、当時の葛藤を、ひとつの作品に昇華できるかもしれない。

2019年「けいおん!」アニメ放送10周年を祝いながら、私は「琴崎さんがみてる」の原型となる企画書を作りました。

「百合好きのお嬢様と百合男子」というコンセプトは、約10年にわたる私の想いが結実したものです。

それから約2年。

五十嵐雄策さん、佐倉おりこさん、福原香織さん、他にも大勢の方々にご協力いただきながら「琴崎さんがみてる」プロジェクトは進展を続けてきました。

いよいよ小説版の発売という節目を迎える直前、予期せぬ形で世間をお騒がせてしまい、私自身、困惑しておりました。

今回の騒動でネガティブな誤解が広まってしまったのは、私の説明不足が原因だったと反省しています。

ご心配をおかけした関係各位にお詫び申し上げるとともに、説明の機会をくださった百合ナビ様に厚く御礼申し上げます。

そして、百合ファンの皆様に私の真意が伝わることを願っております。

女性キャラクターである【ムギちゃん】と男性である弘前が「百合」を語り合うのに、わざわざ“結婚”をする必要はないだろう。

こうした弘前の思い込みは《男女間の「友情」は成立しない》という異性愛至上主義の固定観念に囚われたものである。なぜそれが異性愛至上主義であるかというと、それは元来、女同士(あるいは男同士)の「恋愛」は成立しないという信念と表裏一体であるからだ。

そして何より、弘前の個人的かつ身勝手な性癖の問題が「俺」がいなければ、ムギちゃんは誰と唯梓を語ればいいのでしょうか?》などと、いつのまにか【ムギちゃん】の心情を斟酌して思いやるかのような態度に転嫁されている。

性加害者特有の強固な思い込みと認知の歪みに根ざした、ありていにいって、じつに気色の悪い文面である。

自身の卑しい性欲を満たすにあたって【ムギちゃん】を必要としているのは、他ならぬ弘前であり、【ムギちゃん】の側は作品世界の外側にいる弘前の存在など必要としていない。【ムギちゃん】は弘前の存在とは関係なく、ただ純粋に「百合萌え」という自身のセクシュアリティを楽しんでいるだけである。

それにもかかわらず、異性愛者である【ムギちゃん】には男性(異性)である自分が必要だと決めつける勝手な思い込みは、

まさに《女は男を愛するべきである》《男を愛することが女の成熟である》という異性愛至上主義・男尊女卑の発露に他ならない。

繰り返すが【琴咲さん】も【ムギちゃん】も作品の中で「レズビアン」と規定されているわけではない。

しかし、そもレズビアン」でなければ男性を愛せるはずだ・愛するべきだ、という思い込み自体が、まさに異性愛至上主義の最たるものではないのか。

そして【琴咲さん】や【ムギちゃん】が実際に「レズビアン」であろうとなかろうと、《女は男を愛するべきである》《男を愛することが女の成熟である》という異性愛至上主義・男尊女卑にもとづいて男性との恋愛やSEXを要求・期待するのであれば、そのような行為は必然して《レズビアン差別》として機能するのだ。

弘前澪と律の間に挟まりたい訳ではなくと弁明するが、どのように言い繕ったところで、そのようなレズビアン差別》に依拠する男の欲望は、所詮「百合に挟まりたい男」の亜種でしかない。

まして言うまでもなく、それは「男の百合萌え(百合に“萌える”男)」とはまったく別次元の問題だ。

こうした原作者・弘前龍の、何の説得力もない、冗長な“釈明”に対しても、当然のことながら多くの反論が寄せられているが、

一方で「嫌なら読むな」「読んでから批判しろ」といった、作者のシンパないし百合アンチからの皮相な“混ぜっ返し(反論ですらない)”も散見する。

しかし、公式サイトに掲載されている「試し読み」を読んだ時点で、

小説版『琴崎さんがみてる』が、異性愛至上主義と男尊女卑に根ざした、救いようのない駄作である事実はすでに明白なのだ。

(中編・上に続く)