百錬ノ鐵

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やっぱり《レズビアンがトランス女性と付き合わないのは「差別」だ》と言っているのと変わらない「トランス主義者」シオヤギ(Gay_yagi)の“屁理屈”

(2023年3月16日 加筆修正) 

 

このシオヤギ(@Gay_yagi)の、例によってピントが外れた要領を得ない物言いを整理してやると、ようするにレズビアン(シスジェンダーレズビアン女性)がトランス女性を性的対象に含めないことは「差別」ではないが「偏見」ではある、ということになる。

しかし、これは筋が通らない。そも「偏見」が問題視されるのは、それが「差別」だからであって、「偏見」が「差別」でないなら、そのようなものにレズビアンが“影響”されたところでいったい何が「問題」なのかわからなくなる。あるいは「差別」ではないが、ただシオヤギが心情的に気に食わないということだろうか。

「差別」「偏見」あるいは、たんに「失礼」であるとか「恥」であるとか「男根恐怖症」であるとか……こうした言葉遊びは重要ではないレズビアン(の多く)がトランス女性を性的対象に含めないことを“悪しきこと”と捉えた上で、(現時点では困難であっても)将来においては《トランス女性を愛する可能性》に“開かれる”べきであると信じて疑わない点で、本質は同じなのであり、そのような欺瞞に満ちた詭弁(屁理屈)をダブル・バインド(二重拘束)」と呼ぶのだ。

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元より《女性を愛して男性を愛さないレズビアンは「性別」で人間を「差別」している》といった類の屁理屈は、それこそ《レズビアン差別》の常套句であるが、シオヤギに代表される「トランス主義者(※「トランスジェンダリズム」信奉者のことであるが、長ったらしいので私はこう呼ぶ)」の場合は「男性」を「トランス女性」に置き換えて《シス女性を愛して「トランス女性」を愛さないレズビアンは「生物学的性別」で人間を「差別」している》と言っているだけで、やはり本質的に何も変わらない。

言い換えるなら、そのようにしてトランス女性をミスジェンダリング(男扱い)しているのは「レズビアン」ではなく、むしろ「レズビアン」に対してトランス女性を性的対象として差し向ける者たちなのだ。

こうした《トランス女性差別》の本質を見抜くこともできず、そうだそうだぁ! と間抜けな奇声を上げているのが、シオヤギに代表される「トランス主義者」である。そも「トランス女性」がそのような形で他人を差別主義者に仕立て上げるための踏絵として扱われている光景を目の当たりにして“意識のお高い”シオヤギくんは疑問に感じないのだろうか?

ここへきて《「トランスとは付き合いたくない」公言すること》《聞かれてもいないのに》という条件が、いつのまにか勝手に付加されている。

たしかに、この「トランスとは付き合いたくない」《聞かれてもいないのに公言すること》トランスジェンダーに対して「失礼」であるという“指摘”に関しては、一見するともっともらしい。

しかし「トランスとは付き合いたくない」という“選択”が《社会の(偏見を含む)価値観に影響されている》という原理原則の話が、いつのまにか「トランスとは付き合いたくない」と《聞かれてもいないのに公言すること》が「失礼」に当たるという個別の事例に摩り替っていることにお気づきだろうか。ついでに言えば「偏見」という社会の差別構造の問題と「失礼」という個人間の礼節の問題も次元が異なるはずなのに、ここにも巧妙な論点のスリカエがある。

まず第一に、「トランスとは付き合いたくない」という言説は《聞かれてもいないのに公言》されるものではなく、ようは《女性が好きなのに「トランス女性」を将来の彼女候補に含めないのは「差別=偏見」だ》といった「トランス主義者」特有の極論・暴論に対する、当然の反応にすぎない。

たとえばトランスジェンダーの当事者に対して、第三者がトランスの状態(具体的にはオペの経験や性器の形状)について不用意に尋ねることはセクシュアル・ハラスメントとなりうる。

それと同様にレズビアンに対して、トランス女性とSEXできるか否かといったプライベートなセクシュアリティについて第三者が事細かに訊きだそうとしたり、また当人が望まないタイミングで語らざるをえない状況に追い込むことは、まさにレズビアンへのセクシュアル・ハラスメント以外の何物でもない。

しかもレズビアンは、そも「トランス女性とは付き合いたくない」《あえて主張》しているわけではなく、生物学的性別を前提に性的対象を“選択”するという自らのセクシュアリティについて語っているだけであり、「トランス女性」が性的対象から除外されるのは、あくまでも結果論でしかない。

その意味で「トランス女性」の存在は、性的対象から“あえて”意図的に排除されているというよりも、たんに「想定していない」といったほうが適切であろう。

しかし元より《生物学的性別を前提に性的対象を“選択”する=「トランス女性」の存在を想定しない》というセクシュアリティ自体が《トランス女性差別》という解釈に依拠するのであれば――繰り返すが「偏見」であって「差別」ではないというシオヤギの“屁理屈”は通用しない――そのようなレズビアンが「トランス女性とは付き合いたくない」と《聞かれてもいないのに公言》しようがしまいが、どのみち「トランス差別主義者」のレッテルを貼られて“糾弾”される定めにある。

さらに言えば《生物学的性別を前提に性的対象を“選択”する》といっても、生物学的性別が〈女性〉でありさえすれば誰でもいいという人は稀で、実際には生物学的性別のみならず性自認・性表現を包括した、言うなれば「複合的性別」を前提に性的対象を“選択”する――そして“複合的”に判断するがゆえに「生物学的性別」を排除する理由もない――ととらえるのが正確である。

ゆえに、そうした「複合的性別」を前提に性的対象を“選択”するレズビアンが、トランス女性の性自認をないがしろにしているという“指摘”も当たらない。元よりトランス女性の性自認を尊重することと、トランス女性を性的対象にすることはまったく別次元の問題である。

それを「トランス女性と付き合いたくない」と露悪的に曲解することで、シオヤギに代表される「トランス主義者」は、あたかも「複合的性別」を前提に性的対象を“選択”するレズビアンが「トランス女性」を“嫌悪”する差別主義者であるかのごとく印象操作している。これこそ「偏見」でなくていったい何なのか?

そして言うまでもなく、そのような「レズビアン」に対する「偏見」の根底には《SEXにはペニスが必要である》という「ヘテロセクシズム(異性愛至上主義)」が横たわっている。

じじつ「シス女性」であっても〈異性愛者〉であれば「トランス女性」を性的対象から除外することは自明とされ、「差別」などと言われることもない。それをレズビアン(女性同性愛者)にかぎってあげつらうのは、まさにレズビアンの《性的指向(同性指向)を理由とした差別》以外の何物でもない。

こうした「ヘテロセクシズム」の非対称性に基づく《レズビアン差別》の構造は、まさにシオヤギが“指摘”する《社会の(偏見を含む)価値観》そのものであるが、そうした自己のレズビアン」に対する「偏見」についてまるで無自覚・無関心を決め込むシオヤギ自身の《無神経》な物言いは、それこそ《社会の(偏見を含む)価値観に影響されている》と糾弾されるべきである。

また「トランス女性と付き合いたくない」という物言いが「失礼」であるのは、ひとえに「トランス女性」の性的主体性をないがしろにして一方的かつ性的に対象化・客体化する行為こそが問題なのであり、その意味では逆に「トランス女性と付き合いたい」という物言いであっても同様だ。ゆえにそれを【トランス女性を性的対象に含まないレズビアン】の“批判”に際して持ち出すのは議論の本質を履き違えている。

だいいちトランス女性を性的対象に含める人であっても「トランス女性」であれば誰でもいいという人はやはり稀で、実際には「パス度」の高い(つまり可能な限り「シス女性」に近い外見の)トランス女性をパートナーに選びたがる傾向にある。これはようするに「トランス女性」を「シス女性」の代替として性的消費する行為であり、じつのところトランス女性を性的対象に含めるというセクシュアリティもまた、形を変えた「シスセクシズム」に他ならない。

すなわち、トランス女性を性的対象に含めるか否かという基準で、その人が「シスセクシズム」から“影響”されているか否かをジャッジすることは、どのみち不可能なのだ。

あるいはレズビアンを含めた【女性を愛する人】の中にトランス女性を性的対象にする人がいることは――男性異性愛者の中にも「ニューハーフヘルス」「男の娘ヘルス」に通う人がいるように――たんなる「性的嗜好」の問題であって、べつにその人の人権意識が(そうでない人に較べて)高いわけでも政治的に正しいからでも、何でもない。

「差別」や「偏見」を「社会」の問題と規定する(それ自体は間違っていない)のであれば、むしろそのような特定のセクシュアリティを獲得することで「差別=偏見」の“影響”から免れることができるという錯覚にこそ警戒すべきだろう。

いずれにしても、いわゆる「社会問題」として提起される「差別」とは、字義通りに《差をつけて区別すること》ではなく、それが《人権侵害》に利用されていることが問題なのである。換言すれば「差別」とは、たんなる区別ではなく《不当な区別》ということになる。

しかし、レズビアンがトランス女性を性的対象から除外したところで、トランス女性の人権が侵害されることなどありえない。繰り返すが、トランス女性の性自認を尊重・肯定することと、トランス女性を恋愛やSEXの相手に選ぶことは何の関係もない。

そこへきて、レズビアンが「複合的性別」を前提に性的対象を“選択”することは「人権(性の自己決定権)」の正当な行使であり、またそれは正当であるがゆえに「差別(=不当な区別)」とはなりえない。むしろ、それを妨げることこそが《人権侵害》であり《レズビアン差別》に他ならない。

シオヤギに代表される姑息な「レズビアン差別主義者」は、それがわかっているからこそ、レズビアンが「性の自己決定権」を正当に行使することについて「差別」ではないが「偏見」ではあるなどと苦しい言いがかりをつけずにはいられないのだ。

このようにして具体的な《人権侵害》が発生していない事例にもかかわらず、赤の他人の内面を勝手に決めつけ、おまえは「シスセクシズム」から“影響”されているのだなどと指を突きつける行為は、すなわち「原罪論」だ。

元より、一切の「偏見」を含まない、あるいは《社会の価値観》から何の「影響」も受けない人間のセクシュアリティなど成立しうるのだろうか?

人は誰しもが何らかの形で「差別」に加担している、自分の中に「偏見」が1ミリでも存在しないと断言できるのか? ――この手の「原罪論」が厄介なのは、その字面だけ取り出してみると、たしかにもっともらしく、反論の余地もないほど“正しい”ところにある。

が、その“正しさ”は、ちょうど《Black Lives Matter》に対する《All Lives Matter》と同じ意味での“正しさ”でしかない。社会の実情に即さない、教条的な「正論」を振りかざすことは、一種の万能論法であって、またそれゆえに「差別」の正当化にも利用されてきた――だから私たちは「差別」に対して寛容になるべきだ、「差別」を声高に糾弾する人こそ差別者なのだ、といったふうに。

しかし、人間のあらゆるセクシュアリティが「差別」の構造に結びついているというのであれば、なおのこと、

人間の数あるセクシュアリティの中から「レズビアン(が「複合的性別」を前提に性的対象を“選択”すること)」を特別に“差別的”であると言い募ることもできないはずだ。

言い換えるなら《人間のあらゆるセクシュアリティが「差別」の構造に結びついている》ということ自体は反論の余地もない「原理原則」であるとしても、

その“正しさ”を「レズビアン」だけに要求するのであれば、けっきょくのところそれは「レズビアン」を“特殊視”“異常視”する「偏見(差別的偏見)」そのものであるがゆえに《レズビアン差別》として機能する。

加えてそのような「偏見」は、マイノリティが常に“正しく”あらねばならないというマジョリティの思い込みに根ざすものであり《差別の原因を被差別者に求めるレトリック》として「差別」の正当化に用いられてきた詭弁(屁理屈)の典型である。

  • なお、この期に及んで「『正論』を唱えて何が悪い。マイノリティであっても“正しく”あるべきなのは当然ではないか」と考える人は、まさしく《All Lives Matter》に陥っており、「レズビアン」のみならず「トランス女性」や「黒人」をも“差別”してしまう可能性がある。

いみじくもシオヤギが“指摘”するとおり、性的対象を“選択”する上で《性別》を前提にしない人(パンセクシュアル)であるなら必然して「シスセクシズム」から免れることになるかもしれないが、しかしその代わりに体型など《性別》とは異なる美醜やエロスの基準を有しているのであり、けっきょくは「ルッキズム」などの「差別」の構造に陥っていることになる。

それを「レズビアン」あるいは《「複合的性別」を前提に性的対象を“選択”する》というセクシュアリティだけをことさらにあげつらうのは、シオヤギに代表される「トランス主義者」が、じつのところ裏返しの「性器至上主義」に陥っている証拠である。

* * *

……とまぁ、たったの3ツイートに突っ込み所満載のシオヤギくんであるが、唯一正しいのは《「トランスと付き合わないのは差別」という主張をしている人はトランス男女共にほぼいません》という件(ここで切り上げておけばよかったのに)。

実際、レズビアンがトランス女性を性的対象に含めないことが「差別」だなどと吹き上がっているのは、生物学的性別を否定して性自認だけで人間の《性別》を決定・判断すべきであるとする前衛的な「トランスジェンダリズム」の信奉者(トランス主義者)のみである。

じつのところトランスジェンダーの多くは自らがトランスジェンダーであっても、やはりシスジェンダーと同様に、恋愛やSEXの相手はシスジェンダーがいいと考えているのだ。(統計が存在するわけではないので、具体的なパーセンテージを示すことはできないが)仮にトランスレズビアンの間で、トランス女性同士で愛し合うことが一般的であるならば、シスレズビアンがトランス女性を性的対象に含めないとしても何の問題にもならないであろう。

しかるに、トランスジェンダーを性的対象から除外することが「差別」になるというのであれば、トランスジェンダーもまた自分で自分の首を絞めることになる(むろん、これはシオヤギが例示した「でぶ」であっても同様である。「でぶ」に関してなら私は「当事者」として発言できる)。

当然ながら、そのような「トランスジェンダリズム」は多くの「当時者」からはまったく支持されておらず、

それを支持するのはシオヤギに代表される一部の「当時者」を除けば、大半はただ“意識お高い”アピールがしたいだけの傍迷惑な「非当事者(トランスアライ)」である。

ゆえに、そのような「トランスジェンダリズム」を口実に一般の「トランス当事者」が“嫌悪”されるようなことがあってもならない(そうした分断こそ【連中】の思うツボだ)。シオヤギのような「レズビアン差別主義者」を蛇蝎の如く“嫌悪”するのは一向に構わない。

レズビアンの性的主体性をめぐる議論においては「レズビアン」と「トランス女性」が“対立”しているのではなく、

あくまでもレズビアンの性的主体性を「トランスジェンダリズム」に基づいて否定・侵害する「トランス主義者(=レズビアン差別主義者)」との“対立”であることを強調する必要がある。