百錬ノ鐵

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「レズビアン」に保守的な《女の幸せ》をお仕着せする『彼女のカノジョ』の“無責任”

私の帰属する百合マンガの文化において、女性同士の恋愛は、きわめて肯定的ないし自然な事柄として描かれることがとっくに当たり前になっている。

かつては《友達以上恋人未満》にとどまる関係性がもてはやされ、今でもそのような作品が大半を占めるものの、近頃は初めから恋人同士という設定の作品も散見し、順調に多様性と成熟を深めているようだ。

しかし、それはあくまでもオタク・カルチャーの文脈の話だ。世間一般のドラマや映画、文学・文芸においては、未だに同性愛について「禁断」のイメージを脱しきれていないのが実情である。

端的にいって、映画(実写映画)や文芸(ライトノベルを除く)の分野における「レズビアン」の扱いは、大別すると以下の3パターンしか存在しない。

  1. 男とSEXさせられる。
  2. 女性のパートナーを男に寝取られる。
  3. ノンケ(異性愛者=非同性愛者)に片想いして失恋する。

いずれも現実社会でレズビアン当事者が直面する問題であるといえるが、作者が自由に創作できるはずのフィクション作品で、このような「物語」が何の疑問もなく再生産され、21世紀を20年も過ぎた今日に至るまで焼き直され続けているのは、まさしく作者――多くの場合は非当事者だが、レズビアン当事者が制作に関与する作品とて例外ではない――の側にレズビアンは男とSEXしなければならない》《レズビアンは幸せになれない》という異性愛至上主義の固定観念が根を下ろしているとしか思えない。

若手俳優が活躍できる場所を作る目的で開設された》というYouTubeのドラマチャンネル「僕等の物語」が配信する短編オムニバス『LAST SCENE』の中の1作『彼女のカノジョ』は、まさにそれを地で行く代物である。

この『彼女のカノジョ』は、ウェブニュースのタイトルにもなった主演俳優のレズビアンの男性役難しかった」という「レズビアン」への偏見・誤解に満ちた差別発言(※現在は削除)が主にLGBT当事者の間で問題視され、批判を浴びたことで目にされた方も多いかもしれない。

mantan-web.jp

しかし、ドラマ自体の内容はそれに輪をかけて最悪である。

『LAST SCENE』はカフェを舞台にしたいわゆる会話劇で、『彼女のカノジョ』も女性同士のカップルと、その場にたまたま居合わせた男女カップル、女性のマスターのやりとりのみで構成されている。

ようするに、女性カップルの片割れが男と浮気したあげく妊娠してしまい(つまり上掲パターンの2に該当)、その子供を一緒に育てるようにパートナーに迫るという筋書き。

当然ながらレズビアンの主人公(これが「男性役」と言われていた方)は、一度の浮気までは許せても、見知らぬ男との間に出来た子供の親になることは拒否する。やがて恋人は立ち去り、主人公はその場に取り残されるが、そこにきて男女カップルが「彼女は、あなたのことが好き」「愛があれば、何でも乗り越えられるよ」と発破をかける。

だが、そのような人生設計に関わる重大な話を、カフェの会話だけで即決するように強いるのは無理がありすぎる。マルチ商法の勧誘じゃあるまいし。

主人公たちの年齢や職業は明らかではないが、まだ大学生くらいのように見える。あるていど社会的な立場や生活基盤が確立され、経済力のある社会人ならまだしも、若いうちに出産・育児という選択を取るのであれば、これから先、あきらめなければならない楽しみや夢もたくさんあるはずだ。

まして現代の日本社会で、同性カップルに対しては、異性愛者と異なり何の法的保障も存在しない。そんな同性カップルの出産・育児に関して男女カップルが口を挟むのも、そのじつマジョリティである異性愛者が依拠する社会的・政治的特権性を自覚しない無責任な態度でしかない。

それでも男女カップルが、このような縁で知り合ったことを機に、主人公たちの子育てをサポートすることを約束するのであれば、まだ救いもある。しかし主人公は、そのまま彼女を追いかけて(飲食代も支払わずに?)店を出て行ってしまい、男女カップルの方は別れ話をする。

むろん「幸せ」の形は人それぞれであるから、たとえ浮気の結果であっても生まれてきた子供を祝福し、育児を通して充実した人生を送る女性カップルも存在するかもしれない。その意味では上述したレズビアンは幸せになれない》という規範には該当しないという見方もあるだろう。

  • ただしレズビアンは男とSEXしなければならない》という規範には陥っている。この事実は、妊娠したパートナーの「――だって……一回、男の人とも――その――さ、わかるでしょ?」という言い訳にも顕著である。

上掲したステレオタイプな「レズビアン」の3パターンは、いずれも異性愛者〉および〈男性〉を「マジョリティ」に規定した上で、「レズビアン(女性同性愛者)」を「マイノリティ」に位置づけるものであり、フィクションの表現であっても現実社会の《レズビアン差別》の構造に立脚している。

もっとも、その意味ではリアルであるともいえるし、じっさいコメント欄にはレズビアン当事者からの共感の声もいくつか寄せられている。

しかし問題は、制作者が劇中の無責任な男女カップルと同様にレズビアン」に対して、子供を産んで育てるという保守的な《女の幸せ》をお仕着せしている点にある。

仮に主人公たちがどのような決断を下そうと、そのような異性愛至上主義の体制を批判することは、レズビアンの主体性を否定することにはならない。体制に対する批判が欠如した表現は、たとえ作者に“差別する”意図がなかったとしても、現実社会の《レズビアン差別》を無責任に“追認”するという形で、やはり体制に加担せざるをえないのである。

BL映画『窮鼠はチーズの夢を見る』尾崎世界観のフィルムレビューに残る「違和感」

三吉彩花のグラビア目当てで購入したマガジンハウス「an・an」2020年9月16日号に、今月11日公開のBL映画『窮鼠はチーズの夢を見る』行定勲・監督 水城せとな・原作)の特集記事が掲載されていた。

その中で、クリープハイプのボーカリストで作家の尾崎世界観が「フィルムレビュー」を寄せているのだが――それがなんとも“イタい”代物であった(P.112-113 ※強調・改行は引用者)。 

 男性同士の恋愛と聞けば、多少の違和感を覚える。だからこそ、ちゃんと知りたいと思った。そのために、まずは自分の偏見を隠さず、認めることが必要だった。

そもそもこうやって性について書くことがすでに息苦しい。思いもよらぬところで不適切な言葉が出て、誰かから叩かれるんじゃないかと不安になる。正しい知識は必要だけれど、それ以上に、間違ってしまった人間に厳しすぎるとも思う。多様な性が広く受け入れられることと引き換えに、間違いを許せない世の中になってきているのかもしれない。自分自身を振り返ってみても、やっぱり思い当たる節がある。過去にどれだけ許されてきて今があるのか、そう思って恥ずかしくなった。

知る以上に、許すことも大切なはずだ。だから、「男と男が」という偏見から、正直に始めてみようと思った。

まずのっけから、もう21世紀に入ってから20年も経つというのに「男性同士の恋愛」と聞いただけで《違和感を覚える。》という、ナウなヤングにバカウケの流行歌手(なんでしょ? 名前しか知らんけど)に到底似つかわしくないアナクロな認識に、読者としては「違和感」全開である。

そのような時代の波に乗り遅れた感性を、尾崎自身も自覚しているのか、以下、予防線を張るような言い訳がましい理屈が続く。

しかし「誰かから叩かれるんじゃないか」「間違ってしまった人間に厳しすぎる」などと、その言い分は自己保身に終始しており、身の回りの大切な人、あるいは見ず知らずの誰かを「間違い」によって不用意に傷つけてしまうのではないか、といった配慮が微塵も感じられない。

クリープハイプのファンにゲイは一人もいないのだろうか。ポリコレがどうのという以前に、そのていどの想像力ももてないのは作家として致命的ではないか。

差別発言が問題なのは、それが「間違い」であるだけでなく、人を“差別”する言葉であるからだ。他者に向かう言葉である以上、生身の他者から反応が返ってくるのは自明である。【尾崎世界観】を名乗りながら、その「世界観」のあまりの空疎さ、無味乾燥さに唖然とさせられる。

元より《知る以上に、許すことも大切なはずだ。》などという台詞は、差別発言によって傷つけられた側が、差別発言を真摯に反省し謝罪する人を“許す”場合に用いるものであって――それでも“許すこと”を他人に要求するべきではないし、仮に許したからといって批判してはならないということにもならない――自らの「偏見」を隠そうともせず「正しい知識」を学ぼうともしない差別者の側が口にしていいことではない。

それにしても、この「偏見」を“隠さず”にむしろ積極的に口に出したほうがいいというのは、差別者がしばしば好んで用いる屁理屈だが、翻ってそのような差別発言に対する批判については「厳しすぎる」「許すことも大切」などと沈黙を強いている。そも尾崎が「世の中」に求める議論の条件は、かくのごとく差別者の側にだけ一方的に都合の良いアンフェアなものであり、これではけっきょくのところヘイトスピーチを野放しにしろと言っているに等しい。

上掲の、自分に酔いまくった気色の悪い文面が何よりも姑息なのは、自らの差別意識を他者から批判されることを過剰におそれる一方、その言葉が他者を傷つけているという事実から都合良く目を背けることで、他者を傷つけておきながらむしろ自分こそが「被害者」で批判する他者は「加害者」なのだ、という倒錯した被害者意識をアピールすると同時に、それについて寄せられるであろう他者からの批判をもあらかじめ退けているところだ。さらに尾崎の場合はミュージシャンという立場からそれを発することで、自身を無条件に擁護するであろう年若いファンたちの同情・共感を言外に要求している。

そも今の「世の中」が《間違ってしまった人間に厳しすぎる》などと、差別者である尾崎の主観にすぎないことを既成事実のごとく前提化して勝手に話を進めているのだから、話にならない。実際は、たんに馬鹿が馬鹿ゆえに自分の馬鹿さ加減に気づかず公衆の面前で考えなしに馬鹿なことを言って大人たちから叱られているというだけの話なのに、なんとも大仰な「世界観」である。

あまつさえ尾崎は《多様な性が広く受け入れられること》《間違いを許せない世の中になってきている》ことが「引き換え」であるなどとうそぶく。これもまた、マイノリティが社会的認知を求めることでマジョリティが息苦しくなるという、まさにマジョリティ目線の差別意識に根ざした「世界観」如実に表している。

たかが娯楽映画のフワフワとした感想文であろうと、これはまぎれもなく《差別主義者の論理》を踏襲した「ヘイトスピーチそのものというほかない。

おそらく私のこの批判こそ、尾崎にとっては《思いもよらぬところで不適切な言葉が出て、誰かから叩かれるんじゃないか》という「不安」を実現するものであろう。私の言葉を尾崎がどのように捉えようと、それは尾崎自身の問題だ。尾崎が映画を観てフィルムレビューと称する「ヘイトスピーチを垂れ流すのであれば、私はそれを読んで言いたいことをいう。そこに加害者/被害者の関係性は発生しないはずだ。

 優柔不断な恭一にも、振りまわされてばかりの今ヶ瀬にも、腹を立てながら観た。でも、そこに共感もした。この2人も、許そうとしたり許されようとしながら、必死でもがいているように見えたからだ。何より、相手を身体的に受け入れるということ。許す側と許される側がつながる瞬間、そこにもまで違和感があった。ベッドの中から聞こえてくる生々しい音に、どうしても体が強張る。「男と男だろ」と凝り固まった思考が、恭一と今ヶ瀬の体と一緒になって揺れていた。

(中略)

 自分がバンドで曲を作る際、女性目線で歌詞を書くことも少なくない。そんなときはいつも、自分の弱さを女性に託している。自分の体と切り離して言葉を書きたいという気持ちを、精神的な限界を超えて、女性になら託してしまえる。そんな無責任な甘えと図々しさを、曲にして歌う。もしかしたら、男性と男性の恋愛に女性が興味を持つ理由もこれに近いのかもしれない。自分の体と切り離して恋愛を見たいという気持ちを、肉体の限界を超えて、男性になら託してしまえる。

 それでも、どうしても、切っても切れないものが残る映画だった。

 受け入れることを許す。許されることを受け入れる。そんな2人のつながりは、悲しくて綺麗だった。

男同士の痴話喧嘩といった個人間の問題と、尾崎世界観自身の差別発言に対する社会的責任という異次元の問題を“許す/許さない”という論点に摩り替えることで同一視するという、かなりの荒業を試みている(そして見事に失敗している)。

だが、じつのところ映画は話の枕でしかなく、レビュアーである尾崎自身の「自分語り」に収斂してしまう。

さらにそこへ、作詞の《女性目線》というこれまた見当外れの論点が提示される。男性同士の恋愛がテーマの映画のレビューにしては唐突で、いまひとつ文意が掴みにくいのだけれど、ようはゲイは“心が女”であるといった「偏見」を無自覚に露呈したものであろうか。

ファンタジーのBL映画を観て現実のゲイについて「正しい知識」が得られるはずがないし、そのような役割を担わせるべきでもない。それでも尾崎世界観が『窮鼠はチーズの夢を見る』の鑑賞を通して何も学ばず、自己の卑小な、凝り固まった「世界観」の中で耳を塞いている様子は伝わってくる。

  • ちなみに同誌では、稲垣吾郎が自身の連載コラム『シネマナビ!』において、草彅剛主演のトランスジェンダー映画『ミッドナイトスワン』内田英治・監督/脚本)を取り上げている(P.123)。そちらは《今の世の中、トランスジェンダーを含めLGBTQに関する問題をよく耳にしますが、本当に、人と人とが共生していけたらと思う。実際のそういう方々の感想も聞いてみたくなりますね。》というもので、どちらがより開かれた「世界観」であるかは一目瞭然だろう。

* * *

それにしても。こうしてBLや百合がメディアで取り上げられるたびに「評論の形を借りたヘイトスピーチ(=評者によるホモフォビアの無自覚な表出 ※しばしば演者ないし制作者自身が評者を兼ねる)」が付いて回るの、もういい加減どうにかなりませんかね?

……というわけで、以下は百合映画の事例:

ossie.hatenablog.jp

 

『聲の形』に寄せる障害者への「幻想」と、障害者の「萌えキャラ化」

本日『聲の形』のアニメ映画版が民放(日本テレビ系列)のゴールデン枠で放映されるとかで、世間ではふたたび注目を集めているようだ。

私はこの作品に批判的な立場であるが、作品の内容自体もさることながら、うんざりさせられるのが作品を支持・擁護する者たちの語り口である。それらは作品の支持・擁護にとどまらず、作品の「本質(と自分たちが考えるもの)」を理解しようとしない「無知蒙昧な輩(と自分たちが決めつける人々)」に対する優越意識が織り交ぜになった明確な悪意が露骨に表れている。

アニメの中の障害者キャラクター|ダブル手帳の障害者読み物

https://double-techou.hatenablog.com/entry/2018/09/21/070000

 アニメにおける障害者の扱いを考える上で大変示唆的なのが映画「聲の形」である。聴覚障害者のヒロイン西宮硝子の内面は非常に分かりにくい。考えれば考える程、何を考えているか全く分からないキャラである。ところが、周りの健常者のキャラクターはそんな硝子から勝手に思い思いの分かりやすいメッセージを読み取り、いじめたり、怒ったり、泣いたり、同情したり、好きになったりと大わらわである。障害者自身が何も言ってないのに、周囲の健常者が勝手に本人の意思を読み取って本人そっちのけで大騒ぎするというのは現実でも頻繁に起こることである。実際、この映画をめぐっては「感動ポルノか否か」「障害者差別か否か」という議論が当の聴覚障害者そっちのけで白熱した。「聲の形」はそうした現実を端的に戯画化した秀逸なメタ批評的コメディ映画と言えるだろう。

まず聴覚障害者のヒロイン西宮硝子の内面は非常に分かりにくい。》というのは大間違いで、実際に【硝子】はノートを通して「友達になりたい」という「メッセージ」をストレートに、これ以上ないくらいに“分かりやすく”示している(それ以上の「内面」の深読みは下衆の勘繰りにすぎない)。むしろその声なき「メッセージ」に耳を傾けようとせずノートを池に放り込むのが主人公の【将也】である。

しかし【将也】はその後改心したとかでボロボロになった(というか自分でボロボロにした)ノートを持って【硝子】の元を訪れ、【硝子】も【硝子】でそれをあっさりと許してしまう。同作に寄せられる《感動ポルノ=障害者差別》という批判は、そのような御都合主義に向けられたものである。換言するなら、それはマジョリティの罪を赦すマイノリティという「幻想」でありステレオタイプなマイノリティ像の再生産に他ならない。

また「幻想」ということであれば《議論が当の聴覚障害者そっちのけで白熱した。》という物言いは、ようするに「差別」であるか否かを決めることができるのは「当事者」だけであるという、差別問題に無知な人々が陥りやすい「当事者原理主義の典型であり、言い換えるなら「当事者」であれば誰しもが「差別」について的確にコメントできるはずという「幻想」の裏返しでしかない。

だが言うまでもなく被差別の「当事者」であっても差別問題について正確に学び、相応の知識を習得しなければ「差別」について的確なコメントを発することはできない。それは障害の当事者――もっともブログ主は《身体障害1級(脳性麻痺)・精神障害3級(発達障害)》とのことなので聴覚障害に関しては「非当事者」である――であっても差別表現について正確に学び、相応の知識を習得しなければ的確な評論を書くことができないのと同様だ。

 さて、私はこの「聲の形」のストーリーやそれを巡って巻き起こった議論の中にこそ、アニメに障害者が出てこない理由が隠されているように思う。つまり、障害者を登場させると、望むと望まざるとに関わらずそこに勝手に文脈が付与されてしまう。周りのキャラも視聴者もそれに振り回され、ストーリーと関係ないところで盛り上がってしまう。「キャラクターのうちの一人」にとどまることができず、作品全体を引っ掻き回してしまう。特段障害をテーマにしていない作品にとってそれはマイナスにしかならない。だから理由もなく障害者を登場させることはできず、登場する際には何らかのエクスキューズを付け、その中にキャラの影響力を封じ込めなければいけないのである。

さて、はたして『聲の形』の作者は「ストーリー」や「文脈」とまったく無関係に、ただなんとなく気まぐれで「障害者」を登場させた(=ヒロインの【西宮硝子】を「聴覚障害者」に設定した)とでも言うのだろうか。《障害者を登場させると(中略)周りのキャラも視聴者もそれに振り回され、ストーリーと関係ないところで盛り上がってしまう。》という問題の事例として『聲の形』を挙げることは適切だろうか?

聲の形』は少年誌の読み切りの時点から《「すばらしい!」「でも載せていいのか!?」編集部に激論を巻き起こした、余りにみずみずしい青春!》との煽り文句のとおり《障害者差別》というある種のタブーを露悪的に扱うことで世間の耳目を集めようとする“あざとさ”が鼻につく作品であった。

もっとも、それすら「編集部」が“勝手に付与”した「文脈」であり作者自身の「望む望まざる」とは無関係という言い分もあろうが、そのような作品の「影響力」について作者が無自覚であったというなら、それこそクリエイターのプロ意識を読者が舐めてかかっているとしか言い様がない。

 私には夢がある。一つ目は、きらら系アニメの登場人物に障害者枠を設けること。障害者の日本国民に占める割合は約7.4%である*1。この現実をアニメに反映させるならば、きらら系アニメの1作品あたり平均登場人物数を仮に7人程度とすると、2作品に1人は障害者キャラが登場せねばおかしいということになる。当然障害者キャラに対しては合理的配慮義務が生じるから、例えば車椅子のキャラがいる場合はきららジャンプなどもってのほかである。厳しすぎると感じる方もおられるかもしれないが、芳文社が持つ社会的影響力の大きさを考慮すればこの程度の道義的責任は引き受けて然るべきだろう。共生社会の実現に向け、きらら系アニメにもダイバーシティを取り入れることを求めたい。

《障害者を登場させると(中略)周りのキャラも視聴者もそれに振り回され、ストーリーと関係ないところで盛り上がってしまう。》という問題提起の後に、これである。正直、頭を抱えてしまう。

けいおん!』『こみっくがーるず』などの「きらら系アニメ」に象徴される、いわゆる「萌えマンガ」の問題として、まっさきに上げられるのが《性的消費》だ。

ようするに「萌えマンガ」は美少女の表象を通して、マジョリティの異性愛者男性がマイノリティである女性を“性的に消費”するという現実社会の《女性差別》の構造を強化するものであるという指摘が、フェミニズムの「文脈」でなされている。

けいおん!』に「政治的正しさ」を押しつける意識のお高い馬鹿ども

https://ossie.hatenablog.jp/entry/20150608/p1

ブログ主が提唱する障害者の「萌えキャラ化」は、そのような《性的消費》の構造に障害者の女性を巻き込むものであるとして非難を浴びることは必至だ。

げんに『聲の形』をめぐっては、ヒロインの【西宮硝子】の人物像がステレオタイプな美少女キャラクター――内股でヒョコヒョコと歩くなよなよとした仕草やはにかんだ表情、非現実的なピンク色の髪、寡黙(重度の聴覚障害者なのだから当然だが)で神秘的な「綾波系」――として造形されることで、とくに異性愛者男性の「障害者の彼女が欲しい」などという浅ましい性欲に収斂されかねない問題が、上掲ブログ記事の1年前以上前に提起されている。

聲の形を見て「耳の聞こえない彼女が欲しい」と感想を持つことは倫理的に問題か

https://togetter.com/li/1108958

もっとも「性」も「消費」も本来は人間の健全な社会活動であり、それ自体を《性的搾取》と短絡するような飛躍した「ポリコレ至上主義」には注意が必要である。しかし、そうであればこそ障害者の「萌えキャラ化」などという“消費”のあり方については、それを戒める評論が求められるはずだ。

* * *

ところで私自身は「当事者原理主義」に批判的な立場であるけれど、ブログ主は《当の聴覚障害者そっちのけ》の議論がお気に召さないようなので、蛇足ながら「当事者」の感想を貼っておく。

求めていたのは和解ではなく拒絶~普通学校で虐められた聴覚障害者が読んだ聲の形

https://togetter.com/li/459715

聲の形』を支持・擁護する者たちは、このような「当の聴覚障害者」の“聲”をどのように聞くのか。

たとえば小説家・評論家の山本弘は、この感想を元に『弱者が常に正しいわけじゃない』というエントリーをブログに投稿し、同作に批判的な「当の聴覚障害者」への反論を展開している(もっとも「読み切り版の結末」に関しては私と同意見のようだが)。『聲の形』を支持・擁護する者たちは「当の聴覚障害者」が議論に参加してきたところで、その“聲”が作品を支持・擁護するものでないなら聞き入れるつもりはないようである。

とはいえ(障害者を「弱者」と名状・規定してしまうことの問題はさておき)一般論として、私も「当事者」の見解が《常に正しいわけじゃない》という意見には同感である。しかし、だからこそ作品に不都合な「非当事者」の意見を《当の聴覚障害者そっちのけ》と切り捨てる一方で、作品に不都合な「当事者」の意見は《常に正しいわけじゃない》と無効化・相対化するといった体の良いダブル・スタンダードには釘を刺しておかなければならない。

やっぱり《レズビアンがトランス女性と付き合わないのは「差別」だ》と言っているのと変わらない「トランス主義者」シオヤギ(Gay_yagi)の“屁理屈”

(2020年9月19日 加筆修正) 

 

このシオヤギ(@Gay_yagi)の、例によってピントが外れた要領を得ない物言いを整理してやると、ようするにレズビアン(シスジェンダーレズビアン女性)がトランス女性を性的対象に含めないことは「差別」ではないが「偏見」ではある、ということになる。

しかし、これは筋が通らない。そも「偏見」が問題視されるのは、それが「差別」だからであって、「偏見」が「差別」でないなら、そのようなものにレズビアンが“影響”されたところでいったい何が「問題」なのかわからなくなる。あるいは「差別」ではないが、ただシオヤギが心情的に気に食わないということだろうか。

「差別」「偏見」あるいは、たんに「失礼」であるとか「恥」であるとか「男根恐怖症」であるとか……こうした言葉遊びは重要ではないレズビアン(の多く)がトランス女性を性的対象に含めないことを“悪しきこと”と捉えた上で、(現時点では困難であっても)将来においては《トランス女性を愛する可能性》に“開かれる”べきであると信じて疑わない点で、本質は同じなのであり、そのような欺瞞に満ちた詭弁(屁理屈)をダブル・バインド(二重拘束)」と呼ぶのだ。

ossie.hatenablog.jp

元より《女性を愛して男性を愛さないレズビアンは「性別」で人間を「差別」している》といった類の屁理屈は、それこそ《レズビアン差別》の常套句であるが、シオヤギに代表される「トランス主義者(※「トランスジェンダリズム」信奉者のことであるが、長ったらしいので私はこう呼ぶ)」の場合は「男性」を「トランス女性」に置き換えて《シス女性を愛して「トランス女性」を愛さないレズビアンは「生物学的性別」で人間を「差別」している》と言っているだけで、やはり本質的に何も変わらない。

言い換えるなら、そのようにしてトランス女性をミスジェンダリング(男扱い)しているのは「レズビアン」ではなく、むしろ「レズビアン」に対してトランス女性を性的対象として差し向ける者たちなのだ。

こうした《トランス女性差別》の本質を見抜くこともできず、そうだそうだぁ! と間抜けな奇声を上げているのが、シオヤギに代表される「トランス主義者」である。そも「トランス女性」がそのような形で他人を差別主義者に仕立て上げるための踏絵として扱われている光景を目の当たりにして“意識のお高い”シオヤギくんは疑問に感じないのだろうか?

この「トランスとは付き合いたくない」《聞かれてもいないのに公言すること》トランスジェンダーに対して「失礼」であるという“指摘”に関しては、一見するともっともらしい。

しかし「トランスとは付き合いたくない」という“選択”が《社会の(偏見を含む)価値観に影響されている》という原理原則の話が、いつのまにか「トランスとは付き合いたくない」と《聞かれてもいないのに公言すること》が「失礼」に当たるという個別の事例に摩り替っていることにお気づきだろうか。ついでに言えば「偏見」という社会の差別構造の問題と「失礼」という個人間の礼節の問題も次元が異なるはずなのに、ここにも巧妙な論点のスリカエがある。

まず第一に、「トランスとは付き合いたくない」という言説は《聞かれてもいないのに公言》されるものではなく、ようは《女性が好きなのに「トランス女性」を将来の彼女候補に含めないのは「差別=偏見」だ》といった「トランス主義者」特有の極論・暴論に対する、当然の反応にすぎない。

たとえばトランスジェンダーの当事者に対して、第三者がトランスの状態(具体的にはオペの経験や性器の形状)について不用意に尋ねることはセクシュアル・ハラスメントとなりうる。それと同様にレズビアンに対して、トランス女性とSEXできるか否かといったプライベートなセクシュアリティについて第三者が事細かに訊きだそうとしたり、また当人が望まないタイミングで語らざるをえない状況に追い込むことは、まさにレズビアンへのセクシュアル・ハラスメント以外の何物でもない。

しかもレズビアンは、そも「トランス女性とは付き合いたくない」《あえて主張》しているわけではなく、生物学的性別を前提に性的対象を“選択”するという自らのセクシュアリティについて語っているだけであり、「トランス女性」が性的対象から除外されるのは、あくまでも結果論でしかない。その意味で「トランス女性」の存在は、性的対象から“あえて”意図的に排除されているというよりも、たんに「想定していない」といったほうが適切であろう。

しかし元より《生物学的性別を前提に性的対象を“選択”する=「トランス女性」の存在を想定しない》というセクシュアリティ自体が《トランス女性差別》という解釈に依拠するのであれば――繰り返すが「偏見」であって「差別」ではないというシオヤギの“屁理屈”は通用しない――そのようなレズビアンが「トランス女性とは付き合いたくない」と《聞かれてもいないのに公言》しようがしまいが、どのみち「トランス差別主義者」のレッテルを貼られて“糾弾”される定めにある。

さらに言えば《生物学的性別を前提に性的対象を“選択”する》といっても、生物学的性別が〈女性〉でありさえすれば誰でもいいという人は稀で、実際には生物学的性別のみならず性自認・性表現を包括した、言うなれば「複合的性別」を前提に性的対象を“選択”する――そして“複合的”に判断するがゆえに「生物学的性別」を排除する理由もない――ととらえるのが正確である。

ゆえに、そうした「複合的性別」を前提に性的対象を“選択”するレズビアンがトランス女性の性自認をないがしろにしているという“指摘”も当たらない。元よりトランス女性の性自認を尊重することと、トランス女性を性的対象にすることはまったく別次元の問題である。

それを「トランス女性と付き合いたくない」と露悪的に曲解することで、シオヤギに代表される「トランス主義者」は、あたかも「複合的性別」を前提に性的対象を“選択”するレズビアンが「トランス女性」を“嫌悪”する差別主義者であるかのごとく印象操作している。これこそ「偏見」でなくていったい何なのか?

そして言うまでもなく、そのような「レズビアン」に対する「偏見」の根底には《SEXにはペニスが必要である》という「ヘテロセクシズム(異性愛至上主義)」が横たわっている。

じじつ「シス女性」であっても〈異性愛者〉であれば「トランス女性」を性的対象から除外することは自明とされ、「差別」などと言われることもない。それをレズビアン(女性同性愛者)にかぎってあげつらうのは、まさにレズビアンの《性的指向(同性指向)を理由とした差別》以外の何物でもない。

こうした「ヘテロセクシズム」の非対称性に基づく《レズビアン差別》の構造は、まさにシオヤギが“指摘”する《社会の(偏見を含む)価値観》そのものであるが、そうした自己のレズビアン」に対する「偏見」についてまるで無自覚・無関心を決め込むシオヤギ自身の《無神経》な物言いは、それこそ《社会の(偏見を含む)価値観に影響されている》と糾弾されるべきである。

また「トランス女性と付き合いたくない」という物言いが「失礼」であるのは、ひとえに「トランス女性」の性的主体性をないがしろにして一方的かつ性的に対象化・客体化する行為こそが問題なのであり、その意味では逆に「トランス女性と付き合いたい」という物言いであっても同様だ。ゆえにそれを【トランス女性を性的対象に含まないレズビアン】の“批判”に際して持ち出すのは議論の本質を履き違えている。

だいいちトランス女性を性的対象に含める人であっても「トランス女性」であれば誰でもいいという人はやはり稀で、実際には「パス度」の高い(つまり可能な限り「シス女性」に近い外見の)トランス女性をパートナーに選びたがる傾向にある。これはようするに「トランス女性」を「シス女性」の代替として性的消費する行為であり、じつのところトランス女性を性的対象に含めるというセクシュアリティもまた、形を変えた「シスセクシズム」に他ならない。

すなわち、トランス女性を性的対象に含めるか否かという基準で、その人が「シスセクシズム」から“影響”されているか否かをジャッジすることは、どのみち不可能なのだ。

あるいはレズビアンを含めた【女性を愛する人】の中にトランス女性を性的対象にする人がいることは――男性異性愛者の中にも「ニューハーフヘルス」「男の娘ヘルス」に通う人がいるように――たんなる「性的嗜好」の問題であって、べつにその人の人権意識が(そうでない人に較べて)高いわけでも政治的に正しいからでも、何でもない。

「差別」や「偏見」を「社会」の問題と規定する(それ自体は間違っていない)のであれば、むしろそのような特定のセクシュアリティを獲得することで「差別=偏見」の“影響”から免れることができるという錯覚にこそ警戒すべきだろう。

いずれにしても、いわゆる「社会問題」として提起される「差別」とは、字義通りに《差をつけて区別すること》ではなく、それが《人権侵害》に利用されていることが問題なのである。換言すれば「差別」とは《不当な区別》ということになる。

しかし、レズビアンがトランス女性を性的対象から除外したところで、トランス女性の人権が侵害されることなどありえない。繰り返すが、トランス女性の性自認を尊重・肯定することと、トランス女性を恋愛やSEXの相手に選ぶことは何の関係もない。

そこへきて、レズビアンが「複合的性別」を前提に性的対象を“選択”することは「人権(性の自己決定権)」の正当な行使であり、またそれは正当であるがゆえに「差別(=不当な区別)」とはなりえない。むしろ、それを妨げることこそが《人権侵害》であり《レズビアン差別》に他ならない。

シオヤギに代表される姑息な「レズビアン差別主義者」は、それがわかっているからこそ、レズビアンが「性の自己決定権」を正当に行使することについて「差別」ではないが「偏見」ではあるなどと苦しい言いがかりをつけずにはいられないのだ。

このようにして具体的な《人権侵害》が発生していない事例にもかかわらず、赤の他人の内面を勝手に決めつけ、おまえは「シスセクシズム」から“影響”されているのだなどと指を突きつける行為は、すなわち「原罪論」だ。

人は誰しもが何らかの形で「差別」に加担している、自分の中に「偏見」が1ミリでも存在しないと断言できるのか? ――この手の「原罪論」が厄介なのは、その字面だけ取り出してみると、たしかにもっともらしく、反論の余地もないほど“正しい”ところにある。

が、その“正しさ”は、ちょうど《Black Lives Matter》に対する《All Lives Matter》と同じ意味での“正しさ”でしかない。社会の実情に即さない、教条的な「正論」を振りかざすことは、一種の万能論法であって、またそれゆえに「差別」の正当化にも利用されてきた――だから私たちは「差別」に対して寛容になるべきだ、「差別」を声高に糾弾する人こそ差別者なのだ、といったふうに。

しかし、人間のあらゆるセクシュアリティが「差別」の構造に結びついているというのであれば、なおのこと、人間の数あるセクシュアリティの中から「レズビアン(が「複合的性別」を前提に性的対象を“選択”すること)」を特別に“差別的”であると言い募ることもできないはずだ。

言い換えるなら《人間のあらゆるセクシュアリティが「差別」の構造に結びついている》ということ自体は反論の余地もない「原理原則」であるとしても、その“正しさ”を「レズビアン」だけに要求するのであれば、けっきょくのところそれは「レズビアン」を“特殊視”“異常視”する「偏見(差別的偏見)」そのものであるがゆえに《レズビアン差別》として機能する。

加えてそのような「偏見」は、マイノリティが常に“正しく”あらねばならないというマジョリティの思い込みに根ざすものであり《差別の原因を被差別者に求めるレトリック》として「差別」の正当化に用いられてきた詭弁(屁理屈)の典型である。

  • なお、この期に及んで「『正論』を唱えて何が悪い。マイノリティであっても“正しく”あるべきなのは当然ではないか」と考える人は、まさしく《All Lives Matter》に陥っており、「レズビアン」のみならず「トランス女性」や「黒人」をも“差別”してしまう可能性がある。

いみじくもシオヤギが“指摘”するとおり、性的対象を“選択”する上で《性別》を前提にしない人(パンセクシュアル)であるなら必然して「シスセクシズム」から免れることになるかもしれないが、しかしその代わりに体型など《性別》とは異なる美醜やエロスの基準を有しているのであり、けっきょくは「ルッキズム」などの「差別」の構造に陥っていることになる。

それを「レズビアン」あるいは《「複合的性別」を前提に性的対象を“選択”する》というセクシュアリティだけをことさらにあげつらうのは、シオヤギに代表される「トランス主義者」が、じつのところ裏返しの「性器至上主義」に陥っている証拠である。

* * *

……とまぁ、たったの3ツイートに突っ込み所満載のシオヤギくんであるが、唯一正しいのは《「トランスと付き合わないのは差別」という主張をしている人はトランス男女共にほぼいません》という件(ここで切り上げておけばよかったのに)。

実際、レズビアンがトランス女性を性的対象に含めないことが「差別」だなどと吹き上がっているのは、生物学的性別を否定して性自認だけで人間の《性別》を決定・判断すべきであるとする前衛的な「トランスジェンダリズム」の信奉者(トランス主義者)のみである。

じつのところトランスジェンダーの多くは自らがトランスジェンダーであっても、やはりシスジェンダーと同様に、恋愛やSEXの相手はシスジェンダーがいいと考えているのだ。(統計が存在するわけではないので、具体的なパーセンテージを示すことはできないが)仮にトランスレズビアンの間で、トランス女性同士で愛し合うことが一般的であるならば、シスレズビアンがトランス女性を性的対象に含めないとしても何の問題にもならないであろう。

しかるに、トランスジェンダーを性的対象から除外することが「差別」になるというのであれば、トランスジェンダーもまた自分で自分の首を絞めることになる(むろん、これはシオヤギが例示した「でぶ」であっても同様である。「でぶ」に関してなら私は「当事者」として発言できる)。

当然ながら、そのような「トランスジェンダリズム」は多くの「当時者」からはまったく支持されておらず、それを支持するのはシオヤギに代表される一部の「当時者」を除けば、大半はただ“意識お高い”アピールがしたいだけの傍迷惑な「非当事者(トランスアライ)」である。

ゆえに、そのような「トランスジェンダリズム」を口実に一般の「トランス当事者」が“嫌悪”されるようなことがあってもならない(そうした分断こそ【連中】の思うツボだ)。シオヤギのような「レズビアン差別主義者」を蛇蝎の如く“嫌悪”するのは一向に構わない。

レズビアンの性的主体性をめぐる議論においては「レズビアン」と「トランス女性」が“対立”しているのではなく、あくまでもレズビアンの性的主体性を「トランスジェンダリズム」に基づいて否定・侵害する「トランス主義者(=レズビアン差別主義者)」との“対立”であることを強調する必要がある。

 

『バイバイ、ヴァンプ!』と「保毛尾田保毛男」~繰り返される「コメディの形を借りたヘイトスピーチ」を“擁護”する「LGBT陰謀論者」とは? #バイバイヴァンプ

Twitterの話題は今やすっかりコロナ一色ですが、先ごろ『バイバイ、ヴァンプ!』なるアイドル映画が、同性愛者差別を煽動する内容によって、LGBT当事者を中心とした抗議・批判を受けたことは記憶に新しいでしょう。

かれこれ2年前にも、とんねるずの番組でホモフォビア表現の象徴ともいえる「保毛尾田保毛男」が復活し、同様の議論が巻き起こりました。このような「コメディを借りたヘイトスピーチは、私たちの日常で手を変え品を変え繰り返されています。

しかし、そのような「コメディの形を借りたヘイトスピーチ」に対して、どういうわけだか「LGBT当事者」の立場からそれを擁護する人々が、決まってしゃしゃり出てきます。

その言い分をまとめると、

「ホモネタ」に嫌悪感を抱く人のほうこそ、そうした「ホモネタ」に表象される「(おうおうにして“女性的”な)ゲイ男性」を嫌悪する“無自覚な差別主義者”である!

……という何ともひねくれた発想です。

このような屁理屈に付き合ってさしあげる前に、「ホモネタ」の何が問題なのか、あらためて考えてみます。

まず、被差別者のステレオタイプなイメージを誇張したキャラクターを制作し、それを無批判に表現することは、たとえ制作者の側に悪意はなくとも(場合によっては愛情や敬意に根ざした表現であるとしても)それ自体が「ヘイトスピーチ(差別煽動表現)」の典型です。

ゆえにそのような「ヘイトスピーチ」が、視聴者のクレームを受けることは至極当然であり、それをさも悪質なクレーマーのように言い募ることに認知の歪みを感じます。

またそのような「ヘイトスピーチ」に対する正当な抗議をクレーマー扱いする「当事者」の言説を読み解くと、いわゆる「LGBT陰謀論者」であることが見て取れます。

そういった「当事者」のTLを一つひとつ確認してみると、ほぼ例外なく《自分たちLGBTが一部の活動家に政治利用されている!》《一部の活動家がありもしない「差別」をでっちあげて利権をむさぼっている!》などと被害妄想に凝り固まった「LGBT陰謀論」、あるいは「LGBT活動家」の悪口や冷笑、揚げ足取りで埋め尽くされています。同じ「当事者」でありながら、これはいったいどういうことでしょうか?

LGBTにかぎらず、被差別者が加差別者の価値基準に過剰適応するあまり、他の被差別者を被差別者みずからが積極的・主体的に攻撃してみせることによって、加差別者からの「承認欲求」を満たそうとする有様は、むしろ“差別あるある”といってもいいくらい頻繁に目にする事例です。

ゆえに「ホモネタ」を認めている・楽しんでいる「当事者」がいるからといって、その表現に差別性がないことの証明にはまったくなりません。げんにそのような「LGBT当事者」は『バイバイ、ヴァンプ』も「保毛尾田保毛男」も同一のレトリックで擁護していますが、けっきょくのところは自分の気に食わない「LGBT活動家」に対する“逆張り”“当てつけ”に終始しています。

また言うまでもないことですが、仮に保毛尾田保毛男にそっくりのゲイ》が実在したとしても、その人は「保毛尾田保毛男」ではありません。

なぜならば「女性的なゲイ男性」のステレオタイプなイメージを露悪的に誇張している時点で、それがいくら現実の「女性的なゲイ男性」に“そっくり”であったとしても、現実の「女性的なゲイ男性」そのものにはなりえないからです。裏を返せば、現実の「女性的なゲイ男性」をありのままに演じたとしても“笑い”にはつながらないから“誇張”する必要があると言えます。

もっとも“誇張”という手法はコメディの基本であることから、たんに“誇張”していることだけをもって「差別」と短絡することもできないでしょう。しかし「保毛尾田保毛男」の場合は、それを非同性愛者の男性芸人が演じていることにさらなる問題があります。

すなわち「保毛尾田保毛男」とは、

  1. 現実(ありのまま)とは掛け離れた「女性的なゲイ男性」のイメージを“誇張”しながら、
  2. なおかつ非同性愛者の男性芸人が、そのようなキャラクターを「ホモ(ホモ尾田ホモ男)」と名状することにより、
  3. 現実の「ゲイ」に対する知識をもたない視聴者に対して、現実の「ゲイ」もそのように“笑われるべき”存在であるという偏見を植えつける

……という三重のプロセスを経て成立する「コメディの形を借りたヘイトスピーチ」となっています(もとより「ホモ」自体が「ゲイ」に対する《差別語》であり、当事者が自称するケースを除いて一般的に非当事者が用いるべきでない言葉ですが、仮にこれを「ゲイ尾田ゲイ男」と言い換えても同じことです)。

このように見ていくと、「LGBT陰謀論者」が強弁している「保毛尾田保毛男」に抗議する人々の“内なる差別意識”をあげつらう言説は、その意図に反して、むしろ物事の表面をとらえることしかできない薄っぺらな感性を露呈しているにすぎません。

また《同性愛者差別》が社会の問題である以上、特定の芸人を非難することは無意味である、という見方もあるようです。

しかし「保毛尾田保毛男」が石橋貴明という「特定の芸人」によって演じられている以上、「特定の芸人」が非難を受けることもまた至極当然です。

それを無意味と決めつけるのは、すなわちヘイトスピーチ」に対する告発・批判を無効化するレトリックであり、当人にその「意図」がなくとも結果的に「ヘイトスピーチ」を“擁護”するものとなっています。

そしてこれも繰り返しになりますが《差別の意図はない》《差別に感じることこそ差別》《一部の当事者も楽しんでいる》というのは、いずれも典型的な《差別主義者の論理》であり、言うなればそれ自体が「ヘイトスピーチ」の一環でしかありません(※もっとも当該の表現が実際に「差別」に該当するという前提が付きますが)。

しばしば「LGBTライター」を名乗ってマスメディアに登場する人物は、世間の注目を手っ取り早く集めるために、あえて「当事者」の立場から「コメディの形を借りたヘイトスピーチ」を擁護してみせるという芸当を披露します。

  • なお、それでいて当人は“擁護”するつもりはないと弁明したりするものですが、“擁護”するつもりはないと言いながら「差別」についてとくに批判するわけでもなく、その代わりに「差別」を告発する人々の粗探しばかりするのも、それこそ“無自覚の差別主義者”によくありがちな傾向です。

そのような奇を衒った言説が回ってきた場合には、興味本位でRTやいいね!を押す前に、アカウントのTLをチェックすることをお勧めします。もしそのTLが「LGBT利権ガー」「LGBTの政治利用ガー」などといった言説で溢れ返っているなら、そのような「LGBT陰謀論者」とは距離を置くのが賢明です。

 

『柘榴ノ杜』エラーを修正

久しぶりにワードプレスのサイトを見直してみたところ、リンク切れやページ表示の不具合が散見したため、目に付いた範囲で修正を行いました。

http://zakuro-no-mori.girlfriend.jp/

ところで、記憶の風化を防ぐべくSNS上で折に触れて『富江 最終章』の名前を出してみるのですが、意外と好きだという人がいて嬉しいです。

 

「セクシュアル・マイノリティ」を「障害者」呼ばわりする京大ゼミ(seminar72)の“植民地主義的”な感性

今月9日に開催された京都大学の自主ゼミ(以下「京大ゼミ」)が「セクシュアル・マイノリティ」を「障害者」の事例として取り上げたことから、LGBT当事者を中心に批判の声が上がった。

性同一性障害が脱病理化しつつある情勢の中で(もっともそれに関しては当事者間でも是々非々あるようだが)、 なんとも時代錯誤な認識と呆れるほかないが、批判を受けて主催者が発表した弁明は以下の通り。

いかにも学生らしい、自分に酔いまくった自意識過剰な文面(「――。」とか)でごちゃごちゃと書かれているけれど、一言で要約すると「差別」と感じる方が「差別」という、典型的な差別主義者の屁理屈がもっともらしく連ねてあるにすぎない。

「障害者のリアルに迫る」京大ゼミが用いる「障害」とは、「個人にその原因や責任がある」「治療すべきである」というような個人モデル(医療モデル)的な障害観(=インペアメント)ではなく、社会がつくりだすものとしての「障害」(=ディスアビリティ)という障害観が基本となっています。

社会的な抑圧や偏見にさらされ、さらに制度・政策面でも排除の対象とされてきたという点では、セクシュアル・マイノリティの人々も、「障害」(=ディスアビリティ)を経験している人々であると考え、今回のテーマの一つとして扱いました。

まず前提として、京大ゼミが「障害」という概念を《「個人にその原因や責任がある」「治療すべきである」というような個人モデル(医療モデル)的な障害観(=インペアメント)ではなく、社会がつくりだすものとしての「障害」(=ディスアビリティ)》として定義した上で「セクシュアル・マイノリティ」を論じるのであれば、「障害」は「セクシュアル・マイノリティ」の側にあるのではなく、「セクシュアル・マイノリティ」を抑圧・偏見・排除の対象として扱う「社会」の側にこそあると言うべきであろう。

また、ここからは「セクシュアル・マイノリティは障害者ではない」という発言についての、本ゼミの運営メンバーの意見です。このような発言をすることは、《他者》(=排除・抑圧される者)を生み出すことへと繋がると考えます。

そのような発言には、否定的なもの・忌避すべきものとしての障害観があると言えるのではないでしょうか(少なくともこのように受けとり、抑圧されてしまう人は存在します)。“障害者と「私たち」”というようにスラッシュを引くことで誰が傷を負うことになるのか、誰が排除されているのかーー。

もちろんこのような発言をされた方が障害者差別をしているなどということは一言も申しておりません。ただ、本ゼミでは様々なテーマを扱うにあたり、一つひとつの発言・行動が《他者》化される存在を生み出してはいないかを丁寧に検討しなければならないと考えています。

 以上の理由から、「セクシュアル・マイノリティは障害者ではない」という発言に関して、私たちは手放しで肯定できません。

あらためて指摘するのも馬鹿馬鹿しいが、「障害者」の存在を《否定的なもの・忌避すべきもの》として“他者化”するべきでないことと、「セクシュアル・マイノリティ」を「障害者」呼ばわりすることは、当然ながらまったくの別問題である。

「セクシュアル・マイノリティ」を「障害者」呼ばわりする発言に対して言うべきことは、まさに「セクシュアル・マイノリティは障害者ではない」という以外にありえない。

したがって、仮に「セクシュアル・マイノリティは障害者ではない」という発言に“排除・抑圧”されたと“受けと”る何らかの「障害者」が存在したとしても、そのような文脈を履き違えた「誤読」「曲解」に追従する必要は、いっさいない。

京大ゼミは、そうした非理性的な「障害者」の心情を手前勝手に代弁する一方で、異性愛・非シスジェンダーの多様な性のありようを「セクシュアル・マイノリティ」という雑な言葉で一括りにしたあげく「障害者」というこれまた雑なレッテルを貼りつける行為によって“排除・抑圧”される当事者の存在はどうでもいいと考えているのか。

  • なお問題のゼミに「セクシュアル・マイノリティ」として登壇した【町田さん】とは町田奈緒士(なおと)というトランス男性の当事者。あとの2名は詳細不明。

そも「セクシュアル・マイノリティは障害者ではない」という言葉を聞きたくないのなら、京大ゼミが初めから「セクシュアル・マイノリティ」を「障害者」呼ばわりしなければよかっただけの話だ。

元より京大ゼミが「セクシュアル・マイノリティ」を「障害者」呼ばわりしたことで批判を浴びたのは、そのようなくだらない言葉遊びの問題ではない。

いかなる意図や“政治的正しさ”に基づくことであろうと「同性愛」を「障害」と見なす発想の行き着く先が、まさに「同性愛」を“治療”して「異性愛」に矯正するという強制異性愛社会の体制強化にほかならないからだ。

あまつさえ京大ゼミは、そのような自身に向けられた批判を逆手に取り、批判者の「障害者」に対する差別意識をあげつらってみせる。

だが学生の本分は勉強である。賢しらぶった“意識お高い”アピールの前に《ゲイ治療》にまつわる人類の負の歴史について一から学ぶべきであろう。

もっとも一口に「セクシュアル・マイノリティ」といってもそのありようは様々で、中には「性同一性障害者」や「性嗜好障害者(一部の小児性愛者など)」のように、自ら主体的・積極的に“治療”を希望する人々も存在する。

「セクシュアル・マイノリティ」が多様であるなら「障害」という概念のとらえかたもそれぞれ異なる。京大ゼミの誤謬は、そのようなセクシュアリティの多様性・個別性から目を背け「セクシュアル・マイノリティ」という形骸化された観念に一元化する、まさしくマジョリティ目線の“植民地主義的”な感性を露呈してしまったことにある。

そうした「セクシュアル・マイノリティ」という用語自体の問題については、かねてより当事者からも指摘されてきた。要点のみ引用するが、示唆に富む内容なのでリンクをたどって全文読んでください。

「すこたんソーシャルサービス」内『ABOUT US|“LGBT”という言葉について』より抜粋(強調は引用者):

https://sukotan.jp/ABOUT_US/about_top.html

  「セクシュアル・マイノリティ」は、アメリカの学者たちが使い始めた言葉で、ヨーロッパ・アメリカ社会では、日常的・一般的に使われていません。アメリカ・カナダ等に住む当事者の方からの情報でもそれは裏付けられます。

(中略)

 また、実は英語では、どんな文脈で使うときも、「セクシュアル・マイノリティーズ」“sexual minorities”と複数形で言って、決して「セクシュアル・マイノリティ」“sexual minority”と単数形では言いません。なぜなら、多様な性のあり方に対応して、性に関する「少数派」と言っても、さまざまな当事者を含むわけで、一枚岩ではないからです。この違いが、日本で誤解を呼ぶことになるのです。

 日本語で「セクシュアル・マイノリティ」という単語を聞いた時も、極めて同質の人間で構成されている、あるひとつのグループを連想してしまいがちです。「性」に関する「少数者」はひとつの集団をなしていて、場合によっては、どこか特定の地域だけに住んでいるというイメージを持つ人もいます。「ゲイ」とくくられても、その中には、多様な人がいるのに、「全てのゲイは○○である」とまとめてみんな同じであるかのように語られてしまうことがよくあることから連想してください。

(中略)

 同性愛者と性同一性障害の人たち(広くはトランスジェンダーの人たち)の抱える課題は、共通のものも少なくありませんが、個別に異なっている部分もあります。例えば、医療の力を借りて手術が必要な性同一性障害の人たちに対して、同性愛者は、同性愛を「治す」治療を拒否します(というか医学的にも治療の対象からはずされています)。ですから、社会に対して、偏見や不利益の解消、またさまざまな保障を求めていくときも、簡単に何でもいっしょに行動できるわけではなく、それぞれが活動する中で、いっしょにできることをじっくり検討しながら進めていくのが筋です。

(後略)