百錬ノ鐵

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《女性差別》の構造を無視する「TRA学者」西條玲奈(r_saijo)の“差別的態度” #TRA学者の言いなりになんてならない

「TRA」とは「Trans Rights Activist」の略で《トランスジェンダーの権利》を主張する人を指す。

トランスジェンダーの権利》を主張するトランス当事者が、かならずしも政治的イデオロギーとしての「トランスジェンダリズム(※男女間の生物学的差異を否定し、当人の自己申告にもとづく「性自認」だけで性別を決定しようとする先鋭的・急進的な思想)」を支持するとは限らないのだが、

こと「TRA学者」といった場合は、おうおうにして当人はトランスジェンダーの当事者ではないシスジェンダーであるにもかかわらず、自らの政治的イデオロギー(社会構築主義クィア理論など)を実証するためにトランスジェンダーの運動を都合良く利用している事例が目につく。

 上掲の、まさしく絵に描いたようなステレオタイプの「TRA学者」である西條玲奈@r_saijo)による「論文」も、小難しい言い回しや用語で学術的に装ってはいるけれど、つまるところツイッター上に蔓延るトランス主義者の独善的で凝り固まった世界観を焼き直したにすぎない代物だ。

以下「論文」から引用していく(なお読みやすさを考慮し、原文にはない改行を加えた個所がある)。

シスジェンダーとは、典型的には、出生時にわりあてられたジェンダーと当人のジェンダーアイデンティティに不一致がない人を指す。男女どちらかの性質を人に割り当てる社会の二元論の枠組みにさしたる困難を覚えずに済んでいる人と言ってもよい。

すなわち《男女どちらかの性質を人に割り当てる社会の二元論の枠組みにさしたる困難を覚えずに済》むことを、西條を始めとするトランス主義者(TRA学者)たちは「シス特権」と呼んでいるようだ。

しかし《男女どちらかの性質を人に割り当てる社会の二元論の枠組み》について《さしたる困難を覚えずに済んでいる人》が「シスジェンダー」であると仮定するならば、トランスジェンダリズムを批判することでトランス主義者から「シス女性」のレッテルを貼られている女性たちの大半は、それに当てはまらない。

  • 元より《出生時にわりあてられたジェンダーと当人のジェンダーアイデンティティに不一致がない》ことと《男女どちらかの性質を人に割り当てる社会の二元論の枠組みにさしたる困難を覚えずに済んでいる》ことは同義ではない。
  • 《出生時にわりあてられたジェンダーと当人のジェンダーアイデンティティに不一致がない》ことは、たんにそれ以上でもそれ以下でもなく、本来であれば何らかの主観的・批判的な価値判断を伴う表現ではない。
  • そこをいくと男女どちらかの性質を人に割り当てる社会の二元論の枠組みにさしたる困難を覚えずに済んでいる人》という表現《さしたる困難を覚えずに済んでいる》などと「シスジェンダー」の内面までも一方的かつ一律的に決めつける勝手な思い込みに根ざしたものであり、そのじつトランス主義者が「シス女性」とカテゴライズする人々を“他者化”“悪魔化”するのに都合良くミスリードした曲解に他ならない。
  • よって、西條は両者を《言っても(言い換えても)よい(意味は同じである)。》というが全然よくない。
  • それにしても「わりあてる」だか「割り当てる」だか、どっちかにしてほしい。

なぜならば、

 シスジェンダーミスジェンダリングの害を回避できるのはなぜだろうか。

 その人のジェンダーアイデンティティと異なるジェンダーを他人が割り当てること自体はシスジェンダーに対しても生じうる。3節で、体格や服装、髪型などの特徴が男性のジェンダーマーカーとして機能し、「男性」として特定されたシス女性のケースを取り上げた。シス女性であってもこの間違いを不快に感じることはありうる。

 しかし、トランス女性に対するミスジェンダリングとシス女性に対する誤解は概念的に異なる。シス女性は生まれてから、通時的に固定したジェンダー帰属を享受している点にある。見知らぬ人から誤解されることがあるにせよ、このシス女性は公的な身分証明書の性別欄に「女性」と記載され続けてきたし、仕事に就く時、また医療的処置を受ける時に、自分のジェンダーアイデンティティを疑われる懸念をもつこともない。ジェンダー帰属の通時的固定性をもつがゆえに、この人は常に女性として自分の人生を見通して行動できるという感覚、すなわち自尊(self-respect)を備えている(cf. Kapusta 2016, 505)。

ミスジェンダリングがあろうとなかろうと、出生時に「女性」として“わりあてられた”人は、例外なく「女性」として「差別」を受ける。これが《女性差別》の構造であるからだ。

そのような《女性差別》の構造においては「女性」がジェンダー帰属の通時的固定性」「常に女性として自分の人生を見通して行動できるという感覚」を得たとしても「自尊(self-respect)」を得ることにはけっしてつながらない。

むしろ《女性の自尊》を挫くことによって「女性」が「男性」に依存せざるをえないように仕向け、また同時に「男性」が「女性」を“所有(モノ扱い)”しやすい環境を整備することこそが《女性差別》の構造に他ならないのだ。

他人にジェンダーが判断される場合、ジェンダーマーカーが判断の根拠として機能するのは、シス女性もトランス女性も同様である。それにもかかわらず、アイデンティティと一致したジェンダー帰属を求めて女性のジェンダーマーカーを備えるトランスジェンダーのみ非難し、シス女性を非難しないならば、その態度は差別的といえるだろう。

そもジェンダー規範が批判されるのは、それがジェンダーマーカーによる“らしさ”の押しつけにとどまらず、社会最大のマジョリティであるシスジェンダー男性異性愛者の「女性」に対する“性的モノ化”のまなざしやミソジニー(女性蔑視)を内包しているためである。

「女性当事者」自らが、そのような「男社会」で生き抜くうえで、あるていど女性蔑視的価値観を内面化してしまうこと自体はやむをえない側面もある。だが「女性当事者」の中には、そうした「男性」の価値基準に過剰適応するあまり、他の「女性」を迫害・抑圧することで“成り上がり”を画策する者もいる。

フェミニストは、そのような「名誉男性」に対しても“非難”を向けてきた――具体的には杉田水脈曽野綾子、柴田英里、鈴木涼美春名風花など――のであり、西條ごときにトランスジェンダーのみ非難し、シス女性を非難しないならば、その態度は差別的といえるだろう。》などといわれる筋合いはない。

また、これが「トランス女性」の場合であれば、たとえばテレビのバラエティ番組などで、俗にいう「オネェタレント」が若い女性タレントに対して「毒舌」と称するセクシュアル・ハラスメントやヘイトスピーチを浴びせる光景は珍しくない。

ところがトランス主義者(TRA学者)たちは、そのような「トランス女性」の“差別的態度”については積極的に“非難”することなく不問とし、それこそ《「シス女性」のみ非難し、トランスジェンダー(トランス女性)を非難しない》という“態度”を取っている。こうしたトランスジェンダリズムの御都合主義こそ“差別的”であるとして“非難”に値するだろう。

ジェンダー帰属の通時的固定性をもたない場合、同じ社会の「女性は脚の体毛を剃るべきだ」というジェンダー規範の違反や批判を行うことは、よりリスクを伴うものになりうる。

ジェンダー帰属の通時的固定性に基づく自尊を備えたシス女性でれば、この違反によって「女性なのに女らしくない」という非難を向けられることは予想するかもしれない。しかしこの非難はその人がジェンダー規範に違反することに向けられてはいても、本人が女性であることを否定するものではない。

対して、ジェンダー帰属の通時的固定性を持たない場合、「脚の体毛を剃らない」という行動が女性ではないことのジェンダーマーカーとして機能することを考慮せざるを得ないかもしれない。すなわち「やはりあなたは女性ではない」というミスジェンダリングを引き起こすリスクを予想する可能性がある。他人からのミスジェンダリングを回避しようとすれば、ジェンダー帰属を安定させる必要が生じる。そのために強力なジェンダーマーカーを備えることは、個人の意志に基づく選択としてのみならず、不利益を免れるための必要な手段ともいえるだろう。

たしかにトランス女性が《他人からのミスジェンダリングを回避》するために《強力なジェンダーマーカーを備え》た結果としてジェンダー規範の批判》に晒されるのだとすれば、当人としては甚だ不本意な事態であろう。

だが、当人が望む望まないにかかわらず、必然して獲得してしまうのが「特権」なのである。

たとえば社会最大のマジョリティである「シスジェンダーの男性異性愛者」が、いくら真摯に自らの“特権性”を自己批判したところで「特権性」から“免れる”ことなどできない。そしてその“特権性”を指摘すること自体は「非難(批判)」ではないし、まして「嫌悪」にも「差別」にもあたらない。

あるいは身体女性が「男性」にトランス(性別移行)したとしても、今度は「トランス男性」として「差別」を受けるだけであり「シス男性特権」を獲得することは不可能である。

言い換えるなら、出生時に「男性」として“わりあてられた”人であれば、その後の「性自認」のありようによってマジョリティにもマイノリティにもなりうるが、出生時に「女性」として“わりあてられた”人は「性自認」がどうあろうと「マイノリティ」にしかなりえないということである。

したがって、仮に「シス特権」なるものが存在するとしたところで、それに当てはまるのは「シス男性」のみであり、身体女性は何らその恩恵を受けていない。「シスジェンダー」の一語の下に、この〈男/女〉の社会的・政治的非対称性を無視しているのだから、トランスジェンダリズムはすでに前提から破綻している。

* * *

もっとも一方で「女性」や「トランスジェンダー」にかかわらず、「差別」が機能する社会においては誰しもが――被差別の当時者であっても!――必然して「差別」の構造に加担しうるという考え方はできるし、その意味で「トランス女性」だけをあげつらうのだとすれば、たしかに《その態度は差別的といえる》かもしれない。

だが、それを“いう”のであればレズビアン」の多くが生物学的性別を基準に恋愛やSEXのパートナーを選別すること――より正確には、恋愛やSEXのパートナーを選別する基準に「生物学的性別」を含めること(そしてその結果として「トランス女性」が一般的な「レズビアン」の性的対象から除外されること)――を以て「シスセクシズム(シスジェンダー至上主義?)」と“非難”する、トランス主義者(TRA学者)の「言説」こそが、むしろ《レズビアン嫌悪》であり“差別的”である。

また、こうした文脈における「レズビアン」とは主として「シス女性」が前提とされるが、実際にはトランス女性であっても身体女性のみを性的対象とし、トランス女性は含まないという人が少なくない。それにもかかわらず《「シス女性(のレズビアン)」のみ非難し、トランス女性を非難しないならば》やはりそうしたトランス主義者およびクィア主義者の《態度は差別的》といわざるをえないだろう。

元より「女性」を愛して「男性」を愛さない「レズビアン」が「性別」で人間を“差別”しているというのは、典型的な《レズビアン嫌悪言説》であるが、トランスジェンダリズムおよびクィア理論においては、その「男性」を「トランス女性」に置き換えただけで本質的には何も変わっていない。これは言うなれば「トランス女性」を「男性」のジェネリック(代替)として「レズビアン」に差し向ける行為である。

しかしここで重要なのは、そのようにして「トランス女性」を実質的に“男扱い(ミスジェンダリング)”しているのが、「トランス女性」を性的対象に含まない「レズビアン」ではなく、「レズビアン」に対して「トランス女性」を性的対象として差し向けるトランス主義者およびクィア主義者の側だという点だ。

あるいは「差別」が機能する社会においてはどのようなセクシュアリティであってもて「差別」の構造に結びつきうるのだという「原罪論」をぶちたいのであれば、それこそレズビアン」だけをことさらにあげつらうのは論理矛盾であるし、まさに「レズビアン」を“特殊視・異常視”する「偏見」以外の何物でもあるまい。

あまつさえ、そのようにして「レズビアン」が生物学的性別を基準に恋愛やSEXのパートナーを選別することを「差別」と断じる(こと自体の“差別性”には無自覚・無頓着である)一方で、《トランス女性のふるまいや行動》における「差別(=「女性」に対する悪性のステレオタイプを強化する)」の可能性の指摘に対しては“差別的”として退ける――このようなトランスジェンダリズムダブル・スタンダードこそが“差別的”ということだ。

だいいち一口に「トランス女性」といっても、いかにより「強力なジェンダーマーカー」を身に着けることによって「シス女性」に近づけるかの度合い(いわゆるパス度)は「当事者」ごとに異なり、その中でヒエラルキーが存在しているのが実情である。

また一方で「トランス女性」を性的対象に含むという人であっても、じつのところ相手が「トランス女性」でありさえすれば誰でもいいわけではなく、おうおうにして“パス度”の高い「トランス女性」を選ぶ傾向にある。これは「トランス女性」が、実質的に「シス女性」のジェネリック(代替)として扱われている実態を示す証左であり、形を変えた「シスセクシズム」の構造を見て取ることができる。そのような「シスセクシズム」に基づいた「トランス女性」内部のヒエラルキーにおいて【パス度の高いトランス女性】の特権性を指摘せざるをえない。

繰り返すが“特権性”を指摘すること自体は「非難(批判)」ではないし、まして「嫌悪」にも「差別」にもあたらない。だが、マイノリティの《正当な権利(この場合はレズビアンの「性の自己決定権」の行使)》を「特権」と呼ぶこと、あるいは100パーセント正当な権利の行使を1パーセントでも不当だと言い募ることは、それ自体がマイノリティの権利の正当な行使を妨げる「ヘイトスピーチに他ならないことも忘れてはならない。

身体女性の性暴力被害を“完全に無視”する「トランス女性至上主義者」れい(rayfactory)の「暴論」

今月3日、東京五輪パラリンピック組織委員会会長の森喜朗・元内閣総理大臣がJOC(日本オリンピック委員会)臨時評議員会で行った「女性がたくさん入っている理事会は(会議に)時間がかかる」「(そこをいくと)私どもの組織委員会の女性(の会員たち)は“わきまえて”いる」という女性蔑視発言が、国内外から批判を受けている。

www.huffingtonpost.jp

もっとも「女性」といっても、こうした文脈において「トランス女性」の存在は想定・考慮すらされていないのだろう。そうした中で「トランス女性」が「当事者」として声を上げることは有意義と思われる。

しかし一方で、こうした世間の耳目を集める議論を自らの偏狭な政治的イデオロギートランスジェンダリズム)の喧伝に利用しようとする、卑しい「活動家(トランス主義者)」が目につくのも事実だ。

 

 

 

……開いた口が塞がらない。右翼の森喜朗とは思想の左右を反転させただけで、その“差別性(女性蔑視)”において勝るとも劣らない「暴論」ではないか。

>シス男性中心に設計された社会においてシス女性は社会への参画、雇用機会等に制限はあっても、生存そのものは原則脅かされないでしょう。

そもそも《生存そのものは原則脅かされない》というのが意味不明だ。

「生存そのもの」とはいったい何を指すのか。たしかに法治国家において、身体女性というだけで文字通り“殺される”ことは稀であろう。殺害した後の死体を、素人が誰にも見つかることなく処理することは至難の業であるからだ(もっとも、それをいうなら「トランス女性」も同じだが)。

が、それより発覚のリスクの低い性犯罪――レイプや痴漢などの被害に遭う確率に関しては、身体女性が「シス男性」に較べて有意に高くなる傾向にあり、ここに《女性差別》の構造が見て取れる。

ようするに【れい】は、性暴力の問題について、被害者が文字通りに“殺されなければ”問題ではない(あるいは“大した”問題ではない)といっているだけである。これは身体女性の性暴力被害について、軽視するどころか“完全に無視”するものであり、まさしく「ミソジニー(女性蔑視)」以外の何物でもない。

一方でトランス女性も性暴力被害に遭いやすいとされているが、だからといって身体女性が性暴力被害(=生存の脅迫)から免れるということになるはずもない。にもかかわらず【れい】を始めとするトランス主義者たちは、トランス女性の性暴力被害を強調するにあたって、いちいち身体女性の性暴力被害を過小評価してみせるのだ。論理の飛躍もさることながら、じつのところ身体女性の立場を貶めることでトランス女性の“優位性”を誇示するという、形を変えた《女性差別の構造を再生産しているにすぎない。

>シス女性はシス男性中心の社会において、シス男性のように見える外見をホルモン接種で得なくてもいいし、手術をしたりしなくてもいいんで、全然違うと思いますよ。

これも輪をかけて意味不明だ。たとえ身体女性がホルモン接種や性別適合手術などの手段によって自らの「外見」を「シス男性」に“近づけた”としても「シス男性」自体に“なる”ことは不可能であるし、仮にそうしたところで今度は「トランス男性」として「差別」を受け、また性暴力被害(の高いリスク)に晒されるだけであろう。

つまり身体女性の多くがホルモン接種や性別適合手術を望まないのは、【れい】のいうようにそれらを《しなくてもいい=しなくても「生存そのもの」が脅かされない》ということではなく、したところで身体女性が「生存の脅迫」に晒されるリスクに変わりはないからである。あるいは、仮に「シス男性」に“なる”手段が発明されたとして、それによって身体女性が「生存の脅迫」から免れたとしても、身体女性に対する「差別」の構造は依然として維持・温存されるにすぎない。

それをいうなら【れい】は《身体女性であるという理由で生存を脅かされたことのない非身体女性だから身体女性の困難が見えない》のである。あげく「シスジェンダー特権」とかいう“意味不明”な暴論によって、身体女性を「シス男性」と同等の「マジョリティ」に仕立て上げるのだ(トランス主義者が礼賛する、噴飯モノの「シス特権リスト」なるものは こちら)。

これにも呆れた。なんと姑息な責任転嫁であろうか。そも《生存そのものは原則脅かされない》などと「生存」という語彙を持ち出すことで「女性」に対する性暴力の問題を《直接的な暴力によって殺されるかどうか》という論点に矮小化しだしたのは、他ならぬ【れい】自身の方である。

とはいえ、元よりトランスジェンダリズム(※男女間の生物学的差異を否定・否認し、当人の自己申告に基づく「性自認」だけで「性別」を決定しようという先鋭的・急進的な政治的イデオロギー。「セルフID」とも)」自体が、学者や政治家を巻き込んだ壮大な「ウソ」にすぎないのだから、こうした病的なレベルの「ウソつき」でなければ「トランスジェンダリズム」の信奉者(トランス主義者)になることはできない。

トランスジェンダリズム」を信奉する「病的なウソツキ」の事例は他にも:

yunishio「レズビアンがトランス女性との性行為に応じないのは男根恐怖症」←突っ込みを入れてみた結果 - Togetter 

そして考えも言葉も足りないのは【れい】の方である。生存への脅迫が「直接的な暴力」にかぎらないのは、位相こそ違えど身体女性についても言えること。ただ【れい】は、裏返しの「トランス女性至上主義」に陥っているから、そうした身体女性に対する性暴力被害の実態が見えない・見ようとしないだけだ。

そのような【れい】からすると「シス女性」が“女らしい”外見や身体構造によってレイプや痴漢の被害を受けることは「シス女性特権」ということになるのだろう。

ちなみに「妊娠・出産・中絶」を「シス女性」にとっての「特権」と位置づける考え方は、トランスジェンダリズムの信奉者に広く支持される思想である。

 

 

 

>妊娠出産中絶がシス女性の特権であることは間違いではないと思いますよ。トランス女性には絶対に出来ない事なので。

この理屈に倣うなら、ペニスを勃起させてザーメンを射精することは《トランス女性の特権》という解釈“間違いない”であろう。身体女性には「絶対に出来ない事なので。

それはさておきトランス主義者は、表向き「シス女性」の性暴力被害を軽視・無視しているわけではない(=性被害者にそれを言うのはダメ)と言い訳するけれど、そも「妊娠・出産・中絶」を「シス女性特権」としてあげつらう言説自体が、まさしく身体女性に対する「ヘイトスピーチに他ならないのだから、そうした「女性蔑視」の思想が、必然して身体女性の性暴力被害の“無視”に帰結するのは自明の理だ。

そのようなトランスジェンダリズムの世界観(イデオロギー)の根底にあるのは《シス女性=マジョリティ/トランス女性=マイノリティ》という粗雑に単純化された二項対立の図式であり、【れい】を始めとするトランス主義者たちは、それをあたかも唯一不変の絶対真理であるかのごとくゴリ押しすることで自身の穴だらけの持論を強弁する。

しかし現実には、「シス女性(身体女性)」はトランス女性よりも「マジョリティ」なのではなく、ただトランス女性とは異なる「マイノリティ」でしかない。

あるいは「シス女性/トランス女性」が「女性」という意味では対等であるとしても、「シスジェンダートランスジェンダー」の関係性においては「シス女性」が「マジョリティ」なのだ、といった物言いも目にする。しかし、仮にトランス主義者のいう「シスジェンダー特権」なるものがこの世に存在したところで、それを享受するのは「シス男性」のみであり、身体女性はどうあっても「マイノリティ」にしかなりえないのが実情だ。

ましてやトランス女性と身体女性の間で、性被害の度合いや“痛み”に優劣をつけるなどという「性差別」が許されてはならない。言い換えるなら「トランスジェンダリズム」とはすなわち「トランス女性至上主義」であり、また同時に「シス女性」を「マジョリティ」に仕立て上げることで身体女性に対する性差別・性暴力を不可視化(=完全に無視)する、それこそが「性差別」以外の何物でもないのである。

もっとも、そうした「トランスジェンダリズム」のトンデモぶりはさておくとして、トランス女性が身体女性とは異なる深刻な困難に直面していることは事実であろうし、その問題について社会的認知を求めること自体は、べつに間違っていないはずだ。

しかし、だからといって【れい】のごとき「トランス女性至上主義者」が声高に唱える

「シス女性」がトランス女性よりも優遇されている!

「シス女性」はトランス女性の価値基準に合わせるべし!

「シス女性」はふかふかのソファーで人生イージーモード!

「シス女性」がレイプされて妊娠することは「特権」! うらやまけしからん!

……などという戯言(ざれごと)は、とても聞けたものではない。

 

 

 

「百合」の“源流”は「エス」にあらず~『マリみて』を中心とした「百合史観」の試論

『百合特集』で注目を集める早川書房SFマガジン」2021年2月号では「百合SF」の他にも、コバルト文庫で辿る少女小説変遷史』(彩流社)の著者である嵯峨景子が、吉屋信子や伊澤みゆきに象徴される戦前の少女小説に関する論考を寄稿している。

  • 他にも百合コンテンツ情報サイト「百合ナビ」管理人へのインタビューなど、「SFマガジンの百合特集」といっても「百合SF」のみならず「百合文化」全体を俯瞰した資料性の高い内容となっている。

吉屋作品の中でも、とくに『花物語』や『屋根裏の二処女』などは、大正時代から昭和の初期にかけて当時の女学校の一部で流行していたエスなる風習を題材としたことで知られる。

あらためて説明すると「エス」とは「シスターフッド(Sisterhood)」の頭文字で、上級生と下級生が擬似姉妹的な関係性を結ぶことによって、女性同士の「友愛」を育むという一種の女学校文化である。しばしば現代の同性愛と同一視されたり、あるいは思春期特有の擬似恋愛と決めつけられることもあるが、その実態は「当事者」によって様々であったようだ。

なお70年代にゲイ雑誌の編集長が「百合」の元となる百合族という概念を提唱した経緯、さらには現実の「レズビアン当事者」を主体とする「Lカルチャー」と「百合カルチャー」の違いなどについては、今さらここで述べるまでもないので割愛する。

また「エス」という呼称に関しては、戦後に入っても一部で「レズビアン当事者」ないし女性カップルを「エス」と呼ぶ風習は残っていたが、当然ながら「百合族」と同様に死語となっている。

* * *

さて、ここからが本題だ。

吉屋作品に象徴される戦前の「エス小説」をもって、現代の「百合作品」の“源流”“原点”と位置づける“史観”が、まことしやかに半ば定説のごとく語り継がれてきた。 

だが、ちょっと待ってほしい。

それらの「エス小説」は、たしかにゼロ年代「百合」ブームの嚆矢となった『マリア様がみてる』に影響を与えた。

また、それまではマニアックな同人誌の業界の符丁に過ぎなかった「百合」という概念が『マリみて』のヒットによって一般層に周知されたのも事実だ。『マリみて』シリーズを実際に読破したことのない人であっても「ごきげんよう」「タイが曲がっていてよ」といった名台詞のパロディを目にしたことがあるだろう。

言い換えるなら『マリみて』が一大ブームと化すまで、一般社会においては女性同士の恋愛を表現する作品に対する需要自体が少なく、よってそのような作品群を言い表すための用語も必要とされてこなかったということだ。かつて漫画誌に登場した《女性同士の恋愛を表現する作品》――たとえば池田理代子おにいさまへ…』、吉田秋生櫻の園』、魚喃キリコ『blue』などを一般の漫画ファンは、あくまでもたんなる「少女漫画」の一つとして消費してきたのである。元より「百合同人誌」に興味のない一般漫画ファンの世界観には、そもそも「百合漫画」という概念自体が存在しないのだから当然だ。

日本国内の「百合文化」の歴史は、まさに『マリみて』以前と『マリみて』以後に分かれると断言して差し支えない。じじつ『マリみて』登場以前に「百合作品」として『マリみて』以上の社会的認知を得た作品は存在しなかったのだから。

「百合」のルーツとして一部で神格化されている吉屋信子にしても、実際は戦前文学の研究者や大正文化の愛好家に認知されるていどの存在で「社会的認知」とは程遠い(あるいは「吉屋信子」や「花物語」といった名前くらいはどこかで目にしたことがあっても、実際に読んだことがあるという人は、はたして三島や太宰などと較べてどれだけいるだろうか?)。「文学」という敷居の高さに加え、文学史において女性作家が冷遇されてきたという事情もあるにはあるが、いずれにしてもライトノベルと同じような感覚で若者たちが気軽に手に取れる作品でないことはたしかだ。

あとは、しいていえば90年代に絶大なブームを巻き起こした『美少女戦士セーラームーン』や『少女革命ウテナ』などの人気アニメ作品を「百合ブーム」の先駆けと評する向きもあるが、それらはむしろ一般的には「美少女ヒーロー物」として認知・受容されており、『マリみて』ほど「百合萌え」に特化した内容ではなかった。

よってマリみて』を中心に「百合史観」を構築するのはごく自然な試みである。だがそうした本稿の方針は、いわゆる“『マリみて』中心主義”“『マリみて』至上主義”“『マリみて原理主義”“『マリみて』信者”などに与するものではない。また『マリみて』以後に登場した百合作品の全てが『マリみて』のフォロワーないしエピゴーネンであることも意味しない。本稿では『マリみて』ブームの功罪についても述べていく。

もっとも裏を返せば『マリみて』登場以前にも、同人誌の世界で「百合文化」は細々と存在していたといえる。が、それらは同人誌という性質上、極少数のマニアに認知されるのみで、オタク・カルチャーの大勢に影響を及ぼすものではなかった。

  • まして80年代はおろか90年代においてもインターネットは民間に普及しておらず、同人誌を買うためには、それこそコミケのようなイベントや専門のショップにまで足を運んだり、アニメ雑誌の文通欄を通して作者と直接交渉するほかなかった。現代のように、自宅に居ながらにして資金の許すかぎり思うがままに同人誌を買い漁ることができるネット社会の到来など、夢のまた夢であったはずだ。

言うまでもなく『マリみて』は、業界最大手の出版社である集英社コバルト文庫から世に送り出された超メジャー作品であり「百合同人誌」の文化から出てきた作品ではない。また作者の今野緒雪も『マリみて』以前に同レーベルから『夢の宮』シリーズ(ちなみにそちらは「百合物」ではない)でキャリアを築いてきた看板作家の一人であり、アマチュアの同人作家ではなかった。

さらにいえば90年代以前の同人業界における「百合」は、オリジナル作品よりも『セラムン』『ウテナ』、さらに遡れば『ダーティペア』などといった商業アニメの二次創作が主流であった。それらの二次創作同人誌はポルノ的な色合いが強いことから「エス」の精神性とは無縁であり、またそのことから「レズ物」としてプラトニック志向の「百合物」と区別する風潮も存在したという。

  • もっとも『マリみて』に関しても当然ながら膨大な二次創作同人誌が制作され、その中には『セラムン』や『ウテナ』などと同様にポルノ的な解釈も少なくなかった。そうした同人業界の二次創作文化が『マリみて』ブームを陰で支えていたという側面もけっして無視できない。
  • しかし繰り返すが、あくまでも『マリみて』のヒットを機に「百合」という概念が一般ライト層から注目・認知されたのであって、「百合同人誌」のマニアたちが「百合」ないし『マリみて』を“流行らせた”わけではない。もしも同人マニアたちが「百合」を“流行らせる”ほどの政治力を有していたのであれば、『セラムン』や『ウテナ』の時点でそうなっていなければおかしいからだ。

いささか前置きが長くなった。話を戻すと『マリみて』の登場は、それまでの商業作品の二次創作同人誌を中心とした「百合文化」の流れから断絶したものであった。その源流を辿っていくと、やはり大正時代の「エス小説」に行き着く。

その意味で「エス小説」が『マリみて』という作品の“源流”“原点”であるという解釈は正しい。が、「百合」という文化の“源流”とまで言い切ってしまう向きには再考を要する。

なぜならば『マリみて』は、その「薔薇様」やスール制度などに象徴される独特の世界観が、良くも悪くもあまりに独特すぎるがゆえに、じつのところ後続の「百合作品」の世界観には、それほど影響を与えていないのである。

また『マリみて』ブームは、女性同士の精神的な結びつきを重視するあまり、性的な描写が必要以上に忌避されるといった弊害をも生み出し、これも昨今の多様な「百合」の表現からすると現状にそぐわないものとなっている。

なお、そのような“「エス」至上主義”とでも呼ぶべきゼロ年代「百合」ブームの精神性偏重志向に拍車をかけたのが、『マリみて』ブームに便乗する形で2003年に創刊された、日本初の百合作品専門誌百合姉妹マガジン・マガジン 編集長・中村成太郎 ※後に版元を一迅社に替えてコミック百合姫として再創刊)である。

その創刊号では、少女文化の第一人者として知られる嶽本野ばらが「エス」について解説する特集記事を掲載しているが(『Welcome to the Sister dome』P42~44)、その中で嶽本は「エス」を《明らかにエスは、百合、ビアンと異なるもの》《多くのエス的願望を抱く乙女達のそれは、一種の擬似恋愛》《エス的乙女達は、肉欲を嫌悪します。そしていわゆるプラトニック・ラブこそが、至高の恋愛》と定義した上で、そうした明らかなホモフォビア(レズボフォビア=レズビアン嫌悪)に根ざした「エス」なる性差別思想について《今、ここに高らかに「エス」という乙女しか持つことの赦されぬ最高級の恋愛を復古させましょう。》とアジってみせたのだ。それにしても「エス」を《擬似恋愛》と決めつけておきながらそれが《最高級の恋愛》とは論理が破綻している。

加えて『マリみて』は全39巻にも及ぶ一大巨編にまで発展し、リアルタイムでブームと並走していない百合初心者が後追いで気軽に手に取れる存在ではなくなってしまった。しかもシリーズ第1作が発売されたのは20年以上も前(1998年)である。

  • ちなみに『マリみて』はその登場(※ここでは文庫本第1巻の発売を指す)と同時に火が付いたわけではなく、いわゆる『マリみて』ブーム(百合ブーム)はゼロ年代に入ってからの現象であり、それもファンの口コミによるものでメディアが取り上げた結果ではなかった。

ましてや最先端のオタク・カルチャーに親しむ若い百合作家たちが、戦前の古臭い文学作品を読み込んでいるとは、到底考えにくい。影響力の面では、それこそ後述する『青い花』や『citrus』など、より現代的な世界観に根ざした百合作品からストレートに感化されているのではないだろうか。

そも『マリみて』登場以前に、文学の研究者でもない「百合」の愛好者たちがなぜ大正時代の「エス小説」を手に取ったのかといえば、現在の活況からは想像もつかないくらい、当時は女性同士の恋愛を描く作品の絶対数が少なく、大正時代の古典文学にまで遡らなければならなかったというお寒い実情がある。

しかしそうして吉屋信子あたりを(図書館で借りたりして)読んでみたはいいものの、時代特有の文体が取っつきにくく、あんがい楽しめなかった、という向きも少なくないようだ。そうした場合の「古典」とは、むしろ今の時代にそぐわない古色蒼然とした作品を敬遠するための、いわば“褒め殺し”的なレッテル貼りの意味合いもあるように思う。

すなわち21世紀の日本の「百合文化」は、戦前の「エス」とは明らかに断絶しているのだ。

あるいは『マリみて』が「エス小説」の系譜に属していたとしても、その『マリみて』すら志村貴子青い花に取って代わられ、現行の「百合文化」における威光は弱まっているのが実情だ。

太田出版「マンガ・エロティックス・エフ」に連載され、2005年に単行本第1巻が発売された志村貴子青い花』は、女子校を舞台としながらも、吉田秋生(具体的には『櫻の園』『ラヴァーズ・キス』あたり)を髣髴とさせる、より現実的かつ現代的な設定に基づいた等身大感覚のキャラクター造形が特徴で、いわば『マリみて』へのアンチテーゼとも呼ぶべき作品であった(ただし作中で『花物語』への言及がある)。その後、テン年代の百合文化を担ったサブロウタcitrus』、仲谷鳰やがて君になる』、萩埜まこと『熱帯魚は雪に焦がれる』などは、それぞれに魅力的な傑作であるものの基本的にはそうした『青い花』の作風の延長線上にある。

  • なおここでいう「そうした『青い花』の作風」とは《現実的かつ現代的な設定に基づいた等身大感覚のキャラクター造形》を指し、当然ながら何から何までが『青い花』と“まったく同じ”というわけではない。たとえば性描写(性的要素)の扱いなどはそれぞれ異なる。

また、ここで注目したいのが『マリみて』は小説(ライトノベル)、『青い花』は漫画という表現媒体の違いだ。ゼロ年代「百合」ブームの嚆矢となった『マリみて』は小説であったにもかかわらず、それ以降にヒットした「百合作品」は漫画やアニメが中心という“ねじれ”が生じていた。

ここ数年でにわかに脚光を浴びるようになった「百合SF」は脇に置くとして、ライトノベルの分野でヒットした「百合小説」といえば、鎌池和馬とある科学の超電磁砲』、入間人間安達としまむら』、みかみてれん『女同士とかありえないでしょと言い張る女の子を、百日間で徹底的に落とす百合のお話』、さらにノベルゲームにまで視野を広げるなら『アカイイト』なども挙げられようが、いずれも『マリみて』および「エス」の世界観や精神性を踏襲したものではなかった。《百合小説は歴史的経緯からも「エス」と呼ばれた少女小説群から生まれたし。》などと知ったかぶりをする馬鹿などは、せいぜい「百合小説」といっても『マリみて』しか読んだことがないに決まっている。

言い換えるなら「百合」と「エス」を同一視する発想は《百合=マリみて》というパブリック・イメージを元にしたものである。裏を返せば、それは「百合作品」といえば『マリみて』しか思いつかず、また現行の「百合文化」を追いかけてすらいない(興味がないし知ろうともしない)部外者による固定観念でしかない。「百合」は単一の起源に収斂されるほど卑小で窮屈なものでもなければ、一世紀も前の小説を焼き直しただけの退屈極まる代物でもないのである。

だが『マリみて』ブームの最中であるゼロ年代前半においても『NOIR』神無月の巫女』など百合アニメの歴史的名作がTV放映されており「百合」の愛好者たちから熱烈な支持を集めていた。さらに『NOIRバディ物のガンアクション)』と『神無月の巫女(伝奇ファンタジー+巨大ロボット)』の2作品は、『青い花』の作風を踏襲した今日の百合作品の主流からしてもきわめて異形であり、当然ながら「エス」の世界観からも掛け離れている。《百合=マリみて》という図式は、もうすでにその時点からして「百合ブーム」の実態に反していたのである。

  • なお昨今は『青い花』の作風を踏襲した十代の少女たちを主人公とする「思春期百合」が(相変わらず)主流である一方で、成人女性の恋愛模様を描く「社会人百合」の需要も高く、けっして無視できない勢力となっている。

あるいは嶽本の説に反して戦前の「エス小説」を同性愛文学の一派と位置づけたところで、同性愛をテーマにした文学作品は古今東西――それこそレスボス島の詩人サッフォーの時代から?――存在する。また百合作品は(男性キャラクターを交えず)女性キャラクター同士の関係性で完結する作品が多いことから、女子校を舞台にすることが定番となっており、そこは「エス小説」との共通点も見出せるけれど、言うまでもなく女子校は「エスの乙女たち」が作ったわけではない。こうした百合文化の特殊な事情は、たとえばトールキンの『指輪物語』がRPGのルーツといった話とはまったく異なる。

すなわち日本の百合文化は、一つの大きな流れや「文脈」に沿うのではなく、何度も世代ごとの“断絶”を繰り返すことで多様化と成熟を遂げてきたのである。

そも今日的視点からするとエス」なるものは、かつて同性愛が「精神疾患」「性的倒錯」として扱われていた、旧時代の痛々しい副産物に過ぎない。そのようなものを無批判に称揚し、あまつさえ「百合」の上位概念であるかのごとく崇め奉るのは、たんなるノスタルジーだとかアナクロニズムを越えて、害悪ですらある。せいぜい文学の研究者が時代を知る資料として目を通しておけばいいものだし、現代の「百合」を楽しむ上で何の必要もない。

ところで、ちょうど先頃、ホームレスの生活を面白コンテンツの類として興味本位で取り上げたブログ記事が批判を浴びたのは記憶に新しい。「エス」を時代背景や社会の差別構造から切り離した上で、過剰に美化された「大正ロマン」として消費する風潮にも、それと同様の欺瞞を感じるし、言うまでもなく百合コンテンツについても、そうしたいびつな消費のありように陥る危険性に注意すべきである。

* * *

それでもマリみて』は、ゼロ年代以降の百合文化における「古典(クラシック)」であるといえる。

この場合の「古典」とは、たんに“古い”ということではなく、社会的認知の向上や後続作品への影響など、百合文化の発展に大きく寄与・貢献したエポックメーキングな作品という意味だ(とはいえ21世紀も五分の一が過ぎた現時点で、20世紀の終わりかけた頃に出た作品は十分に“古い”けれど)。その意味では、ただ“古い”というだけの作品(それこそ有象無象の「百合同人誌」など)は「古典」と呼ぶに値しないし、一方で『青い花』は『マリみて』に次ぐ「古典」と位置づけるに値するだろう。

「百合文化」の起源だとか、あるいはその実態をめぐる議論はさておくとして、少なくともゼロ年代の「百合ブーム」が『マリア様がみてる』という一つの作品によってもたらされたことは歴史的事実だ。『マリみて』の登場がなければ「百合」はいつまで経っても日の目を見ることのないアンダーグラウンドの同人文化に留まるほかなかったであろうし、商業誌で特集記事が組まれ、それが――「SFマガジン」編集者・溝口力丸の言葉を借りれば“溶けるように”――売れていくという事態など夢のまた夢であったことは想像に難くない。

そこをいくと戦前の花物語』などの「エス小説」は、あくまでも《エス作品の古典》であっても《百合作品の古典》であるとは言い難い。なぜならば嶽本野ばらがいみじくも露呈したように、戦前の「エス」と現代の「百合」は、皮相な共通点こそあれど、その世界観も精神性も時代背景からしてまったく異なるからだ。

あるいは、そのような「エス小説」を今日の読者が「百合作品」として鑑賞するという試みは可能であるかもしれない。が、いずれにしてもそれは、後世の価値観に基づいた“後付け”の解釈でしかなく、戦前の「エス」に現代の「百合」の“源流”“原点”を求めるといった「史観」については“解釈”以前の、そも歴史認識の誤りと言わざるをえない。

繰り返すが「百合」という概念が作られたのは70年代の中頃であり(正確には百合族)、さらに「百合」がフィクション作品における女性キャラクター同士の恋愛表現を示す、いわゆる今日的な用法がなされるようになったのは80年代に入ってからのことである。したがって大正時代に「百合」などという概念が存在するはずもなく、エス小説」を「百合作品」の“古典”として持て囃すのは、ようするに「百合」の起源をことさら古めかしく見せかけて“箔を付ける”ための「歴史修正主義以外の何物でもない。

エス」の継承者といえる『マリみて』にしても、その独特の世界観を構築するにあたって「エス小説」が実際に与えた影響といえば、じつのところたんなる“元ネタ”といった程度だ。

マリみて』の設定は大正時代ではなく、制作当時(平成中期)の日本であり、他の「百合作品」と同様に、きわめて現代的な感性によって創られた作品である(ただし携帯電話など世相・流行を反映するアイテムはほとんど排除されている)。それはだんじてエス」という戦前の女学校文化の世界観ないし精神性を、現代に再現ないし“復古”するものではなかった。

すなわちマリみて』は、あくまでも「(エス小説から影響を受けた)百合小説」であって、『マリみて』自体を「エス小説」にカテゴライズすることは失当のである。

また『おにいさまへ…』『櫻の園』『blue』などの商業オリジナル作品も、リアルタイムで接してきた当時の「百合」の愛好者たちは「百合同人誌」と同様に受け入れたかもしれないが、「百合」という概念・用語自体を世間に“周知”させるには至らなかった。

  • この場合の“周知”とは、たんに一部のマニアの間で知られるということではなく、その「周り(=世間一般)」に認知され、オタク・カルチャーの趨勢に影響をもたらしたという意味である。
  • もっともオタク・カルチャー自体が、元来はアンダーグラウンドサブカルチャーであり、それこそ「世間一般」から忌み嫌われる存在であったのだという言い分もあるだろう。しかし90年代中頃から社会現象を巻き起こした『新世紀エヴァンゲリオン』の一大ブームを経て、オタク・カルチャーがポップカルチャーの一部として、良くも悪くも資本主義のマーケティングに組み込まれていったのは、それこそ“周知”の事実である。
  • オタク・カルチャーの末端に甘んじていた「百合」が社会的認知を獲得するに至った背景には、そうしたオタク・カルチャー(サブカルチャー)およびポップカルチャー地殻変動も大きく作用していた。

そこをいくとマリみて』は「百合」の存在を世間一般に周知させたと同時に、『マリみて』自体も(そのブームによって)一般世間から「百合」として認知された、初めての「百合作品」といっても過言ではない。

  • もっとも『マリみて』を「百合(すなわち女性同士の恋愛)」ではなく、ただの「友情」を描いているにすぎないのだと言い張る向きもあるが、こうしたホモフォビアヘテロセクシズム(異性愛至上主義)にもとづく奇妙な切断処理は『マリみて』やオタク・カルチャーの「百合作品」にかぎらず、一般の文芸や映画・ドラマなども含めて、広義の「同性愛」をテーマにしたあらゆる作品に対してなされうる、言うなれば「評論の形を借りたヘイトスピーチに他ならない。

だが『マリみて』という作品自体は、上掲の理由から百合作品の「(時代を超えた)スタンダード」とはなりえなかったのだ。

マリみて』ブームの収束とともに「百合ブーム」も終わったと捉える向きもあるだろうが、それは「百合文化」が元のアングラでマニアックな同人業界に逆戻りしたというわけではなく、むしろ一過性の「ブーム」を通り過ぎて確固たる「文化(カルチャー)」としての社会的地位を獲得するに至ったことを示す。その功績においては『マリみて』よりも『青い花』の影響力の方が大きかったといえるかもしれない。

今となっては数ある百合作品の「歴史的名作」の一つとして位置づけられる『マリみて』だけれど、しかしそのことが『マリみて』という作品の存在意義を貶めるわけではない。作品にとって何よりも重要な、“とてつもなく面白い”作品である、という絶対的な価値は揺るがないからだ。

LGBTやポリコレという概念すら人口に膾炙していなかった時代に書かれただけあって、今読み返すと色々と引っかかる部分もあるけれど、クラシカルでどこか敷居の高い設定とは裏腹に、良い意味での俗っぽさ――ちなみにアニメ/実写映画といった映像化作品では、こうした原作の“勘所”を再現できていなかったのが残念!――が世界観の間口を広げていて、楽しく読み進められる。戦前の封建的な性規範を内面化した骨董品のような「古典文学」を有難がるよりは、よっぽど有意義だろう。

また「エス文化」の継承者としての『マリみて』の影響力についてはきわめて限定的であると述べたが、魅力的な人物造形といった創作上の技法だとか、何よりも女性同士の恋愛を、ごく自然なこととして肯定的に描くという基本姿勢は、小説や漫画といった表現媒体の差異を越えて、私たちが「百合」を今日から未来に亘って存続させるに値する「文化」としてのレゾンデートルを確立せしめた

そして、それこそが「百合」と「エス」を隔てる、何よりも最大の“断絶”なのである。

 * * *

なお“マリみて的”な世界観を踏襲した百合作品としては『ストロベリー・パニック!』『FLOWERS』『アサルトリリィ』などを挙げることができる(これらは原作者としてクレジットされる人物は存在するものの、実質的には複数の制作スタッフが関与したメディアミックスを展開しているのも特徴である)。

  • 付言すると「エス」の因子に関しては、辛うじて『ストロベリー・パニック!』と『FLOWERS』に見出すことはできるが、『アサルトリリィ』に至っては『マリみて』の設定――具体的には、古風な女子校(その名も百合ヶ丘女学院!)という舞台、「スール制度」に倣った「シュッツエンゲルの契り」、【福沢祐巳】【小笠原祥子】【佐藤聖】といった主要キャラクターを髣髴とさせる人物造形など――を採用しながらも、そこに『魔法少女まどかマギカ』を足して二で割った荒唐無稽な世界観(昨年末にTV放映を完了したアニメ版『BOUQUET』には「きらら系百合4コマ」のノリも加味)で、いわばゼロ年代からテン年代に至るまでの百合文化の“ごった煮”というべき内容であり、戦前の「エス文化」にこじつけることはもはや困難である。

しかし、どちらかというとU-temo『百合オタに百合はご法度です!?』や守姫武士『お願い神サマ!』など、その独特の世界観を愛あるパロディとして引用するパターンが多いのではないだろうか。

 

 

「ゲーマーズ百合部(gamersyuribu)」の《百合を語るのは「女の子」に限る》発言に男性ユーザーの私が思うこと #百合部

(2021年1月11日 タイトル変更/加筆修正)

ゲーマーズ」と「アニメイト」と「書泉」が、3社合同で百合コンテンツをプロモートする「百合部」という企画があります。

百合作品の新刊には、それぞれの店舗特典とは別に「百合部」に加盟している店舗限定の特典が付く場合もあり、私も日頃からチェックしているのですが。

その中の一つであるゲーマーズ百合部」の公式アカウント (@gamersyuribu)が、なにやら引っかかるツイートをしていました。

今更言うまでもありませんが、百合コンテンツのユーザーの男女比率は半々くらいです。

そうした百合コンテンツのユーザーを相手に商売をしているはずの「ゲーマーズ百合部」の公式アカウントが、男性ユーザーの百合コンテンツの楽しみ方を一方的に規制するような物言いはいかがなものでしょうか。

そして、これも言うまでもありませんが「女性」であれば誰もが女性同士の恋愛に共感できるわけではありません。女性の中にもホモフォビア(レズボフォビア)はありますし、女性を愛する心理については女性異性愛者よりも男性異性愛者のほうが共感しやすい側面もあるでしょう(もっとも女性の百合作家の大半が異性愛者という実情もあり、いずれにせよ人間のセクシュアリティに頭で考えた理屈は通用しません)。

そもそも「女性」に限るではなく「女の子」という言葉選びからして、エイジズム・ルッキズムロリコン趣味丸出しで最低です。まさに「女性」同士の恋愛を、思春期特有の擬似恋愛と決めつける異性愛至上主義差別意識が露呈しています。だいたい「社会人百合」はどうなるのか。

ちなみに「ゲーマーズ百合部」のプロフィールにある位置情報には百合っぷるの後ろと表示されています。女性カップルを視姦しているようで、ひじょうに気持ち悪いです。

男性の「百合萌え」に関する批判は、主にフェミニズム的な《性的消費》の観点からなされることが多いと思いますが、「ゲーマーズ百合部」にそうした観点はなく「女の子」「百合っぷる」を娯楽コンテンツとして“消費”する自らの権力性についても無自覚です。もっとも権力性を自覚したからといって「百合萌え」をやめるべきだということにもなりませんが、自覚すらないのはどうなのか。

もとより文化事象としての百合コンテンツを消費・鑑賞することと、現実のレズビアンないし女性カップルを“性的消費”することは、まったく別問題のはずです。しかし両者がしばしば混同されることから、不毛な「百合バッシング」の論拠に利用されています。

それを百合の魅力を大いに主張したい!というスタッフ有志》が自ら混同することは、むしろ「百合の魅力」を主張するどころか誤解・偏見を助長する行為でしょう。

  

 

(2021年1月11日 追記)

ゲーマーズ百合部」のツイートに対して、引用リプの形で上掲の突っ込みを入れたところ、直後に公式からミュートされてしまいました。

当記事はその件について報告したものですが、中の人の目に留まったのか、ミュートが解除されたようなので、タイトルを変更しました。

ちなみに、なぜミュートされたのが分かったかというと、ツイートの「引用リツイート」に私のツイートが表示されなくなっていたからです。

www.02320.net

しかし、いち消費者からの意見をコソコソとミュートしたり解除したりするくらいなら、余計な自己主張などせずに店舗特典情報のbotに徹していればいいと思うのですが……。

 

「百合特集」から「ヘテロ男性」の書き手を“一掃”せよ! と主張する排他的で不寛容な人々~早川書房「SFマガジン」2021年2月号『百合特集2021』をめぐって #SFマガジン #百合SF #百合特集

(2020年12月28日 加筆修正)

『Aチャンネル』完結11巻、『ゆるゆり』最新19巻、『熱帯魚は雪に焦がれる』最新8巻、TVアニメ『アサルトリリィBOUQUET』『安達としまむら』最終回……百合関連の重大トピックスが相次いだ今年12月第4週の中で、とくに世間の注目を集めたのが、25日発売の早川書房SFマガジン」2021年2月号『百合特集2021』であった。

www.hayakawabooks.com

同誌が「百合特集」を組むのは2018年(2019年2月号)以来、これで2度目となる。いまSF業界では「百合SF」の躍進が目覚ましく、じつのところ漫画やアニメと較べてパッとしない小説分野の百合作品(いわゆる活字百合)の起爆剤になりうるのではないか、と個人的にも期待している(もっとも私個人は、SFのように世界観や設定が特殊すぎる作品や難解な文芸は苦手なので、熱心な読者にはなれなさそうだが)。

ところが、こうした「百合SF」の台頭に冷や水を浴びせるのような風潮も、一部の偏狭なSF愛好家には見受けられる。

ossie.hatenablog.jp

上掲記事は、早川書房が「百合SFフェア」を展開する1年前の議論を検証したものだが、「百合SF」がSF業界に定着した今日においては、それとはまた異なる展開を見せているようだ。

 

 

「女性作家に限定した特集」ではなくヘテロ男性の書き手を一掃》という言葉選びから、古参SF作家の無神経さと排他性が伝わってくる。

それにしても、この場合の「男性」とは、いったい何を指すのだろうか? 誰が、どのような基準で、さらにはいかなる権限をもって、赤の他人の性別を判定するのだろうか?

性自認? 生物学的性別? 戸籍上の性別? 

あるいは、社会生活の上では〈男性〉であっても、百合作品を制作する時には〈女性〉の主人公の視点・心情にシンクロするという作家の場合、どちらに分類されるのだろうか?

かくいう私も、若かりし頃に百合小説を書いてみたことがあった。といっても習作レベルのもので、あまりに稚拙な内容ゆえ全て破棄し地球上には現存していないが、その際には自らのアバターである女性主人公の主観で精神世界を構築・探求しながら、それを文字に起こすという客観的作業は現実世界の〈男性〉としての意識にもとづいて行っていた。

それでも私は出生時も生物学的にも戸籍上も〈男性〉であり、また〈男性〉として社会生活を送ることに順応しているので、自らをあくまでも「(シスジェンダーの)男性」と認識している。よって〈女性〉としての“当事者性”を主張することはないが、かといって“男性目線”で「百合」を消費しているなどと、私の内面など知るはずもない赤の他人から頭ごなしに決めつけられるのは、やはり「クソくらえ」としか言い様がない。

* * *

いずれにせよ「百合特集」から「ヘテロ男性」の書き手を“一掃”せよ、といった排他的で不寛容な主張は、元をたどれば、ある種の「フェミニズム」の解釈に端を発しているようだ。

 

 

「フェミ勉」なるフェミニズム系の読書サークルを主宰し、自らも百合小説を執筆するという柳ヶ瀬舞(@yanagase_maiというフェミニストは、同誌における前回の「百合特集」に《男性たちの結託》による《百合の簒奪》を見出したのだという。

そのような物騒なものを、いったいどこに見出したのか。まず、それを立証しないことには話にならないはずだが、「フェミ勉」のnoteは昨年12月に開設されたようで何の説明もなかった。自らの掲げる思想について、言葉を尽くして世に問うという意志はないようだ(あるいはTLを2年分も遡れというなら傲慢である)。

しかしそこまで“当事者性”に拘泥するのであれば、ヘテロ男性」のみならず「ヘテロ女性」も排除しなければ辻褄が合わない。百合作品を手掛ける女性作家の大半が異性愛者(レズビアンから見れば非当事者)であるという実態を知らないわけではないだろう。

女性同士の恋愛やエロスにもとづく関係性を一過性のものと決めつけ、やがては男性を愛することをもって「女」の成長・成熟と見なす「異性愛規範」は、当然ながら異性愛者の男性のみならず異性愛者の女性も共有している(さらには、じつのところ「レズビアン当事者」も「異性愛規範」を少なからず内面化しているのだが、そこまで言い出したらキリがないのでやめておく)。

しかるに「男性」を“一掃”するという暴力的な手段によってでしか「男性特権」を“解体”できないと信じて疑わない柳ヶ瀬の論理に則るのであれば、同様にヘテロ男性」はおろか「ヘテロ女性」をも“一掃”しないことには異性愛者特権」を“解体”できないことになる。

そこに思い至らない柳ヶ瀬舞というフェミニスト「男性特権」には過敏であっても「異性愛者特権」には鈍感なのであろう。

柳ヶ瀬は「百合」が“簒奪”されたというが、そもそもいつから「百合」がフェミニストのものになったのか。あらためて振り返るまでもなく現代の「百合」はオタク・カルチャーの一派であり(その意味では伊藤文學が70年代に定義した「百合族レズビアン当事者」ともニュアンスが異なる)、フェミニズム運動とは無関係に独自の発展を遂げてきた。その一方でフェミストたちが持ち上げてきたのは、むしろ「BL」の方だったはずだ。

仮に「百合」とフェミニズムを結びつけようとする奇特な「フェミニスト団体」が存在したとして、それこそ柳ヶ瀬が主宰する「フェミ勉」のごとき数人規模のサークル活動にすぎなかったのではないか。そのような団体が、かつて実在したとして現実の「百合文化」の社会的認知と発展にどれほど貢献したといえるだろうか。

もとより私は男性であるが、他の男性ファンと“結託”などせず、独りで「百合」と向き合ってきた。自分なりに百合文化を研究するにあたって、色々な方の意見や証言を参考にさせていただいたが、記事を執筆するのも、百合作品を鑑賞するのも、全て「私」という個人の経験だ。

ひとえに男性である私が「百合作品」を嗜むのは、私自身の世界観を深め、豊かにするためであって、見ず知らずの誰かと“結託”したり、気に食わない他者を排除するためではない。

だから私は、百合作品を鑑賞するにあたって作者の性別など気にしないし、わざわざ詮索したいとも思わない。作者が男性(同性)であるからといって忌避することもなければ、ことさらに肩入れすることもない。今野緒雪の『マリア様がみてる』も、真田一輝(って男性作家だよね? 違ってたらごめんなさい)の『落花流水』も、私にとっては掛け替えのない宝物だ。

深く、豊かな「百合」の世界を、偏狭かつ独善的な政治的イデオロギーや身勝手なルサンチマンによって“簒奪”しようと目論む者こそ、「百合」の世界から“一掃”されるべきであろう。

 

「小児性愛者」を擁護するmoldさん(lautream)が「児童ポルノ」の解禁を主張するまで

トランスジェンダー」と「小児性愛」の間には何の関係もないけれど、政治的イデオロギーとしてのトランスジェンダリズム」を支持する者は、必然して「小児性愛」を肯定せざるをえなくなる。

これは「トランスジェンダリズム」の基盤であるクィア理論」が、「小児性愛者」を「セクシュアル・マイノリティ」であり「クィア」と位置づけた上で、「小児性愛」を肯定する思想である事実に起因する。

日本共産党のシンパでありトランスアライを自認するmold@lautream)という人物は「クィア主義者」ではないが、トランス擁護が嵩じて「小児性愛」まで擁護するようになったパターンである。

 

 

小児性愛者」は数の上で“少数者”であっても、その「趣向」の客体となる児童に対しては「マジョリティ」である。このことから小児性愛」の実行は、必然して「child molesting」に陥る。

そして言うまでもないが、仮に「小児性愛者」と「チャイルド・マレスター」がかならずしもイコールではないとしても、小児性愛者」が「チャイルド・マレスター」に“なりえない”という保証などどこにもないのである。

小児性愛者」を擁護する者たちは、あたかも「小児性愛者」が無理解な世間から「危害」を受けて“傷つけ”られている可哀想な被害者であるかのごとく印象操作する。そうした詭弁(=クィア理論)を弄することで、実質的に「小児性愛」を《他者が許容するように強制》しているのである。

しかし実際には、むしろ「小児性愛者」が、自らの「child molesting」の欲望を対外的に表明する行為こそが“他者を傷つけて”いるという不都合な真実からは目を背けている。

すなわち「小児性愛」というセクシュアリティは、それ自体が児童に対する《性的搾取(child sexual exploitation)》の社会的・政治的構造に立脚する。

この場合の《性的搾取》とは、児童を直接的・肉体的にレイプするばかりでなく、そのような「欲望」を対外的に表明したり、後述のとおり「児童ポルノ」を消費・鑑賞するといった間接的・非接触的な事例も含まれる。

言い換えるなら「小児性愛者」が、仮に「チャイルド・マレスター」ではないとしても「チャイルド・エクスプロイター(児童性搾取者)」であることには何ら変わりがないのである。

内心の自由であるはずの「小児性愛」がどうして“断罪”されるに至るのかといえば、それは「小児性愛者」が自らの「性癖」を嬉々として開陳するからである。

つまり内心の自由を自ら放棄しているのは「小児性愛者」の側である。

宮崎駿が優れたアニメ作品を創り出しているのは、アニメ制作の才能と技術によるもので《己の闇と葛藤》した結果などではない。

これはいわゆる「ゲイ・アーティスト」にもいえることだが、そのようにして作品のクオリティと作者のセクシュアリティをこじつけることこそ偏見であり、表現者への冒涜に他ならない。

以上の粗雑な論理に基づき、moldは挙句の果てに「児童ポルノ」の解禁まで主張しだすのである。 

話の流れからここで想定されるのは「児童ポルノ」の事例であるにもかかわらず、児童ポルノ」の問題を一般の「ポルノ」全般にスリカエているのがセコい。

現行法で“単純所持”が禁止されているのは「児童ポルノ」の方だ。一方で、ポルノグラフィの規制強化を唱える人々でさえも「一般ポルノ」について“単純所持”の禁止まで要求する主張は見受けられない(したがって仮にmoldが「一般ポルノ」を想定した“考察”を展開しているのだと言い張るのであれば、それこそ藁人形論法に陥る)。

加えて「小児性愛」を擁護する文脈で《「児童ポルノ」を単純所持しているだけで処罰してよいのか?》などという「問題」を提起するのは、そのじつ言葉通りの純粋な“問い”ではなく《「児童ポルノ」の“単純所持”を処罰してはならない=解禁すべきである》という反語として機能する。小学校の国語の「問題」だ。

  • なお、ここでいう「児童ポルノ」とはマンガなどの創作物ではなく、実在児童を被写体・被害者とする「児童虐待記録物」を指す。
  • ゆえに、ここで私個人の「百合萌え」というセクシュアリティをあげつらうことで「小児性愛」および「児童ポルノ」に対する批判を無効化しようと試みるのは、それこそ無効であり、論点を摩り替えた人身攻撃の域を出るものではない。
  • ちなみに「百合」の分野にも「おねロリ」なるサブカテゴリーが存在するが、私自身は何の興味もない。

元より「児童ポルノ」は、その存在自体が犯罪で人権侵害なのだから《単純所持しているだけで処罰》されるのはそれこそ「当たり前のこと」である。

あるいは「児童ポルノ」を制作することは論外としても、ただ“単純所持”に関しては内心の自由ないし《プライバシーの権利》であるといいたいのだろうか。

しかし“単純所持”が法的に規制されているのは何も「児童ポルノ」に限った話ではなく、他にも麻薬/劇薬/銃器/放射性物質絶滅危惧種など沢山ある。それを内心の自由ないし《プライバシーの権利》だけで押し通そうとするのは無理があると言わざるをえない。

すなわち「小児性愛者」は自らの「性癖」を嬉々として公言・表現しているし「児童ポルノ」は現実の被害者が存在しているのだから内心の自由で一点突破するのは不可能なのだ。こういう粗雑な思考の人間がセクシュアリティ「問題」を議論するのは無理だ。

しかし、ここで憂慮すべきは児童ポルノ」の単純所持規制に関して《小児性愛者の権利》を盾に反対する主張が、「クィア運動」を推進する「クィア主義者」たちの間でけっして異端とはいえない、むしろ主流ですらあるという事実だ。

ただし、前述のとおりmold自身は「クィア主義者」ではないし、そのような知識もないであろう。その意味では、むしろ小児性愛者」の擁護が、特定の政治的イデオロギーに依らずとも「児童ポルノ」の解禁論へと必然的に帰結する事例として取り上げた次第である。

 

『ラブライブ!』が「友情物語」ではなく「ガチ百合」だと知って“逆ギレ”する気持ちの悪い二次創作同人作家(teioteiteio)のお話 #ラブライブ #lovelive #ていお亭ていお

これもTwitterのTLに流れてきたが元の発言が削除されていてよくわからないお話。

とりあえず『ラブライブ!』の二次創作でそれなりに知名度があるらしい「ていお亭ていお(@teioteiteio)」という同人作家が、原作のある回に女性キャラクター同士の「恋愛(当人の言葉を借りれば「ガチ百合」)」を示唆するシーンがあることを知り、それまで恋愛要素のない純粋?な「友情物語」だと思い込んでいたのに、その勝手な期待が裏切られて“逆ギレ”した(当人の言葉を借りれば「引いた」)――といったじつに気持ちの悪い話を、何の恥じらいも自己批判もなく自身のブログに書いて批判を浴び、当該の記事を削除した、というのが事の経緯らしい。

  • なお、その後『ラブライブ!』の制作サイドから、そうした女性キャラクター同士の恋愛感情があくまでも“一過性”のものであったという説明がなされたという。それはそれで事実であったならば批判に値するところだが、私自身は当該の発言はおろか『ラブライブ!』自体も未見であり、論点からも外れるため、ここでは脇に置く。

さて、ていお亭ていおは件のブログ記事を削除した後も、Twitter上で自己中心的な言い訳を延々と書き連ねている(※これらも後にいくつか削除)。

自身が差別主義者である自覚はないらしい。しかし、女性同士のありようをヘテロ男の勝手な基準で「これは友情!/これは恋愛!」などと排他的に規定すること自体の“差別性”について自覚なされた方がよろしいと存じます。

そもそも「百合アニメ(とあらかじめ作者によって定義されている極一部の作品)」でなければ「百合(女性同士の恋愛)」を描いてはならないというのは、まさに女性同士の恋愛を一般社会の世界観から排除・隔離する「性差別」そのものの発想である。

 《狼狽えるじゃありませんか。》とかいわれても「知らんがな」としか言い様がないのでは。なんだか思い込みの激しい人ですね。 

しかしこの人の場合は「百合」が好きとかそうでないとかいう以前に、女性同士の関係性を一方的に「友情」と規定した上で「恋愛」の可能性を異常視・特殊視する、同性愛嫌悪・異性愛至上主義の「差別意識」に無自覚だから批判されているのです。けっして《表面をさらった程度の印象》ではございません。

おそらく例によって、この人自身に「差別」の意図はないと言い張るだろうけれど、結果的にそうなっているのだから、何の反論にもならないよ。

それにしても、二次創作は(私自身は興味のない分野だが、あくまでも一般論として)ファンが原作の世界観に“間借り”した上で、その世界観に準拠とまではいかなくても、なるべく寄り添うようにして、あくまでも謙虚にこっそりと自己表現するものだと思っていたけど、

この人の場合はその主従関係が反転していて、原作が自分の思い通りの展開にならないと“逆ギレ”するのだ。

まるで、ある小説家の熱狂的なファンが、自分の推しキャラが死ぬ展開にブチ切れて作者を監禁・拷問するスティーブン・キングの『ミザリー』みたいだな。

もう無自覚の差別意識がどうとかいう以前に、なんというか、ありていにいって「気持ち悪い」よね、こういう「ファン」は。