百錬ノ鐵

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《百合に男が挟まりたい》問題の“震源地”を探る~女性百合作家へのハラスメント事案をめぐって #yuri #百合

(2020年4月14日 加筆修正)

「百合クラスタ」の間で定期的に話題に上る、「百合(女性キャラクター同士の恋愛関係、カップリング)」に対して「男(男性異性愛者)」が「挟まりたい・混ざりたい(という欲望を吐露する)」問題。 

じつのところ私個人としては、「百合」に男が挟まりたい・混ざりたい、という文字列を見るだけで胸糞が悪くなるし、そのような概念がこの世界に存在すること自体を認めたくない、というのが本音である。

ために、今回も深追いする気になれずスルーを決め込むつもりでいたものの、なにげなくTLを眺めているうちに、その“震源地”と言える変態野郎のアカウントをたまたま見つけてしまった。

 

 

 

 

  

「百合」やマンガといった分野を問わず、女性の表現者が男性客から目をつけられ、セクハラ、パワハラ、マンスプレイニングなどありとあらゆる形態のハラスメントを受ける事案は日常茶飯事である。

そして女性の表現者が、そのようなハラスメントを公に告発したとたん、別の男性から「その男性も悪気があったわけではないのだから許してあげるべきだ」「作家の側が笑って受け流す度量を身に着けるべきだ」「表現者であれば不快な意見・感想でも甘んじて受けるべきだ」「すべての男性が加害者ではない。男性に偏見をもつのは『男性差別』である」といった二次被害(セカンド・レイプ)を受けることもお決まりのパターンだ。

実際、上掲した百合嗜好者と思われる男性アカウントは、議論の発端となった犬井あゆ(@_osakana_man)を含め、あきらかに「女性作家」とわかるアカウントにしか絡んでいない(あるいは女性であっても「フェミニスト」からの声は無視する。この類の男にとってフェミストは「女」ではないらしい)。

男女を問わず、誰もこのような他人の痛みに寄り添わない独り善がりで上から目線の「クソバイス」など求めていない。逆に、この男が「女」に近づく口実として、自分が気安くマウンティングできる「女性作家」を必要としているだけである。

とはいえ、女性作家の立場から、そのような男性に毅然と「NO」を突きつけることはなかなか難しいだろう。

だとすれば、同じ百合嗜好の男性の立場から「NO」を突きつけるほかない。

なおお断りしておくが、以下に続く私の言辞は、あくまでも私自身の「同じ百合好き男性」という“当事者性”に立脚するものであり、ハラスメント被害の「当事者」であられる犬井あゆ先生を“代弁”ないし“支援”する目的・意図はいっさい含まれていない。

* * *

>挟まりたいくらい可愛い!という褒め言葉で決して悪気はなかったとは思うし 作品を観てどう感じるかは受け取った側の自由じゃないかなあ。ある程度のスルースキルは必要かも。

はぁ。「受け取った側の自由」と言いながら何テメェの独り善がりな「不自由」極まりない解釈を人様に押しつけてんの?

つーか「悪気」があろーがなかろーが百合絵を見て混ざりたいと発想する時点で、そのような「男」は異常者の変態野郎でしかないし、またそれが異常であることに気がつかない時点でテメエ自身も同じ異常者の変態野郎だよ。

変態野郎の分際が創作者に向かってスルースキルがどうのと頓珍漢な説教垂れてんじゃねえぞ?

せめて変態なら変態らしく身の程を弁えとけ。

>言ったのが男性だとしても「(もし女に生まれ変わったら)混ざりたい」って意味かもしれないしあくまで作品に対する褒め言葉の範疇ではないかな。

《ないかな。》じゃねえよアホ。

女性カップルに対して「挟まりたい・混ざりたい」などと言うことは、男は元より女が言ってもセクハラに決まってるだろうが。

逆になんで女同士なら許されると思うの? 一部の百合マンガに出てくる「女同士なんだからいいじゃない」的なセクハラ描写を鵜呑みにしているのか。《もし女に生まれ変わったら》などと加害者の心情を都合良く勝手に忖度して仮定を前提に話を進めてる時点で、空想と現実の区別が付いてないんじゃねえのか。

  • もっとも、実際にレズビアン当事者が他の女性カップルに挟まりたい・混ざりたいなどと発言しているのは見たことがないので、この《百合に挟まりたい・混ざりたい》という欲望は、やはり男性異性愛者に固有の心性と思われる。

つーか何だその屁理屈は。そんなわけのわからん屁理屈が赤の他人に通じると思い込んでる時点でテメエの精神構造は異常極まりないのだが?

>例えば 綺麗な海の絵を見て「ここで泳ぎたい」と言うぐらいの意味でしかなくそこまで悪質な言葉ではないかなと思った次第です。

えーと、まず百合カップルは「海(モノ)」ではなく「人間(人格)」なので、そのパラフレーズは不成立。喩え話が喩えになってないのはアホの特徴。

またそれに「挟まりたい・混ざりたい」と発想するのは、男性異性愛者のセクシュアリティとしてけっして“自然”なこと(本質)ではなく、異性愛至上主義に根ざした「差別思想」であり、言うなれば社会的・政治的に“つくられた(構築された)”マガイモノの感性。

んで、そのような異性愛至上主義の差別主義者を、わけのわからん屁理屈で必死に擁護しつつ女性作家に“マンスプレイニング”する変態野郎がテメエだよ。

 

forzastyle.com 

>もちろん明らかに悪質なものに関しては即通報するべきで間違いありません。

そうだな。あらゆる意味で「間違い」だらけのテメエみたいな変態野郎は、もはや存在自体が「暴力」だし「悪質」極まりないのだからテメエでテメエ自身を“通報”するべきだね。さいならー。

* * *

ここから先は長い余談になる。

《百合に男が挟まりたい・混ざりたい》問題。そのような異性愛至上主義に根ざした差別的欲望の表出を忌避するのは自明として、しかしその理由が「百合」が“尊い”からなどという次元に留まっていたら、逆に足元を掬われることになる。

上掲の【変態野郎】に対しては、当然のごとく「百合クラスタ」からの反論が殺到しているけれど、そも《百合に男が挟まりたい・混ざりたい》という欲望の表出自体が、異性愛至上主義に根ざした明確な《レズビアン差別》であり「ヘイトスピーチであるという論点が見受けられなかったことは残念でならない。

元よりこれはファンタジーの「百合」と現実の「レズビアン」が“同じ”だということではなく(あるいは百合作品のキャラクターが「レズビアン」だということでもなく)、現実の「レズビアン」に対する性的加害を正当化するレトリックが「百合」の解釈にも敷衍されているという意味である。

本件に関しては「当事者」である作家本人が不快感を表明している時点で、一つのハラスメント案件であることは論を俟たない。しかし、指摘されているとおり直接的・逐語的に“性的”な語彙(それこそ「射精したい」のような)が用いられていないこと、さらには作家本人に向けられていないことから、それを一般的な意味での「セクハラ(セクシュアル・ハラスメント)」として告発することも難しい実情がある。

たんに本人が嫌がっているのだからやめろ、というだけでは、それこそ「表現者」たるもの《多少否定的であれ正直な意見》《自分の意に反する反応》も甘んじて受けるべしといった薄っぺらで的外れな精神論に摩り替えられてしまいかねない。

くれぐれも言っておくが、ヘイトスピーチ」はそれ自体が《差別行為》であって“ご意見・ご感想”の類ではない。そして男性が女性同士の恋愛関係(百合)に介入したい(挟まりたい・混ざりたい)という欲望を表明すること――さらにはそのような「欲望」を許容するように迫ること――は、異性愛至上主義に基づいた「ヘイトスピーチ」の典型であり、だんじて「スルースキル」を身に着けて看過されるべき事柄ではない。

  • この問題は、女性の側から他の女性同士の恋愛関係に介入したいという欲望が発せられることがない(さらにはそのようなコンセプトの百合作品も存在しない)事実との非対称性に明らかであろう。
  • 付言すれば「ヘイトスピーチ」は、その逐語的な意味合いに反して、かならずしも(というか多くの場合に)直接的な「ヘイト(憎悪)」を示す言葉によって構成されるわけではない。
  • 仮に対象への「愛」や「好意」「憧れ」など(それこそ「悪気」「悪意」の対極にある感情)の表現であっても、その対象が〈女性〉であり、なおかつ〈女性〉が〈男性(異性)〉を愛するべきであるとする異性愛至上主義を前提とするのであれば、まさしく異性愛至上主義の社会的・政治的力学に依拠した「ヘイトスピーチとして機能する。
  • たとえば、である。ルワンダ虐殺の引き金となった『千の丘自由ラジオ』においては《ゴキブリども(ツチ族)を皆殺しにしよう!》といった直接的・逐語的に「ヘイト(憎悪)」を煽り立て虐殺を教唆するメッセージの他にも《ツチの女はどんな味か経験してみよう》といった「欲望」の表明が含まれていた。
  • レイプの根底にあるのは「愛」ではなく「支配欲」であり、また「支配欲」に根ざした「愛」はレイプに他ならない。《百合に男が挟まりたい・混ざりたい》という「支配欲」の表明を《褒め言葉の範疇》と捉える感性はレイピストの感性そのものだ。
  • もっとも、そのような「ヘイトスピーチ」の機能性の一つとして《沈黙効果(ヘイトスピーチを浴びせられた当人がショックのあまり思考停止に陥り失語してしまう現象)》があることから、実際にその場で適切な対応が取れなかったとしても責められるべきではない。だが、それでもなおヘイトスピーチ」をけっして許容しないという対外的姿勢を示すことは、それこそ「表現者」であれば必要不可欠である。

また一連の騒動に乗じて、有名無名を問わず百合系の作家たちが【百合に挟まりたい・混ざりたい男】をネタにした「大喜利」に興じている(私が今回話題になっていることを知ったのも、私がフォローしている推し作家がそのようなツイートをしているのを目にしたからだ)。

そうした作家たちの不真面目な態度は、しかし「百合」が現実の「レズビアン」に対する“性的消費”であるという批判を、むしろ裏打ちすることになりはしないだろうか?

おそらく「百合クラスタ」の間では、【百合に挟まりたい・混ざりたい男】と同様に(あるいはそれ以上に)私のような社会的・政治的論点を提示する者も異端視され、煙たがられるのかもしれない。

しかし《レズビアン差別》が現実社会の問題であり、そしてレズビアン差別》こそが、まさしく《百合に男が挟まりたい・混ざりたい》という欲望の“震源地”にほかならない以上、「百合」を愛する者はいやがおうにも現実の《レズビアン差別》と向き合わざるをえない。

あるいは「欲望」自体を“なくす”ことはできないとしても、そのような異性愛至上主義に根ざした差別的な「欲望」の表出が、おおっぴらにまかりとおる事態を抑止することは可能であろう。そのためには、たとえ愚直で不格好あろうと、やはり《百合に男が挟まりたい・混ざりたい》という欲望の表出自体が、異性愛至上主義に根ざした明確な《レズビアン差別》であり「ヘイトスピーチであるという前提を私たちが共有する他ないのではないか。

* * *

話ついでに、さらに面倒臭い論点を提示する。

上掲文章の中で私が、この異性愛至上主義の差別主義者を罵倒するにあたり、あえて「変態」という語彙を用いたことについて。

どうも近頃は「変態」という言葉を否定的に用いること自体が、同性愛者などを含めた「変態(クィア)」と呼ばれるセクシュアリティに対する「差別」を強化することにつながるというクィア理論」が幅を利かせている。女性専用車両に乗り込むミソジニストの男たちに対するカウンターとして「変態」という言葉を用いることについても、そのような意識のお高いクィア主義者による“言葉狩り”が散見された。

だが結論から述べると、というより当ブログを一読しておわかりのことと思うが、私はこの「クィア理論」に対して否定的な立場の人間である。

たしかに「変態」という言葉が、精神医学においては「変態性欲」として同性愛などの《生殖》につながらない「性欲」を“否定”する(つまり“治療”の対象として異性愛に“矯正”する)意味で用いられてきたのは歴史的な事実だ。

しかし日常生活で用いられる「変態」という言葉は、じつのところ定義が曖昧かつ茫洋としており、かならずしも「同性愛」だけを指すのではない。

つまり非異性愛者ないし非シスジェンダーについて「変態」という言葉を用いるなら《差別語》となるが、裏を返せば非異性愛者ないし非シスジェンダーと無関係の事柄を「変態」と言い表すことは、なんら「差別」になりえないのである。

とくに「百合(女性同士の恋愛関係)」に“挟まりたい・混ざりたい”と発想することが「男」にとって“自然”であり“本能”なのだと思い込む異性愛至上主義の差別主義者に対して、そのような欲望が「男」にとって普遍的に共通する心理ではない事実を突きつけるうえで「変態」という言葉は他の何よりもわかりやすく、有用であると考えられる。

  • ただしこうした場合に〈男性〉が、「百合」に“挟まりたい・混ざりたい”と発想する男性に対して「いっしょにするな」と言い放つべき相手は、そのような「男性」であって「レズビアン」ではないことを確認する必要がある。
  • 元より、このこと(=そのような欲望が「男」にとって普遍的に共通する心理ではないという事実)は、いわゆる「Not All Men」的な体の良い他者化・切断処理とは、まったく異なる。むしろ「男(百合好き男性)」の問題であると認知すればこそ、私を含めた「男(百合好き男性)」が自らの“当事者性”と“主体性”に基づいて発言すべきなのは自明である。
  • なお、ここでいう「男」ないし「女」の定義を問うことは不毛である。
  • 議論の本質は、あくまでも「男」が「女(女性同士の恋愛関係=百合)」を侵犯する行為の暴力性・差別性についてであり、当該のハラスメントを女性作家に行った「男(と思しき人物)」が、実際にどのような性自認を有しているかは何の関係もない。
  • 極論を述べてしまうなら、問題のハラスメント事案が実際に起きた(女性作家が体験した)出来事であったのかすらも関係ない。《百合に男が挟まりたい・混ざりたい》という欲望(およびその表明)は、それ自体が差別的である上に、それを擁護・肯定する者(上掲の「変態野郎」)が実在していることは紛れもない「事実」であるからだ。

また歴史的経緯を述べるなら、まさしくクィア理論」自体が、「男性(あるいは生物学的に〈男性〉である人、とくにトランス女性)」を性的対象にしない「レズビアン」を「差別主義者」「シスセクシスト」「TERF」「不寛容」として“糾弾”することで、性的加害を正当化してきたのも事実である。

そして「クィア理論」においては、まさしくレズビアン(非異性愛者)」に男性(異性)とのSEX(異性愛)を要求することに性的興奮を覚える男性異性愛者をも「クィア」として認め、かつ「レズビアン」に対してそのようなクィア(変態野郎)」との“連帯”を強要するレトリックが用いられている(実際にセジウィックという代表的なクィア活動家がそのように提唱している)。

そのような「クィア理論」を金科玉条に掲げる「クィア主義者」からすると、【百合に挟まりたい・混ざりたい男】が「変態(クィア)」として罵倒される様は、さぞ心苦しいであろう。

だが裏を返せば、「百合(女性同士の恋愛関係)」に「挟まりたい・混ざりたい(つまり【女性を愛する女性】に男性とのSEXを要求したい)」というあからさまな《レズビアン差別》の事案を目の当たりにしながら、そういった言葉尻を捉えて告発者を「無自覚の差別主義者」に仕立て上げることにばかり執心する精神性というのは、まさしく「クィア理論」自体が実質的に《レズビアン差別》の告発・批判を無効化する《差別主義者の論理》として機能している事実の証左に他ならない。

あるいは「変態」という言葉を用いなくとも「レズビアン」に対する性的加害を告発・批判することは可能だと言うだろう。しかし実際は逆で、「変態」という言葉が“狩られて”しまうなら、そのような「クィア理論」にもとづいた「レズビアン」への性的加害を告発・批判する手段が失われてしまうのだ。

  • それでも「変態」という言葉が「レズビアン」の迫害に用いられてきた事実に変わりはないと言い張るのであれば、まさしくそのような「クィア理論」に基づいて「レズビアン」が「差別主義者」「シスセクシスト」「TERF」「不寛容」などとして迫害されている実情があるのだから、「差別主義者」「シスセクシスト」「TERF」「不寛容」などといった言葉もいっさい使ってはいけないことになる。

そのような、まごうかたなき差別思想である「クィア理論」に対するカウンターも込めて、私は今後も「変態(クィア)」という語彙を“否定的”に使い続ける所存である。