百錬ノ鐵

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『マリみて』は「百合」じゃないと“力説”する人に突っ込みを入れてみた結果 #マリみて #マリア様がみてる #コバルト文庫 #百合

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マリみて』こと『マリア様がみてる』が日本のオタク・カルチャー史に名を残す作品となりえたのは、ひとえに「百合萌え」という“古くて新しい”価値観を再発見した功績による。

むろん「百合」は『マリみて』が発明したわけではなく、その用語自体は遡れば70年代の中頃に作られたものだ。

しかし、それまではアンダーグラウンドな同人業界の符丁にすぎなかった「百合」が、ゼロ年代に入って一般層にまで周知するに至るには、ゼロ年代前半の『マリみて』ブームの到来を待たなければならない。

その意味でオタクカルチャーの歴史は、まさにマリみて』以前と『マリみて』以降に分かれるといっても過言ではないだろう。

もっとも、後続の百合作品に対する直接的な影響力は『青い花』の方が大きい。こうした実情については過去記事を参照のこと:

「百合」の“源流”は「エス」にあらず~『マリみて』を中心とした「百合史観」の試論 - 百錬ノ鐵

《少女達の揺れ動く心情》を売りにした作品は、他にいくらでも存在する。だが、それらの多くは「少女小説(少女マンガ)」という枠組みの中で同性から支持されるにとどまり、今日では忘れ去られてしまった。

そんな中で『マリみて』が《男が読んでも感動する作品》すなわち多くの男性読者からの支持を得るに至ったのは、これもひとえに女性のキャラクターを主体(主人公)としながら、女性を愛する心情を繊細かつユーモアたっぷりに描いたことにより、

その世界観に図らずも異性愛者の男性(女性を愛する男性)が共感できる余地を創り出しているためだ。

  • むろん男性の異性愛者ないし『マリみて』の男性ファンの誰しもが「百合」に共感できるわけではないことは言うまでもないし、そもそもここではそんな話はしていない。

一方、現実社会において同性愛者の女性(女性を愛する女性)はマイノリティであることから『マリみて』を「百合(女性同士の「恋愛」の表現)」と解釈ないしカテゴライズすることで、読者の間口を狭めてしまうことを懸念する向きも根強くあり、上掲のツイートはその典型である。

しかしそれこそ倒錯した発想であり、むしろ「百合」という“取っ掛かり”があったからこそ、本来であれば「少女小説(少女マンガ)」というマーケティングの対象外であった男性異性愛者の読者の関心も惹くことが可能となったととらえられるべきであろう。

そしてその倒錯は、まさに同性愛者が嫌悪・忌避されるべきであるという異性愛至上主義に根ざした「ホモフォビア(同性愛者嫌悪)」に端を発するものだ。

その証拠に上掲のツイート主は、男子校を舞台としたスピンオフ作品『お釈迦様がみてる』についても同様に《BL?とんでもない》と“力説”しているではないか。

フィクションの「百合」や「BL」は、現実の「同性愛」と異なるという物言いをしばしば目にする。しかし問題の本質は両者が同一であるということではなく、

現実社会の「同性愛」を否定するレトリックが、そのままフィクションの「百合/BL」にも敷衍されている点だ。

それらが「百合/BL」という文化に対する偏見と無理解に凝り固まったものであることは論を俟たないが、そのような歪んだ認知バイアスの下で「百合/BL」は元より『マリみて』ですらもありのまま(虚心坦懐)に読解できているか疑わしい。

少なくとも「あとがき」は読んでいないのだろう。

マリア様がみてる 黄薔薇革命』あとがきより(P.212 ※強調は引用者):

ま【マリア様がみてる】インターネットの某ページに『マリア様がみてる』のことが記載されていて、「ソフトだけど完全に百合」というコメントが添えてあったのには笑ってしまった。最高の褒め言葉です、ありがとう。