百錬ノ鐵

百合魔王オッシー(@herfinalchapter)の公式ブログです。

『バイバイ、ヴァンプ!』と「保毛尾田保毛男」~繰り返される「コメディの形を借りたヘイトスピーチ」を“擁護”する「LGBT陰謀論者」とは? #バイバイヴァンプ

Twitterの話題は今やすっかりコロナ一色ですが、先ごろ『バイバイ、ヴァンプ!』なるアイドル映画が、同性愛者差別を煽動する内容によって、LGBT当事者を中心とした抗議・批判を受けたことは記憶に新しいでしょう。

かれこれ2年前にも、とんねるずの番組でホモフォビア表現の象徴ともいえる「保毛尾田保毛男」が復活し、同様の議論が巻き起こりました。このような「コメディを借りたヘイトスピーチは、私たちの日常で手を変え品を変え繰り返されています。

しかし、そのような「コメディの形を借りたヘイトスピーチ」に対して、どういうわけだか「LGBT当事者」の立場からそれを擁護する人々が、決まってしゃしゃり出てきます。

その言い分をまとめると、

「ホモネタ」に嫌悪感を抱く人のほうこそ、そうした「ホモネタ」に表象される「(おうおうにして“女性的”な)ゲイ男性」を嫌悪する“無自覚な差別主義者”である!

……という何ともひねくれた発想です。

このような屁理屈に付き合ってさしあげる前に、「ホモネタ」の何が問題なのか、あらためて考えてみます。

まず、被差別者のステレオタイプなイメージを誇張したキャラクターを制作し、それを無批判に表現することは、たとえ制作者の側に悪意はなくとも(場合によっては愛情や敬意に根ざした表現であるとしても)それ自体が「ヘイトスピーチ(差別煽動表現)」の典型です。

ゆえにそのような「ヘイトスピーチ」が、視聴者のクレームを受けることは至極当然であり、それをさも悪質なクレーマーのように言い募ることに認知の歪みを感じます。

またそのような「ヘイトスピーチ」に対する正当な抗議をクレーマー扱いする「当事者」の言説を読み解くと、いわゆる「LGBT陰謀論者」であることが見て取れます。

そういった「当事者」のTLを一つひとつ確認してみると、ほぼ例外なく《自分たちLGBTが一部の活動家に政治利用されている!》《一部の活動家がありもしない「差別」をでっちあげて利権をむさぼっている!》などと被害妄想に凝り固まった「LGBT陰謀論」、あるいは「LGBT活動家」の悪口や冷笑、揚げ足取りで埋め尽くされています。同じ「当事者」でありながら、これはいったいどういうことでしょうか?

LGBTにかぎらず、被差別者が加差別者の価値基準に過剰適応するあまり、他の被差別者を被差別者みずからが積極的・主体的に攻撃してみせることによって、加差別者からの「承認欲求」を満たそうとする有様は、むしろ“差別あるある”といってもいいくらい頻繁に目にする事例です。

ゆえに「ホモネタ」を認めている・楽しんでいる「当事者」がいるからといって、その表現に差別性がないことの証明にはまったくなりません。げんにそのような「LGBT当事者」は『バイバイ、ヴァンプ』も「保毛尾田保毛男」も同一のレトリックで擁護していますが、けっきょくのところは自分の気に食わない「LGBT活動家」に対する“逆張り”“当てつけ”に終始しています。

また言うまでもないことですが、仮に保毛尾田保毛男にそっくりのゲイ》が実在したとしても、その人は「保毛尾田保毛男」ではありません。

なぜならば「女性的なゲイ男性」のステレオタイプなイメージを露悪的に誇張している時点で、それがいくら現実の「女性的なゲイ男性」に“そっくり”であったとしても、現実の「女性的なゲイ男性」そのものにはなりえないからです。裏を返せば、現実の「女性的なゲイ男性」をありのままに演じたとしても“笑い”にはつながらないから“誇張”する必要があると言えます。

もっとも“誇張”という手法はコメディの基本であることから、たんに“誇張”していることだけをもって「差別」と短絡することもできないでしょう。しかし「保毛尾田保毛男」の場合は、それを非同性愛者の男性芸人が演じていることにさらなる問題があります。

すなわち「保毛尾田保毛男」とは、

  1. 現実(ありのまま)とは掛け離れた「女性的なゲイ男性」のイメージを“誇張”しながら、
  2. なおかつ非同性愛者の男性芸人が、そのようなキャラクターを「ホモ(ホモ尾田ホモ男)」と名状することにより、
  3. 現実の「ゲイ」に対する知識をもたない視聴者に対して、現実の「ゲイ」もそのように“笑われるべき”存在であるという偏見を植えつける

……という三重のプロセスを経て成立する「コメディの形を借りたヘイトスピーチ」となっています(もとより「ホモ」自体が「ゲイ」に対する《差別語》であり、当事者が自称するケースを除いて一般的に非当事者が用いるべきでない言葉ですが、仮にこれを「ゲイ尾田ゲイ男」と言い換えても同じことです)。

このように見ていくと、「LGBT陰謀論者」が強弁している「保毛尾田保毛男」に抗議する人々の“内なる差別意識”をあげつらう言説は、その意図に反して、むしろ物事の表面をとらえることしかできない薄っぺらな感性を露呈しているにすぎません。

また《同性愛者差別》が社会の問題である以上、特定の芸人を非難することは無意味である、という見方もあるようです。

しかし「保毛尾田保毛男」が石橋貴明という「特定の芸人」によって演じられている以上、「特定の芸人」が非難を受けることもまた至極当然です。

それを無意味と決めつけるのは、すなわちヘイトスピーチ」に対する告発・批判を無効化するレトリックであり、当人にその「意図」がなくとも結果的に「ヘイトスピーチ」を“擁護”するものとなっています。

そしてこれも繰り返しになりますが《差別の意図はない》《差別に感じることこそ差別》《一部の当事者も楽しんでいる》というのは、いずれも典型的な《差別主義者の論理》であり、言うなればそれ自体が「ヘイトスピーチ」の一環でしかありません(※もっとも当該の表現が実際に「差別」に該当するという前提が付きますが)。

しばしば「LGBTライター」を名乗ってマスメディアに登場する人物は、世間の注目を手っ取り早く集めるために、あえて「当事者」の立場から「コメディの形を借りたヘイトスピーチ」を擁護してみせるという芸当を披露します。

  • なお、それでいて当人は“擁護”するつもりはないと弁明したりするものですが、“擁護”するつもりはないと言いながら「差別」についてとくに批判するわけでもなく、その代わりに「差別」を告発する人々の粗探しばかりするのも、それこそ“無自覚の差別主義者”によくありがちな傾向です。

そのような奇を衒った言説が回ってきた場合には、興味本位でRTやいいね!を押す前に、アカウントのTLをチェックすることをお勧めします。もしそのTLが「LGBT利権ガー」「LGBTの政治利用ガー」などといった言説で溢れ返っているなら、そのような「LGBT陰謀論者」とは距離を置くのが賢明です。

 

『柘榴ノ杜』エラーを修正

久しぶりにワードプレスのサイトを見直してみたところ、リンク切れやページ表示の不具合が散見したため、目に付いた範囲で修正を行いました。

http://zakuro-no-mori.girlfriend.jp/

ところで、記憶の風化を防ぐべくSNS上で折に触れて『富江 最終章』の名前を出してみるのですが、意外と好きだという人がいて嬉しいです。

 

「セクシュアル・マイノリティ」を「障害者」呼ばわりする京大ゼミ(seminar72)の“植民地主義的”な感性

今月9日に開催された京都大学の自主ゼミ(以下「京大ゼミ」)が「セクシュアル・マイノリティ」を「障害者」の事例として取り上げたことから、LGBT当事者を中心に批判の声が上がった。

性同一性障害が脱病理化しつつある情勢の中で(もっともそれに関しては当事者間でも是々非々あるようだが)、 なんとも時代錯誤な認識と呆れるほかないが、批判を受けて主催者が発表した弁明は以下の通り。

いかにも学生らしい、自分に酔いまくった自意識過剰な文面(「――。」とか)でごちゃごちゃと書かれているけれど、一言で要約すると「差別」と感じる方が「差別」という、典型的な差別主義者の屁理屈がもっともらしく連ねてあるにすぎない。

「障害者のリアルに迫る」京大ゼミが用いる「障害」とは、「個人にその原因や責任がある」「治療すべきである」というような個人モデル(医療モデル)的な障害観(=インペアメント)ではなく、社会がつくりだすものとしての「障害」(=ディスアビリティ)という障害観が基本となっています。

社会的な抑圧や偏見にさらされ、さらに制度・政策面でも排除の対象とされてきたという点では、セクシュアル・マイノリティの人々も、「障害」(=ディスアビリティ)を経験している人々であると考え、今回のテーマの一つとして扱いました。

まず前提として、京大ゼミが「障害」という概念を《「個人にその原因や責任がある」「治療すべきである」というような個人モデル(医療モデル)的な障害観(=インペアメント)ではなく、社会がつくりだすものとしての「障害」(=ディスアビリティ)》として定義した上で「セクシュアル・マイノリティ」を論じるのであれば、「障害」は「セクシュアル・マイノリティ」の側にあるのではなく、「セクシュアル・マイノリティ」を抑圧・偏見・排除の対象として扱う「社会」の側にこそあると言うべきであろう。

また、ここからは「セクシュアル・マイノリティは障害者ではない」という発言についての、本ゼミの運営メンバーの意見です。このような発言をすることは、《他者》(=排除・抑圧される者)を生み出すことへと繋がると考えます。

そのような発言には、否定的なもの・忌避すべきものとしての障害観があると言えるのではないでしょうか(少なくともこのように受けとり、抑圧されてしまう人は存在します)。“障害者と「私たち」”というようにスラッシュを引くことで誰が傷を負うことになるのか、誰が排除されているのかーー。

もちろんこのような発言をされた方が障害者差別をしているなどということは一言も申しておりません。ただ、本ゼミでは様々なテーマを扱うにあたり、一つひとつの発言・行動が《他者》化される存在を生み出してはいないかを丁寧に検討しなければならないと考えています。

 以上の理由から、「セクシュアル・マイノリティは障害者ではない」という発言に関して、私たちは手放しで肯定できません。

あらためて指摘するのも馬鹿馬鹿しいが、「障害者」の存在を《否定的なもの・忌避すべきもの》として“他者化”するべきでないことと、「セクシュアル・マイノリティ」を「障害者」呼ばわりすることは、当然ながらまったくの別問題である。

「セクシュアル・マイノリティ」を「障害者」呼ばわりする発言に対して言うべきことは、まさに「セクシュアル・マイノリティは障害者ではない」という以外にありえない。

したがって、仮に「セクシュアル・マイノリティは障害者ではない」という発言に“排除・抑圧”されたと“受けと”る何らかの「障害者」が存在したとしても、そのような文脈を履き違えた「誤読」「曲解」に追従する必要は、いっさいない。

京大ゼミは、そうした非理性的な「障害者」の心情を手前勝手に代弁する一方で、異性愛・非シスジェンダーの多様な性のありようを「セクシュアル・マイノリティ」という雑な言葉で一括りにしたあげく「障害者」というこれまた雑なレッテルを貼りつける行為によって“排除・抑圧”される当事者の存在はどうでもいいと考えているのか。

  • なお問題のゼミに「セクシュアル・マイノリティ」として登壇した【町田さん】とは町田奈緒士(なおと)というトランス男性の当事者。あとの2名は詳細不明。

そも「セクシュアル・マイノリティは障害者ではない」という言葉を聞きたくないのなら、京大ゼミが初めから「セクシュアル・マイノリティ」を「障害者」呼ばわりしなければよかっただけの話だ。

元より京大ゼミが「セクシュアル・マイノリティ」を「障害者」呼ばわりしたことで批判を浴びたのは、そのようなくだらない言葉遊びの問題ではない。

いかなる意図や“政治的正しさ”に基づくことであろうと「同性愛」を「障害」と見なす発想の行き着く先が、まさに「同性愛」を“治療”して「異性愛」に矯正するという強制異性愛社会の体制強化にほかならないからだ。

あまつさえ京大ゼミは、そのような自身に向けられた批判を逆手に取り、批判者の「障害者」に対する差別意識をあげつらってみせる。

だが学生の本分は勉強である。賢しらぶった“意識お高い”アピールの前に《ゲイ治療》にまつわる人類の負の歴史について一から学ぶべきであろう。

もっとも一口に「セクシュアル・マイノリティ」といってもそのありようは様々で、中には「性同一性障害者」や「性嗜好障害者(一部の小児性愛者など)」のように、自ら主体的・積極的に“治療”を希望する人々も存在する。

「セクシュアル・マイノリティ」が多様であるなら「障害」という概念のとらえかたもそれぞれ異なる。京大ゼミの誤謬は、そのようなセクシュアリティの多様性・個別性から目を背け「セクシュアル・マイノリティ」という形骸化された観念に一元化する、まさしくマジョリティ目線の“植民地主義的”な感性を露呈してしまったことにある。

そうした「セクシュアル・マイノリティ」という用語自体の問題については、かねてより当事者からも指摘されてきた。要点のみ引用するが、示唆に富む内容なのでリンクをたどって全文読んでください。

「すこたんソーシャルサービス」内『ABOUT US|“LGBT”という言葉について』より抜粋(強調は引用者):

https://sukotan.jp/ABOUT_US/about_top.html

  「セクシュアル・マイノリティ」は、アメリカの学者たちが使い始めた言葉で、ヨーロッパ・アメリカ社会では、日常的・一般的に使われていません。アメリカ・カナダ等に住む当事者の方からの情報でもそれは裏付けられます。

(中略)

 また、実は英語では、どんな文脈で使うときも、「セクシュアル・マイノリティーズ」“sexual minorities”と複数形で言って、決して「セクシュアル・マイノリティ」“sexual minority”と単数形では言いません。なぜなら、多様な性のあり方に対応して、性に関する「少数派」と言っても、さまざまな当事者を含むわけで、一枚岩ではないからです。この違いが、日本で誤解を呼ぶことになるのです。

 日本語で「セクシュアル・マイノリティ」という単語を聞いた時も、極めて同質の人間で構成されている、あるひとつのグループを連想してしまいがちです。「性」に関する「少数者」はひとつの集団をなしていて、場合によっては、どこか特定の地域だけに住んでいるというイメージを持つ人もいます。「ゲイ」とくくられても、その中には、多様な人がいるのに、「全てのゲイは○○である」とまとめてみんな同じであるかのように語られてしまうことがよくあることから連想してください。

(中略)

 同性愛者と性同一性障害の人たち(広くはトランスジェンダーの人たち)の抱える課題は、共通のものも少なくありませんが、個別に異なっている部分もあります。例えば、医療の力を借りて手術が必要な性同一性障害の人たちに対して、同性愛者は、同性愛を「治す」治療を拒否します(というか医学的にも治療の対象からはずされています)。ですから、社会に対して、偏見や不利益の解消、またさまざまな保障を求めていくときも、簡単に何でもいっしょに行動できるわけではなく、それぞれが活動する中で、いっしょにできることをじっくり検討しながら進めていくのが筋です。

(後略)

 

 

過去の日付の記事をアップしました。

長いこと寝かせていた記事を、本日ようやくアップしました。

ossie.hatenablog.jp

去年たまたま目にしたTogetterまとめに関連した記事です。

t.co書き上げたのは去年の11月でしたが、話題自体がずいぶん古く、その後に書いた『ターミネーター:ニュー・フェイト』の記事の方が速報性が高かったため、ブログ上ではそれより前に掲載される形となってしまいました。

当初の意図としては、むしろ上掲の記事が本題で『ターミネーター』の話題はその補足という位置づけでした。あらためて読み通していただけると、私の問題提起がより明確に理解しやすくなることと思います。

「百合」が《現実をエンパワメント》して何が悪い? #ターミネーターニューフェイト

togetter.com

今月8日に日本公開された『ターミネーター』シリーズの最新作『ニュー・フェイト』が「百合萌え」の観点からも楽しめるらしく、百合ファンの間で話題になっているようだ(現時点で筆者は未観)。

とはいえ「百合」に対する無理解や偏見が根強い中、そうした盛り上がりに冷や水を浴びせようとする向きもある。

こうした紋切型の「百合バッシング(あるいはBLバッシングでも)」を見ていて、私の方から《違和感がある》のは、作品のテーマや価値が「一つしかない」と思い込んでる点である。

作品の《本来の意図》など、往々にして作者自身も無自覚であるのに、たった一つの「意図」に束縛しようとするのは、じつに排他的で暴力的な態度ではなかろうか。

だいいち「百合映画」が《現実をエンパワメント》して何が悪いのか?

「百合映画」を好む人は「現実社会」から排除されるべきだとでもいうのだろうか?

そのような、「現実社会」の多様な価値観や感性を認めようともしない、頭の固い視野狭窄な人物に《現実をエンパワメント》することは到底無理であろう。

いちいち指摘するのも馬鹿馬鹿しいことだが、「映画」が「現実」を“エンパワメント”するのではなく、「映画」を観た「現実」の人間が、「映画」の中から自らを“エンパワメント”する何かを得るのである。

そこをいくと作品が「現実」にもたらす影響とは、いわゆるバタフライ効果(蝶の羽ばたきが嵐を引き起こすような結果につながりうるというカオス理論の概念)のようなもので、作者自身がそれをコントロールすることはできない。そして「現実」は人の数だけある。

ゆえに作者が《現実をエンパワメント》してやろうなどという、ある意味で傲慢な「意図」をもって創られた作品が、かならずしも当人の「意図」どおりに都合良く「現実」の人間を“エンパワメント”するとはかぎらない。

翻って、京アニの忌まわしいテロ事件は記憶に新しいが、それこそ『けいおん!』のような政治性のない(誤解を恐れずにいうなら)他愛もない萌えアニメが、「現実」を生きるたくさんの人々に夢と希望を与え、まさに“エンパワメント”することに成功している。

  • なお『けいおん!』については、それこそ《二次創作でキャラ同士の関係性にひと味加える》百合同人誌が数多く量産されたが、『けいおん!』自体を「百合マンガ」と呼べるか否かは意見が分かれるところである。

そも「百合」はジャンルやカテゴリー以前の、作品中の人間関係の“解釈”なのだから(詳細は後の記事にて)、それが他のテーマ――繰り返すが一つとは限らない――を排除することなどありえない。

あるとすれば、ただ「百合」を嫌悪する人が、「百合」と“解釈”される作品を一方的に排除するだけである。

www.foxmovies-jp.com

 

「百合」は“ジャンル”ではなく“解釈”である~SF評論家・牧眞司(ShindyMonkey)への反論

(2020年1月17日 公開)

平成最後の年に、こんな議論があったらしい。

SF評論家・牧眞司「異性愛者で恋愛経験もなさそうな人が百合とか言って喜んでる」(7/28追記) - Togetter

あまりにもくだらない。昨今「百合」という用語もそれなりに定着し、新しい書き手による優れた作品が続々と世に送り出されているが、そのような百合作品を取り巻く“評論”の質といえば、未だにこのレベルかと落胆せざるをえない。

そも、作品中で逐語的に“明示されてもいない”かぎり人間関係を読み解くことができないのであれば“評論”などという行為は必要ない。

また「百合」の消費者について異性愛者で(おそらく)恋愛経験もなさそうなひと》と決めつけるのはたんなるレッテル貼りであり、自分の気に食わない相手を貶めるための人身攻撃にすぎない。いったいどのような「恋愛経験」を経れば、そのような卑しい精神性に堕するのであろうか。いずれにせよこれも“評論”と呼ぶに値せず、さしずめ「5ちゃんねる」の“煽り”“釣り”と何ら変わるところがない。

  • もっとも後者に関しては、さすがに後から形式的に謝罪している。
  • ただ、当初は一般の百合ユーザー(レズビアン当事者の百合同人作家も含まれる)からの反論に対して、きわめて冷笑的・挑発的な態度でのらりくらりと交わしていたにもかかわらず、同業者と思しき人物から突っ込みを入れられた途端、一転してヘコヘコとしおらしく謝りだす様は、まるでマンガのような権威主義的振る舞いで、なんとも見苦しい。このように歳を重ねたくないものである。

加えて豊崎《ジャンル読みの人が~》云々といった件は、そのじつ牧が提示した議題である「百合」という概念の本質とは何の関係もない。ただ、豊崎が牧の稚拙な「百合バッシング」にかこつけて、自分の言いたいこと(読書の心構え? くだらねー)に“引き寄せている”だけである。

だいたい、この文脈における《全然そうじゃない作品》の具体例(すなわち女性同士の「恋愛=百合」を実際には表現していないにもかかわらず「百合」の消費者によって「百合」と“誤読”されてしまった作品)の一つも挙げられていないのだから、抽象的すぎて何にでも当てはまってしまう。『あさがおと加瀬さん。』を想定して言うのと、たとえば櫛木理宇『少女葬』(新潮文庫)を想定するのとでは、その後の議論の流れも終着点も違ってくるはずだ。

ossie.hatenablog.jp

* * *

それでは「百合」という概念の“本質”とは何か。

牧および豊崎が根本的に誤解しているのは、「百合」を作品の“ジャンル”として捉えている点だ。

まず議論の前提として「百合」が作品の“ジャンル”や“カテゴリー”ではなく、「作品中の人間関係」に関する“解釈”であることを確認しなければならない。

すなわち、百合漫画のアンソロジーやコミック専門店における百合コーナーの設置といったカテゴライズ(ジャンル分け)以前の問題として、作品中の女性キャラクター同士の関係性および感情が「恋愛」に相当する、あるいは「恋愛」に結びつく可能性がある、という“解釈”が必要となるわけだ。その“解釈”にもとづいて「百合」を“ジャンル/カテゴリー”として扱う行為は、あくまでも扱う者自身の問題となる。

女性の女性に対する感情が「友情」にとどまるのか、それとも「恋愛」と結びつきうるのか、それは時として読者の間でも“解釈”が分かれる場合がある。いわゆる「きらら系」の萌え4コマは女性キャラクター同士の関係性を描くものがほとんどであるが、その中でもたとえば『Aチャンネル』は「百合」だが『はるみねーしょん』は「百合」ではないという違いが生じる。

牧は自身の評論家としての矜持として《深読みをしない》ことを挙げる。これは作品中で逐語的に“明示”されるものでしか判断できないということであろう。

だが百合作品の世界観として女性キャラクター同士があらかじめ「恋人」と設定されている場合は稀であり、女性主人公が同性の「親友」に恋愛感情を寄せるといったパターンが定石となっている。

そこをいくと牧のごとく、作品中で逐語的に「恋愛」と“明示”されるものでなければ「恋愛」と認めないといった態度では、「友情」が「恋愛」に移り変わるといった性のゆらぎを表現することができず、人間の複雑で繊細な「感情」を、「友情」と「恋愛」の二項対立に“カテゴライズ(ジャンル分け)”する暴力に陥りかねない。

そも、ある《作品中の人間関係》について「同性愛」ではないと断定することは、同時に「同性愛」とは何か? という定義を規定せざるをえなくなる。しかしそのような行為は、つまるところ読者自身の「同性愛」とはかくあるべしという偏狭な思い込みを露呈する結果となりかねない。

しかし、ならばどのような「人間関係」であっても女性同士でありさえすれば「百合」なのだ、といった短絡的な“解釈”が成立しうるのかといえば、やはりそれも首肯しがたい。

元より「百合」であるか否かが作品の良し悪しや質を左右するわけではないことは言うまでもないし、女性間の「友情」がかならずしも「恋愛」に結びつくとはかぎらないことも事実だ。たんに女性キャラクター同士の関係性や感情が描かれていれば「百合」といった粗雑な「百合認定」は、それこそ豊崎の指摘する“誤読”の危険を避けられないだろう。

しかし、そこで肉体関係(いわゆるレズSEX)などの「フォーミュラ」によって“明示”されなければ「恋愛(同性愛)」と認めないのであれば、それは「同性愛」の多様なありようを一面的に規定し“狭める”ことを意味する。

とくに百合作品のテーマである女性間の「同性愛(非異性愛)」に関しては、言うまでもなく現実社会の《同性愛者(非異性愛者)差別》の構造と密接に結びついている。ゆえに現実社会と同様に、【女性を愛する女性】のキャラクターをレズビアン(非異性愛者)」と“明示”することによって、逆に「異性愛(男性を愛すること)」を強要されるというヘイトスピーチやSOGIハラを受ける可能性が高まってくる。

そうした傾向は、しばしば男性異性愛者向けのポルノ小説やポルノ映画で顕著とされるが(ただしアダルトビデオの「レズ物」は男性が登場しないことが通例である)、それらはもとより一般の――この場合の“一般”とは「異性愛(非同性愛)」の表現を指すのではなく、いわゆる非オタク文化圏の作品全般を意味する――文芸作品や実写映画においても、「レズビアン(と作品中で“明示”されるキャラクター)」はほぼ例外なくといっていいほど、男性との恋愛やSEXを要求される描写が“お約束(定石)”となっている。

そこへきてゼロ年代マリみて』ブーム以降の、主として女性キャラクター同士で完結し、男性キャラクターの介入を伴わない「百合」の恋愛表現は、日本を含めた同性愛表現の歴史の中で、むしろエポックメイキングであると言っても過言ではないだろう。そのようにして「百合」という日本のオタク・カルチャー特有の表現様式は、異性愛至上主義からの脱却に成功しつつある。

  • 異性愛至上主義からの脱却》に“成功した”のではなく、成功を“しつつある”と留保するのは、「百合」がまさに女性キャラクター間の感情や関係性を“明示”しないという特性によって、しばしばそれを《一過性の擬似恋愛》と決めつける“解釈”に晒される風潮が根強くあるためだ。
  • その意味では「百合」を語る際に好まれがちな《友達以上恋人未満》《「友情」と「恋愛感情」の間には明確な線引きなどない》というクリシェも、それが「恋愛」に至る可能性を否定し「友情(非恋愛)」の範疇に押しこめる異性愛至上主義に回収される危険性について警戒すべきである。
  • なお、現実・非現実を問わず女性のセクシュアリティについて「レズビアン」と“明示”されていなければ男性を愛せるはず(べき)、といった思い込みの愚かしさは論を俟たない。

ところが、それは同性間で完結し、異性の介入を伴わないという特性ゆえに、女性としての成熟を拒否した、幼稚な世界観と決めつけられがちなきらいがある。

しかし、そのような偏見こそ、まさしく女性の成熟には男性(を愛すること)が不可欠であると信じて疑わない異性愛至上主義に根ざした固定観念に他ならない。

元より「百合」が“解釈”である以上、それが表現の幅を“狭める”ことなどありえない。「百合」が女性同士の恋愛であるということは、極端な話、女性同士の恋愛(と“解釈”できる要素)さえ描かれていれば、その作品としての体裁は、学園青春物だろうとスポ根だろうと時代劇だろうと異世界ファンタジーだろうとミステリーだろうとノワールだろうとそれこそSFだろうと何でもアリなのだから(ちょうど議論の約1年後、今年の6月に入ってハヤカワ文庫が「百合SFフェア」を開催したのはなんとも皮肉な展開だ)。

www.hayakawabooks.com

そのような「百合」の概念について《作品解釈の可能性を“狭める”フォーミュラ》と決めつけてしまうのは、それこそ百合作品のテーマである女性同士の恋愛自体を“狭い”ものと決めつける異性愛至上主義の感性が、牧・豊崎両名の意識にどっしりと胡坐をかいているためである。

また、その意味では前述した、女性同士の「恋愛」に結びつかない関係性をも「百合」と認定されてしまうことの問題は、たんにそれが不適切であるというだけで、作品の“解釈”を“狭める”ものではない。むしろ《読解の幅》を無制限に“広げ”してしまった結果として、不適切な“解釈”と結びついたと捉えるのが妥当ではないだろうか。

あるいは、ある作品が「百合」と“解釈”されることによって、「百合」に抵抗のある読者を遠ざけてしまう可能性があるとは言えるかもしれない。もっとも、この場合に“狭め(られ)る”のは《「読解」の幅》ではなく《「読者」の幅》ということになるので、論点が変わってしまう。

しかし、実際には同性愛だろうと異性愛だろうと両性愛だろうと無性愛だろうと、とにかく面白い作品であれば何でも読んでみたい、と考えるのが“健全”な読者のあり方ではないだろうか。

それを「百合(と“解釈”されうる作品)」だから読みたくないなどと手前勝手に自己限定してしまう排他的で傲慢な読者は、けっきょくのところホモフォビア(同性愛者嫌悪)に囚われた差別主義者であり、そのようなものは切り捨てても一向に構わない。

「百合」はしばしば現実の「レズビアン」とは異なると言われるが(じじつ先述のとおり百合作品の多くに「レズビアン(と作品中に“明示”されるキャラクター)」は登場しない)、「百合」と「レズビアン」が異なるとしても、「百合」を否定する言説が現実社会の異性愛至上主義の敷衍であり、ひいては現実の「レズビアン」の存在を否定・否認する社会的・政治的力学の応用に他ならないことは自明である。

牧と豊崎は、今日の多様化した恋愛表現に対応することができず、自己の旧弊な異性愛規範を“自覚”しようともしない、じつに“狭い”感性の評論家である事実を露呈した。

令和の新時代を迎えたいま、こういった連中は平成の闇に置き去りにするのが相応しい。合掌。

* * *

なお「百合」が“ジャンル(カテゴリー)”ではなく“解釈”であるという問題については、以下の記事も参照のこと。 

ossie.hatenablog.jp

カテゴリーを「百合」と「レズビアン」に分離

記事のカテゴリー「百合/レズビアン」を「百合」レズビアンに分離しました。

百合コンテンツを研究・評論する上では《レズビアン差別》の問題を避けて通れず、これまであえて同じカテゴリーに入れていましたが、百合コンテンツが関わらない《レズビアン差別》のトピックまで「百合」のカテゴリーに入れることは、ともすれば《レズビアン差別》の問題自体を“コンテンツ化”しているととらえられかねません。

かねてからの懸案事項でしたが、このたび、カテゴリーを一括して修正する方法がわかりましたので、改訂に踏み切った次第です。百合コンテンツに関するトピックは、レズビアン当事者が関与した事案を除いて、すべて「百合」カテゴリーに一本化しています。

なおカテゴリーを修正するついでに、加筆修正を施した記事もあります。あまりに古すぎるトピックで、当時を知る資料として残してあるものの、読み物として面白いとは思えないため、あえてリンクは貼りませんが、ご興味のある方は辿ってみてください(非公開にした記事もあります)。