百錬ノ鐵

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「女性を愛するレズビアン」は「トランス女性」を性的対象にしなければ「差別」と主張する《性的指向を理由とした差別》 #superstraight

前回取り上げた藤井美穂氏の「トランスジェンダーを性的対象から“除外”するのはトランス差別」という議論に付随して、藤井氏より論者としての知名度や格は落ちるものの、主張としては同工異曲のトランス主義者「chocolat. (@chocolat_psyder)」によるレズビアン差別》のレトリックを検証してみたい。

>女性(男性)を愛する性的指向の人が「女性(男性)」の中に「トランス女性(男性)」を含めない、ということを表明するということは「トランス女性(男性)を女性(男性)と認めない」と単に明言しているだけ

裏を返せば、同じ女性であっても、女性(同性)を愛さない性的指向(非同性指向)を有する異性愛者の女性であれば、「トランス女性」を性的対象に含めないことを“表明”したとしても「差別」にはならないという理屈になる。

しかし「レズビアン(同性愛者)」が《女性を愛すること》を理由に「トランス女性」との恋愛やSEXを要求されるのであれば、それはまさしくレズビアン(同性愛者)」に対する《性的指向(同性指向)を理由とした差別》に他ならない。

なぜならばそれは「レズビアン」が異性愛者であることを理由として、「異性愛者」には自明の如く認められる「性の自己決定権」の正当な行使を妨げられることを意味するからだ。

>性的趣向、はセクシュアリティではありません。好みの問題です。
性的指向、はセクシュアリティです。

これは完全に意味不明である。

「性的趣向」は「性的嗜好」の誤用であろうが――よって以下「性的嗜好」に統一する――いずれにしてもセクシュアリティの一つであることに変わりはない。

元よりセクシュアリティ」とは「性的嗜好」「性的指向」「性自認」「性表現」、さらには恋愛やSEXなどを含めた人間の「性」のありようを包括する概念であって、そこに善悪や優劣の価値基準は伴わない。

よって仮に何らかの“差別的”な価値基準にもとづいたセクシュアリティが存在するとしても、そのような「性」のありようが「セクシュアリティ」ではないというのは論理矛盾である。

このchocolat.の不可解なレトリックは、ようするに「レズビアン(同性愛者)」に対する「性的指向」の矯正が「差別」に該当することから、トランス女性を性的対象に含めないという「性的嗜好の“矯正”については「差別」に当たらないとする、一種の詐術だ。

しかし、これは「レズビアン」を擁護する立場の人々もしばしば陥りがちな誤りであるけれど、「性的指向」と「性的嗜好」は本来、排他的な二項対立の関係にあるのではなく、人間の「セクシュアリティ(性のありよう)」を異なる位相から捉える概念にすぎない。「性的指向」と「性的嗜好」は同義ではないが、密接に関連しているとはいえるのである。

たとえば、たんに「お尻」が好きだといった場合は「性的嗜好」であるが、「レズビアン(女性同性愛者)」が「女性のお尻」が好きだと言った場合には性的指向」と「性的嗜好」が分かちがたく連動していることになる。

ゆえに性的指向」は尊重されるべきだが「性的嗜好」は“矯正”されるべきとする「性(セクシュアリティ)」の序列化、必然して「レズビアン」の性的主体性(セクシュアル・アイデンティティ)を侵害する口実として成立してしまうのだ。

>トランスにのみ限定してわざわざ排除を表明することが差別につながる

これもありがちな論点の摩り替えである。

まず「レズビアン」は《トランスにのみ限定してわざわざ排除を表明》しているのではない。

すなわち「レズビアン」は、たんに恋愛やSEXのパートナーを選別する基準に「生物学的性別」を含めるというセクシュアリティを“表明”しているにすぎない。

そも「レズビアン」にかぎらず、多くの人(※性別を基準としない「パンセクシュアル」以外の人々)が実際に恋愛やSEXのパートナーを選別するにあたっては、生物学的性別のみならず性自認・性表現なども含めて複合的に「性別」を判断することになる。それにあたって「生物学的性別」は唯一の絶対条件ではないけれど、しかし裏を返せば「生物学的性別」だけを除外する理由にもならない。

よってレズビアン」の場合は「トランス女性」のみならずシス男性も除外されるのだから《トランスにのみ限定してわざわざ排除を表明》しているという指摘は当たらない。

>シス男性が「トランス女性とは恋愛しない」
>シス女性が「トランス男性とは恋愛しない」
>と表明することを批判しています。

ところが実際には「トランスとは恋愛しない」と直接的に“表明”しなくとも、

たとえばレズビアンバイセクシュアル女性が「ペニスよりもヴァギナに惹かれる」という自らのセクシュアリティについて語っただけで、

トランス主義者たちから「トランス嫌悪」と決めつけられ、執拗な脅迫・恫喝に晒されたあげく謝罪に追い込まれる事態にまで至っている。

(※上掲の事例は「金玉よりおっぱい」だが意味は同じだろう)

断っておくが、彼女たちは「トランス女性」について何ら言及していたわけではない。むしろ「シス男性」との性愛を想定したものであったが、

しかし《トランス女性を愛する可能性》を“想定”していない時点で「シスセクシズム(シスジェンダー中心主義?)」と見なされ、トランス主義者およびクィア主義者によるネットリンチの犠牲者となったのだ。

こうなると、もはや「スーパーストレート」という用語の是非を議論する以前の問題である。「スーパーストレート」あるいは「スーパーレズビアン」「スーパーゲイ」といった語彙を用いずとも、

恋愛やSEXのパートナーを選別する基準に「生物学的性別」を含めるセクシュアリティ“表明”しただけで「トランスジェンダリズム」に基づく“批判”の対象となるということだ。

そのような「トランスジェンダリズム」の実効支配下において「レズビアン当事者」は、自らのセクシュアリティについて主体的かつ自由に語ることができない。これはレズビアン」の性的主体性を抑圧する《レズビアン差別》としか言い様がない。

《性的に興味をもてないこと》が、その相手を“傷つける”といったナイーブな思い込みは、レズビアン」が男性に性的興味をもたないことを理由に「男の敵」と見なされて迫害され、時には「矯正レイプ」の被害に晒されてきた《レズビアン差別》の歴史的経緯を正当化するものだ。

けっきょくのところ、それは男性が女性に告白(求愛)してフラれた(断られた)ことで、自分の人間性まで否定されたと勘違いし、一方的に逆恨みするストーカーまがいの被害妄想でしかない。

そも、このような「トランスジェンダリズム」の主張は「(女性を愛する)レズビアン」であれば「トランス女性」を性的対象にすべきであるという一種の「性規範」を疑いもなく前提としているが、

それこそ《女は男を愛するべきである》という「異性愛規範」が装いを変えて再生産されているにすぎない。

ゆえに、そのようにして「レズビアン」のセクシュアリティを規定することは、まさしくレズビアン」の性的主体性および「性の自己決定権」の行使を不当に妨げる《人権侵害》であり《レズビアン差別》であることは論を俟たない。

>私が例えば「○○人は恋愛対象になりません」と(思っているだけでなく)表明したら批判の対象になります。それと同じということです。

このようにしてセクシュアリティの問題を「人種」の問題と無批判に混同する論理の摩り替えもトランス主義者に好まれるところだ。

まず人が恋愛やSEXのパートナーを選別する上で、同じ(とまではいかなくても自分に近い)価値観や感性を共有できる相手を希望するのは、ごく自然な心理だ。この価値観・感性は食べ物や娯楽の趣味、宗教観、さらには美醜の感覚やSEXの好みも含まれる。

そして個人の価値観や感性は、生まれ育った文化の影響を受け、そして人種は「ブラック・カルチャー」などに象徴されるとおり、じつのところ文化と密接に結びついている。

ゆえに日本人の多くは、趣味や仕事は別として、恋愛やSEXといった深い関係性においては、日本人のパートナーが望ましいと考える。

この場合の「日本人」とは、ようするに日本に生まれ育ち、日本の文化を共有できる人を指す言葉であり、多くの場合は黄色人種を指す。

むろん《日本に生まれ育ち、日本の文化を共有できる人》の中には、たとえば黒人も含まれるが、じつのところ大多数の「日本人」にとって黒人は、けっして身近な存在とは言い難い。それこそ人種の坩堝と呼ばれるアメリカ社会ならともかく、日本社会において職場や学校などで日常的に黒人と接する機会のある人は、ごく限られるだろう。

ゆえに多くの「日本人」が、恋愛やSEXのパートナーとして、あえて黒人を想定することはほとんどない。一方でポルノグラフィにおいては、黒人の男女がしばしば登場するけれど、仮に黒人の性的パートナーを希望する「日本人」がいたとして、そのような人々が“想定”する「黒人」とは主としてそのような文脈であり、それこそ手放しで肯定できる価値観・感性ではないことは自明だ。

もっとも近年は「人種」という概念自体が差別的であると見なされているようなので「日本人」は「人種」というより「民族」と捉えた方がいいかもしれない。とはいえ、いずれにせよ特定の「民族」を性的対象から“除外”することもまた、けっきょくのところ《民族差別》と見なされるであろう。

しかし、自分と異なる「民族」を性的対象として“想定しない”ことは、特定の「民族」について「恋愛対象になりません」“表明”することとは、まったく異なる。

話を本題に戻すが、これはレズビアン」の性的対象についても同様である。

たとえば「女性」が好きだといった場合、ただし性器の形状は「男性」にかぎるだとか、性自認は「男性」にかぎるなどと、いちいち指定することは、まずない。

すなわちレズビアン」は「トランス女性」を性的対象として、意図的に“除外”しているというよりも、むしろ“想定しない”といったほうが実態に即しているのである。

それにもかかわらず「トランス女性」を性的対象から“除外”することが「差別」であるといった物言いは、

そも「トランス女性」を性的対象の想定から“除外”すること自体を「シスセクシズム(シスジェンダー中心主義)」と規定する思想を前提としているため、

皮肉にも逆説的に「トランス女性」を性的対象として“想定”することを“強制”するものとなっている。

自らの性的対象にならない相手とのSEXを“想定”して、嫌悪感を抱くのは当然であるが、そのような心理についてトランス主義者は「トランスフォビア」「シスセクシズム」と決めつけ、神の如き高みから「レズビアン」を一方的に糾弾・断罪するのである。

もっとも想定外ということであれば、chocolat.の一連の発言も、とくに「レズビアン」を“想定”したものではなく、それを《レズビアン差別》と結びつけて“批判”されるのは不本意であるかもしれない。

だが《女性を愛する性的指向の人が「女性」の中に「トランス女性」を含めない、ということを表明するということは「トランス女性を女性と認めない」と単に明言しているだけ》という言説がレズビアン」の迫害・抑圧に利用される可能性について一切考慮していない時点で、まさにchocolat.が《レズビアン差別》の問題を無視・軽視している証拠であり、そのような意識のありよう自体が《レズビアン差別》以外の何物でもない。

翻って「レズビアン」の多くが「トランス女性」を性的対象として“想定”しないことは、「トランス女性」のジェンダーアイデンティティを尊重することと何ら矛盾しないことはすでに述べてきたとおりだ。

むしろ「トランス女性」が性的対象として“想定”されることによって「トランス女性」に対する嫌悪が喚起されるのだとすれば、わざわざそのような“想定”を「レズビアン」に対して強いるトランス主義者の言説こそが《トランス差別》を“煽動”するものである。

元より、特定の被差別的属性の人々を指して「こいつと性行為できるのか?」と迫るのは、むしろ加差別者の側が好んで用いてきたレトリックだ。

しかるにトランス主義者は、トランス差別反対を唱えながら、皮肉にもそのような《差別主義者の論理》を踏襲することで、実際にはむしろトランス主義者こそがトランス差別者の側に与してしまっているのだ。

言うなれば「トランスジェンダリズム」とは、「レズビアン」に対して「トランス女性」への“本来抱く必要のない嫌悪”を引き立てることによって「レズビアン」を「トランス者別主義者」に仕立て上げ、ひいては「レズビアン」に対する性的加害を正当化するものである。

元よりレズビアン」のセクシュアリティについて、第三者が事細かに詮索したり、あるいは自ら事細かに語るように強いるのは、それ自体が「レズビアン」に対する性的加害に他ならない。言うまでもないが、これは上述したように「レズビアン当事者」が“主体的”に自身のセクシュアリティを語ることとは別問題である。

「トランス女性」を性的対象として“想定しない”ことが「差別」であるといった「トランスジェンダリズム」の雑な立論は、そうした性的加害の実態を“想定しない”ことで、当人の意図がどうあれ結果的に「レズビアン」への性的加害を正当化するものとなっているのが問題である。

>強制ではなく「わざわざ言う必要のないことを強調して言うのは差別に当たることもある」と言う話です。

トランスフォビア」ないし「シスセクシズム」との“批判”が、トランス女性を性的対象に含めるレズビアンにはなされず、トランス女性を性的対象に含めないレズビアンに対してのみなされるのであれば、

レズビアン」がその“批判”から免れるためには、トランス女性を性的対象にすること――あるいは現時点においては困難であっても、将来の可能性においては《トランス女性を愛する可能性》に“開かれる”こと――を“表明”してみせるほかない、という帰結に陥る。

したがって、それは「レズビアン」に対してトランス女性を性的対象に含めることを“強制”するダブル・バインド(二重拘束)に他ならないのだ。

「スーパーストレート」という用語の是非はさておき、そも前述のとおり「複合的性別」を前提に恋愛やSEXのパートナーを選別する人々(※レズビアンに限らない)が、なぜトランスジェンダーを性的対象にしないことを“わざわざ表明”する事態に至ったのかといえば、

それはまさしくトランスジェンダーを愛さない(性的対象に含めない)ことは「差別」であると強弁する「トランスジェンダリズム」の“暴論”に対しての「対抗言説」に他ならない。

ようはマッチポンプであり、それこそトランス主義者の側が「わざわざ言う必要のないことを強調して言う」という独善的な戦法を後先考えずに採用したことへの、必然的な結果ということだ。

しかるに「わざわざ言う必要のないことを強調して言う」のが「差別」ということであれば、

《「女性を愛するレズビアン」が「トランス女性」を性的対象に含めないのは「差別」だ》といった「わざわざ言う必要のないことを強調して言う」のは、

それこそレズビアン差別》以外の何物でもない。