百錬ノ鐵

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『ベスト・キッド』をダシに「母子家庭差別」を正当化する映画評論家

前田有一の超映画批評『ベスト・キッド』より抜粋(強調は筆者)

 なお「ベスト・キッド」は、母子家庭の限界をさりげなく描いたドラマでもあり、男の子を育てるために父性は絶対に必要なのだという、きわめて保守的な思想をもつ作品である。オリジナルでは女の子とのデートシーンなど、執拗に母親のうざったさを描くことでそのあたりが端的に表現されていた。本作でも似た描写はあるが、子離れできない母親に、それでもつきあってあげる息子の優しさにはほっとさせられる。

 本作の持つこうした考え方が、フェミニストの国アメリの国民の目にどう映ったのかはわからない。だが、ミステリアスな東洋の文化とともに、広く受け入れられたのは確かだろう。

 かようにオリジナルをうまく生かし、舞台だけを没落する日本から昇り竜の中国へと変更したリメイクであったが、ただ一点、やってはいけないことをやってしまった。それは、例のラストの失笑ものの必殺技まで(別の形で)再現してしまったこと。あんなところを似せる必要などは無い。あれこそは80年代の恥ずかしい過去そのものだ。

 『ベスト・キッド』に関しては、私はオリジナル版もこの度のリメイク版も未観であるため、実際にそれらが「きわめて保守的な思想をもつ作品」であるかは判断できない。

 だが、評者の前田有一スカパー!保守系番組「チャンネル桜」に出演していることから、彼自身が「きわめて保守的な思想」の持ち主であり、またそうした「きわめて保守的な思想」を『ベスト・キッド』に投影している可能性が推察できる。その場合、前田は『ベスト・キッド』に母子家庭差別の濡れ衣を課していることになる。

 前田は母子家庭が「限界」を内包する根拠を「父性」の不在に見い出し、その実例として『ベスト・キッド』における「母親のうざったさ」を挙げている。だが、夫がいたとしても母親が「子離れできない」ケースはいくらでもあるわけだからこの論理には何の科学的根拠もない。そもそも「父性」とは文字通り“性質”であり親の性別を指すものではない。

 さらに「本作の持つこうした考え方がフェミニストの国アメリカの国民の目に(中略)広く受け入れられたのは確かだろう。」という件は、アメリカにも母子家庭が存在するという単純な事実を無視したものであり、やはり母子家庭を“特殊視”する発想である。

 加えて、そうした差別的な「考え方」に与しない者をフェミニスト」と決め付け、レッテルを貼ることで追及を退けようとする意図も伺える。すなわち「本作の持つこうした考え方」に対するスタンスを<否定=フェミニスト>と<肯定=それ以外>に二極化した上で、前者をあたかも普遍性の欠如したヒステリックな極論のように印象操作しているのだ。*1
 いずれにせよ、『ベスト・キッド』が「母親のうざったさ」を描写しているとしても、それをして「母子家庭の母親」という“属性”に対する批判とするのはあくまでも前田個人の解釈である。つまり、他ならぬ彼自身が母子家庭を色眼鏡で見ているということだ。

 いや、そうではない、あくまでも作品に込められた「思想」を読み解いただけで評者個人の「思想」とは無関係というのなら、リメイク版の制作者がオリジナル版の「思想」を無批判に踏襲していることこそを批判すべきだろう。それこそ「あんなところを似せる必要などは無い。あれこそは80年代の恥ずかしい過去そのものだ。」というふうに。それをしない時点で、前田もまた娯楽映画を隠れ蓑にして母子家庭差別を正当化しているにすぎない。

*1:いわゆる保守系の文脈において、フェミニズムはしばしばそのように位置づけられる実情があり、けっして私自身がフェミニズムを「普遍性の欠如したヒステリックな極論」と捉えているわけではない