百錬ノ鐵

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もし彼女がトランスジェンダーであっても愛しますか?――国連スローガン「失敗作」に隠されたダブル・バインドと《レズビアン差別》

今から2年前、日本国内でトランス女性問題をめぐる議論が活発化し始めた頃に、国連機関「UNAIDS」が発表した奇妙なスローガンが注目を集めた。

主にレズビアン差別の問題を提起する当ブログが、トランス女性問題にも取り組むきっかけとなった事件であり、当時の議論を受けて次のような記事を作成している。

ossie.hatenablog.jpさて、それから2年の月日が流れた今頃になって突然、このスローガンの「真意」を理解できると豪語する人物「シダーローズ(@Cedrus21)」が現れた。

国連の啓発ポスター
"Would you still love her if she were transgender?"
性的指向を強要される!とjijiが意図的にデマ誤訳した案件として記憶に残るが、このメッセージの真意は私たち自身にも届かず仕舞いで終わったように思う。
「弱者だから」守る?
「可哀想だから」寄り添う?
「マイノリティだから」マジョリティの責任を果たす?
それらは全て正解で、そして何かが足りない。
高みの上から一方向的に保護を与えるのではなく、自分の人生もろとも巻き込み巻き込まれながら共に生きる=愛する覚悟はある? と問われている。
トランスアライの在り方が問われている今、このメッセージは抑圧者のみならずアライにも向けられた問いとして向き合っていきたい。
トランスジェンダーだったとしても、それでも愛し続けますか?
それは性的指向を超えて、ともに生きていく覚悟を問うているのだろう。
https://twitter.com/Cedrus21/status/1419124217908396036
https://twitter.com/Cedrus21/status/1419126460770443267
https://twitter.com/Cedrus21/status/1419125268879339523

自分が作ったわけでもないポスターに関して、ずいぶんと思い込みの激しい自己主張である。

さらには、例のシオヤギくん(@Gay_yagiまで参戦し、たいへんなことになっている。

しかしシダーローズ氏もシオヤギくんも、どうやら根本的に勘違いしているみたいだが、

表現を“読み解く”という作業は、その表現が現実社会の中で、実際にどのような意味を成すものとして機能しているかという“機能性”“意味性”を検証する行為であって、

表現者「意図」三者が自分勝手にあれこれと推察・忖度し、あまつさえそれを人に押しつけることではない。

後者(=シダーローズ氏ならびにシオヤギくんがやっていること)の試みが、なぜ不毛であるかといえば、

それは実際に表現されたものが、おうおうにして表現者自身の「意図」どおりのものに仕上がるとは限らないからだ。また、表現の解釈が不特定多数の受け手の側に委ねられている以上、受け手が表現者の「意図」どおりに表現を受け容れなければならないなどという道理もないし、そのような“主張”表現者のエゴでしかない。

しかるに、表現者「意図」について「そうであるに違いない」“主張”しているのはjiji氏ではなくシダーローズ氏ならびにシオヤギくんの方であり、

jiji氏の側は元より表現者「意図」ではなく、表現自体の“機能性”“意味性”について指摘しているのだから、話が噛み合うはずがないのである。

その前提を踏まえた上で、話を戻すが、

まず言葉の定義として《自分の人生もろとも巻き込み巻き込まれながら共に生きる》ことを「愛する(love)」とは言わない。よしんばそのような「愛(love)」の形がありうるとしても、それはシダーローズ氏の個人的な恋愛観の“主張”にすぎず、一般的な解釈として「愛する(love)」という言葉自体にそのような意味はない。

むしろ、あのように男女が額を寄せ合うステレオタイプなロマンティック・ラブ・イデオロギーに根ざす図案をあえて採用しておきながら、それが「恋愛」を意図したものではないのだと言い張るのは無理があるだろう。

じじつ私が上掲の記事で取り上げたとおり、例の国連ポスターの「真意」がどうあれ、トランスジェンダーを恋愛対象に含めないのは「差別」と解釈した上で、なおかつそれを支持する人たちがいるのは事実なのだから、それ以外の解釈を提示したところで論点ずらしにしかならない。

だいいち「当事者や団体の誰もそのような主張はしておりません」とのたまう当のシオヤギくん自身が、まさしくトランスジェンダーを性的対象に含めないのは「差別」だと“主張”する張本人――それこそ当人の「意図」がどうあろうと、結果としてそのような“機能”“意味”を成している――であることは、これまで当ブログで検証してきたとおりだ。

ossie.hatenablog.jp

ossie.hatenablog.jp

一方、シダーローズ氏の上から目線かつ的外れな講釈は尚も続くので見てみよう。

Would you still love her if she were transgender?
これを「性的指向の強要及び反する者は差別者である」と性的なイシューに限定したことは非常に読みが浅く、既に関係が成立し共に生きるシス/トランスカップルの現実を一つも汲み取っていない。
おそらくあなた(※引用者註:jiji氏のこと)が想定したような、これからセクシュアルな関係を取り結ぶ出会いたてのカップルも含まれるだろうが、現実のシス/トランスのカップルはヘテロカップルとして数年を過ごした後にトランジションを始めるケースも多く、その背景には社会に蔓延する性的逸脱へのフォビアの乗り越えや法制度の施行年も深く関与する。
そういった歴史や背景込みで複雑多岐にわたるカップルの関係性が破綻した時、不利益を被りやすいのは決まって社会の受け皿が圧倒的に少ないトランスジェンダー側である。それらの多様なトラブルを包括したメッセージであると、トランスのリアルを知れば知るほど見える文脈がある。
そういったリアルの厚み──それらは"still"や"were"という単語に表れている──を一蹴し下世話なベッドの中のポリティクスに翻訳した、のみならず差別者と言われる!と煽動してしまった点が「誤訳」ではなく、なんであると?
日本政府は(※引用者註:コロナ対策について?)1年の猶予がありながら何も感染対策を講じてこなかったと批判を受けているが、あなたもここ数年トランスの生きた声に耳を傾けるコストは払ってきた? 何のリアルを知ろうともせずモンスター像を作り上げるだけだったなら、差別者の誹りを免れないのは必然だろうとしか言いようがないよね。
https://twitter.com/Cedrus21/status/1419140867332341760
https://twitter.com/Cedrus21/status/1419141206055940101
https://twitter.com/Cedrus21/status/1419141714762100738
https://twitter.com/Cedrus21/status/1419142827129196545
https://twitter.com/Cedrus21/status/1419142933463257091

「既に関係が成立し共に生きるシス/トランスカップル」であれば、既に愛し合っているのだから、いちいち赤の他人が《Would you still love her if she were transgender?》と問うまでもないだろう。

いずれにしても問題のポスターが、そのような限定された事例を想定しているのであれば、なおのこと不特定多数に向けたスローガンとしては、独り善がりで言葉足らずの「失敗作」と断じざるをえまい。

またシダーローズ氏の恣意的な解釈がどうあれ、いずれにせよ「もし彼女がトランスジェンダーであっても愛しますか?」という問いに対して、

「はい、私は彼女の生物学的性別がどうあろうと愛し続けます」と答えなければ「シスセクシズム?」に影響されたトランス差別主義者として“糾弾”される定めにあるのだから、やっぱりそれは「差別者と言われる!」という解釈で合っていることになる。

言い換えるなら《Would you still love her if she were transgender?》という問いは、そのじつ単純な“問い”ではなく、それを拒む者を「トランス差別主義者」に仕立て上げて、無制限の“糾弾”を可能とするためのダブル・バインド(二重拘束)に他ならないのだ。

元より、人がどのような基準で「誰(どのような性別のひと)」を愛するか、あるいは愛さないのかという恋愛対象(性的対象)の問題は、人間の「性的主体性」「性の自己決定権」に関わる重大なイシューであり、

それこそ「下世話なベッドの中のポリティクス」などという“下世話”な言葉で切り捨てていいはずがない。

そのようにして「性的なイシュー」“下世話”と決めつけて切り捨てる傲慢な発想の根底にあるのは、生殖に結びつかない性欲を《変態》と位置づけるヘテロセクシズム(異性愛至上主義)に他ならない。

そしてレズビアン差別》の告発も、ひいては「レズビアン」の存在自体もまた、そのような「下世話なベッドの中」の問題に矮小化され、強制異性愛社会の中で黙殺されてきたのが「歴史や背景」だ。

げんに問題のポスターは、図案からして男女のカップルを想定したものと思われるが、当然ながら《Would you still love her if she were transgender?》という問いは、

男性の異性愛者のみならず、女性の同性愛者にも向けられるものだ。

あるいはそれが「レズビアン」に向けられたものでないとしたところで、人が「女性」を愛するという事象について「男性の異性愛者」のみが想定され、「女性の同性愛者」の存在が排除されるのであれば、それこそ「異性愛至上主義」「男性至上主義」に陥ってしまうことになる。

ようは、女性を性的対象にする「レズビアン」であれば、女性である「トランス女性」も愛せるはずだ・愛するべきだ、というのがシダーローズ氏に象徴される「トランス主義者」の一般的な主張である。

実際の「レズビアン当事者」の中には、男性異性愛者と同様に、トランス女性を性的対象に含める人もいれば、含めない人もいる。それを「女性を愛するレズビアン」であるならば「トランス女性」も愛せるはずだ・愛するべきだ、などと一概に決めつけるのは「レズビアン当事者」のセクシュアリティの多様性を否定する「差別的偏見」の最たるものだ。

そしてそれは、けっきょくのところレズビアン」が同性愛者であっても「女性」である以上は男性(異性)を愛せるはずだ・愛するべきだとするヘテロセクシズム(異性愛至上主義)を、ただ「男性」を「トランス女性」に置き換えて行使していることになる。

毎度のように長々と述べてきたが、今回も結論は同じである。いずれにせよトランスジェンダーを性的対象に含めるか否かは、人権意識や「政治的正しさ」の問題ではなく、あくまでも個人のパーソナル(私的)な「性的嗜好でしかないということだ。

それを「Personal is Political」などとうそぶいて、個人のセクシュアリティにまで介入しようと試みるトランスジェンダリズムおよびクィア理論は、レズビアンの「性的主体性」「性の自己決定権」を侵害する《レズビアン差別》の思想であり、

またそのような下卑た試みを正当化するトランスジェンダリズムおよびクィア理論の「ポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)」こそ、まさしく「下世話なベッドの中のポリティックス」以外の何物でもない。