百錬ノ鐵

百合魔王オッシー(@herfinalchapter)の公式ブログです。

『バイバイ、ヴァンプ!』と「保毛尾田保毛男」~繰り返される「コメディの形を借りたヘイトスピーチ」を“擁護”する「LGBT陰謀論者」とは? #バイバイヴァンプ

Twitterの話題は今やすっかりコロナ一色ですが、先ごろ『バイバイ、ヴァンプ!』なるアイドル映画が、同性愛者差別を煽動する内容によって、LGBT当事者を中心とした抗議・批判を受けたことは記憶に新しいでしょう。

かれこれ2年前にも、とんねるずの番組でホモフォビア表現の象徴ともいえる「保毛尾田保毛男」が復活し、同様の議論が巻き起こりました。このような「コメディを借りたヘイトスピーチは、私たちの日常で手を変え品を変え繰り返されています。

しかし、そのような「コメディの形を借りたヘイトスピーチ」に対して、どういうわけだか「LGBT当事者」の立場からそれを擁護する人々が、決まってしゃしゃり出てきます。

その言い分をまとめると、

「ホモネタ」に嫌悪感を抱く人のほうこそ、そうした「ホモネタ」に表象される「(おうおうにして“女性的”な)ゲイ男性」を嫌悪する“無自覚な差別主義者”である!

……という何ともひねくれた発想です。

このような屁理屈に付き合ってさしあげる前に、「ホモネタ」の何が問題なのか、あらためて考えてみます。

まず、被差別者のステレオタイプなイメージを誇張したキャラクターを制作し、それを無批判に表現することは、たとえ制作者の側に悪意はなくとも(場合によっては愛情や敬意に根ざした表現であるとしても)それ自体が「ヘイトスピーチ(差別煽動表現)」の典型です。

ゆえにそのような「ヘイトスピーチ」が、視聴者のクレームを受けることは至極当然であり、それをさも悪質なクレーマーのように言い募ることに認知の歪みを感じます。

またそのような「ヘイトスピーチ」に対する正当な抗議をクレーマー扱いする「当事者」の言説を読み解くと、いわゆる「LGBT陰謀論者」であることが見て取れます。

そういった「当事者」のTLを一つひとつ確認してみると、ほぼ例外なく《自分たちLGBTが一部の活動家に政治利用されている!》《一部の活動家がありもしない「差別」をでっちあげて利権をむさぼっている!》などと被害妄想に凝り固まった「LGBT陰謀論」、あるいは「LGBT活動家」の悪口や冷笑、揚げ足取りで埋め尽くされています。同じ「当事者」でありながら、これはいったいどういうことでしょうか?

LGBTにかぎらず、被差別者が加差別者の価値基準に過剰適応するあまり、他の被差別者を被差別者みずからが積極的・主体的に攻撃してみせることによって、加差別者からの「承認欲求」を満たそうとする有様は、むしろ“差別あるある”といってもいいくらい頻繁に目にする事例です。

ゆえに「ホモネタ」を認めている・楽しんでいる「当事者」がいるからといって、その表現に差別性がないことの証明にはまったくなりません。げんにそのような「LGBT当事者」は『バイバイ、ヴァンプ』も「保毛尾田保毛男」も同一のレトリックで擁護していますが、けっきょくのところは自分の気に食わない「LGBT活動家」に対する“逆張り”“当てつけ”に終始しています。

また言うまでもないことですが、仮に保毛尾田保毛男にそっくりのゲイ》が実在したとしても、その人は「保毛尾田保毛男」ではありません。

なぜならば「女性的なゲイ男性」のステレオタイプなイメージを露悪的に誇張している時点で、それがいくら現実の「女性的なゲイ男性」に“そっくり”であったとしても、現実の「女性的なゲイ男性」そのものにはなりえないからです。裏を返せば、現実の「女性的なゲイ男性」をありのままに演じたとしても“笑い”にはつながらないから“誇張”する必要があると言えます。

もっとも“誇張”という手法はコメディの基本であることから、たんに“誇張”していることだけをもって「差別」と短絡することもできないでしょう。しかし「保毛尾田保毛男」の場合は、それを非同性愛者の男性芸人が演じていることにさらなる問題があります。

すなわち「保毛尾田保毛男」とは、

  1. 現実(ありのまま)とは掛け離れた「女性的なゲイ男性」のイメージを“誇張”しながら、
  2. なおかつ非同性愛者の男性芸人が、そのようなキャラクターを「ホモ(ホモ尾田ホモ男)」と名状することにより、
  3. 現実の「ゲイ」に対する知識をもたない視聴者に対して、現実の「ゲイ」もそのように“笑われるべき”存在であるという偏見を植えつける

……という三重のプロセスを経て成立する「コメディの形を借りたヘイトスピーチ」となっています(もとより「ホモ」自体が「ゲイ」に対する《差別語》であり、当事者が自称するケースを除いて一般的に非当事者が用いるべきでない言葉ですが、仮にこれを「ゲイ尾田ゲイ男」と言い換えても同じことです)。

このように見ていくと、「LGBT陰謀論者」が強弁している「保毛尾田保毛男」に抗議する人々の“内なる差別意識”をあげつらう言説は、その意図に反して、むしろ物事の表面をとらえることしかできない薄っぺらな感性を露呈しているにすぎません。

また《同性愛者差別》が社会の問題である以上、特定の芸人を非難することは無意味である、という見方もあるようです。

しかし「保毛尾田保毛男」が石橋貴明という「特定の芸人」によって演じられている以上、「特定の芸人」が非難を受けることもまた至極当然です。

それを無意味と決めつけるのは、すなわちヘイトスピーチ」に対する告発・批判を無効化するレトリックであり、当人にその「意図」がなくとも結果的に「ヘイトスピーチ」を“擁護”するものとなっています。

そしてこれも繰り返しになりますが《差別の意図はない》《差別に感じることこそ差別》《一部の当事者も楽しんでいる》というのは、いずれも典型的な《差別主義者の論理》であり、言うなればそれ自体が「ヘイトスピーチ」の一環でしかありません(※もっとも当該の表現が実際に「差別」に該当するという前提が付きますが)。

しばしば「LGBTライター」を名乗ってマスメディアに登場する人物は、世間の注目を手っ取り早く集めるために、あえて「当事者」の立場から「コメディの形を借りたヘイトスピーチ」を擁護してみせるという芸当を披露します。

  • なお、それでいて当人は“擁護”するつもりはないと弁明したりするものですが、“擁護”するつもりはないと言いながら「差別」についてとくに批判するわけでもなく、その代わりに「差別」を告発する人々の粗探しばかりするのも、それこそ“無自覚の差別主義者”によくありがちな傾向です。

そのような奇を衒った言説が回ってきた場合には、興味本位でRTやいいね!を押す前に、アカウントのTLをチェックすることをお勧めします。もしそのTLが「LGBT利権ガー」「LGBTの政治利用ガー」などといった言説で溢れ返っているなら、そのような「LGBT陰謀論者」とは距離を置くのが賢明です。