百錬ノ鐵

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「百合に挟まる男」を擁護する「レズビアン作家」王谷晶(tori7810)の“バイセクシズム”~あるいは「百合に挟まる男」の批判的考察

現代日本の文壇において「レズビアン」をカミングアウトしている数少ない作家の一人に、王谷晶@tori7810)がいる。

Twitterのプロフィール(2022年10月時点)には次のように書かれている。

小説家/うまい酒とBLとフィクションのために働くレズビアンフェミニスト/全ての差別に反対

王谷晶はBLの嗜好を表明する一方で、自らが「当事者」である「百合」については、これまで積極的に言及してこなかったように思う。たんに興味がないのか、意図的に言及を避けているのかはわからないけれど、少なくとも王谷の読者ではなくアカウントをフォローもしていない私が目にする機会はなかった。

そんな王谷晶の、百合文化に対する姿勢が垣間見えるツイートがRTで回ってきた。

2ツイート目以降は無関係の一般人maelstrom@haifi2ch)によるものだが、王谷の発言を補足するものであるため、便宜上これらを一まとめにして扱うことにする。

さて、この「百合に挟まる男(あるいは百合に挟まりたい男)」という言葉は、百合文化におけるパブリック・エネミーとして位置づけられている感がある。

  • なお「百合に挟まる男」と「百合に挟まりたい男」とでは言葉の上での意味が違ってくるけれど、「百合に挟まる男」に“なりたい”と公言する「男」は即ち「百合に挟まりたい男」でしかないので、ここでは両者を同じものとして扱う。じっさい、とくに使い分けはされていない。

ところがネットミームの宿命からか、いつしか言葉自体が勝手に独り歩きを始め、その文脈・背景を知らない“イッチョカミ”“知ったかぶり”の輩が言葉尻だけを捉えて短絡的な反応を示す場面にも直面するようになった。

そこへきて「百合に挟まる男」に対する百合ユーザーの批判は、あたかも百合作品に男性キャラクターが登場すること自体を感情的に拒絶しているかのような誤解を受けている。

中にはそうした偏狭なマニアが一部に存在することも事実だけれど、そのじつ百合作品に男性キャラクターが、いわば「当て馬」「噛ませ犬」として登場することは、けっして珍しくないどころか、むしろ一つの“定石”“お約束”ですらある。それを頭ごなしに否定するのであれば『マリア様がみてる』『青い花』『citrus』『神無月の巫女』といった主要な百合作品をことごとく切り捨てることになってしまう。

しかるに本来「百合に挟まる男」とは、ようするに、レズビアン女性のカップルと「3P」がしたいという欲望を公言する「男」の存在を想定したものだ。ただ「3P」「SEX」「ファック」といった直接的な表現を用いると、あまりに生々しいため「百合」に“挟まりたい”という抽象的な言い換えがなされているようである。

男性異性愛者向けのポルノグラフィにおいて、そのような趣向がこれまた“定石”“お約束”として用いられてきたことから、百合コンテンツを嗜む男性異性愛者のユーザーもまた、しばしばそのような「男」と誤解・混同されがちなきらいがある。しかし言うまでもなく、男性異性愛者が百合コンテンツを嗜むことと、百合作品に登場する女性キャラクターたちと男性である自身の性行為を妄想することは、まったく別次元の欲望であり「当事者」の一人として異議を唱えたい。

話を戻すと「百合に挟まる男」を議論するにあたって重要なのは、たんに男性異性愛者が複数の女性との性行為を望むというだけでなく、その相手となる女性を、あえて《男を知らない》あるいは《男嫌い》の「レズビアン(非異性愛者)」に設定している点だ。

それは言い換えるなら、男性異性愛者が複数の女性との性行為を通して快楽を得るだけでは飽き足らず、レズビアン(非異性愛者)」に〈男性(異性)〉との性行為を強要することで、嗜虐的・倒錯的な優越感を味わう、一種のレイプ・ファンタジーの産物である。

よって《男が百合に挟まる》という行為ないしシチュエーションは、必然して「性暴力(レイプ)」とならざるをえないのだ。

もとより今日の「百合」という用語は、前述のとおり主に漫画などのフィクション作品において、女性キャラクター同士の恋愛関係およびその表現を指す。その意味では、女性がバイセクシュアル(あるいは異性愛者)同士の恋愛関係であっても「百合」は成立することになる。

しかし、こと「百合に挟まる男」といった場合には上述の動機とその歴史的経緯により、むしろ本来の意義・語源における「百合族」すなわち「レズビアン」――まさしく〈女性〉であり〈同性愛者〉であり、なおかつ〈非異性愛者〉である人々が想定される。

また一般的な「百合萌え」の男性が、あくまでも創作物として女性同士の恋愛を表現するコンテンツを消費するに留まるのに対し、

「百合に挟まる男」は人間としての「レズビアン女性」自体に性欲を向けるという違いがある。

これによって「百合に挟まる男」の存在は、「レズビアン」の性的主体性(セクシュアル・アイデンティティ)を侵害する、ヘテロセクシズム(異性愛至上主義)およびレズボフォビア(レズビアン嫌悪)の「暴力装置として機能するのだ。

具体例を挙げると、ネット上でカミングアウトしているレズビアン当事者(あるいはバイセクシュアル女性も)の多くは、見ず知らずの男性から《実際の行為を見学したい・混ぜてほしい》というメールを受け取った経験があるという。「百合に挟まる男」が指し示すのは、そういう「男」である。

もっとも「百合」がフィクション作品の用語である以上「百合に挟まりたい」と公言する男性が、かならずしも現実の「レズビアン当事者」に性的加害を働くとはかぎらないとする意見もあるだろう。

しかし実際には、これをマンガの表現だけの問題と割り切るわけにはいかない。なぜならば女性の百合作家が、男性読者から「百合ップル(※女性キャラクター同士の恋愛関係・カップリング)の間に自分も挟まりたい」といったセクシュアル・ハラスメントに曝される事例も発生しているからだ。

仮に「百合に挟まる男」が一つのセクシュアリティとして肯定・尊重されるべきであるとするならば、そのような百合作家のセクハラ被害をセクシュアル・ハラスメントとして適切に対処することが不可能となる。

ossie.hatenablog.jpそのような「百合に挟まる男」のわかりやすい事例が、ちょうど上掲ツイート群と同じタイミングで流れてきたので、ご覧いただこう。

この場合の「百合」が、仮にバイセクシュアル女性を想定したものであったならば、あらかじめ〈両性愛者〉である女性が男性と性行為することを“堕とされる”とは形容しないであろう。したがって、ここでいう「百合」とは広義の百合表現のことではなく「百合族」すなわち「(男を知らない・男嫌いの)レズビアン」の符丁であることに疑いの余地はない。

  • もっとも男性異性愛者向けポルノグラフィにおいては、男性主人公が「レズビアン」の女性をレイプした後で、じつは【彼女】が過去に男性経験のある「バイセクシュアル」であったという理由でレイプを正当化するといった後付け設定も散見する。
  • いずれにせよ「レズビアン」のみならず「バイセクシュアル女性」への偏見も露呈しており、まさに《ポルノの形を借りたヘイトスピーチ》に他ならない。

その上で《百合が男に堕とされるのが好き》「一つのジャンル」として認めるべきとする主張は、たとえば小児性愛をLGBTと同様の「マイノリティ」として保護するべきというのと変わらない、差別主義者特有の屁理屈だ。

そも《百合が男に堕とされるのが好き》というセクシュアリティ自体、神聖なもの・美しいものを穢すことに背徳的な興奮を得るという嗜虐趣味の一種であり、まさに「百合」を“神聖視”する思想に依拠している。

つまり「百合」を勝手な思い込みから一方的に“神聖視”した上で、それをわざわざ“穢す”という、なんとも倒錯したマッチポンプを自作自演しているにすぎない。

言い換えるなら「巨人ファン」も「アンチ巨人」も同じ「巨人軍(読売ジャイアンツ)」という球団に注目していることに変わりないという理屈であるが、それをもってmaelstromは「男の百合萌え」を「百合に挟まる男」と同一視するのだ。

しかし、そのような極論に至るのは、たんにmaelstromが「百合」という文化を否定的に捉えているがえゆえの偏見の表れでしかない。

それでも「百合」を肯定するのはいいとして“神聖視”するにまで至ったならば、やはり「レズビアン」の存在を特殊視・異常視する裏返しの「差別」に陥ってしまうのでは? といった危惧には、たしかに一理あるかもしれない。

じっさい百合作品の作風や世界観は多様であるが、もっとも「百合」すなわち女性同士の恋愛関係が、ごく日常的かつ自然な事柄として表現されるものが大半であり、それ自体をことさら“神聖視”するような作品はごくわずかだ。

百合コンテンツのユーザーからは「百合は尊い」「百合は至高」といった物言いがなされることもあるけれど(個人的には苦手なノリであるが)そのようなネットミーム特有の修辞的な言い回しを額面通りに受け止めるのは、それこそ“ネタにマジレス”というものであろう。

むしろ「百合」を必要以上に“神聖視”するか、それともその“神聖”なるものを“穢す”かの両極端な価値基準しか認められない視野狭窄で硬直した思考に陥っている点において、そのじつmaelstromのごとき「アンチ百合」こそが「百合に挟まる男」と親和性が高いといえる。

何より「百合に挟まる男」というのは、まさに「男」の加害性・差別性の問題であるにもかかわらず、なぜか「百合(あるいはレズビアン当事者)」の問題に責任転嫁されている。

ようは「痴漢されて悦ぶ女性もいるから痴漢を取り締まるべきではない」と言っているのと変わらない。性暴力をめぐる議論において、加害者の存在が透明化され、被害者の“心のもちよう”に還元されてしまう悪しき風潮が、ここにも表れている。

そこへきて王谷晶の発言は、上掲のポンチ絵に表されるヘテロセクシズムとレズボフォビアに根差した「百合に挟まる男」の欲望に対して「レズビアン当事者」の立場から“お墨付き”を与える格好となっている。

しかし《女同士の結び付きがその程度で崩れる一時的で脆弱なもの》でないことを証明するために、敢えて「百合(レズビアン女性)」を〈男性(異性)〉とSEXさせるという発想は、

じつに倒錯してはいるものの、けっきょくのところ〈非異性愛者〉に対して「異性愛」を強制する試みであることに変わりない。

こうした類のヘテロセクシズム言説として他に《百人の男とSEXしてみてから、自分が“本当に「レズビアン」であるのか”を判断すべきだ》というものもあるが、本質は同じだ。いずれにせよ、そのようにして女性同士の恋愛の「強さ?」を“試す”という発想の傲慢さ・暴力性についても特筆すべきであろう。

主人公たちが何らかの「試練」を乗り越えて成長するという筋書き自体は物語の定型である。しかし、ここで問題となるのはそうした構造が、女性キャラクターに対して《男性(異性)を愛すること》を成長・成熟のための「通過儀礼」として設定する一方、〈男性(異性)〉との恋愛ないしSEXを経験しない「非異性愛」の状態を《未成熟(あるいは成熟拒否)》と決めつける「前提」に成り立っている事実だ。

そのような「偏見」を疑いもしない、独善的かつ封建的な“差別意識”の根底にはヘテロセクシズム(異性愛至上主義)と併せてミソジニー(女性蔑視)も内面化されている。

もっとも、このような世界観については〈男性〉の存在を〈女性〉が成長・成熟するための“踏み台”として記号化(非人間化)することで、むしろ《女性上位》を賛美しているのだと主張する向きもある。

しかし、裏を返せば〈女性〉が成長・成熟するにあたっては〈男性〉の存在を不可欠とするものであり、けっきょくのところ〈女性〉を〈男性〉に依存する――それこそ、女はペットボトルの蓋を開けるにも男に頼らざるをえないのだ、といった――非主体的な存在に貶めている。

ossie.hatenablog.jp男性異性愛者向けのポルノグラフィにおいて、そうした「百合に挟まる男」の存在は、より直截的に「ペニス」として表象されてきた。ようは《ペニスを必要としない女性同士のSEXは不完全である》という決めつけ・思い込みにすぎないが、

しかしじつのところ「男」が「百合」に“挟まる”という欲望を満たす上で「百合」を必要としているのは、まさに「男」の側なのだ。

煎じ詰めれば、それは女性同士の性愛関係に〈男性〉が介入・干渉する“試み”を正当化する、もっともらしい口実でしかない。

個々の主体性(アイデンティティ)をもつ「百合(レズビアン女性)」に対して、いったい何の権限で、そのような「試練」を課すのか。

それこそ《女同士の結び付きがその程度で崩れる一時的で脆弱なもの》という「前提」「偏見」があるがために、女性同士の恋愛を“ありのまま”に見守ることができないのではないか?

そして繰り返すがその「前提」には、やはり《男を愛さない女は未成熟・成熟拒否》《たとえ「レズビアン」であっても「女」である以上は「男」を愛せるはずだ・愛するべきだ》といったヘテロセクシズムとミソジニーに根差す《有り触れた偏見》が横たわっているのである。

あまつさえ、そのような「百合に挟まる男」に表象されるヘテロセクシズムとミソジニーに対しての批判が《コンバージョンセラピー的な差別思想》であり《クソなヘテロオタク》《なんら変わりない》とは、まさしくmaelstrom自身に当てはまる言葉で他人を攻撃しているにすぎない。

同性愛者の性的指向を“矯正”する「矯正治療(conversion therapy)」の目的は二通りある。まず同性に対する性的欲求をなくすこと。そして異性に対して性的欲求を抱くように働きかけることである。

実際の「矯正治療」は〈同性愛者(非異性愛者)〉だけでなく〈両性愛者〉も対象とされてきたが、少なくとも「バイセクシュアル女性」を男性とSEXさせたとしても〈両性愛者〉の性的指向(両性指向)を“矯正”することにはならない。よって、ここでも「百合」は〈同性愛者(非異性愛者)〉すなわち「レズビアン女性」が想定されていることになる。

また人間の性的欲求をめぐる問題に関しては、いわゆる「恋愛感情」と「性欲」を区別できるのか? 両者の線引きは存在するのか? といった、さらなる疑問も出てくる。

そこをいくと王谷が示す《異性とファックした程度で女同士のラブは揺らがんし》という事例は、両者を排他的な二項対立として設定することで、同性とは「ラブ」をするが、異性とは「ファック」をするという一つのバイセクシュアリティを理想化したものだ。

このような思想は《「精神的な同性愛」は認めるが「肉体的な同性愛」は許さない》というヘテロセクシズム言説とも相性が良く、じっさい当該ツイートは100件を超える「いいね」を獲得している(2022年10月時点)。

こうした「レズビアン」を“矯正”して〈非同性愛者〉にする試みが、〈同性愛者〉であることを認めた上で〈男性(異性)〉とSEXするように“矯正”するという方針に転換されたとして、それは《よりましな矯正治療》といえるだろうか?

否、そも「矯正治療」自体をやめるべきだ。なぜならばそれは「レズビアン」の性的主体性(セクシュアル・アイデンティティ)に干渉する《人権侵害》以外の何物でもないからだ。

言い換えるなら王谷晶は「レズビアン」をやめる必要はないから「バイセクシュアル」を目指せばいいと言っているにすぎない。

あるいは「レズビアン」に対して《女性とは「ラブ」をし、男とは「ラブ」をせずに「ファック」だけをする》という在り様を求めたところで、それはレズビアンアイデンティティの肯定・尊重ではなく、バイセクシュアルの一つの在り様を押し付けているだけである。

すなわち、そのようなレトリックはヘテロセクシズム(異性愛至上主義)」が「バイセクシズム(両性愛至上主義)」に“上位互換”されたものだ。しかし、そのじつ「レズビアン」に対して《男性(異性)を愛すること》を要求・期待している時点で、けっきょくのところバイセクシズム」とは形を変えた「ヘテロセクシズム」に他ならない。

  • 付言すると「バイセクシズム」が指し示す「バイセクシュアル」とは、あくまでも「ヘテロセクシズム」の政治的イデオロギーに基づいて言わば“超人化”された、観念・表象としてのバイセクシュアル像でしかなく、現実社会を生きる「バイセクシュアル当事者」のエンパワーメントに何ら繋がるものではない。
  • したがって「バイセクシズム」が社会に浸透しつつある状況は、現実の《バイセクシュアル差別》が解消ないし緩和されたということをまったく意味しない。
  • 元より《バイセクシュアル差別》とは、性的指向が変化・流動するというセクシュアリティに対する「差別」ではなく、その変化・流動する先に〈同性(非異性)〉を含んでいることを理由とした「差別」であり、その意味では《同性愛者差別》の延長線上にある。
  • しかしながら、一方で「バイセクシュアル(両性愛者)」が〈同性愛者〉であると同時に〈異性愛者〉としての政治的・社会的立場性を――当人の内面的なアイデンティティや“生きづらさ”などといった問題とは別に――担っていることもまた事実であり(だからこそ上に見た「バイセクシズム」のような形で「ヘテロセクシズム」の差別構造に組み込まれる)、その政治的・社会的特権性について指摘することは《バイセクシュアル差別》の告発・批判を無効化する「バイフォビア」には相当しない。

そして、そのようなバイセクシズム」を具現化するギミックこそが、まさに「百合に挟まる男」の存在なのである。

男性からすれば「レズ(※この場合は女性同士の性行為を指す。文脈上の判断から、あえてこの語を用いる)」を鑑賞しながら「レズビアン」とSEXすることで性欲と優越感を満たすことができ、「レズビアン」はその代償として女性同士で愛し合うことの承認を得る。両者の関係性は、一見するとwin-winに見えるかもしれない。

しかし、それは錯覚だ。女性が女性同士で愛し合うのに、もとより男性からの承認など必要ないからだ。

さらにいえば「レズビアン」だろうが「バイセクシュアル」だろうが、当人の内面的な自認がどうあろうと〈異性〉をパートナーとして選んだ時点で、その人は〈異性愛者〉としての社会的・政治的立場性を獲得し、併せてその社会的・政治的特権性を担うことになる。

そのような人間のありようを無批判に美化する「バイセクシズム」の表現、およびそれを無批判に肯定・称揚する評論は、たんなる表現に留まらず「百合に挟まる男」と同様に現実社会の「差別装置」として機能している。

むろん王谷が「レズビアン当事者」として「バイセクシュアル」を目指したいというのであれば(私の知ったことではないが)それは自分の私生活で実践すれば良い。もっとも「バイセクシュアル(両性愛)」とは《両性を愛する可能性》に“開かれて”いる状態を指すのだから、人が「バイセクシュアル」を“目指したい”と思った時点で(あえて“目指す”までもなく)すでに「バイセクシュアル」に“なっている”のだが。

だが、そのような「バイセクシズム」の価値観を人に押し付けるのは間違いだし、ましてや百合作品にそれを求めるべきでもないだろう。「百合」を《ヘテロセクシズム=バイセクシズム》の道具にしてはならない。

また「レズビアン当事者」である自身の作品において、そのような「バイセクシズム」を表現したならば、それは「非当事者」による「バイセクシズム」の表現と同様に、その差別性・特権性を批判されるべきである。

* * *

ところで、かつて「レズビアン・タレント」という枠組みでマスメディアに登場していたある人物(今はどこで何をしているのかわからない)も《レズビアンは「レズビアンとSEXしたい」という男性の気持ちに寄り添うべきだ》と、私に主張していた。

王谷晶にかぎらずマスメディアに登場するレズビアン・タレント」の類は、ほぼ例外なくと言っていいほど「レズビアン」の非異性指向(※この場合は、レズビアンが男性を性的対象に含めないこと)を声高に否定してみせる傾向がある。

ossie.hatenablog.jp

レズビアン当事者」であっても――否「レズビアン当事者」であるからこそ、ある意味では「非当事者」以上に「レズボフォビア」を内面化し、社会の《レズビアン差別》に過剰適応しようと試みるのだろう。

そう考えると上掲ツイートの「ファック」というマチスモじみた露悪的な物言いも、そのじつ「百合に挟まる男」を許容する社会とどうにか折り合いをつけて、この社会のマジョリティに成り上がらんと虚勢を張っているかのような痛々しさがある。

だが前述のとおり「百合に挟まる男」は、けっしてLGBTと同様に保護されるべきマイノリティなどではなく、社会最大のマジョリティである〈男性異性愛者〉の一派に他ならない。

【彼ら】は「小児性愛者」などと同様に、たしかに〈男性異性愛者〉の中では“少数派”であるかもしれないけれど、その欲望の対象となる「レズビアン女性」に対しては明らかなマジョリティであり、ゆえにその欲望の表明・公言は、それ自体が「レズビアン」に対する非物理的暴力の行使とならざるをえないのだ。

それにもかかかわらず――否、それだからこそ「百合に挟まる男」を自ら許容し、ひいては「レズビアン」との連帯を訴えることは「レズビアン当事者」にとって処世術となりうる。

しかし〈異性〉をパートナーに選ぶ人が必然して〈異性愛者〉としての社会的立場性を獲得し、その特権性から免れないのと同様に、

たとえレズビアン当事者」であっても「百合に挟まる男」と連帯するのであれば、それは「レズビアン」を迫害し、嘲笑する立場に回るということだ。

何が「差別」であるかは「当事者」が決めるという“当事者原理主義”の発想は、裏を返せば「当事者」の“お墨付き”さえ得られれば「差別」を「差別」でなくせてしまうという《差別主義者の論理》を可能にする。

レズビアン当事者」の発言であるからといって無批判に“聖域化”する考え方は、「百合」を“神聖視”する発想と同様に、けっきょくのところ「レズビアン」の存在を体良く社会から隔離する思考の一環にすぎない。

 

 

 

『評論家を燃やせ!(いいニオイさ)』更新情報

映画評論サイトを更新しました。

今回は以下の6作品のレビューを追加。基本的にはかつて公開していた個人サイトの記事を加筆修正した内容ですが、『空の記憶』と『750ライダー』は新規書き下ろしとなります:

http://zakuro-no-mori.girlfriend.jp/

「百合」のレゾンデートルを完全否定する松澤千晶の《頭のおかしな持論》の自己矛盾~「 #コミック百合姫 」2022年9月号『オフレコ×ガールズトーク』 #百合姫

本年度1月号からリニューアルした「コミック百合姫」は、連載作品の他に『オフレコ×ガールズトークと題し、各界の女性有名人の「百合」にまつわるエピソードや思いを述べるコラムを掲載している。

自分のことを棚に上げているようで気が引けるが、私は他人が「百合」について論じた文章を読むことを好まない。なぜならばそれらの多くは「百合論」にかこつけて、論者自身が内面化したヘテロセクシズム(異性愛至上主義)やレズボフォビア(レズビアン嫌悪)を無批判に(あるいは形だけの自己批判を装いながら)垂れ流すだけの、言わば「評論の形を借りたヘイトスピーチにすぎないからだ。

特に、第9回にあたる今号(2022年9月号)のフリーアナウンサー松澤千晶による『何を以って百合とするのか』は、さすがに常軌を逸していると言わざるをえない内容だ(P.472 ※強調は引用者)。

 百合とは、一般的に女性同士を表す言葉だとは思いますが、自分が百合と感じるものは、そうとも限らないのではないか。仮に男女だとしても、あるいは男性同士でも、もはや性別など知らずとも、「百合」とは、その二人の間にある空気や関係を示す言葉なのかもしれないと私は考えています。もちろん、これは頭のおかしな持論であり、異論はおおいにあると思います。

松澤がこのような「持論」に至ったのは《物心がつく前の幼少期》にサンリオのキャラクター【キキララ(リトルツインスターズのキキとララ)】を女性同士と“勝手に勘違い”したことにあるのだという。むろん、これは松澤がキャラクターの性別を誤認していたというだけの話だから【キキララ】というキャラクターの設定とも「百合」という概念の定義とも一切関係がない。

ところが松澤は、二人が男女であったことを知ってもなお《キキとララに対する百合は諦めきれず》《何故この二人を「百合」と感じたのかを分析した結果、性別というよりは、その佇まいから、お互いのパワーバランスが等しく感じられたからだという考えに至》ったのだという。

これに関しても松澤は《もちろん、これは頭のおかしな持論です。》というエクスキューズをつけている。これは一見すると自嘲的であるようだが、あらかじめ「頭がおかしい」と自己批判してみせることで、他者からの批判を一方的に退ける、そのじつ傲慢で独善的な態度だ。

 この考えは未だ根強く自分の中にあるもので、その後、『美少女戦士セーラームーン』などの通過儀礼を経て(『少女革命ウテナ』が百合か否かについて触れると10000字は必要なので割愛させていただきます。)私が本格的に「百合」というものを確信したのは、『マリア様がみてる』3巻・いばらの森における佐藤聖久保栞でした。

 この二人の関係を目にしたとき、愛とも、恋とも、友情とも違うような…どの言葉にも当てはまらず、しかしながら、どの思いも含むような、お互いを同じくらい求め合う関係だと感じたのを今でも覚えています。一般的な言葉を使うと「受け」や「攻め」といったものを感じなく…いえ、どちらも受けであり、攻めである。そう感じたのです。

まず「受け/攻め」というのは、BL業界の専門用語であり「一般的な言葉」ではけっしてない。

この時点で、すでに“一般的な”言語感覚から逸脱しているけれど、いずれにせよ松澤は、ようするに対等な(パワーバランスが等しい)関係性のことを、性別に関係なく「百合」と名状すべきという考えのようだ。

しかしその定義に従うのであれば、たとえ女性キャラクター同士であっても、先輩と後輩、先生と生徒、上司と部下、主人と従者、姫と騎士……など非対等な「パワーバランス」に基づいた関係性は、すべて「百合」と認められないことになってしまう。

ようは松澤が、現行の百合文化のありようと無関係に、ただ自分好みの理想にあった偏狭なシチュエーションのことを独自の言語感覚で「百合」と呼んでいるだけであり、一方で松澤の気に入らないシチュエーションは言外に「百合」から駆逐される。他者性の欠落した、きわめて自己中心的で不寛容な“オレ様定義”に他ならない。

もとより言葉というものは共有されてこそ意味をもつのだから、自分が「百合」と“感じた”から「百合」なのだ、とか言い張られてもこちらの知ったことではないし、ましてやそういった価値観を人に押し付けるのは迷惑だ。

何より松澤自身が認めているとおり、このような「百合論」は本質的な自己矛盾を抱えている。

 そして、私の中で、その「百合とされるもの」を追求していくと、やがて言葉は用をなさなくなり、上記の佐藤聖久保栞に関しては、「百合」という言葉に収まるわけがなく、「聖と栞」以外の何物でもないという結論に至りました。

 しかしながら、この状況をわかりやすく伝えるとき、こうして彼女たちを「百合」という言葉に閉じ込めようとしている。ああ、もし彼女たちが「百合」だと言われていることを知ったら、どんな顔をするでしょう。きっと何事も無かったかのように二人は少しばかり微笑んで、こちらのことなど相手にせず、その場を立ち去ることでしょう。そもそも、この二人は、もう……。

 このように、考えれば考えるほど、無限の可能性を秘めた二人を言葉の檻に閉じ込めて良いのか、知れば知るほど、時が経つほどに、言葉の持つ可能性と拘束力に苛まれるようになりました。

 (中略)言葉というものは時代と共に変化を遂げるものだと私は考えています。その上で、「百合」とは性別や状況にとらわれず、あらゆる思いの可能性を、その在り方を示す言葉であってほしい。

 そして、これもまた時代と共に更新されてゆき、「違う、そうじゃない」を繰り返し、「百合とされるもの」の解釈が当事者たちにとって報われる方向へ進むことを心より願っております。

「言葉というもの」《時代と共に変化を遂げる》のは当然のことであるが、それでも「百合」が男女や男性同士をも内包するなどという珍解釈は、今日において一般的なものではない。

強いて言えば、これもBL業界の符丁として「受け」の男性キャラクター同士のカップリングを示す「百合BL(ホモ百合)」という用語が存在する。ただしこれは「受け」を「女役」と位置付ける性別二元制のジェンダーバイアスにとらわれた発想であり、そのような「差別語」が一般化されるべきではないだろう。

ところが、上掲のごとき愚にもつかぬ《頭のおかしな持論》であっても「百合」の解釈は人それぞれ、といった安易な相対主義が蔓延る現状では「百合コミック専門誌」の中であたかも一つの傾聴すべき意見に祭り上げられてしまう。結果《自分が百合と感じるもの》という超個人的な内面の問題が、いつのまにやら《性別や状況にとらわれず、あらゆる思いの可能性を、その在り方を示す言葉》という普遍的な概念に格上げされてしまっている。

しかし「百合」でない《性別や状況》が存在するからこそ「百合」という言葉が成立する。裏を返せば《性別や状況にとらわれず、あらゆる思いの可能性を、その在り方を示す言葉》が仮に存在したとすれば、そのような言葉は言葉として、まさに“用をなさない”のである。

それでは「百合」である《性別や状況》とは何か。

今さら歴史的経緯を確認するまでもなく「百合」の語源とは、女性同性愛者(レズビアン)を示す「百合族」であり(※70年代中頃にゲイ雑誌『薔薇族』編集長・伊藤文學が提唱)、

よって「百合」とは、あらゆる《性別や状況》を示すものではなく、あくまでも「女性」同士の、そして「恋愛(あるいはそれに結びつく可能性)」を示す言葉として流通しているのだ。

あるいは女性同士の関係性について「恋愛」という“強い”言葉を用いることで、その他の可能性が否定されてしまうという言い分もあるだろう。

もとより「恋愛」とは、そのような排他性にもとづく関係性であるからだ。言うなれば、これは「恋愛」のネガティブな側面に着目した解釈である。

しかし「恋愛」が排他的であるというなら、それは当然ながら男女の関係性(異性愛)にも当てはまる問題だ。ところが男女の関係性においては、ことさらポジティブな側面ばかりが強調され、「恋愛」の解釈にためらいがないどころか《男女の「友情」は成立しない》というクリシェすらまかり通っているのが実情である。

ossie.hatenablog.jpすなわち「同性愛」を語る際には「恋愛」のネガティブな側面が強調される一方で「異性愛」を語る際には「恋愛」のポジティブな側面が強調されるというダブル・スタンダードが存在する。

そして、こうしたヘテロセクシズム(異性愛至上主義)とホモフォビア(同性愛者嫌悪)に基づくダブル・スタンダードが「百合」の定義の恣意性にも表れている。

もし「百合」が松澤の定義するとおり《性別や状況にとらわれず、あらゆる思いの可能性を、その在り方を示す言葉》であるとするなら、同時にそれを《無限の可能性を秘めた二人を閉じ込める言葉の檻》と見なす解釈は矛盾している。

つまり松澤が【佐藤聖久保栞】の関係性を言い表す際に《無限の可能性を秘めた二人を閉じ込める言葉の檻》として否定しているのが、まさしく本来の定義に基づいた、女性同士の「恋愛」すなわち「同性愛」の符丁としての「百合」であり、

しかし一方で松澤は「百合」を《性別や状況にとらわれず、あらゆる思いの可能性を、その在り方を示す言葉》として“曲解”してみせることで「百合」を肯定する。

加えて松澤は【佐藤聖久保栞】の解釈を通して「百合」を《愛とも、恋とも、友情とも違うような…どの言葉にも当てはまらず、しかしながら、どの思いも含む》と定義しているが、

それは女性同士の「恋愛」の可能性を否定する解釈をも《あらゆる思いの可能性を、その在り方》として許容することで、

じつのところ《しかしながら、どの思いも含む》という建前とは裏腹に「百合」の定義を「恋愛(同性愛)」から切断する言説として機能しているのだ。

このような“曲解”にもとづく「百合論」は、ひとえに「同性愛者(非異性愛者)」をネガティブな存在と決めつけるヘテロセクシズム(異性愛至上主義)に根差したホモフォビア(同性愛者嫌悪)の産物にすぎない。

言い換えるなら《性別や状況にとらわれず、あらゆる思いの可能性を、その在り方を示す言葉》という解釈は、まさしく「百合」をヘテロセクシズムおよびホモフォビアの正当化に都合良く“政治利用”する行為に他ならないということだ。

このようにして「百合」の業界には、どうにかして「百合」を本来の「恋愛」の定義から切り離し、女性同士の「友情(非恋愛)」の範疇に押しとどめようと画策する、姑息な“業界人”が跳梁跋扈している。

そしてこれは松澤千晶という一個人に限った問題ではない。げんに本年度「百合姫」2月号のキャッチコピーは《“恋”とか“愛”とか、勝手に決めるな。》というものであった。

もはや「百合姫」自らが「百合」のレゾンデートル(存在意義)たる《女性キャラクター同士の「恋愛」の表現》を完全否定しているのだ。

なぜなら女性同士の関係性を「恋愛」と認めたら、それは「同性愛」ということになり、ひいては《同性愛者は嫌悪されるべきである》という自らの同性愛者嫌悪(ホモフォビア)の対象となってしまうためだ。

ゆえに、そうしたヘテロセクシズムとホモフォビア――これがすなわち現代の日本社会の基幹そのものであることは言うまでもない――に基づく「百合論」が《当事者たちにとって報われる方向へ進む》などというのは“おためごかし”であり、結局は松澤自身のヘテロセクシズムとホモフォビアを正当化するのに都合良く「百合」の定義を恣意的に歪めているだけである。

  • このように書くと、例によって自分は同性愛に偏見はない、なんならレズビアンの友達もいる、と言い張るだろうけれど、そうした“言い訳にならない言い訳”自体が凡庸な《差別主義者の論理》でしかない。

そのようなホモフォビア(レズボフォビア)と誠実に向き合おうともせず《私の中》という排他的な精神性で自己の卑小な内面を“聖域化”したまま――さらには上に見た論理矛盾を何ら解決しないまま「百合」の定義・解釈を弄んだ末に、女性同士の「恋愛」どころか《女性同士》という前提すら否定する結果となった。

かくして「百合」の定義を《性別や状況にとらわれず、あらゆる思いの可能性を、その在り方を示す言葉》に改変する松澤の試みは「百合」の拡充ではなく、否定に帰結する。

そして松澤が認めるとおり、言葉は一定の「拘束力」を帯び、ゆえに既存の概念の定義を改変する試みは必然して、その定義に依拠した人々の価値観を根底から否定・否認する。

松澤にその意図がなかろうと、ヘテロセクシズムとホモフォビア現代社会の基幹を成している以上、それは松澤の「中」で自己完結する問題ではありえず、異性愛至上主義社会の政治的力学に依拠して《女性同士の「恋愛」の表現》の「可能性」を駆逐するものとなる。

言葉が《時代と共に更新されてゆ》くのを待つまでもなく、そのような《頭のおかしな持論》に対しては、松澤千晶と「コミック百合姫」編集部を除いた「百合」を愛する者すべてが、今この場で「違う、そうじゃない」を突きつけるべきである。

 

 

「百合」でなければ《レズビアン差別》は許される?~榛名千紘『この△ラブコメは幸せになる義務がある。』改題をめぐって #さんかくラブコメ

2022年3月10日。KADOKAWA主催「第28回電撃大賞・金賞」に入選した『百合少女は幸せになる義務があります』が『この△ラブコメは幸せになる義務がある。』と改題、さらには作者名やキャラクター名まで一新し、電撃文庫から刊行された。

これまで、公式ページの試し読みや選考委員のコメントなどを通して、可能な限り事前に得られた情報から同作に対する批判的考察を展開してきた。 

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「百合作品」を“全否定”する榛名千紘『この△ラブコメは幸せになる義務がある。』は「電撃文庫」の汚点

そして当日。本作は、いかなる結末を迎えたのか?

――それを書くことはできない。

なぜならば本作は、すでに続刊が予定されているとのことで、現時点では三人の関係性もあやふななまま、いったん幕引きとなるからだ。

しかし通常、続刊が予定されている場合であれば、タイトルに連番が付くはずである(本作の場合は①)。それをあえて付けずに全一巻で完結するかのように見せかけ、私のようなアンチであっても「たった一巻で済むのなら、とりあえず買ってみてもいいかな」と思わせるような売り方は、出版業界最大手のKADOKAWAにしては、いささか“セコい”手口ではないか。

このような“炎上商法(一種のクィア・ベイティング)”にお付き合いして差し上げるほど暇人でもお人好しでもないから、もはや本作について語るべきことは何もない。近所の書店にて開店と同時に購入し、読了した時点で、私自身の務めは果たしたものと判断する。

ossie.hatenablog.jpむしろ私が気になって仕方ないのは、この作品、さらには「百合」という概念を取り巻くオタク業界の状況だ。

ここに、選考委員・三上延(作家)の選評を引用する。

(前略)同性に恋愛感情を抱くことと、フィクションのジャンルにすぎない「百合」が混同されていることへの違和感がどうしても拭えませんでした。同性を好きになるキャラと百合愛好家のキャラは分けた方が物語としてはすっきりしたのではないでしょうか。 

まさに《同性を好きになるキャラと百合愛好家のキャラ》“分け”た上で、なおかつ見るも無残な異性愛至上主義の愚作と成り果てたのが、本作に先行して電撃文庫から刊行された『琴崎さんがみてる』である。だいいち現実社会においても、レズビアン当事者が百合作品を愛好することは何ら珍しくなく、三上の提案は的外れといえる。

もっとも《同性に恋愛感情を抱くことと、フィクションのジャンルにすぎない「百合」が混同されている》ということは、裏を返せば作者自身が「同性を好きになるキャラ」と「百合愛好家のキャラ」をとくに区別していないということの表れである。

前述のとおり作者は、作中で「百合」および【凛華】の同性の親友に対する感情を《親友同士が禁断の道へ踏み入ってしまう物語》《友情を遥かに逸脱した劣情》《よりにもよってこんなサブカル臭の強い趣味》《エキセントリックな趣味》などと(男性主人公のモノローグである地の文という体裁を借りて)露悪的な表現で侮蔑し、貶めている。

だが、これらについても、たとえば《フィクションのジャンルにすぎない「百合」》に向けられたものであり、同性愛者(同性を好きになるキャラ)を“差別”することにはならない――といった姑息な言い逃れも通用しないということだ。

三上は「百合」を《フィクションのジャンルにすぎない》と切り捨てるけれど、「百合」が女性の同性愛の表現である以上、当然ながらそこには、現実の女性同性愛者(レズビアン)に対する認識が、無自覚のうちに反映される。

作者自身は元より、百合コンテンツのユーザー、さらには「百合」を論じる人々に関しても、その“業”から逃れることはできない。

『この△ラブコメは幸せになる義務がある。』は『琴崎さんがみてる』に勝るとも劣らない差別的な内容でありながら、そのじつユーザーからの批判は意外と弱いように見受けられる。

それは出版前の時点で、タイトルから「百合」という語句を外したことにより、いわゆる「百合作品」のカテゴライズから外れ、百合コンテンツのユーザーたちの多くが関心を失ったことも大きいようだ。

――しかし、ここで疑問が生じる。

はたして「百合作品」でないなら、その内容が異性愛至上主義に根差した《レズビアン差別》であっていいのか?

仮に、異性愛至上主義に根差した《レズビアン差別》の内容が「百合」とカテゴライズされない作品(ヘテロブコメ?)でならば許される、と発想してみよう。

だが、それは裏を返せば《女性が女性を愛し、男性を愛さない》というセクシュアリティ(レズビアニズム)の表現が、あらかじめ「百合」とカテゴライズされている作品(百合作品)の中でしか許されない、ということだ。

“棲み分け”といえば、聞こえはいいかもしれない。

だが、けっきょくのところ、そのような欺瞞は異性愛至上主義を基幹とする現実社会(異性愛至上主義社会)において、女性同性愛の表現を排除・隔離する口実に「百合」が利用されているという側面を浮き彫りにしているにすぎない。

そして、そうした発想が現実社会においても女性同性愛、ひいてはレズビアンの存在を“特殊視・異常視”する勝手な思い込みに端を発し、また同時にそれを強化していくものであることは言うまでもあるまい。

当ブログでも折に触れて述べてきたが「百合」とは本来、作品を“枠”に嵌めるジャンル・カテゴリーなどではなく、あくまでも作中における人間関係の“解釈”に他ならない。

ossie.hatenablog.jpあるいは、逆に『この△ラブコメは幸せになる義務がある。』だとか『琴崎さんがみてる』、ひいてはこれもKADOKAWA(角川文庫)から文庫化された三浦しをん『ののはな通信』などの(おうおうにして作者自身は無意識・無自覚の)異性愛至上主義に根差したレズビアン差別》の作品を、ある種のジャンル・カテゴリーとして“隔離”したうえで、その中でならば治外法権的に《レズビアン差別》を許容する、などという発想が肯定されてもならない。

たとえ作品がフィクションであっても、それを作り出すのは現実社会を生きる人間であり、そしてそれらが娯楽コンテンツとして流通するのも現実社会の問題である。ゆえに「百合」を現実社会から“隔離”することは、それこそ“現実的に”不可能だし、また同じ理由で《レズビアン差別》を現実社会から“隔離”する口実も成立しない。

* * *

最後に。補足として本作の“原典”である神無月の巫女についても述べておきたい。

じつのところ『神無月の巫女』もまた、二人の女性に一人の男性を交えた三角関係を描いた作品である。

しかし『神無月の巫女』の主人公【来栖川姫子】は女性であり、いったんは男性の【大神ソウマ】に惹かれたものの、最終的には女性である【姫宮千歌音】の愛を受け入れる(アニメ版もコミック版もストーリー展開に違いはあるが、その結末は同じ)。

こうして異性愛至上主義からの脱却を果たした『神無月の巫女』は、そのエポックメイキングな偉業を成し遂げたことによって、ゼロ年代中頃に発表された作品でありながら日本の百合カルチャーにおける「古典(歴史的名作)」たりえているのだ。

繰り返すが『この△ラブコメは幸せになる義務がある。』の元のタイトルは『百合少女は幸せになる義務があります』というものであった。

  • なお本作の改題・改名をめぐるゴタゴタについて、作者の「あとがき」では何事もなかったかのように一切言及されていない。

また電撃文庫の各巻末には『電撃文庫創刊に際して』と題し、株式会社KADOKAWA取締役会長・角川歴彦による“檄文”が掲載されている。

(前略)
 「電撃文庫」は、そのように多様化した対象に応え、歴史に耐えうる作品を収録するのはもちろん、新しい世紀を迎えるにあたって、既成の枠をこえる新鮮で強烈なアイ・オープナーたりたい。
 その特異さ故に、この存在は、かつて文庫がはじめて出版世界に登場したときと、同じ戸惑いを読書人に与えるかもしれない。
 しかし、<Changing Times,Changing Publishing>時代は変わって、出版も変わる。時を重ねるなかで、精神の糧として、心の一隅を占めるものとして、次なる文化の担い手の若者たちに確かな評価を得られると信じて、ここに「電撃文庫」を出版する。

平成16年に深夜ローカルでテレビ放映された『神無月の巫女』の登場から、早18年。
この令和4年という「新しい世紀」《既成の枠をこえる新鮮で強烈なアイ・オープナー》によって導かれた「次なる文化」が、

「百合少女(レズビアン)」も「女」であるからには「男性(異性)」を愛することが《女の幸せ》なのだ――という、

それこそかつて『神無月の巫女』が否を突きつけた封建的な異性愛至上主義のイデオロギーへの退行であるとすれば、遣り切れない。

 

「百合作品」を“全否定”する榛名千紘『この△ラブコメは幸せになる義務がある。』は「電撃文庫」の汚点 #さんかくラブコメ

2022年3月10日、「第28回電撃大賞・金賞」を獲得した神奈士郎『百合少女は幸せになる義務があります』が『この△ラブコメは幸せになる義務がある。』に改題され(併せて作者の名義も「榛名千紘」に変更)、電撃文庫から刊行された。

それに先立ち1月7日、電撃文庫の公式サイト上で、各受賞作品の特設ページがオープンした。

dengekibunko.jp

特設ページ内では、作品の冒頭部分を発売前から試し読みすることができる。

なお、ここで作品の粗筋を再確認してみよう(引用は選評のページから)。

 平凡な高校生・矢代天馬はひょんなことから、クラスメイトでモデル顔負けの美少女・皇凛華が、品行方正なクラスのマドンナ・椿木麗良のことを溺愛していることを知ってしまう。クールな彼女の実態は、幼馴染の麗良ともっと仲良くなりたいが、素直になれずに空回りしてばかりのポンコツ少女だったのだ。
 仕方なく彼女と麗良の仲を取り持つ手伝いをすることになる天馬だったが、彼はナンパから麗良を助けたことをきっかけに、その麗良から猛烈に好意を寄せられるようになってしまい……!?
 ポンコツな彼女を応援するはずが、自分を巻き込んだ三角関係!? この三角関係が行き着く先は……!? 

http://dengekitaisho.jp/archive/28/novel2.html

“炎上”を受けてか、登場人物のネーミングの他にも、紹介文のニュアンスが若干異なっている。また本作を含め、受賞作品は出版に際して、本文も加筆修正するらしい。受賞時点の内容は、選考委員しか読むことができないので比較することは不可能だ。

しかしいずれにせよ、試し読みの時点から断言できることが一つだけある。

それは、本作が「百合」うんぬんを抜きに

男女の「ラブコメディ」としても、低俗極まる陳腐な代物でしかないということだ。

男子高校生の【矢代天馬】は、同級生の高飛車な美少女【皇凛華】が間違って机の中に入れた文庫本を開くと、それは百合小説であり、さらにはページの間に挟まっていた日記のようなものを読んでしまう。そこには【凛華】の、親友である美少女【椿木麗良】への愛が綴られていた。

秘めていた【麗良】への想いを、図らずも男性に知られてしまった男嫌いの【凛華】。ところが、どういうわけか【凛華】はその直後に突然、自分の服を脱ぎだし、ろくに面識もない【天馬】に肉体関係を迫る(!?)のである。

「ふ、ふふふ、フフフフ……思ってもみなかったわ。まさか私の純潔が、こんな男に……」
 漏れ出した不気味な笑いは決意か諦念か。
「お母さん、麗良、ごめんね……私、これから少しだけ、卑しい女になる」
「お前、さっきから何を……」
 よくわからない独り言をゴニョゴニョ呟く凛華は、流れる涙を乱暴に拭ってから凛々しく眉を上げた。そして、
「さあ、どっからでもかかって来なさい!」
(中略) 
「…………??」
 眼前の女がリアルにそんな奇行に転じれば、不可思議の一言に尽きる。シュールな沈黙が吹きすさんだのち、ハッと何かに勘付いた凛華は、
「そ、そう。わかったわ。まずは私から……そういうことなのね?」
「お、おい?」
 襟元にひっかけた指を乱暴に引き下げ、首のネクタイをしゅるりと解いた。はだけた服の隙間から色っぽい鎖骨が露になる。そのまま同じ指でシャツのボタンを上から一つ、二つ、順番に外していき、下着の形や柄が否応なく目に飛び込んでくる。
「待てよアホ!」
 叫んだのは、つんのめりそうな勢いで凛華の腕をつかんだ後。
「す、ストリップでも始める気か、お前!?」
 テンパりマックスの天馬に向け「かまととぶるんじゃないわよ、今さら!」濡れた瞳のまま心底ウザったそうに吐き捨てる女。
「ケダモノの考えなんて全部お見通しなんだから」
「は、はぁ?」
「どうせこれを機にじっくりたっぷり強請って、最終的には私を性奴隷にするつもりだったんでしょ? あーあー、男って本当に最悪。脳味噌が下半身に直結した最低の生物ね」
「誰がいつそんな要求をした!」
 ここはエロ漫画の世界じゃないんだぞ。真っ当な説教も今の彼女には届きそうにない。積層された理性の殻がもろくも剥がれ落ちる、そんな音を聞いた気がした。
「こっちはもう覚悟ができてるんだから。とっとと終わらせてくれる?」
「一方的に覚悟を完了するな!」
 思考回路が猪レベルに凝り固まっているらしい凛華は、じれったそうにスカートのホックへ手を伸ばす。させるかとばかりに天馬はその手首をつかまえるのだが、
「……って、あ、やばっ」
 不意にバランスを崩し、転倒。結構な勢いで床に打ちつけられたはずなのだが、思ったより痛みはない。凛華の体という柔らかなクッションがあったから。
「わ、わりぃ! 大丈夫…………ん?」
 這いつくばったままの体勢で謝る天馬だが、下にいる女が罵声を返してくることはなく。仰向けに寝そべった凛華は、薄らした谷間やそこからおへそに続く健康的なラインを隠すこともせず。半裸同然のまま微動だにしない。それは全てを受け入れている証拠。
 やるならやりなさいよ、という視線で串刺しにされる。
「勝手に抱かれるモードに入るなぁ!」
 お次は生気を失った目。ハイライトの消えた虚ろな瞳で凛華は遠くを見つめていた。
「天井のシミを数えるのも禁止!」
「……なに、悲鳴でも上げるのがお好み? はいはい『助けてママー』、これでいい?」
「ぼ、棒読みぃ」
「怖くなんかないわよ。体をいくら汚されても、心は……私の心は、麗良だけのものだから」

いかがであろうか。これが選考委員・荒木人美(電撃文庫編集長)をして《読んでいて嫌な登場人物が一人もおらず、特に主人公は「友達にいたらいいだろうな」という、読者との近さを感じさせるキャラで、著者のキャラクターメイキングの力量を感じ》たと言わしめた「読後感が爽やかな、完成度の高い青春ラブコメとやらの実態である。

また同じく選考委員の小原信治放送作家・脚本家)は《身近なジェンダー問題の入門書となり得る可能性も感じました。》と言うが、上掲のごとき侮蔑的な女性描写は「身近なジェンダー問題の入門書」どころかジェンダー問題」の事例そのものだ。元より「身近なジェンダー問題の入門書」KADOKAWAからも数多く出版されているのに、この手の下劣で醜悪なライトノベルを教科書代わりにするなど言語道断である。

お察しのとおり、この後【天馬】は【凛華】の誘惑を拒み、二人が肉体関係に至ることはない。だが、そうした展開も含めて「ラッキースケベ」という“お約束”を無批判になぞったまでのことである。

思えば前述の『琴崎さんがみてる』にも、ヒロインの清純さと対比させる形で、男性主人公に明け透けに肉体関係を迫る「ビッチ系ギャル」の女性キャラクターが登場した。こうした女性を「娼婦」と「聖女」に二極化するという「キャラクターメイキング」は、

まさしくレズビアンを含めた女性という存在自体を、そのじつ男性異性愛者の性欲に基づいて分断し“記号化・モノ化”する、女性蔑視の発露以外の何物でもない。

そのような【皇凛華】の「キャラクターメイキング」は、まさしくレズビアン差別》の根底に女性蔑視が横たわっている事実の、あまりにも見飽きた証左といえよう。

なお前述のとおり本作は出版に際して作者名を「神奈士郎」という男性名から「榛名千紘」という女性的な名称に変更しているが、仮に作者が女性であったところで女性蔑視(レズビアン蔑視)の表現が正当化されるわけではないことは言うまでもない。

もっとも下劣で醜悪なライトノベルを書き散らして金儲けすること自体に、とやかく言うつもりはない。そのようなものは、掃いて捨てるほどある。

問われるべきは、そのような異性愛至上主義の産物に「電撃大賞・金賞」という権威を与える一方で、

あたかも「百合」と称される女性の同性愛の表現が、それよりも本質的に劣ったものであるとの固定観念を無批判に追認した、荒木ら選考委員たちの社会的責任だ。

  • たとえば後に10巻以上も刊行されるロングセラーとなり、コミック化(なぜか作画者を変えて2度も)・アニメ化も果たした入間人間安達としまむら』は第13回の応募作品であるが、何の賞も与えられず敢えなく落選となっている。

じじつ『この△ラブコメは幸せになる義務がある。』は「百合」をテーマに選んでおきながら、

その中で「百合」すなわち【凛華】の【麗良】に対する感情を言い表す語彙といえば《親友同士が禁断の道へ踏み入ってしまう物語》《友情を遥かに逸脱した劣情》《よりにもよってこんなサブカル臭の強い趣味》《エキセントリックな趣味》などと、そのことごとくが百合カルチャーに対する無理解と蔑視に根差したものである。

ましてそのような「百合」に対する偏見・嫌悪を、作者・榛名千紘(神奈士郎)は“よりにもよって”百合作品の歴史的名作として知られる『神無月の巫女』のパロディという形で創作した。

それは電撃文庫KADOKAWA)がこれまで世に送り出してきた『神無月の巫女』を含む数々の百合作品の豊かな世界を、この一作をもって全否定するがごとき“暴挙”であり、

そのような作品の出版は、電撃文庫KADOKAWA)の歴史に残る汚点と言っても過言ではない。

(続く)

 

女性同性愛という「繊細なテーマ」を“理解”しない榛名千紘『この△ラブコメは幸せになる義務がある。』の致命的欠陥 #さんかくラブコメ

2021年10月8日、KADOKAWA主催の「第28回電撃大賞・金賞」を獲得した神奈士郎『百合少女は幸せになる義務があります』は、その発表と同時に、

タイトルに反して異性愛至上主義と《レズビアン差別》に根差した差別的な内容に加え、名作百合アニメから臆面もなく剽窃したネーミングにより、出版前の時点で“炎上”することとなった。

折しもこれと時期を同じくして、同じKADOKAWAから出版された『琴崎さんがみてる 俺の隣で百合カップルを観察する限界お嬢様』(五十嵐雄策・著 弘前龍・原案)が、これまたまったく同じ理由で炎上していた真っ最中であり、それまで数多くの百合コンテンツを世に送り出してきたKADOKAWAに対しても失望の声が寄せられていた。

ossie.hatenablog.jp

その2か月後。12月10日、電撃大賞の公式サイトにて「第28回電撃大賞」に入選した各受賞作の選評が公開される。

第28回電撃大賞 入選作品 金賞『百合少女は幸せになる義務があります』著/神奈士郎

http://dengekitaisho.jp/archive/28/novel2.html

ここへきて同作は、なんと作品のタイトルから登場人物のネーミング、されには作者の名義まで、一挙に変更されることが発表された。

  • タイトル

百合少女は幸せになる義務があります→この△ラブコメは幸せになる義務がある。

  • 作者名

神奈士郎→榛名千紘

大神司→矢代天馬

来栖川綾香→皇凛華

姫宮桜子→椿木麗良

また選者は以下のとおり。

三雲岳斗(作家)
三上延(作家)
吉野弘幸(アニメーション脚本家)
小原信治放送作家・脚本家)
荒木人美(電撃文庫編集長)
遠藤充香(メディアワークス文庫編集長)

ところが、この内で同作を《個人的には大賞でも遜色ない一作。》と手放しで称賛しているのは小原信治放送作家・脚本家)のみであり、

他の選者のコメントは、どうにも奥歯に物が挟まったような物言いが目に付く。

たとえば遠藤充香(メディアワークス文庫編集長)のものを抜粋してみよう。

(前略)繊細なテーマに対する理解が足りない点が気になりましたが、楽しく軽妙な掛け合い、まっすぐで瑞々しい心情描写の随所に青春の躍動と幸福感が迸る、読み応えのあるラブコメディです。 

「繊細なテーマ(ここでは女性の同性愛を指していることは自明だ)」を扱っておきながら、そのテーマに対する《理解が足りない》などというのは、

作家としての矜持に係る問題であり、作品にとって致命的な欠陥だ。小手先の作文技術だけでどうにか誤魔化せるような問題ではない。

《楽しく軽妙な掛け合い、まっすぐで瑞々しい心情描写の随所に青春の躍動と幸福感が迸る、読み応えのあるラブコメディ》というのも、プロの商業作品としては当然のクオリティであり、それだけで「金賞」を授与するに値する理由としては、あまりにも弱い。

その年の「小説部門」の応募総数は4411作(その内、長編は3255)とのことだが、他の応募作品が、それほどに低レベルだったということなのだろうか? あるいは、仮に出来レースであったとしても、もっとマシな作品を選ぶことはできなかったのか?

(続く)

第28回電撃大賞・榛名千紘『この△ラブコメは幸せになる義務がある。』が発売前から“炎上”した理由 #さんかくラブコメ

2021年10月8日、KADOKAWAが主催する「第28回電撃大賞各部門の入賞作品が発表された。

その中で「電撃小説大賞」の栄えある「金賞(※実質的には、大賞に次ぐ第2位)」に輝いたのが、神奈士郎『百合少女は幸せになる義務があります』であった。

この作品は翌年の3月10日に『この△ラブコメは幸せになる義務がある。』と改題し、電撃文庫から刊行されることになる。なお、それに併せて作者名も「榛名千紘」に変更されている。

発表の時点では粗筋しか紹介されていなかった本作が、主に百合コンテンツのユーザーから注目を集めた理由は次の3点だ。

まず、タイトルに「百合」というストレートな語句を使用していること。

次に、しかしそれでありながら主人公は男性であり、女性に恋する女性のヒロイン、およびその思い人である女性が、やがては揃いも揃って男性主人公に恋愛感情を抱くようになるという、異性愛至上主義のステレオタイプを焼き直した差別的な内容であることが、粗筋の時点で予告されていたこと。

そして実際の作品の登場人物および作者自身のネーミングが、百合アニメの名作として知られる『神無月の巫女』のパロディである点だ。

発表当初の作品紹介ページに掲載されていた粗筋を引用する。

 平凡な高校生・大神司はひょんなことから、クラスメイトでありクールでモデル顔負けの美少女・来栖川綾香が、品行方正なクラスのマドンナ・姫宮桜子のことを友達以上に思っていることを知ってしまう。

 綾香から強制的に桜子との仲を取り持つように指示される司だったが、その作戦中に桜子をナンパから助けた司は、彼女から好意を寄せられるようになってしまう! そうして始まった奇妙な三角関係のなかで、司は次第に綾香のことを心から応援しようと思い始めるが、一方でその綾香までもが司のことを大切な存在だと自覚し始めて……!?

 お前が好きなのは彼女か俺か、一体どっちなんだ!?

http://dengekitaisho.jp/announce_28_05.html

【大神司】【来栖川綾香】【姫宮桜子】といったネーミングが、『神無月の巫女』の主要キャラクター【大神ソウマ】【来栖川姫子】【姫宮千歌音】の名字を剽窃したものである事実は明白で、なおかつ作者自身の名前も「神ナ」とくれば、もはや情状酌量の余地もない。このようなふざけた作品は、通常であれば、入選以前に選考の時点で破棄されて然るべきであろう。

じじつ電撃大賞の公式サイト内の『よくある質問と回答』というページには《既存の作品のパロディや模倣はご遠慮ください。作品のイメージを悪化させたり、著作権者の権利侵害となる可能性があります。 》と書いてある。しかるに『神無月の巫女』のパロディ作品として制作された本作は、本来であればその「パロディや模倣」が発覚した時点で受賞を取り消されるはずであった。

当然、多くのユーザーからの批判を浴び、発売前の時点で“炎上”するという異例の――とはいえ既視感のある――事態となったが、

それを受けて編集部が取った対応は、信じがたいものであった。

介錯とは『神無月の巫女』の「原作者」として位置づけられる、二人組の漫画家ユニット(合同ペンネーム)。KADOKAWAが「角川書店」だった時代に「月刊少年エース」に掲載されたコミック版も手掛けていた。この度の騒動は折しも、同じKADOKAWAの「電撃マオウ」にて、スピンオフ作品『姫神の巫女』が連載されている最中であった(なお翌月発売号をもって最終回を迎え、単行本全3巻で完結)。

その介錯も次のようにコメントしている。

なお後述のとおり本作は、後にタイトルや作者名と併せて登場人物のネーミングも変更となるが、

少なくともこの時点で編集部は「原作者」と話さえ付けばそのままで“イケる”と甘く考えていたようだ。

もっとも『神無月の巫女』は、じつのところアニメを中心としたメディアミックス企画であり(発表はコミック版の雑誌掲載が先だが、一般に同作といえばローカル局で深夜放映されたTVアニメ版が想定される)、

その中で「原作者」とされる介錯の発言力がどれほどのものなのか、部外者には責任の所在がわかりにくい(キャラクター・デザインは別の人物)。むしろ立場上はコンカフェの雇われ店長のようなもので、実質的には何の権限もないのかもしれない。

いずれにしても、作品とは世に放たれた時点で、すでに作者の“もの”ではない(著作権上の問題は別)。仮に作者が、作品の世界観を真っ向から否定するパロディに“お墨付き”を与えたとしても、読者の側にそれを受け容れねばならぬ道理などない。

異性愛至上主義と《レズビアン差別》に根差したパロディ作品に、作者が“お墨付き”を与えたというのであれば、作者自身の責任も問われることになる。当然ながら。

(続く)