百錬ノ鐵

百合魔王オッシー(@herfinalchapter)の公式ブログです。

「みどりのらいおん(greenlion1987)」が作成した「トランス差別主義者」リストに入れられていた件

(2022年9月12日 加筆修正)

先日、Twitter上で「トランス差別主義者」「トランス差別の人たち」という二つのリストに入れられていたことを発見した。

トランス差別主義者|怪しいなと思ったらガンガン追加してるんで異論や誤解などあればお伝えください

https://twitter.com/green_lion_game/lists/list2

トランス差別の人たち|自分用メモです。誤解や勘違いなどあればお伝えください。

https://twitter.com/greenlion1987/lists/list1

  

(2022年9月12日 追記)

現在、リストは両方とも削除されている。

二つのリストの作成者は同一人物であり「みどりのらいおん(@greenlion1987)」が本アカウント、「gl_game(@green_lion_game)」はその副アカウントである。

f:id:herfinalchapter:20191008041259p:plain

f:id:herfinalchapter:20191008041320p:plain

わざわざ別々のアカウントで同じ主旨のリストを作成した意図は不明だが、私は唯一、その両方に入れられていたメンバーである(※気づいた時点で両方ともブロックして解除)。この人物と《トランス差別》について議論を交わした記憶はないが、よほど強烈に敵視されているようだ。

このところTwitter上のLGBTおよびフェミニズムクラスタでは、トランス女性の女性専用スペースの受け入れをめぐる議論が尾を引いている。

だが私は女性専用スペースの問題にはとくに言及せず、もっぱらレズビアンの多くが、トランス女性を性的対象にしないことを理由として「クィア理論」や「トランスジェンダリズム」に基づく性的加害を受けていることの問題についてしか述べていない。

具体的には、下に示すような事例についてである。 

ここで私自身のスタンスをあらためて表明すると、私はシス男性の立場から、トランス女性の女性専用スペース受け入れについて反対する資格はないと考える。

だが一方でシス女性の間から、トランス女性の受け入れについて危惧する声が上がるのはやむをえない側面もあり(そも「トランスジェンダー」という用語・概念自体が未だ世間一般に浸透しているとは言い難い)、そのような不安や疑問を表明しているだけの人を、それこそ「トランス差別主義者」などと一方的に決めつけて“糾弾”することは慎むべきである。

ましてやトランス女性を性的対象に含めない(あるいは性器の形状を理由に除外する)ことまでも「トランス差別」であるという、それこそ“排他的”で“偏狭”な思想には断固として反対するものだ。

ところが、このような私の姿勢が「トランス差別主義」に該当するらしい。

しかし、そのように判断される根拠はまったく示されない。もっとも上掲のとおりリストの説明文には《怪しいなと思ったらガンガン追加してる》とあるので、じつのところ《レズビアン差別》の告発・批判が原因であるかすらわからない。 

また私以外のメンバーに関しても不可解な人選が目につく。

たとえば、百合作品の新作情報を伝えるアカウントなども含まれている。アカウントの管理者に報告したところ、これまでトランス女性の問題について言及したことはないとのことで、ひじょうに困惑の様子であった。

中でも目を惹くのが、漫画家・渡辺ペコ@pekowatanabe)氏まで追加されている点であろう。

渡辺ペコ氏とトランス問題の関わりとしては、かつて氏が先鋭的なトランス擁護派から、自分たちと一緒になって「トランス差別主義者」を“糾弾(する内容のツイートを)”せよと威圧的に要求され、それを拒否したことによって逆恨みされたものと思われる。

しかし上述のとおり、何をもって《トランス差別》とするかの判断基準はきわめて恣意的であり、レズビアンがトランス女性を性的対象に含めないこと(より正確には、恋愛やSEXのパートナーを選別する際の基準に「生物学的性別」を含めること)までも「シスセクシズム」「トランスフォビア」「TERF」などと決めてつけられてしまうのが実情だ。こうした決めつけは、むしろそれこそがレズビアンの「性の自己決定権」の正当な行使を妨げる《レズビアン差別》以外の何物でもない。そのような状況下において、安易に《トランス差別》に反対などと口にできないのは当然であろう。

ところが渡辺ペコ氏は、自ら積極的にトランス排除を主張・煽動していたわけでもなく、それどころか上掲の「アレク進太郎」に対する返答以降はトランス女性に関して何ら発言していないにもかかわらず、ただトランス排除に“(トランス擁護派が勝手に期待する形で)反対しない”というだけの理由で「トランス差別主義者」と決めつけられ、あげくトランス擁護派によるネットリンチの標的にされてしまった。

一方で、そも人間の「生物学的性別」を否定して「性自認」による自己申告のみで《性別》を決定・判断すべきとする前衛的な「トランスジェンダリズム」の政治的イデオロギーが(トランスジェンダー当事者を含めた)一般社会に受け入れられるはずもなく、私が把握している範囲でも、毎日のようにこの問題を提起しているアカウントが(トランスジェンダー当事者によるものも含めて)複数存在する。だが、しかしそれらのほとんどは、どういうわけだか「みどりリスト」には含まれていないのだ。そうなると、ますます「みどりのらいおん」が規定する「トランス差別主義者」の定義がわからなくなってくる。

それにしても、はたして「差別主義者」という強い言葉は《怪しいなと思ったらガンガン追加》するといった安易なレッテル貼りに用いられるべきものであろうか?

《異論や誤解などあればお伝えください》《誤解や勘違いなどあればお伝えください。》などと殊勝な態度を装ってもいるが、そも「差別主義者」と判断する根拠を示すべきなのは、そのようなレッテルを見ず知らずの他人に貼りつける「みどりのらいおん」の側であろう。不正を立証する責任が告発する側にあることは自明であり、だからこそ私は《レズビアン差別》を告発する際に私のもちうる語彙を総動員して最大限言葉を尽くしている。

ようするに「みどりのらいおん」は何の根拠も示さず、ただ自分が気に食わない人間に「差別主義者」のレッテルを貼って回っているだけである。だが自分勝手な思い込みを元にした根拠のないレッテル貼りは、そのじつ批判でも告発でもなく、たんなる誹謗中傷・人格攻撃すぎない。

このような形でなされる「トランス差別主義者(と「みどりのらいおん」が勝手に決めつけた人々)」に対しての“糾弾”が《トランス差別》の抑止・是正に資するとは到底考えにくい。仮に「トランス差別主義者」と名指しされた人々が《トランス差別》をやめたいと思っても、その“根拠”すらわからないのだから改めようがない。

つまるところ「みどりのらいおん」の行為は、魔女狩りのごとく「敵」を作りだしては一方的な吊し上げによって糾弾欲と加害欲を満たす、トランス擁護の形を借りた“糾弾ジャンキー”によるネットリンチの煽動に他ならない。

日頃から《レズビアン差別》を“糾弾”する私を含めて、分野を問わず「差別」の問題に取り組む人々は、まさに「みどりのらいおん(@greenlion1987)」を他山の石としなければならない。

  • なお「みどりのらいおん」による「トランス差別主義者」の認定は上述のとおり《何の根拠もないレッテル貼り》であるが、かといって私は「みどりのらいおん」に対して、私を「トランス差別主義者(トランス差別の人)」と認定した“根拠”についてあえて問うつもりはない。
  • 見ず知らずの他人に対してこうした断定的かつ不誠実な振る舞いをする人物と、議論以前に人としての健全なコミュニケーションを図ることは困難であると考えられるし、そこまでの負担を強いられる義務もメリットも当方にはないからだ。
  • 現在、Twitter上では「みどりのらいおん(@greenlion1987)」について副アカウントの「gl_game(@green_lion_game)」と共にブロックしている。
  • そも、こうした監視目的のリストはメンバーからブロックされたら外れてしまうため、公開で作成しても意味がない。それでも意味があるとすれば「おまえを晒し者にしてやる」という悪意に根ざしたたんなる“嫌がらせ”でしかない。
  • よって今後、謝罪なども含めて「みどりのらいおん」からのコンタクトは一切拒絶することをここに宣言する。

 

《百合に男が挟まりたい》問題の“震源地”を探る~女性百合作家へのハラスメント事案をめぐって #yuri #百合

(2020年4月14日 加筆修正)

「百合クラスタ」の間で定期的に話題に上る、「百合(女性キャラクター同士の恋愛関係、カップリング)」に対して「男(男性異性愛者)」が「挟まりたい・混ざりたい(という欲望を吐露する)」問題。 

じつのところ私個人としては、「百合」に男が挟まりたい・混ざりたい、という文字列を見るだけで胸糞が悪くなるし、そのような概念がこの世界に存在すること自体を認めたくない、というのが本音である。

ために、今回も深追いする気になれずスルーを決め込むつもりでいたものの、なにげなくTLを眺めているうちに、その“震源地”と言える変態野郎のアカウントをたまたま見つけてしまった。

 

 

 

 

  

「百合」やマンガといった分野を問わず、女性の表現者が男性客から目をつけられ、セクハラ、パワハラ、マンスプレイニングなどありとあらゆる形態のハラスメントを受ける事案は日常茶飯事である。

そして女性の表現者が、そのようなハラスメントを公に告発したとたん、別の男性から「その男性も悪気があったわけではないのだから許してあげるべきだ」「作家の側が笑って受け流す度量を身に着けるべきだ」「表現者であれば不快な意見・感想でも甘んじて受けるべきだ」「すべての男性が加害者ではない。男性に偏見をもつのは『男性差別』である」といった二次被害(セカンド・レイプ)を受けることもお決まりのパターンだ。

実際、上掲した百合嗜好者と思われる男性アカウントは、議論の発端となった犬井あゆ(@_osakana_man)を含め、あきらかに「女性作家」とわかるアカウントにしか絡んでいない(あるいは女性であっても「フェミニスト」からの声は無視する。この類の男にとってフェミストは「女」ではないらしい)。

男女を問わず、誰もこのような他人の痛みに寄り添わない独り善がりで上から目線の「クソバイス」など求めていない。逆に、この男が「女」に近づく口実として、自分が気安くマウンティングできる「女性作家」を必要としているだけである。

とはいえ、女性作家の立場から、そのような男性に毅然と「NO」を突きつけることはなかなか難しいだろう。

だとすれば、同じ百合嗜好の男性の立場から「NO」を突きつけるほかない。

なおお断りしておくが、以下に続く私の言辞は、あくまでも私自身の「同じ百合好き男性」という“当事者性”に立脚するものであり、ハラスメント被害の「当事者」であられる犬井あゆ先生を“代弁”ないし“支援”する目的・意図はいっさい含まれていない。

* * *

>挟まりたいくらい可愛い!という褒め言葉で決して悪気はなかったとは思うし 作品を観てどう感じるかは受け取った側の自由じゃないかなあ。ある程度のスルースキルは必要かも。

はぁ。「受け取った側の自由」と言いながら何テメェの独り善がりな「不自由」極まりない解釈を人様に押しつけてんの?

つーか「悪気」があろーがなかろーが百合絵を見て混ざりたいと発想する時点で、そのような「男」は異常者の変態野郎でしかないし、またそれが異常であることに気がつかない時点でテメエ自身も同じ異常者の変態野郎だよ。

変態野郎の分際が創作者に向かってスルースキルがどうのと頓珍漢な説教垂れてんじゃねえぞ?

せめて変態なら変態らしく身の程を弁えとけ。

>言ったのが男性だとしても「(もし女に生まれ変わったら)混ざりたい」って意味かもしれないしあくまで作品に対する褒め言葉の範疇ではないかな。

《ないかな。》じゃねえよアホ。

女性カップルに対して「挟まりたい・混ざりたい」などと言うことは、男は元より女が言ってもセクハラに決まってるだろうが。

逆になんで女同士なら許されると思うの? 一部の百合マンガに出てくる「女同士なんだからいいじゃない」的なセクハラ描写を鵜呑みにしているのか。《もし女に生まれ変わったら》などと加害者の心情を都合良く勝手に忖度して仮定を前提に話を進めてる時点で、空想と現実の区別が付いてないんじゃねえのか。

  • もっとも、実際にレズビアン当事者が他の女性カップルに挟まりたい・混ざりたいなどと発言しているのは見たことがないので、この《百合に挟まりたい・混ざりたい》という欲望は、やはり男性異性愛者に固有の心性と思われる。

つーか何だその屁理屈は。そんなわけのわからん屁理屈が赤の他人に通じると思い込んでる時点でテメエの精神構造は異常極まりないのだが?

>例えば 綺麗な海の絵を見て「ここで泳ぎたい」と言うぐらいの意味でしかなくそこまで悪質な言葉ではないかなと思った次第です。

えーと、まず百合カップルは「海(モノ)」ではなく「人間(人格)」なので、そのパラフレーズは不成立。喩え話が喩えになってないのはアホの特徴。

またそれに「挟まりたい・混ざりたい」と発想するのは、男性異性愛者のセクシュアリティとしてけっして“自然”なこと(本質)ではなく、異性愛至上主義に根ざした「差別思想」であり、言うなれば社会的・政治的に“つくられた(構築された)”マガイモノの感性。

んで、そのような異性愛至上主義の差別主義者を、わけのわからん屁理屈で必死に擁護しつつ女性作家に“マンスプレイニング”する変態野郎がテメエだよ。

 

forzastyle.com 

>もちろん明らかに悪質なものに関しては即通報するべきで間違いありません。

そうだな。あらゆる意味で「間違い」だらけのテメエみたいな変態野郎は、もはや存在自体が「暴力」だし「悪質」極まりないのだからテメエでテメエ自身を“通報”するべきだね。さいならー。

* * *

ここから先は長い余談になる。

《百合に男が挟まりたい・混ざりたい》問題。そのような異性愛至上主義に根ざした差別的欲望の表出を忌避するのは自明として、しかしその理由が「百合」が“尊い”からなどという次元に留まっていたら、逆に足元を掬われることになる。

上掲の【変態野郎】に対しては、当然のごとく「百合クラスタ」からの反論が殺到しているけれど、そも《百合に男が挟まりたい・混ざりたい》という欲望の表出自体が、異性愛至上主義に根ざした明確な《レズビアン差別》であり「ヘイトスピーチであるという論点が見受けられなかったことは残念でならない。

元よりこれはファンタジーの「百合」と現実の「レズビアン」が“同じ”だということではなく(あるいは百合作品のキャラクターが「レズビアン」だということでもなく)、現実の「レズビアン」に対する性的加害を正当化するレトリックが「百合」の解釈にも敷衍されているという意味である。

本件に関しては「当事者」である作家本人が不快感を表明している時点で、一つのハラスメント案件であることは論を俟たない。しかし、指摘されているとおり直接的・逐語的に“性的”な語彙(それこそ「射精したい」のような)が用いられていないこと、さらには作家本人に向けられていないことから、それを一般的な意味での「セクハラ(セクシュアル・ハラスメント)」として告発することも難しい実情がある。

たんに本人が嫌がっているのだからやめろ、というだけでは、それこそ「表現者」たるもの《多少否定的であれ正直な意見》《自分の意に反する反応》も甘んじて受けるべしといった薄っぺらで的外れな精神論に摩り替えられてしまいかねない。

くれぐれも言っておくが、ヘイトスピーチ」はそれ自体が《差別行為》であって“ご意見・ご感想”の類ではない。そして男性が女性同士の恋愛関係(百合)に介入したい(挟まりたい・混ざりたい)という欲望を表明すること――さらにはそのような「欲望」を許容するように迫ること――は、異性愛至上主義に基づいた「ヘイトスピーチ」の典型であり、だんじて「スルースキル」を身に着けて看過されるべき事柄ではない。

  • この問題は、女性の側から他の女性同士の恋愛関係に介入したいという欲望が発せられることがない(さらにはそのようなコンセプトの百合作品も存在しない)事実との非対称性に明らかであろう。
  • 付言すれば「ヘイトスピーチ」は、その逐語的な意味合いに反して、かならずしも(というか多くの場合に)直接的な「ヘイト(憎悪)」を示す言葉によって構成されるわけではない。
  • 仮に対象への「愛」や「好意」「憧れ」など(それこそ「悪気」「悪意」の対極にある感情)の表現であっても、その対象が〈女性〉であり、なおかつ〈女性〉が〈男性(異性)〉を愛するべきであるとする異性愛至上主義を前提とするのであれば、まさしく異性愛至上主義の社会的・政治的力学に依拠した「ヘイトスピーチとして機能する。
  • たとえば、である。ルワンダ虐殺の引き金となった『千の丘自由ラジオ』においては《ゴキブリども(ツチ族)を皆殺しにしよう!》といった直接的・逐語的に「ヘイト(憎悪)」を煽り立て虐殺を教唆するメッセージの他にも《ツチの女はどんな味か経験してみよう》といった「欲望」の表明が含まれていた。
  • レイプの根底にあるのは「愛」ではなく「支配欲」であり、また「支配欲」に根ざした「愛」はレイプに他ならない。《百合に男が挟まりたい・混ざりたい》という「支配欲」の表明を《褒め言葉の範疇》と捉える感性はレイピストの感性そのものだ。
  • もっとも、そのような「ヘイトスピーチ」の機能性の一つとして《沈黙効果(ヘイトスピーチを浴びせられた当人がショックのあまり思考停止に陥り失語してしまう現象)》があることから、実際にその場で適切な対応が取れなかったとしても責められるべきではない。だが、それでもなおヘイトスピーチ」をけっして許容しないという対外的姿勢を示すことは、それこそ「表現者」であれば必要不可欠である。

また一連の騒動に乗じて、有名無名を問わず百合系の作家たちが【百合に挟まりたい・混ざりたい男】をネタにした「大喜利」に興じている(私が今回話題になっていることを知ったのも、私がフォローしている推し作家がそのようなツイートをしているのを目にしたからだ)。

そうした作家たちの不真面目な態度は、しかし「百合」が現実の「レズビアン」に対する“性的消費”であるという批判を、むしろ裏打ちすることになりはしないだろうか?

おそらく「百合クラスタ」の間では、【百合に挟まりたい・混ざりたい男】と同様に(あるいはそれ以上に)私のような社会的・政治的論点を提示する者も異端視され、煙たがられるのかもしれない。

しかし《レズビアン差別》が現実社会の問題であり、そしてレズビアン差別》こそが、まさしく《百合に男が挟まりたい・混ざりたい》という欲望の“震源地”にほかならない以上、「百合」を愛する者はいやがおうにも現実の《レズビアン差別》と向き合わざるをえない。

あるいは「欲望」自体を“なくす”ことはできないとしても、そのような異性愛至上主義に根ざした差別的な「欲望」の表出が、おおっぴらにまかりとおる事態を抑止することは可能であろう。そのためには、たとえ愚直で不格好あろうと、やはり《百合に男が挟まりたい・混ざりたい》という欲望の表出自体が、異性愛至上主義に根ざした明確な《レズビアン差別》であり「ヘイトスピーチであるという前提を私たちが共有する他ないのではないか。

* * *

話ついでに、さらに面倒臭い論点を提示する。

上掲文章の中で私が、この異性愛至上主義の差別主義者を罵倒するにあたり、あえて「変態」という語彙を用いたことについて。

どうも近頃は「変態」という言葉を否定的に用いること自体が、同性愛者などを含めた「変態(クィア)」と呼ばれるセクシュアリティに対する「差別」を強化することにつながるというクィア理論」が幅を利かせている。女性専用車両に乗り込むミソジニストの男たちに対するカウンターとして「変態」という言葉を用いることについても、そのような意識のお高いクィア主義者による“言葉狩り”が散見された。

だが結論から述べると、というより当ブログを一読しておわかりのことと思うが、私はこの「クィア理論」に対して否定的な立場の人間である。

たしかに「変態」という言葉が、精神医学においては「変態性欲」として同性愛などの《生殖》につながらない「性欲」を“否定”する(つまり“治療”の対象として異性愛に“矯正”する)意味で用いられてきたのは歴史的な事実だ。

しかし日常生活で用いられる「変態」という言葉は、じつのところ定義が曖昧かつ茫洋としており、かならずしも「同性愛」だけを指すのではない。

つまり非異性愛者ないし非シスジェンダーについて「変態」という言葉を用いるなら《差別語》となるが、裏を返せば非異性愛者ないし非シスジェンダーと無関係の事柄を「変態」と言い表すことは、なんら「差別」になりえないのである。

とくに「百合(女性同士の恋愛関係)」に“挟まりたい・混ざりたい”と発想することが「男」にとって“自然”であり“本能”なのだと思い込む異性愛至上主義の差別主義者に対して、そのような欲望が「男」にとって普遍的に共通する心理ではない事実を突きつけるうえで「変態」という言葉は他の何よりもわかりやすく、有用であると考えられる。

  • ただしこうした場合に〈男性〉が、「百合」に“挟まりたい・混ざりたい”と発想する男性に対して「いっしょにするな」と言い放つべき相手は、そのような「男性」であって「レズビアン」ではないことを確認する必要がある。
  • 元より、このこと(=そのような欲望が「男」にとって普遍的に共通する心理ではないという事実)は、いわゆる「Not All Men」的な体の良い他者化・切断処理とは、まったく異なる。むしろ「男(百合好き男性)」の問題であると認知すればこそ、私を含めた「男(百合好き男性)」が自らの“当事者性”と“主体性”に基づいて発言すべきなのは自明である。
  • なお、ここでいう「男」ないし「女」の定義を問うことは不毛である。
  • 議論の本質は、あくまでも「男」が「女(女性同士の恋愛関係=百合)」を侵犯する行為の暴力性・差別性についてであり、当該のハラスメントを女性作家に行った「男(と思しき人物)」が、実際にどのような性自認を有しているかは何の関係もない。
  • 極論を述べてしまうなら、問題のハラスメント事案が実際に起きた(女性作家が体験した)出来事であったのかすらも関係ない。《百合に男が挟まりたい・混ざりたい》という欲望(およびその表明)は、それ自体が差別的である上に、それを擁護・肯定する者(上掲の「変態野郎」)が実在していることは紛れもない「事実」であるからだ。

また歴史的経緯を述べるなら、まさしくクィア理論」自体が、「男性(あるいは生物学的に〈男性〉である人、とくにトランス女性)」を性的対象にしない「レズビアン」を「差別主義者」「シスセクシスト」「TERF」「不寛容」として“糾弾”することで、性的加害を正当化してきたのも事実である。

そして「クィア理論」においては、まさしくレズビアン(非異性愛者)」に男性(異性)とのSEX(異性愛)を要求することに性的興奮を覚える男性異性愛者をも「クィア」として認め、かつ「レズビアン」に対してそのようなクィア(変態野郎)」との“連帯”を強要するレトリックが用いられている(実際にセジウィックという代表的なクィア活動家がそのように提唱している)。

そのような「クィア理論」を金科玉条に掲げる「クィア主義者」からすると、【百合に挟まりたい・混ざりたい男】が「変態(クィア)」として罵倒される様は、さぞ心苦しいであろう。

だが裏を返せば、「百合(女性同士の恋愛関係)」に「挟まりたい・混ざりたい(つまり【女性を愛する女性】に男性とのSEXを要求したい)」というあからさまな《レズビアン差別》の事案を目の当たりにしながら、そういった言葉尻を捉えて告発者を「無自覚の差別主義者」に仕立て上げることにばかり執心する精神性というのは、まさしく「クィア理論」自体が実質的に《レズビアン差別》の告発・批判を無効化する《差別主義者の論理》として機能している事実の証左に他ならない。

あるいは「変態」という言葉を用いなくとも「レズビアン」に対する性的加害を告発・批判することは可能だと言うだろう。しかし実際は逆で、「変態」という言葉が“狩られて”しまうなら、そのような「クィア理論」にもとづいた「レズビアン」への性的加害を告発・批判する手段が失われてしまうのだ。

  • それでも「変態」という言葉が「レズビアン」の迫害に用いられてきた事実に変わりはないと言い張るのであれば、まさしくそのような「クィア理論」に基づいて「レズビアン」が「差別主義者」「シスセクシスト」「TERF」「不寛容」などとして迫害されている実情があるのだから、「差別主義者」「シスセクシスト」「TERF」「不寛容」などといった言葉もいっさい使ってはいけないことになる。

そのような、まごうかたなき差別思想である「クィア理論」に対するカウンターも込めて、私は今後も「変態(クィア)」という語彙を“否定的”に使い続ける所存である。

 

「腐女子」を“異常視”するSF作家・山本弘は本当に「腐女子」の理解者か?

(2021年1月11日 タイトル変更/加筆修正)

  

山本弘の『BIS ビブリオバトル部』という小説については書店で手に取った際、冒頭からメインキャラクターの男子高校生がヒロインについて「俺は巨乳がタイプだから、こいつみたいな貧乳は好みじゃない(意訳)」といったミソジニー全開の発言をしていて、うんざりして棚に戻した記憶がある。ビブリオバトルの楽しさをラノベを通して伝えたいという意図であるなら、悪役でもない登場人物をなぜこのように造形する必要があったのか。男性読者の共感が得られると判断したうえでのことなら、女性読者を排除しているし、男性読者を舐めきっている。

そのようなミソジニーと表裏一体にあるのがホモフォビアであり、両者が結びついたのが「腐女子バッシング(BLバッシング)」である。

【僕の文章を勝手に誤解して、腹を立ててた人】とは、上掲のリンク先にある紹介記事のコメント欄で、同作品に登場する「腐女子」のキャラクター【ミーナ】の扱いを批判した人物のことである。引用しよう。

(前略)ミーナのBL好きが作中で「そもそも腐女子という概念自体、正しい女子の姿からはずれてるように思うんですが」だの「女性が男色に興味があるということ自体、すでに心のバランスが崩れているように思うのだが」だのと酷い評価を受けていますが、21世紀の現在、先進諸国の精神医学会は同性愛を「性的倒錯ではない」つまり“健全でノーマルな”愛の形としており、そのように愛し合う関係の男性たちを(あるいは「あの人とあの人が恋人同士だったら」という空想を)「素敵だ」「いとおしい」と感じる(つまり萌える)ことがそんな異常なことだと罵倒する権利は誰にもないと思います。
 最近よくテレビ番組などでも「約20人に1人がLGBT」と紹介されていますよね? つまり、ランダムに男性を100人を集めたらその内5人くらいゲイでもまったく何の不思議もない訳です。「ランダムに」を「山本さんの男友達や仕事でお世話になっている」とか「ビブリオバトル好き中高生の」に置き換えても同じですから、山本さんが「SFって面白いんだよ」「差別はよくないよ」「ニセ科学に騙されないで」と誰かに伝えたい時、その「誰か」がLGBTやアライ(支援者)である可能性は常に意識していただきたいです。
 作中のセリフや地の文でミーナのBL好きが否定されるのを読むたび、わたしは我が身のことのようにつらいです。
Posted by ヨネマサカシラ at 2016年02月09日 07:42

 

 先ほどのわたしのコメントについて、一点どうしても補足説明というかお詫びしておきたい箇所があったので、すみませんが連続コメントさせてください。
 「ランダムに100人の男性を集めたら~」のくだりですが、元々この段落はその前の、同性愛は健全でノーマルな愛の形だから男性同性愛に萌える腐女子も異常呼ばわりされる理由はない、という段落に入れようと思っていたのを、「100人中5人いるからノーマルだ、という理屈では、100億人に1人しかいないならアブノーマルだ、という話になってしまうから、この文章は別のところにつなげよう」とその次の段落に移した時、腐女子の萌えの対象について語っていたからゲイに限定していたのを、うっかりLGBT全般の話に直し忘れてああなりました。ゲイ以外のLGBTの皆さま、排斥するような形になってしまいたいへん申し訳ありません。
Posted by ヨネマサカシラ at 2016年02月09日 18:27

なんだか無駄に情緒的な文章で説得力に乏しいけれど、それはさておきBLおよび腐女子バッシングの根底に、ホモフォビアが存在することは事実である。なぜならBLについて指摘される「問題」は、ことごとく男女物にも当てはまる内容であり、それにもかかわらずBLだけをあげつらうのは、けっきょくのところBLのテーマである「同性愛」自体が《異常》であるという前提に立脚してるからだ(むろんこれは「百合バッシング」にも当てはまる)。

現実の同性愛とファンタジーのBLは違うのだ、といった物言いも目にする。しかし現実の同性愛とファンタジーのBLが同じなのではなく、現実の同性愛を否定するレトリックが、そのままフィクションのBLを否定するレトリックとして援用されているというのが実情である。ようは現実の同性愛を嫌悪する人間が、フィクションの同性愛の表現も同様に嫌悪しているだけのことであり、ただそれを愚直に表明したらたんなるホモフォビアの差別主義者であることがバレてしまうので、その代わりにBLを槍玉に上げているにすぎない。

一方で、ファンタジーのBLが現実の同性愛者を“性的消費”しているといった言い分もあるが、それこそ現実とファンタジーを混同した思考であろう。だいたいBLがファンタジーであるなら現実の同性愛者に対する“性的消費”にもなりようがなく、両者は完全に矛盾しているのだけれど、なぜか同じ口で主張されるのだから、やはり初めに否定ありきのもっともらしい難癖でしかない。

さて、これに対する山本自身の、これまた説得力ゼロの反論が以下である(※強調は引用者)。

 

(前略)あなたは僕の小説『アイの物語』をお読みでしょうか?
 あの小説の大きなテーマは、「異質なものは理解できなくてもいい、許容すればいい」というものでした。このテーマは『BISビブリオバトル部』でも貫かれています。
 部長である聡のモットーは、「自分の嗜好を他人に押しつけてはならない」というものです。

>「理解できないのは分かる。僕だって正直、BLなんて理解できない。でも、否定もしたくない。やっちゃいけない」

>「だからさ、このBIS、特にBB部は、安らげる場なんだよ。人と違ってて何が悪い。変わった趣味を持ってるからって、それがどうした。ユニークなのってサイコー!――そう胸を張って主張できる。それどころか理解者を増やせる」

 それは空や武人も同じです。
「ミーナのBL好きが否定されるのを読むたび、わたしは我が身のことのようにつらいです」? いや、2人ともミーナの趣味を理解できず、変だと思っているだけで、否定はしていませんよ。
「異常なことだと罵倒する権利は誰にもない」? 確かにその通りです。しかし、2人がミーナの趣味を「異常なことだと罵倒」している場面など、いったいどこにあるのですか? 「異常」なんて言葉は使っていませんし、ましてや「罵倒」などしていませんよね?
 つまりあなたは、作中に存在しない場面が「ある」と勝手に誤解しているだけです。

 また、あなたの主張がおかしいのは、かんじんのミーナの発言を無視していることです。

>「はあ、今どき同性愛者に対して、こんな感覚抱いてる若者がいるんだ」蟹江のツイートを読みながら、ミーナはあきれていた。「生きた化石だなあ」

 こういう台詞を読んで、僕がBLや同性愛に対して偏見を抱いていると思う人はいないはずです。あなたはこうした箇所を無視し、さらに空や武人の台詞を「異常なことだと罵倒」と歪曲することで、この小説を読んだことのない人に間違った印象を植えつけようとしています。
 そういうやり方ってアンフェアだと思いませんか?

 もうひとつ、いちばん重要なことを。
 僕の娘は現在19歳、大学生です。立派な腐女子です。
 今は『刀剣乱舞』の燭台切光忠がお気に入りで、イベントでコスプレもしていますし、グッズも集めています。もちろんBL同人誌も買っています。
 僕も妻も、娘の趣味を暖かく見守っています。妻など、コスプレ用の衣装を作ってやったりしています。
 作中のミーナの言動は、娘のそれがヒントになっている部分があります。

 そんな僕が腐女子を「異常呼ばわり」していると?
 つまりあなたは、僕が娘を異常呼ばわりしているとおっしゃっていることになりますよね?
 それは僕に対する重大な侮辱なんですが。

 もちろん、差別や偏見と戦うのは正しいことです。
 でも、誰かの著作の内容を誤読して文句をつけたり、その誤解を元に作者を差別主義者であるかのように決めつけるのは、明らかに間違っています。
Posted by 山本弘 at 2016年02月10日 20:13

山本が引用した「はあ、今どき同性愛者に対して、こんな感覚抱いてる若者がいるんだ」「生きた化石だなあ」という台詞は、あくまでも「腐女子」である【ミーナ】の言葉であって、作者である自身を仮託しているであろう男性キャラクターによる発言ではない。よって山本自身がBLや同性愛に対して偏見を抱いていないことの証明にはまったくならない。

また山本に言わせれば「異常」という語彙を直接的に“使って”さえいなければ「異常なことだと罵倒」「異常呼ばわり」したことにならないらしい。

“罵倒”という言い方が不本意なら“侮辱”でもいいと思うが「そもそも腐女子という概念自体、正しい女子の姿からはずれてるように思うんですが」「女性が男色に興味があるということ自体、すでに心のバランスが崩れているように思うのだが」といったセリフが腐女子」を“異常視”するものでなくて、いったいなんなのか。

思えば十年以上前、個人サイト上で掲示板を開いていた頃から、山本は議論で劣勢になると、このようにしょうもない言葉尻をいちいち捉えて相手を煙に巻く癖があるので(それにしても山本に追従する「信者」のネチョネチョとした気持ち悪さも相変わらずである)、具体的に指摘するなら《正しい女子の姿からはずれてる》《心のバランスが崩れている》という箇所が《女性が男色に興味がある》というセクシュアリティを“異常視”するものである。

あるいは山本にいわせれば「異常」という語彙を「変」に置き換えたなら「異常呼ばわり」することにならないらしい。そのくせ「理解できないのは分かる。僕だって正直、BLなんて理解できない。でも、否定もしたくない。やっちゃいけない」とこの期に及んで善人面をする。

「否定する」ということが、どういうことを想定しているのか、それこそ直接的に「異常」という語彙を用いて“罵倒”することだけを想定しているのか。

いずれにしても山本(が自身を仮託するキャラクターたち)が《女性が男色に興味がある》というセクシュアリティを“否定的”にとらえ、なおかつそのような「偏見」を疑うこともなければ改めようともしない精神性の持ち主であることは事実のようである。

そのような「上から目線」の態度をもって「腐女子」を“許容”しているなどと言われても、そも“許容”される以前に「腐女子」は存在しているのであり、まずはその存在を(余計な価値判断を挟まずに)ありのままに是認するべきではないのか。ましてや自己の卑小な価値基準に照らし合わせて“理解”できないからといって、一方的に“侮辱”する行為が、それこそ“許容”されるべきでもない。

そもそも男性である山本が「正しい女子の姿」なる“概念”を一方的に規定すること自体がミソジニー以外の何物でもない。

あと興味深いのは、山本が自身の「腐女子」であるという実子を引き合いに出して「偏見」のなさを自己アピールしていること。元よりこれは《I have black friends(私には黒人の友達がいる)》といって典型的な《差別主義者の論理》そのものだ。この「black friends」にはあらゆる被差別的属性が代入可能であることは言うまでもない。

腐女子」に対して「差別」という概念が適用されうるかという論点はさておくとして、「腐女子バッシング」の根底に《女性差別》と《同性愛者差別》が存在することはすでに述べたとおりである。そして山本自身が「差別主義者」であるか否かはともかく、都合が悪くなると《差別主義者の論理》を用いて自己正当化を図る人物であることにも変わりはない。

なお山本弘ホモフォビアについては、かつて当ブログでも取り上げていた。かれこれ十年前の記事だが、差別問題に関する山本の基本姿勢が、この時点からまったくアップデートされていないことがわかる:

山本弘のおかしな「ロリコン擁護」

やはりホモフォビアを正当化する山本弘

 

レズビアンの「性の自己決定権」の正当な行使を妨げる「恥」の倫理

(2019年8月4日 タイトル変更)

(2019年11月20日 加筆修正)

 

 

これはまさに私が指摘している、レズビアンがトランス女性を性的対象に含めないことは「自由」だけれども「差別」であることには変わりない、というクィア理論やトランスジェンダリズムダブル・バインド(二重拘束)を端的に表すものだ。

もっとも文中に「レズビアン」という言葉を巧妙に避けているし、生物学的性別を前提に恋愛やSEXのパートナーを選別するという意味では異性愛者も含まれるけど、プロフィール欄に《差別はみんなダメだけど現在特にMtF差別に反対。》と記載していることから、今話題の急進的・先鋭的なトランス/クィア活動家とレズビアンの対立をめぐる論争を前提にしていることは明白なので、ここでは「レズビアン」に焦点を当てて話を進める。

また「属性」ということであれば、当然ながら「トランス女性(MtF)」だけでなく「シス男性」も含まれるのだろう。つまり井上は、レズビアンが「非異性愛」という自らの性的指向を“口に出す(対外的に表明、カミングアウトする)”こと自体を《恥ずかしいこと》と決めつけた上で、そうした非異性指向を有するレズビアンに向けて「受け入れられることを求めて口に出すな」と恫喝するのである。

これは取りも直さず、レズビアンが男性(異性)を愛さないことを《成熟拒否》と決めつけた上で《男性(異性)を愛すること》を要求・期待する異性愛至上主義の焼き直しでしかない。

ただ、レズビアンに対して《トランス女性を愛すること》を要求・期待する文脈において、実質的に「トランス女性」は「男性」のジェネリック(代替)としてレズビアンに差し向けられているにすぎない。

ようはレズビアンに対して《トランス女性を愛すること》を要求・期待する者こそが、まさしく「トランス女性」を「男性」の立場に縛り付けて“男扱い”しているのである。

そも、生物学的性別を前提に恋愛やSEXのパートナーを選別するレズビアン(の多く)は、生物学的性別を前提にパートナーを選ぶといっているだけで、トランス女性が除外されることは結果論でしかない。

なぜならばレズビアンが生物学的性別を前提にパートナーを選別することは「トランス女性」のみならず「シス男性」も性的対象から除外されるのであり、その意味では特定の「属性」を排除しているとは言えないからだ。

それをむりやりMtF差別》に結び付け、あたかもレズビアンが「トランス女性は生理的に無理」と“口に出”しているかのように印象操作するのは、それこそ《MtF差別に反対。》を建前とした《レズビアン差別》を煽動する「ヘイトスピーチに他ならない。

だいたい、なぜ人間の「属性」と「人間性」を排他的な二項対立に設定する前提を、井上は疑いもしないのだろうか。

生物学的性別を前提に恋愛やSEXのパートナーを選別する、といっても実際には「生物学的性別」だけで判断しているわけではなく、性自認や「人間性」も含めて、複合的・多元的に判断しているということだ。

その意味では性自認が〈男性/女性〉でありさえすれば「生物学的性別」はどうでもいいと言っている人こそ、むしろ人間の《性別》を一元的にとらえている。もちろん、そうしたセクシュアリティも尊重されるべきではあるけれど、いずれにせよトランス女性を性的対象にすることは「人権」でも「政治的正しさ」でもなく、「性的嗜好」の問題でしかないという《認識はもっと広がるべき》である。

井上のプロフィールを見ると、

いろんな国のいろんな人と話して、いろんな生き方を学ぶのが好き。差別はみんなダメだけど現在特にMtF差別に反対。デミ&グレイセクシュアルでデミ&グレイロマンティック、パンセクシュアル。人と人とのつながりは最終的に全部友情に基づいていると思う。 一定数通知が来ると通知切っているのでリプ見えないことが多いです。

……とあるけれど、「レズビアン」という生き方についてなにも学んでいないし、パンセクシュアルというより、異性愛至上主義が形を変えた両性愛至上主義者」にすぎないようだ。

  • なお、言うまでもなく「パンセクシュアル(全性愛)」と「バイセクシュアル(両性愛)」は意味合いが異なるのだけれど、同性愛者(非異性愛者)に対して《性別を前提しない恋愛やSEX》を要求・期待することは、結果的に《異性を愛すること(の要求・期待)》になること、またパンセクシュアルがどのように人を愛そうと相手の側(の多く)にはそれぞれの《性別(性自認)》があることから、こうした文脈ではやはり「全性愛至上主義者」ではなく「両性愛至上主義者」と呼ぶのが適切であろう。

* * *

その上で、井上の議論は、レズビアンがトランス女性と《セックスしない自由》については「権利」として“守られるべき”と認めながらも、それを“恥”という「倫理」によって妨げようとしている点が独特といえる。

レズビアン」がトランス女性を性的対象から除外することについては、二通りの解釈がある。

すなわちそれが「差別」であるとして頭ごなしに“糾弾”される一方で、それ自体は正当な「権利」であり「差別」には当たらないと認めながらも、特定の属性や身体的特徴をもつ人々を性的対象から除外することは“恥ずべきこと”であるとする「倫理」である。

両者は「差別」の認定については正反対に見えるが、じつのところレズビアン」がトランス女性を性的対象から除外するという事象をネガティブ(否定的)な状態としてとらえ、そうした正当な「権利」の行使を“糾弾”に見せかけた恫喝によって妨げようとしている点で、本質的に何ら変わりはしない。

「権利」と「倫理」の衝突をめぐるこうしたダブル・バインドは、「権利」と「倫理」がそのじつ別次元に帰属することに端を発している。ようは正当な「権利」の行使に対して、「倫理」という別次元のレトリックを持ち出すことで、その妨げを試みるものである。

仮に「権利」の行使が「倫理」によって批判される事態がありうるとすれば、それは「権利」の行使が他者の「権利」を侵害する場合であろう。しかし「レズビアン」がトランス女性を性的対象から除外することについて、それが「差別」ではないという立場を取る以上、なおもそれを「倫理」にもとづいて“糾弾”するのであれば、もはや「倫理」としての正当性すら放棄した“言いがかり”にすぎないことを露呈する格好となる。

ようはレズビアン」がトランス女性を性的対象から除外することは「権利」であると認めながらも、それが心情的には気に食わないということだろう。しかしそのような心情に何ら正当性がない以上、理性によって矯正されるべきであり、それこそ《その意見を受け入れられることを求めて口に出すな》との有難きお言葉をそっくりお返しする他ない。

* * *

かようにしてマイノリティの「権利」は、つねに「倫理」によって抑圧されてきた。

生活保護バッシング、ブラック企業、「在日特権」デマ――これらの社会問題は、法で定められた正当な「権利」の行使について《恥ずかしいこと》という「倫理」を植えつけることで、法によらずとも人間の「権利」を制限することが可能であるという事実を示す負の証左である。

「権利」があるからといって、何をしても許されるわけではない――このような「倫理」に基づいて、実質的に「レズビアン」は「性の自己決定権」を制限される。言い換えるなら「レズビアン」がトランス女性を性的対象から除外する「権利(性の自己決定権)」があること自体は認めながらも、それを行使することを“許さない”という、欺瞞に満ちたダブル・バインド(二重拘束)だ。

しかし実際には逆で、たとえ法的に「権利」が与えられていたとしても、それだけでは不十分であり、併せてそれを妨げられることなく行使できる環境を整えなければ画餅(画に描いた餅)と化すのである。

井上は《いろんな国のいろんな人と話して、いろんな生き方を学ぶ》より前に、小学校の「しゃかい」の授業から「人権」を“学ぶ”べきだろう。 

 

f:id:herfinalchapter:20191120122055p:plain

※ 2019年11月20日現在、上掲したプロフィールの文言は削除されている。

【悲報】「クィア理論」が《レズビアンへの性的加害を正当化するレトリック》にすぎない事実を「クィア主義者」古怒田望人 (ilya_une_trace)自らが追認した歴史的瞬間!

(2020年3月28日 加筆修正)

>lesbianに対して私は女性だ、受け入れられないならsuck my dick

レズビアン向けのスペースやイベントなどでトランス女性がお断りされる問題、仮に《トランス差別》であるとしても「差別」に「差別」で返しちゃダメ、というのは反差別運動の鉄則でしょう。

なぜならばそれは《差別の原因を被差別者の側に求めるレトリック》《被差別者の言動を根拠に差別を正当化するレトリック》に他ならないから。

ましてや性的加害を示唆する発言など――相手が女性だろうと男性だろうとノンバイナリだろうと――論外で、それこそ脅迫として即通報すべき。そのようなものは「政治的正しさ」を口実にしながら、ポルノじみたレズビアンへの加害欲・レイプ欲を表出しているにすぎない(もちろん「dick」を「ladydick」だの「girldick」だのに置き換えても同じことね)。

ところが、そのような真っ当な指摘に対してイキリ系のトランセル【いりや/古怒田望人 (@ilya_une_trace)】 が勢いよく噛みついてきた!

>いやそこにはトランスコミュニティへの長年のレズビアンコミュニティからの差別ってバックグラウンドがあるのよ。『セックスチェンジズ』ぐらい読んでから出直してきな!

う~ん、このトランセルの理屈なら「レズビアンコミュニティへの長年のトランスコミュニティからの差別ってバックグラウンド」を理由にトランス女性をお断りすることもやはり正当化されてしまうのだけれど?

んでその『セックスチェンジズ』とやらには“正当な理由”さえあればレズビアンに性的加害をしても許されるって書いてあるのかね?

いかなる事情があろうとも、lesbianのコミュニティに対して男性の身体を保持する人が、私は女性だ、認められないやつはsuck my dickなどと伝えるのは問題でしょう。

https://twitter.com/Sora29517773/status/1126272391154245632

さらに食い下がるトランセル。どんどん支離滅裂になっていく。

 「いかなる事情」をちゃんと勉強してください。その上で発言すべきです。そもそも自分は匿名なのに個人を曝すのは極めて暴力的で差別的です。

https://twitter.com/ilya_une_trace/status/1126332164390318080

同じ本を読んだら同じ結論に至るはず、という思い込みは同一性の押しつけでは? 「クィア理論」は多様性を金科玉条としながら、ずいぶん排他的なことですね。

あげく今どきドヤ顔でネットの匿名性批判とか、令和元年に『真剣十代しゃべり場』を見るようです。でも匿名性をあげつらうなら、ツイッターで見かける主要なトランス活動家の大半は匿名だよ(あと正確には、ハンドルネームやペンネームの使用は「匿名」ではなく「顕名」と呼ぶんだよ。またひとつおりこうになったね♪)。

だいたい自分だって個人であるSora氏を“曝し”ているのだから「暴力的で差別的です。」というのは自己紹介ですか?(ついでに言うと、匿名による個人の“曝し”という行為が、百歩譲って“暴力的”であったとしても「差別」は関係ないだろう)。

※ちなみに「古怒田(こぬた)」という苗字は実在するみたいだけど【古怒田望人】というのが本名なのかどうか知らんしどうでもいい。

「男性の身体」という定義が曖昧です。身体とは多義的なものです。

https://twitter.com/ilya_une_trace/status/1126330069733875714

「性」が“多義的”であるなどという「クィア理論」特有のレトリックによって「レズビアン」にペニスを用いた性行為(オーラルSEX)を強要するという性的加害が正当化されている。

・ところで“多義的”とあるのは“多元的”の誤りだろうか? この場合は「性別二元性(二元制)」に対応しているのだから“多元的”が正しい。

こういうトランセルを含めた「世間」というものの、「レズビアン」に対する“まなざし”のようなものを考える上で、常日頃からどうしても納得いかないことがある。

ふつう、異性愛者女性(仮にそれが杉田水脈のような誰もが認める差別主義者であろうと)に対して「チ×ポをしゃぶれ」なんて言ったら、誰もがためらいなくセクハラ(あるいは「女性」に対するヘイトスピーチ)と認めるだろうし、通報されるはずであろう。

だが同じことをレズビアンの女性に対して言うならクィア理論」だの「トランスジェンダリズム」だのの“政治的に正しい”実践だと見なされてしまう。この非対称性こそが「差別」なのだ。

ようは《トランス女性は女性である》から同じ「女性」である「レズビアン」を性的に加害しても「性差別」「性暴力」にはなりえないという屁理屈を、小難しく“学術的”に言い換えたのが「クィア理論」である。

しかし「性」が“多義的”であるというなら、なおのことトランス女性が〈女性〉であると同時に〈男性〉としての側面も有している事実を否定できないだろう。

そこへきてトランス女性のペニスを「女性器(レディディックだの女根だの大きなクリトリスだの)」と言い張ったところで、ペニスの形状や機能が変わるわけではない(よって、一部のレズビアン当事者が女性同士の性行為に「ペニスバンド」を用いることをもって《トランス女性とのペニスを用いた性行為》の強要を正当化することもできない)。

言い換えるならレズビアン」に対して「ペニス」を用いた性行為を強要するという文脈において、トランス女性の性自認に関わりなく「ペニス」は男性ジェンダーとしての社会的・政治的機能性を担うこととなる。

なぜならばそれは「レズビアン」が《男性を愛すること》を強要されるという「異性愛規範」に基づいた社会的・政治的力学が機能している中で、ただ〈男性〉の性役割ジェンダー・ロール)を「トランス女性」に置き換えたにすぎないからだ。 

だいいち、 #トランス女性は女性です といったスローガンにおいては「女性」の定義は不問とされているのに、レズビアンが男性との性行為を強要される問題について「男性」の定義が問われるのは、まったくもってダブル・スタンダードというほかない。これも非対称だ。

つーかこのトランセルこそ、女性アカウントであるSora氏相手にえらそうにマウンティングしてないで女性差別や性暴力の問題について一からお勉強すべきでは?

lesbianに対して女性として受け入れられないならsuck my dick(体で分からせてやる)などと迫るのは絶対に許せないことで、いかなる事情があっても同じです。

https://twitter.com/Sora29517773/status/1126348377191354368

こんなこといちいち説明しなきゃわからんのかなーと思うけど、まぁクィア理論」の教科書には載ってないんだろうね。知らんけど。 

学ぶ気を持たれないのですね。素直に残念です。queer とかも分からないですよね。

https://twitter.com/ilya_une_trace/status/1126349669443850241

はい、みなさんご注目。

クィア理論」とやらがレズビアンへの性的加害を正当化するレトリックにすぎない事実を、クィア主義者【いりや/古怒田望人 (@ilya_une_trace)】 自らが追認した歴史的瞬間です。どうぞご査収ください。

つーかさ、難解な学術書を読まなくたって「クィア理論」の批判はじゅうぶんできるだろ。オウム真理教の複雑怪奇な教義を“理解”しなくてもオウムのテロ行為を批判することができるのと同じ。

私が関西クィア映画祭との議論で“理解”したのはクィア理論」だの「クィア運動」だのは、所詮「反差別」を装いながら《レズビアン差別》を自ら正当化・特権化するためのレトリックでしかないということ。それが自ら「queer」を自称することによって、そのような「クィア理論」「クィア運動」に対する批判・追及は“クィア差別”と見なされ、封殺されてしまうのだ。

ossie.hatenablog.jp

その事実を、私は【いりや/古怒田望人 (@ilya_une_trace)】によって再確認した。

クィア理論」を“学び”“理解”しているという【いりや/古怒田望人(@ilya_une_trace)】によれば、レズビアン」に対して「チ×ポをしゃぶれ」と言い放つことは「クィア理論」に基づいた“政治的に正しい”実践として肯定・容認されべきなのだそうな。

クィア理論」を“学び”“理解”することによって、そのような《レズビアン差別》を正当化する思想が刷り込まれるというのは、まさしく「クィア理論」自体が《レズビアン差別》の構造を本質的に内包する思想であるという証拠。

そのような「クィア理論」を“学び”“理解”するということは、すなわち「クィア理論」の批判的検証しかありえない。

ところが「クィア理論」に基づいた《レズビアン差別》を批判したならば、クィア主義者から「クィア理論」を“学び”“理解”していない、と決めつけられてしまう。しかしそれは裏を返せば、「クィア理論」を“学び”“理解”する人であれば「クィア理論」に基づいた《レズビアン差別》を批判できないということになる。

ある意味で無敵の論法だけど、典型的な循環論法である。

いやコンテキスト理解してから発言しましょうよってことだけなのですが。。。

https://twitter.com/ilya_une_trace/status/1126363962029760512

【いりや/古怒田望人 (@ilya_une_trace)】は「クィアの壁」に阻まれてどうしても議論の(「クィア理論」の、ではなく)本質が見えなくなってるみたいだから、あらためて強調してやろう。

レズビアン・コミュニティにおけるトランス排除を《トランス差別》であるとして告発・批判したいのであれば、その“差別性”を論理的に指摘すればよく、レズビアンに対して性的加害をする必要はない。

そんな当たり前のことは、このトランセル以外は誰でも“理解”しているのに。【いりや/古怒田望人 (@ilya_une_trace)】は、自分に都合の良い「コンテキスト」を一方的に設定することで、自らがそのフレームに囚われ、全体が俯瞰できなくなっている。

どうやら「クィア理論」を学ぶとIQが下がるようである。トランセルクィア主義者による《レズビアン差別》が批判されるのは、「コンテキスト」を“理解”しないのではなく、そのようにして《レズビアン差別》を正当化する「コンテキスト」を拒絶しているからである。

あとこのトランセル、自撮りをやたらアップしてて、自分大好きみたいだから“曝して”宣伝しといてやるよ。

 (なぜ唐突に英語? つーか誰もおまえの容姿の話などしとらんのだが……?)

  

レズビアン・コミュニティの閉鎖性・排他性をあげつらう以前に、こういうゴミみたいな「トランセル」は何処の「コミュニティ」でも排除されるべきだよね。問答無用。

 

現実社会の「倫理」を乗り越える、藤本タツキ『妹の姉』の“主眼”と“目線”

藤本タツキ『妹の姉』少年ジャンプ+(2019年5月2日配信)

https://shonenjumpplus.com/episode/10834108156652911821

この漫画のシチュエーション――妹が姉のヌードを無断で絵の題材にし、しかもそれが賞を獲り学校に掲示される――が、けしからん(あるいは、たんにキモい)、と批判を浴びているらしい。

私は、フィクションであれば何をどのように表現しようが問題ない、という立場を取る者ではない。たしかにこの作品が、実際に起こった出来事を元にしたものであるならば――じじつ否定的意見の大半は、フィクションの表現を現実世界に置き換えたもので、いつのまにか仮定が事実に摩り替っている――、それをこのようにして美談に仕立て上げる一面的な表現は批判の対象になりうるだろう。

しかし、この作品はそうではない。むしろ姉妹二人の愛憎入り混じった、閉じられた関係性を描くことに主眼があるのではないだろうか。

そしてそのような人間関係を描く上で、上述のシチュエーションは、現実社会における何かのトレースではなく、二人の「精神世界」「心象風景」を投影・象徴したものと解釈するのが妥当だろう。それがあまりにも現実離れした、過剰で荒唐無稽な表現――あまりに現実離れしすぎていて、実現化する可能性はゼロに等しく、よって批判者が懸念する現実への影響も考えにくい――になっているのは、まさしく少女二人の、自意識を持て余した若者の目線をとおして表現されているからだ。

たとえば、この作品には姉妹の他に、クラスメートや先生、親や親戚などの第三者が登場する。興味深いのは、それらの脇役が、実質的には姉のほうにしか干渉してこないことだ。

姉は、自己のアイデンティティである絵の才覚によって周囲から認められることを内心望んでいながら、後追いの妹に先を越され、しかもよりによってその妹の作品を機に、不本意ながらも周囲の注目を集めることになる。

こうした筋書きを読み解いていくと、そのような周囲の存在は完全な他者というより、姉自身のコンプレックスと二律背反を成す、屈折した承認欲求を具象化したものと捉えられる。

すなわち、そうした外野の存在は、作中においてあくまでもギミックでしかない。妹の目には、崇拝にも近い憧れの対象である姉の存在しか映っていないし、また姉も当初は周囲の視線に悩まされながら、最終的には妹を直視することで、やがて自身の心の壁をも乗り越えていく。

言うなれば『妹の姉』は、一つの作品世界をフルに費やした壮大な姉妹喧嘩であり、そして「姉妹百合」なのだ。

  • あるいは、芥川の『地獄変』やデミアン・チャゼル監督の映画『セッション』などにも通底する、表現者としての止むに止まれぬ「業」を描いた作品であるとも解釈できる。

そのような独特の表現を、杓子定規に現実社会の「倫理」に当てはめた上で、頭ごなしに“糾弾”することが、マンガを読み解く上で正しい「評論」と言えるだろうか。

  • あるいは、本作に対する私の「評論」を、私が過去に批判した作品に当てはめて、それらの評価を覆そうと試みることもまた“杓子定規”である――と釘を刺しておこう。

むかし流行った『空想科学読本』のように、フィクションの表現を現実に当てはめたらどうなるか……と無粋な突っ込みを入れながら読むのも楽しいかもしれないが、それが作品の「批判」「糾弾」に直結してしまうのだとしたら、つまらないことだ。

繰り返すが、フィクション作品に社会性・政治性を見出すのはいい。しかし、そうした社会性・政治性を乗り越えた先に、マンガという表現の可能性と面白さがあることまた、事実である。

P.S.
『妹の姉』フィーバーの陰で埋もれている感があるけれど、その二日後(5月4日)に同じく「少年ジャンプ+」で公開された新浜けいすけ『あなたのようになりたかった』も、ウェルメイドで感動的な百合作品。SFだが難解な印象はなく、クセがないのでこちらはストレートにお薦めできる。

 

クィア・ベイティングと「百合営業」と野島伸司 #百合だのかんだの #百合

クィア・ベイティング(queerbaiting)」という言葉があるそうだ。

 クィア・ベイティングは搾取か、それとも進歩の表れか|NEWS JAPAN

 「queer」というのは、ここでは非異性愛(具体的には、同性愛または両性愛)のこと。「baiting」というのは“釣り”。

ようするに、「同性愛」とあえて明確に規定しないでおきながら、あからさまに「同性愛」をほのめかす表象を用いることで、同性愛当事者、あるいは同性愛表象を好むユーザーを惹きつけよう(釣ろう)とするといった、ややこしいが、ありふれた商業戦略を示す言葉である。

日本では、いわゆる「百合営業」がそれに該当するだろうか。私自身、女性アイドルなどが女子同士で絡み合ったりしている画像をネット上で見かけると、つい右クリック保存してしまうていどには日常的に“釣られ”ている。

とはいえ「百合営業」を手放しで賛美する気にもなれないのは、そのようなあからさまに「同性愛」を連想させる表象を用いる一方で、当人たちはガチの「同性愛者」ではないというお約束(暗黙の了解)があるためだろう。ともすればそれは保毛尾田保毛男に象徴される、ホモフォビアに根差した「ホモネタ」の類と見分けがつかない。

もっとも芸能人、とくにアイドルが、自身の性的指向を明確かつ対外的に表明することはあまりない(その意味で、後述する馬場ふみかがリンク先の記事に出したコメントは珍しい。もっとも彼女はアイドル枠ではないのかもしれないけど)。そこへきて、彼女たちが「異性愛者(非同性愛者)」であることを自明とする議論は、むしろ異性愛至上主義の内面化を露呈してしまいかねない。

また、それこそ「クィア理論」の文脈においては、そのような非異性愛の《可能性》を示唆することが、ともすれば《人間の性的指向は常に流動・可変する》といった政治的イデオロギープロパガンダにも結び付けられがちだ。しかしそれはそれで、他人のセクシュアリティを自分の言いたいことのために利用している感が否めず、鼻白んでしまう。

いずれにせよ「百合営業」についてそれほど目くじらを立てる必要はないだろう。同性愛者の方々に失礼! と目くじらを立てるのも、性的指向流動性ガーなどと過度な期待や意味性・観念性を求めるのも、どこか頭でっかちな気がする。

が、それを「作品」という形で世に問うとなれば、話は別だ。   

馬場ふみか・小島藤子 共演!野島伸司が描くFODオリジナルドラマ『百合だのかんだの』配信決定!|ACTRESS PRESS(※強調は引用者)

https://actresspress.com/drama-yuridanokandano/

野島伸司(脚本)からのコメント】
今回の作品については、 女性同士の恋愛を描くつもりは全くありませんでした。 離婚や仕事で忙しく彼氏を作らない女性が増えている中で、最後には女性同士で一緒に暮らそうなど、男女の関係が限界にきているように感じます。本質的には分かり合えない、生き物が違うものといるより、分かり合える種族と一緒にいた方が有意義じゃないか。女子がトイレに手を繋いでいくことの延長であり、イイ男がいたらみんなで共有するくらいあってもいいんじゃないかと思います。(後略)」

 タイトルからし「百合」というキーワードを掲げておきながら(しかも馬場ふみか演じる主人公の名前も【篠原百合】……)、脚本の野島伸司《女性同士の恋愛を描くつもりは全くありません。》と言い張る。そのあざとさこそ「クィア・ベイティング」の典型であろう。

 『おっさんずラブ』のヒットに遅ればせながら便乗した感がアリアリと伝わってくるが、『おっさんずラブ』が「ラブ」と明確に自己規定しているのに対し、女性同士の関係性を描く実写ドラマは、いまだに《友達以上恋人未満》で足踏みしているようだ。

マンガの分野では、女性同士の「恋愛」をポジティブに描く「百合作品」などけっして珍しくないのに、実写のドラマや映画(さらには文芸)は元号が変わろうとする最中にも新時代を迎える兆しが見えないのは、どうしたことだろう。

両者間の非対称は、「百合」という概念がすでに浸透・認知されているマンガ業界とは異なり、女性同士の恋愛(を明示または暗示する表象)を、未だにセンセーショナルなネタとしてしか扱えないドラマ業界の旧態依然とした体質を浮き彫りにしているかのようだ。

そして何よりも《イイ男がいたらみんなで共有するくらいあってもいいんじゃないかと思います。》という野島伸司のコメントからは、女性同士の連帯を肯定するというより、そこに男(である自分)が混ざりたいという意識がダダ漏れである。

このようなものには、さすがに“釣られる”気にならない。

P.S.

なお、NHK総合で今週金曜日(4月19日)から放映される連続ドラマ『ミストレス~女たちの秘密~』では、大政絢演じる異性愛者の既婚女性がレズビアンに恋をするという筋書きで、そのレズビアンの役を篠田麻里子が演じるのだという。むしろこちらのほうが期待できそう? 

thetv.jp