百錬ノ鐵

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「百合」のレゾンデートルを完全否定する松澤千晶の《頭のおかしな持論》の自己矛盾~「 #コミック百合姫 」2022年9月号『オフレコ×ガールズトーク』 #百合姫

本年度1月号からリニューアルした「コミック百合姫」は、連載作品の他に『オフレコ×ガールズトークと題し、各界の女性有名人の「百合」にまつわるエピソードや思いを述べるコラムを掲載している。

自分のことを棚に上げているようで気が引けるが、私は他人が「百合」について論じた文章を読むことを好まない。なぜならばそれらの多くは「百合論」にかこつけて、論者自身が内面化したヘテロセクシズム(異性愛至上主義)やレズボフォビア(レズビアン嫌悪)を無批判に(あるいは形だけの自己批判を装いながら)垂れ流すだけの、言わば「評論の形を借りたヘイトスピーチにすぎないからだ。

特に、第9回にあたる今号(2022年9月号)のフリーアナウンサー松澤千晶による『何を以って百合とするのか』は、さすがに常軌を逸していると言わざるをえない内容だ(P.472 ※強調は引用者)。

 百合とは、一般的に女性同士を表す言葉だとは思いますが、自分が百合と感じるものは、そうとも限らないのではないか。仮に男女だとしても、あるいは男性同士でも、もはや性別など知らずとも、「百合」とは、その二人の間にある空気や関係を示す言葉なのかもしれないと私は考えています。もちろん、これは頭のおかしな持論であり、異論はおおいにあると思います。

松澤がこのような「持論」に至ったのは《物心がつく前の幼少期》にサンリオのキャラクター【キキララ(リトルツインスターズのキキとララ)】を女性同士と“勝手に勘違い”したことにあるのだという。むろん、これは松澤がキャラクターの性別を誤認していたというだけの話だから【キキララ】というキャラクターの設定とも「百合」という概念の定義とも一切関係がない。

ところが松澤は、二人が男女であったことを知ってもなお《キキとララに対する百合は諦めきれず》《何故この二人を「百合」と感じたのかを分析した結果、性別というよりは、その佇まいから、お互いのパワーバランスが等しく感じられたからだという考えに至》ったのだという。

これに関しても松澤は《もちろん、これは頭のおかしな持論です。》というエクスキューズをつけている。これは一見すると自嘲的であるようだが、あらかじめ「頭がおかしい」と自己批判してみせることで、他者からの批判を一方的に退ける、そのじつ傲慢で独善的な態度だ。

 この考えは未だ根強く自分の中にあるもので、その後、『美少女戦士セーラームーン』などの通過儀礼を経て(『少女革命ウテナ』が百合か否かについて触れると10000字は必要なので割愛させていただきます。)私が本格的に「百合」というものを確信したのは、『マリア様がみてる』3巻・いばらの森における佐藤聖久保栞でした。

 この二人の関係を目にしたとき、愛とも、恋とも、友情とも違うような…どの言葉にも当てはまらず、しかしながら、どの思いも含むような、お互いを同じくらい求め合う関係だと感じたのを今でも覚えています。一般的な言葉を使うと「受け」や「攻め」といったものを感じなく…いえ、どちらも受けであり、攻めである。そう感じたのです。

まず「受け/攻め」というのは、BL業界の専門用語であり「一般的な言葉」ではけっしてない。

この時点で、すでに“一般的な”言語感覚から逸脱しているけれど、いずれにせよ松澤は、ようするに対等な(パワーバランスが等しい)関係性のことを、性別に関係なく「百合」と名状すべきという考えのようだ。

しかしその定義に従うのであれば、たとえ女性キャラクター同士であっても、先輩と後輩、先生と生徒、上司と部下、主人と従者、姫と騎士……など非対等な「パワーバランス」に基づいた関係性は、すべて「百合」と認められないことになってしまう。

ようは松澤が、現行の百合文化のありようと無関係に、ただ自分好みの理想にあった偏狭なシチュエーションのことを独自の言語感覚で「百合」と呼んでいるだけであり、一方で松澤の気に入らないシチュエーションは言外に「百合」から駆逐される。他者性の欠落した、きわめて自己中心的で不寛容な“オレ様定義”に他ならない。

もとより言葉というものは共有されてこそ意味をもつのだから、自分が「百合」と“感じた”から「百合」なのだ、とか言い張られてもこちらの知ったことではないし、ましてやそういった価値観を人に押し付けるのは迷惑だ。

何より松澤自身が認めているとおり、このような「百合論」は本質的な自己矛盾を抱えている。

 そして、私の中で、その「百合とされるもの」を追求していくと、やがて言葉は用をなさなくなり、上記の佐藤聖久保栞に関しては、「百合」という言葉に収まるわけがなく、「聖と栞」以外の何物でもないという結論に至りました。

 しかしながら、この状況をわかりやすく伝えるとき、こうして彼女たちを「百合」という言葉に閉じ込めようとしている。ああ、もし彼女たちが「百合」だと言われていることを知ったら、どんな顔をするでしょう。きっと何事も無かったかのように二人は少しばかり微笑んで、こちらのことなど相手にせず、その場を立ち去ることでしょう。そもそも、この二人は、もう……。

 このように、考えれば考えるほど、無限の可能性を秘めた二人を言葉の檻に閉じ込めて良いのか、知れば知るほど、時が経つほどに、言葉の持つ可能性と拘束力に苛まれるようになりました。

 (中略)言葉というものは時代と共に変化を遂げるものだと私は考えています。その上で、「百合」とは性別や状況にとらわれず、あらゆる思いの可能性を、その在り方を示す言葉であってほしい。

 そして、これもまた時代と共に更新されてゆき、「違う、そうじゃない」を繰り返し、「百合とされるもの」の解釈が当事者たちにとって報われる方向へ進むことを心より願っております。

「言葉というもの」《時代と共に変化を遂げる》のは当然のことであるが、それでも「百合」が男女や男性同士をも内包するなどという珍解釈は、今日において一般的なものではない。

強いて言えば、これもBL業界の符丁として「受け」の男性キャラクター同士のカップリングを示す「百合BL(ホモ百合)」という用語が存在する。ただしこれは「受け」を「女役」と位置付ける性別二元制のジェンダーバイアスにとらわれた発想であり、そのような「差別語」が一般化されるべきではないだろう。

ところが、上掲のごとき愚にもつかぬ《頭のおかしな持論》であっても「百合」の解釈は人それぞれ、といった安易な相対主義が蔓延る現状では「百合コミック専門誌」の中であたかも一つの傾聴すべき意見に祭り上げられてしまう。結果《自分が百合と感じるもの》という超個人的な内面の問題が、いつのまにやら《性別や状況にとらわれず、あらゆる思いの可能性を、その在り方を示す言葉》という普遍的な概念に格上げされてしまっている。

しかし「百合」でない《性別や状況》が存在するからこそ「百合」という言葉が成立する。裏を返せば《性別や状況にとらわれず、あらゆる思いの可能性を、その在り方を示す言葉》が仮に存在したとすれば、そのような言葉は言葉として、まさに“用をなさない”のである。

それでは「百合」である《性別や状況》とは何か。

今さら歴史的経緯を確認するまでもなく「百合」の語源とは、女性同性愛者(レズビアン)を示す「百合族」であり(※70年代中頃にゲイ雑誌『薔薇族』編集長・伊藤文學が提唱)、

よって「百合」とは、あらゆる《性別や状況》を示すものではなく、あくまでも「女性」同士の、そして「恋愛(あるいはそれに結びつく可能性)」を示す言葉として流通しているのだ。

あるいは女性同士の関係性について「恋愛」という“強い”言葉を用いることで、その他の可能性が否定されてしまうという言い分もあるだろう。

もとより「恋愛」とは、そのような排他性にもとづく関係性であるからだ。言うなれば、これは「恋愛」のネガティブな側面に着目した解釈である。

しかし「恋愛」が排他的であるというなら、それは当然ながら男女の関係性(異性愛)にも当てはまる問題だ。ところが男女の関係性においては、ことさらポジティブな側面ばかりが強調され、「恋愛」の解釈にためらいがないどころか《男女の「友情」は成立しない》というクリシェすらまかり通っているのが実情である。

ossie.hatenablog.jpすなわち「同性愛」を語る際には「恋愛」のネガティブな側面が強調される一方で「異性愛」を語る際には「恋愛」のポジティブな側面が強調されるというダブル・スタンダードが存在する。

そして、こうしたヘテロセクシズム(異性愛至上主義)とホモフォビア(同性愛者嫌悪)に基づくダブル・スタンダードが「百合」の定義の恣意性にも表れている。

もし「百合」が松澤の定義するとおり《性別や状況にとらわれず、あらゆる思いの可能性を、その在り方を示す言葉》であるとするなら、同時にそれを《無限の可能性を秘めた二人を閉じ込める言葉の檻》と見なす解釈は矛盾している。

つまり松澤が【佐藤聖久保栞】の関係性を言い表す際に《無限の可能性を秘めた二人を閉じ込める言葉の檻》として否定しているのが、まさしく本来の定義に基づいた、女性同士の「恋愛」すなわち「同性愛」の符丁としての「百合」であり、

しかし一方で松澤は「百合」を《性別や状況にとらわれず、あらゆる思いの可能性を、その在り方を示す言葉》として“曲解”してみせることで「百合」を肯定する。

加えて松澤は【佐藤聖久保栞】の解釈を通して「百合」を《愛とも、恋とも、友情とも違うような…どの言葉にも当てはまらず、しかしながら、どの思いも含む》と定義しているが、

それは女性同士の「恋愛」の可能性を否定する解釈をも《あらゆる思いの可能性を、その在り方》として許容することで、

じつのところ《しかしながら、どの思いも含む》という建前とは裏腹に「百合」の定義を「恋愛(同性愛)」から切断する言説として機能しているのだ。

このような“曲解”にもとづく「百合論」は、ひとえに「同性愛者(非異性愛者)」をネガティブな存在と決めつけるヘテロセクシズム(異性愛至上主義)に根差したホモフォビア(同性愛者嫌悪)の産物にすぎない。

言い換えるなら《性別や状況にとらわれず、あらゆる思いの可能性を、その在り方を示す言葉》という解釈は、まさしく「百合」をヘテロセクシズムおよびホモフォビアの正当化に都合良く“政治利用”する行為に他ならないということだ。

このようにして「百合」の業界には、どうにかして「百合」を本来の「恋愛」の定義から切り離し、女性同士の「友情(非恋愛)」の範疇に押しとどめようと画策する、姑息な“業界人”が跳梁跋扈している。

そしてこれは松澤千晶という一個人に限った問題ではない。げんに本年度「百合姫」2月号のキャッチコピーは《“恋”とか“愛”とか、勝手に決めるな。》というものであった。

もはや「百合姫」自らが「百合」のレゾンデートル(存在意義)たる《女性キャラクター同士の「恋愛」の表現》を完全否定しているのだ。

なぜなら女性同士の関係性を「恋愛」と認めたら、それは「同性愛」ということになり、ひいては《同性愛者は嫌悪されるべきである》という自らの同性愛者嫌悪(ホモフォビア)の対象となってしまうためだ。

ゆえに、そうしたヘテロセクシズムとホモフォビア――これがすなわち現代の日本社会の基幹そのものであることは言うまでもない――に基づく「百合論」が《当事者たちにとって報われる方向へ進む》などというのは“おためごかし”であり、結局は松澤自身のヘテロセクシズムとホモフォビアを正当化するのに都合良く「百合」の定義を恣意的に歪めているだけである。

  • このように書くと、例によって自分は同性愛に偏見はない、なんならレズビアンの友達もいる、と言い張るだろうけれど、そうした“言い訳にならない言い訳”自体が凡庸な《差別主義者の論理》でしかない。

そのようなホモフォビア(レズボフォビア)と誠実に向き合おうともせず《私の中》という排他的な精神性で自己の卑小な内面を“聖域化”したまま――さらには上に見た論理矛盾を何ら解決しないまま「百合」の定義・解釈を弄んだ末に、女性同士の「恋愛」どころか《女性同士》という前提すら否定する結果となった。

かくして「百合」の定義を《性別や状況にとらわれず、あらゆる思いの可能性を、その在り方を示す言葉》に改変する松澤の試みは「百合」の拡充ではなく、否定に帰結する。

そして松澤が認めるとおり、言葉は一定の「拘束力」を帯び、ゆえに既存の概念の定義を改変する試みは必然して、その定義に依拠した人々の価値観を根底から否定・否認する。

松澤にその意図がなかろうと、ヘテロセクシズムとホモフォビア現代社会の基幹を成している以上、それは松澤の「中」で自己完結する問題ではありえず、異性愛至上主義社会の政治的力学に依拠して《女性同士の「恋愛」の表現》の「可能性」を駆逐するものとなる。

言葉が《時代と共に更新されてゆ》くのを待つまでもなく、そのような《頭のおかしな持論》に対しては、松澤千晶と「コミック百合姫」編集部を除いた「百合」を愛する者すべてが、今この場で「違う、そうじゃない」を突きつけるべきである。