百錬ノ鐵

百合魔王オッシー(@herfinalchapter)の公式ブログです。

「BL/GL」が「性別二元論的」で何が悪い?~“意識お高い系”LGBTサイト「JobRainbow」のトンデモ記事 #JobRainbow

「スーパーストレート」をめぐる議論が白熱する中、

そもそも異性愛者を「ストレート」と呼ぶこと自体が、

「同性愛者」が“曲がっている”“歪んでいる”

と言っているのと同じだから差別的だ!

……といった意見が目につくようになってきた。

しかし、これはありがちな誤解である。

「ストレート」という言葉は元来、同性愛者の側が異性愛者を言い表すために作った言葉であり、そこに上述したような“”差別的な”意味合いはない。

jobrainbow.jp

ストレート」とは、性的指向が異性のセクシュアリティを指す一般的な呼称のことです。

初出は1941年。George W. Henry著『Sex Variants: A Study Of Homosexual Patterns』という本に「ストレートは「同性愛者ではない」という意味で同性愛者たちによって使用されている」という記述があります。

「ストレート」は少し古い英語の慣用句で「従来の道徳や法律を守るふるまいを通じての、実直な生活。正直でまっとうな暮らし」を指す”straight and narrow path”からきており、さらにさかのぼるとマタイによる福音書7章13、14節「狭い門を通って入りなさい」の誤読(聖書では”straight”ではなく”strait” the gate)や、「堅苦しい(strait-laced)」という言葉などが語源であるとされています。
「まっすぐである」という意味の「ストレート」ではありません。

異性愛者を「ストレート」と言い表すことが同性愛の否定を意味するという誤解は、おそらく「ノーマル」と混同したものと思われる。

「ノーマル」には気を付けて!

「ノーマル」という言葉を、異性愛という意味で使われているものとして、たとえば漫画のジャンルが挙げられます。

  • 男性の同性愛を描くフィクションのジャンルを「BL(Boys Love)
  • 女性の同性愛を描くフィクションのジャンルを「GL(Girls Love)
  • これらに対して、男女の恋愛を描いたものを「NL(Normal Love)

しかし、異性愛を「ノーマル」と称するのは、「人は皆異性を愛するものだ」という考えを強めてしまう可能性もあります(このような考えは、「異性愛規範」「ヘテロノーマティヴィティ」と呼ばれています)。

なぜなら、「ノーマル(Normal)」の名詞形が「ノーム(norm、規範)」であることからわかるように、ノーマルには「普通である・規範的である」というニュアンスがあるからです。

さて。ここまで「JobRainbow」というLGBTサイトの記事を引用してきた。

もっとも上掲した「ストレート」についての解説は、執筆者【ぐらし】が、本文中にリンクしている【みやきち】のブログから、そのまま引き写したものである。よって、本来であればみやきち氏のブログに直接リンクを貼るのが筋というものであろう。

みやきち氏はレズビアン当事者であると同時に、百合コンテンツのユーザーでもあり、氏の百合作品のレビューは貴重な「当事者」の意見ということから、少なくともゼロ年代の間、氏のブログ『みやきち日記』は一部で重宝されてきた。とはいえテン年代に入り、ネット言論の主流が個人運営のブログやサイトからTwitterに移行すると、百合ユーザーのレズビアン当事者が百合作品を語ることは何ら珍しいことではなくなって、みやきち氏の威光もすっかり弱まってしまった感がある(なお現在は『石壁に百合の花咲く』というブログをメインに活動しているようだ)。

私自身は、レズビアン差別に関する見解こそみやきち氏と多くの部分で――全て、と書かないのは、全ての記事を読んだわけではないからで、少なくとも目に留まった範囲では――一致するものの、じつのところ「評論家」としての氏の資質については疑問に感じている。過去に当ブログやサイト(※こちらは閉鎖済み)で批判したこともあり、いくら話題が異なるとはいえ、そのようなブログの記事を引用することはためらわれる。

そういった事情で「JobRainbow」からの孫引きという形になったわけだが、

じつのところ、この「JobRainbow」なるサイトも“意識お高い系”活動家特有の、初めに“批判”“糾弾”ありきの独善的なポリコレ思想――言うまでもなく、その極北が「トランスジェンダリズム」および「クィア理論」である!――が空回りしている感じが痛々しく、正直なところ、いただけない。

上掲『「ノーマル」には気を付けて!』は、以下のように続く。

代替案として「HL(ヘテロラブ)」が使われることもあります。しかし、作中で明言されていない人物のセクシュアリティヘテロセクシュアルだと決めつけてしまうことがあり、この表現も問題がないと言い切るのは難しそうです。

ヘテロセクシュアルであると《作中で明言されていない》としても、

世の大半を占める、登場人物が異性を愛するシーンしか描かれていない作品において、登場人物を「ヘテロセクシュアル(H)」と解釈することは、きわめて自然かつ妥当である。

なぜならばこの場合の「H=ヘテロセクシュアル」とは、登場人物の内面的な自認やアイデンティティ(=異性愛者)ではなく、作中の人間関係(=異性愛を示すものだからである。

漫画にかぎらず創作物は、現実世界のすべてを表現するものではない。そのような性質のものである以上、作中に男女の恋愛しか描かれていないからといって、異性愛以外のセクシュアリティを否定しているということにはならない。

言うなれば、セクシュアリティとしての「異性愛」と政治的イデオロギーとしての異性愛規範」は、それぞれ次元が異なるのであり、異性愛」を表現することは「異性愛規範」を表現することとイコールではない。

また、「BG(Boys&Girls)」ならフラットかといえば、そもそも「Boys」「Girls」といった表現は登場人物がシスジェンダーであると決めつけており、性別二元論的でもあり……と指摘を続けていけばキリがありませんが、できるだけ包摂的な表現を探しつづける余地はありそうです。 

この【ぐらし】なるライターは、はたして実際に「BL/GL」の漫画を読んだことがあるのだろうか?

一部の実験的な作品を除けば「BL/GL」の主人公は「HL(繰り返すが、この表記には何の問題もない)」と同様にシスジェンダーの男女であり、ゆえに《登場人物がシスジェンダーである》ことは“決めつけ”ではなく事実にすぎない。

実際、一般的なBL/GL作品で登場人物が性別違和に悩むシーンなど、まず目にすることはない。

  • たとえば、現行のGL(百合)文化を象徴する作品の一つである、はんざわかおりこみっくがーるず』(芳文社まんがタイムきららMAX」連載中)では、プロの少年漫画家として活躍する女子高生【勝木翼】が、強権的な母親から「女の子らしさ」をお仕着せられて煩悶する様子が描かれているけれど、あくまでも【翼】は《男の子っぽい装いを好む女の子》であって「トランス男性」ではない。

そのような作品について「トランスジェンダー」の可能性をあげつらうのは、たんに作品世界の外側から読者の考える「政治的正しさ」を物言わぬ作品に押しつけているだけで、個々の作品独自の世界観に寄り添おうともしないエゴイスティックな鑑賞態度に他ならない。

さらにいえばBL/GL作品は、作中で「同性愛(者)」「ゲイ/レズビアン」といった語彙が用いられないのが特徴であり、それこそ「当事者」を主体とする「ゲイ/レズビアン・カルチャー」に帰属する作品との大きな違いである。よって作中で「人物のセクシュアリティが逐語的に“明言”されていないことをもってヘテロセクシュアル異性愛)」と解釈することができないというなら、まったく同じ理屈で「BL/GL」を「同性愛」と解釈するという前提も否定されてしまう。

加えて「同性愛」をテーマにした作品について、さしたる根拠も必然性もなく「トランスジェンダー」の可能性をあげつらうことは、まさに「同性愛」と「性同一性障害」を混同するといった異性愛者のありがちな誤解・偏見を助長しかねない。男(女)が男(女)を愛するから「心が女(男)」なのだといった“決めつけ”は、「同性愛」すなわち同性間で「恋愛」が成立する可能性を頑なに否定・否認する異性愛規範」の最たるものだ。

ノンフィクションとは異なり、フィクション作品においてトランスジェンダーのキャラクターを登場させるにあたっては困難が生じる。

なぜならば、それはキャラクターの身体の一部または全部を「異性」に設定することになり――そうでなければ「シスジェンダーである――そうするとかえって「トランス男性」の“女性”、「トランス女性」の“男性”が強調される結果となってしまうからだ。

とはいえ、そうした実情を踏まえた上でも「BG(Boys&Girls)」という言葉に「シスジェンダー」に限定するといったニュアンスはない。「BG(Boys&Girls)」という言葉が「トランスジェンダー」を排除しているかのように錯覚するのは、それこそ【ぐらし】自身が“シスジェンダー中心主義”に囚われている証拠である。

まして「BL」が《男性の同性愛を描くフィクションのジャンル》で「GL」が《女性の同性愛を描くフィクションのジャンル》である以上、それらが「性別二元論的」であるのは自明の理だ。

そして「性別二元論的」であることが、すぐさま「性差別的」であることを意味するわけではない。もしそうであるなら、まさに「性別二元論」に立脚した「ゲイ/レズビアン」という概念も「性差別」だからなくすべき、ということになってしまう。

むろん「BL/GL」と「ゲイ/レズビアン」は異なるけれど、「BL/GL」を否定するのであれば、まったく同じレトリックで「ゲイ/レズビアン」の存在も否定されることになるのだ。

元より「BL/GL」は、現実世界の全てを“包摂”する表現にはなりえないし、したがって“包摂的”な名称など“必要”ない。

このようなセクシュアリティの問題について“包摂的”であることを至上の価値と信じて疑わない思考は、

ようするにバイセクシュアル(両性愛)」や「パンセクシュアル(全性愛)」を人間のあるべき姿として規定し、「ゲイ/レズビアン」に対しても《異性を愛する可能性》を“包括”することを要求・期待する、まさに「ヘテロセクシズム(異性愛至上主義)」が“上位互換”された「バイセクシズム(両性愛至上主義)」“決めつけ”に他ならない。

また一方で「BL/GL」のユーザーの大半は異性愛者であり、そのような異性愛者がフィクションの「BL/GL」を“性的消費”することが、現実の「ゲイ/レズビアン」に対する“性的搾取”につながるとの見方もある。

元より「BL/GL」にかぎらず“消費”という行為自体が、本質的な暴力性を内包しているともいえる。ゆえに消費の在り方によってはそのような構造に陥る危険性もありうるし、かく言う私自身もGL(百合)ユーザーの立場から、そうした異性愛至上主義的な消費の在り方については当ブログで警鐘を鳴らしてきた。

しかし一方で「BL/GL」を消費する異性愛者の中には私自身を含め、

「BL/GL」を、そのような異性愛至上主義の差別構造からなんとかして切り離そうという意志をもつ人々も存在する。

「NL」を「HL」に置き換えるといった試みもその一環であり、「HL」という用語を造り出したのは、じつのところそれに該当する男女の恋愛漫画を消費するユーザーではなくBL/GL漫画のユーザーたちである。

そこへきて「JobRainbow(ぐらし)」の記事は、そうした「BL/GL」ユーザーたちの反差別的な取り組みに冷や水を浴びせるものでしかない。

むろん当人の意志がどうあろうと、図らずも「反差別」を意図した表現が、皮肉にも表現者の無自覚な差別意識を露呈してしまうケースも珍しくない。そういった場合には批判が必要であるが、

しかし上掲した「JobRainbow」の記事は、始めに“批判”ありきというか、明らかにライター個人のオタク・カルチャーに対する“批判”を通り越した無自覚な悪意・敵意を感じずにはいられない。

LGBTに対する偏見や無理解を批判する者が、自分と異なる感性に根ざした「BL/GL」の文化に対する偏見や無理解に凝り固まっているのでは、何の説得力もない。

なお「BL/GL(百合)」という呼称・概念の必要性については、当ブログの過去の議論も参照のこと:

「BL/百合」否定派の漫画家・御前モカ氏(Babylion_110)との議論をインタビュー形式でまとめてみた。 - 百錬ノ鐵

加えて、どうもこの【ぐらし】なるライターは

「性別二元性(sex duarity)」と「性別二元制(sex dualism)」

さらには

異性愛(heterosexuality)」と「異性愛規範(heteronormativity)」

の区別が付いていないようだ。

しかし、たとえ〈男/女〉の境界がグラデーションであるとしても、

「男」と「女」のどちらにも与しない状態は、その定義上「性別」とは呼ばないのだから「性別」が“二元”であることは自明である。

ただし特定の性自認あるいは性自認自体を有さない人も存在することから「人間」そのものを「男/女」に二元化(二極化)することはできないというだけだ。

しかるに「性別二元制(sex dualism)」とは、たんに「性別」が「男/女」の二つあるということ――すなわち「性別二元性(sex duality)」と同義ではなく、

出生時に割り振られた性別によって、その後の個人の生き方・在り方さえもガチガチに規定されてしまう社会の構造を表す言葉である。

このように、専門外の漫画どころか、専門分野であるはずのセクシュアリティジェンダーに関する基礎知識すらなく、たんなるその場の思い付きだけで何かを言った気になっている、この【ぐらし】なるライター。それこそ「ストレート」の語源すら調べず、言葉の響きだけで“差別語”と決めつけて安易な“言葉狩り”をおっぱじめる、浅はかな連中と五十歩百歩の“意識のお高い”馬鹿の一人でしかない。

そうした、本来「差別」でもなんでもない事柄に、ありもしない“差別性”をこじつけたがる一部「活動家」の心性は、そのじつ差別問題に対する意識の高さとは程遠い。むしろ、見ず知らずの他人を「無自覚の差別者」に仕立て上げることで、相対的に自分の“お高い意識”を見せつけてやろうという浅ましい被承認欲求の小賢しさばかりが鼻につく。

ちなみに【ぐらし】は、よっぽどみやきち氏の熱心な読者のようで、上掲した「HL/BL/GL」に対する見当違いの難癖にも、いちいちみやきち氏のブログ記事にリンクを貼って補強材料としている。

だが前述のとおり、みやきち氏は他ならぬ自身がGL(=百合)コンテンツのユーザーであり《「HL(ヘテロラブ)」が(中略)作中で明言されていない人物のセクシュアリティヘテロセクシュアルだと決めつけてしまう》《「BG(Boys&Girls)」なら(中略)そもそも「Boys」「Girls」といった表現は登場人物がシスジェンダーであると決めつけており、性別二元論的》などといった意味のことは、

リンク先であるみやきち氏の記事の何処にも書かれていない。

それにもかかわらず、わざわざみやきち氏のブログにリンクを貼ることで、あたかもみやきち氏がそのような馬鹿げたことを主張しているかのように読者をミスリードしている。そも前述のとおり「NL」表記の差別性については「BL/GL」のユーザーからさんざん指摘されてきた事柄であり、今さらみやきち氏の言説を持ち出すまでもない。

さらにいえば、リンクされているみやきち氏の記事の内容は、自身の過去の記事が、意に反して「NL」表記の正当化に利用されたことについての異議申し立てである。それを、よりもよってライターの自分勝手な「GL(およびBL/HL)」バッシングの正当化に利用されてしまうとは、みやきち氏の名誉は2度傷つけられたようなものである。

P.S.

なお「JobRainbow」といえば、過去には「LGBT」に小児性愛(pedophilia)、獣姦(zoophilia)、屍姦(necrophilia)を加えよと主張する「LGBTPZN」なるトンデモ性差別思想を喧伝していたことでも知られている。

当時の議論はこちら