さて、これまで『琴崎さんがみてる』について異性愛至上主義・男尊女卑という観点から批判を展開してきた。
ここへきて、新たな視点を提示してみたい。
それは、そもそも「百合萌え」とは何なのか? という今更ながらの根本的な疑問である。
繰り返し述べてきたが「百合」とは――その語源である「百合族=レズビアン」は別として――おもに漫画やアニメなど、いわゆるオタク・カルチャーに属する娯楽フィクション作品において、女性キャラクター同士の恋愛関係およびその表現を示す符丁である。
そして「百合萌え」とは、そのような女性同士の恋愛をテーマにしたフィクション作品を消費するという行為であり、
だんじて現実の「レズビアン」を性的対象にするという意味ではない。
しかるに『琴崎さんがみてる』の主人公たちがやっていることは、いったい何なのか。
「あの、琴崎さん、やっぱりまだ……」
そう……琴崎さんには、彼女特有の趣味というか、ライフワークのようなものがあった。
猫丘学園に入学する前からアイデンティティとなっていた、彼女にとって唯一にして至上のたしなみ。
琴崎さんが力強くうなずく。
「それは当然ですわ。わたくしにとってこのたしなみは生きとし生けるものにとっての空気のようなもの……人生に不可欠な彩りですから」
「そう、だよね」
「――ええ、そうです。咲き誇る花々のような麗しいご学友の皆様が、仲睦まじくお戯れになっている様子を陰からそっと見守り愛でること……それはまさにこの世界でもっとも美しく、もっとも尊い行いと言えましょう。それこそまさに理想の想起なのですわ……!」
両手を頬に添えながら、うっとりしたような目でそう口にする。
ああ、うん、まったく変わっていない。
記憶にある彼女の姿そのままだ。
そう、これが琴崎さんのライフワーク。
――女子同士が仲良く懇ろに交流している様子をつぶさに鑑賞して、その尊さを存分に堪能する。
もう少し下世話に言ってしまえば、百合をリアルタイムで観察、実況すること。
(中略)
ひどく興奮している様子がこっちにも伝わってきた。というか「ふんふん!」という荒い吐息がここまで聞こえてくる。
だけどその気持ちは俺にもよくわかった。
目の前で咲きかけている百合の気配にソワソワと昂る気持ち。
だってそれは、俺も同じだったから。
作中に登場する「百合カップル」は、言うまでもなく架空の存在である。
しかし作品世界においては“現実”に存在することになっている。
そのような“現実”の女性同士の恋愛を「観察」と称してコソコソと覗き見る行為は、つまるところ“出歯亀”であり“視姦”に他ならない。
そのようなものが「百合萌え」なのだとすれば、百合コンテンツのユーザーは男女を問わず、性犯罪者ないしその予備軍と誤解されてしまう。
もっとも近年ではU-temo『百合オタに百合は御法度です!?』、カエルDX『観音寺睡蓮の苦悩』といった、女性主人公が他の女性キャラクター同士の恋愛に“萌える”というコンセプトの「メタ百合作品」が目につくようになってきた。
たとえその行為者が女性であろうと、そのような行為を現実に実行したならば、やはり性加害と見なされる。それがかろうじて許されるのは、
あくまでもフィクションの「百合」の世界観において、女性が女性同士の恋愛に“萌える”こともまた「百合」の一環として機能しているためだ。
言い換えるなら「メタ百合作品」においては、女性同士の恋愛に“萌える”女性もまた〈当事者〉として作中の「百合関係(同性愛)」を構成するのである。
そこをいくとYouTube版の『琴崎さんがみてる』が「メタ百合作品」として認知されていたのも、ひとえに〈女性〉である【琴崎イリア】を主人公としていたからだ。
ところが原作者・弘前龍は、自身の分身である【新堂瑛人】を【琴崎入愛=イリア】と“男女カップリング”したため、
【琴崎さん】の「百合萌え」は「百合」として機能を喪失した。
その結果「メタ百合作品」の中で保たれていた、ひじょうに微妙で危うい均衡は崩壊した。すなわち【琴崎さん】が〈異性愛者〉すなわち「百合関係(同性愛)」の〈非当事者〉と位置づけられたことで、
マジョリティである〈異性愛者=非当事者〉が、マイノリティである女性同士(百合カップル)のプライバシーを興味本位で暴き立てるという、
きわめて暴力的かつ“差別的”な構造に陥ってしまったのである。
一方、仮に『琴崎さんがみてる』が初めから【新堂瑛人】を主人公としていた場合、それもまた「百合」になりえず、たんなる男性異性愛者による“出歯亀”の変態行為になってしまう。
すなわち男性主人公が「百合カップル」を“視姦”する行為は、そこに【琴崎さん】という〈女性〉が同伴するからこそ不問とされる。男性主人公が存在しなくても「百合」は成立するが、ヒロインである【琴崎さん】なくして「百合」は成立しえない。
原作者・弘前がかつて【ムギちゃん】を必要としていたように、じつのところ男性主人公こそが「百合カップル」を“視姦”するという自身の性癖を実行するにあたり、それを正当化してくれる〈女性〉の存在を必要としているのだ。
が、それにもかかわらず作品の中では、逆に【琴咲さん】が〈男性〉である【瑛人】に依存せざるをえない状況が設定されている。
結果、ペットボトルのフタすらも男の力を借りなければ開けられず、「男性に対するトラウマ」のせいで甘美な「百合」の世界に逃避しているといった、きわめて脆弱な女性像が構築された。
このような男尊女卑に根ざすネガティブ(否定的)な女性観をもとに、女性同士の恋愛を描いたとしても、それがポジティブ(肯定的)な意味合いをもつことなどありえない。
いや、むしろ主人公たちは「百合」を“肯定”しているではないか? ――このような反論も返ってくるだろう。
しかし「百合」を“肯定”することと“美化”することは違う。
すなわち主人公たちが「百合の素晴らしさ」として挙げる「美しさ」「尊さ」などといった基準は、
いずれも現実社会における「レズビアン」および女性同性愛のステレオタイプなイメージ(偏見)を無批判に受け売りしたものでしかなく、
ゆえにそれは《美しいモノ=レズビアン》を《醜いモノ=ペニス(男根)》で穢すことに倒錯的快楽を見出すという「レズボフォビア(レズビアン嫌悪)」にも容易に転じうる。
原作者・弘前は『琴崎さんがみてる』を通して《百合に触れたことがないライトノベル読者にも、百合の素晴らしさを届けたい》《1人でも多くの読者が百合の沼に引きずり込まれてほしい》と述べていたが、
作者自身の異性愛至上主義・男尊女卑に根ざした「肉欲」を優先してしまった結果、その目論見さえも果たされることなく潰えてしまったのだ。
かつて百合文化の間口を広げることに成功した『マリア様がみてる』『青い花』『citrus』『やがて君になる』などは、それぞれ固有の世界観を有しながら、いずれも奇を衒わない正攻法の「百合作品」として読者に訴求し続けた歴史的名作である。
「百合の素晴らしさ」を伝えるのに「百合」でないものを提示して、いったい何になるのだろうか。蕎麦の美味しさを伝えたいといいながら「濃厚激辛魚介豚骨つけ麺」を出したところで、それは「濃厚激辛魚介豚骨つけ麺」を食べさせたいという当人のエゴの押しつけでしかない。