百錬ノ鐵

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「百合に挟まる男」を擁護する「レズビアン作家」王谷晶(tori7810)の“バイセクシズム”~あるいは「百合に挟まる男」の批判的考察

(2024年1月29日 加筆修正)

現代日本の文壇において「レズビアン」をカミングアウトしている数少ない作家の一人に、『完璧じゃない、あたしたち』『ババヤガの夜』などで知られる王谷晶@tori7810 ※アカウント削除済み)がいる。

Twitterのプロフィール(2022年10月時点)には次のように書かれている。

小説家/うまい酒とBLとフィクションのために働くレズビアンフェミニスト/全ての差別に反対

王谷晶はBLの嗜好を表明する一方で、自らが「当事者」である「百合」については、これまで積極的に言及してこなかったように思う。たんに興味がないのか、意図的に言及を避けているのかはわからないけれど、少なくとも王谷の読者ではなくアカウントをフォローもしていない私が目にする機会はなかった。

そんな王谷晶の、百合文化に対する姿勢が垣間見えるツイートがRTで回ってきた。

異性とファックした程度で女同士のラブは揺らがんし、みたいなの好きですね……(いわゆる百合に挟まる男にそんなに怒りが沸かないのも、挟まったところでどうでもいいでしょ、メインの二人のスパイス程度にしかならんでしょという気持ちがあるからかも)
https://twitter.com/tori7810/status/1576252805815287808

百合に挟まる男死ねみたいなミーム、女同士の結び付きがその程度で崩れる一時的で脆弱なものだというそれこそ有り触れた偏見を前提にしたものではないかという懸念がずっとある

https://twitter.com/haifi2ch/status/1576532044053553152

「男が挟まると百合の構造が脅かされる」としたらそれは「男を教えてやれば治るだろう」というコンバージョンセラピー的な差別思想となんら変わりないのでは

https://twitter.com/haifi2ch/status/1576532931937333248

まぁだから「可愛い女の子だけ目に入れてたいから百合が好き」みたいなオタクはダメなんだよな

https://twitter.com/haifi2ch/status/1576533309340807168

そうか、「百合に挟まる男」ってつまり舞台装置的なキャラクターとしてのみ想定されてる訳ではなくそういうクソなヘテロオタクも射程に入った批判とも言える訳か

https://twitter.com/haifi2ch/status/1576547275630780416

2ツイート目以降は無関係の一般人maelstrom@haifi2ch)によるものだが、王谷の発言を補足するものであるため、便宜上これらを一まとめにして扱うことにする。

さて、この「百合に挟まる男(あるいは百合に挟まりたい男)」という言葉は、百合文化におけるパブリック・エネミーとして位置づけられている感がある。

  • なお「百合に挟まる男」と「百合に挟まりたい男」とでは言葉の上での意味が違ってくるけれど、「百合に挟まる男」に“なりたい”と公言する「男」は即ち「百合に挟まりたい男」でしかないので、ここでは両者を同じものとして扱う。じっさい、とくに使い分けはされていない。

ところがネットミームの宿命からか、いつしか言葉自体が勝手に独り歩きを始め、その文脈・背景を知らない“イッチョカミ”“知ったかぶり”の輩が言葉尻だけを捉えて短絡的な反応を示す場面にも直面するようになった。

そこへきて「百合に挟まる男」に対する百合ユーザーの批判は、あたかも百合作品に男性キャラクターが登場すること自体を感情的に拒絶しているかのような誤解を受けている。

中にはそうした偏狭なマニアが一部に存在することも事実だけれど、そのじつ百合作品に男性キャラクターが、いわば「当て馬」「噛ませ犬」として登場することは、けっして珍しくないどころか、むしろ一つの“定石”“お約束”ですらある。それを頭ごなしに否定するのであれば『マリア様がみてる』『青い花』『citrus』『神無月の巫女』といった主要な百合作品をことごとく切り捨てることになってしまう。

しかるに本来「百合に挟まる男」とは、ようするに、レズビアン女性のカップルと「3P」がしたいという欲望を公言する「男」の存在を想定したものだ。ただ「3P」「SEX」「ファック」といった直接的な表現を用いると、あまりに生々しいため「百合」に“挟まりたい”という抽象的な言い換えがなされているようである。

男性異性愛者向けのポルノグラフィにおいて、そのような趣向がこれまた“定石”“お約束”として用いられてきたことから、百合コンテンツを嗜む男性異性愛者のユーザーもまた、しばしばそのような「男」と誤解・混同されがちなきらいがある。しかし言うまでもなく、男性異性愛者が百合コンテンツを嗜むことと、百合作品に登場する女性キャラクターたちと男性である自身の性行為を妄想することは、まったく別次元の欲望であり「当事者」の一人として異議を唱えたい。

話を戻すと「百合に挟まる男」を議論するにあたって重要なのは、たんに男性異性愛者が複数の女性との性行為を望むというだけでなく、その相手となる女性を、あえて《男を知らない》あるいは《男嫌い》の「レズビアン(非異性愛者)」に設定している点だ。

それは言い換えるなら、男性異性愛者が複数の女性との性行為を通して快楽を得るだけでは飽き足らず、レズビアン(非異性愛者)」に〈男性(異性)〉との性行為を強要することで、嗜虐的・倒錯的な優越感を味わう、一種のレイプ・ファンタジーの産物である。

よって《男が百合に挟まる》という行為ないしシチュエーションは、必然して「性暴力(レイプ)」とならざるをえないのだ。

もとより今日の「百合」という用語は、前述のとおり主に漫画などのフィクション作品において、女性キャラクター同士の恋愛関係およびその表現を指す。その意味では、女性がバイセクシュアル(あるいは異性愛者)同士の恋愛関係であっても「百合」は成立することになる。

しかし、こと「百合に挟まる男」といった場合には上述の動機とその歴史的経緯により、むしろ本来の意義・語源における「百合族」すなわち「レズビアン」――まさしく〈女性〉であり〈同性愛者〉であり、なおかつ〈非異性愛者〉である人々が想定される。

また一般的な「百合萌え」の男性が、あくまでも創作物として女性同士の恋愛を表現するコンテンツを消費するに留まるのに対し、

「百合に挟まる男」は人間としての「レズビアン女性」自体に性欲を向けるという違いがある。

これによって「百合に挟まる男」の存在は、「レズビアン」の性的主体性(セクシュアル・アイデンティティ)を侵害する、ヘテロセクシズム(異性愛至上主義)およびレズボフォビア(レズビアン嫌悪)の「暴力装置として機能するのだ。

具体例を挙げると、ネット上でカミングアウトしているレズビアン当事者(あるいはバイセクシュアル女性も)の多くは、見ず知らずの男性から《実際の行為を見学したい・混ぜてほしい》というメールを受け取った経験があるという。「百合に挟まる男」が指し示すのは、そういう「男」である。

もっとも「百合」がフィクション作品の用語である以上「百合に挟まりたい」と公言する男性が、かならずしも現実の「レズビアン当事者」に性的加害を働くとはかぎらないとする意見もあるだろう。

しかし実際には、これをマンガの表現だけの問題と割り切るわけにはいかない。なぜならば女性の百合作家が、男性読者から「百合ップル(※女性キャラクター同士の恋愛関係・カップリング)の間に自分も挟まりたい」といったセクシュアル・ハラスメントに曝される事例も発生しているからだ。

仮に「百合に挟まる男」が一つのセクシュアリティとして肯定・尊重されるべきであるとするならば、そのような百合作家のセクハラ被害をセクシュアル・ハラスメントとして適切に対処することが不可能となる。

ossie.hatenablog.jpそのような「百合に挟まる男」のわかりやすい事例が、ちょうど上掲ツイート群と同じタイミングで流れてきたので、ご覧いただこう。

この場合の「百合」が、仮にバイセクシュアル女性を想定したものであったならば、あらかじめ〈両性愛者〉である女性が男性と性行為することを“堕とされる”とは形容しないであろう。したがって、ここでいう「百合」とは広義の百合表現のことではなく「百合族」すなわち「(男を知らない・男嫌いの)レズビアン」の符丁であることに疑いの余地はない。

  • もっとも男性異性愛者向けポルノグラフィにおいては、男性主人公が「レズビアン」の女性をレイプした後で、じつは【彼女】が過去に男性経験のある「バイセクシュアル」であったという理由でレイプを正当化するといった後付け設定も散見する。
  • いずれにせよ「レズビアン」のみならず「バイセクシュアル女性」への偏見も露呈しており、まさに《ポルノの形を借りたヘイトスピーチ》に他ならない。

その上で《百合が男に堕とされるのが好き》「一つのジャンル」として認めるべきとする主張は、たとえば小児性愛をLGBTと同様の「マイノリティ」として保護するべきというのと変わらない、差別主義者特有の屁理屈だ。

そも《百合が男に堕とされるのが好き》というセクシュアリティ自体、神聖なもの・美しいものを穢すことに背徳的な興奮を得るという嗜虐趣味の一種であり、まさに「百合」を“神聖視”する思想に依拠している。

つまり「百合」を勝手な思い込みから一方的に“神聖視”した上で、それをわざわざ“穢す”という、なんとも倒錯したマッチポンプを自作自演しているにすぎない。

言い換えるなら「巨人ファン」も「アンチ巨人」も同じ「巨人軍(読売ジャイアンツ)」という球団に注目していることに変わりないという理屈であるが、それをもってmaelstromは「男の百合萌え」を「百合に挟まる男」と同一視するのだ。

しかし、そのような極論に至るのは、たんにmaelstromが「百合」という文化を否定的に捉えているがえゆえの偏見の表れでしかない。

それでも「百合」を肯定するのはいいとして“神聖視”するにまで至ったならば、やはり「レズビアン」の存在を特殊視・異常視する裏返しの「差別」に陥ってしまうのでは? といった危惧には、たしかに一理あるかもしれない。

じっさい百合作品の作風や世界観は多様であるが、もっとも「百合」すなわち女性同士の恋愛関係が、ごく日常的かつ自然な事柄として表現されるものが大半であり、それ自体をことさら“神聖視”するような作品はごくわずかだ。

百合コンテンツのユーザーからは「百合は尊い」「百合は至高」といった物言いがなされることもあるけれど(個人的には苦手なノリであるが)そのようなネットミーム特有の修辞的な言い回しを額面通りに受け止めるのは、それこそ“ネタにマジレス”というものであろう。

むしろ「百合」を必要以上に“神聖視”するか、それともその“神聖”なるものを“穢す”かの両極端な価値基準しか認められない視野狭窄で硬直した思考に陥っている点において、そのじつmaelstromのごとき「アンチ百合」こそが「百合に挟まる男」と親和性が高いといえる。

何より「百合に挟まる男」というのは、まさに「男」の加害性・差別性の問題であるにもかかわらず、なぜか「百合(あるいはレズビアン当事者)」の問題に責任転嫁されている。

ようは「痴漢されて悦ぶ女性もいるから痴漢を取り締まるべきではない」と言っているのと変わらない。性暴力をめぐる議論において、加害者の存在が透明化され、被害者の“心のもちよう”に還元されてしまう悪しき風潮が、ここにも表れている。

そこへきて王谷晶の発言は、上掲のポンチ絵に表されるヘテロセクシズムとレズボフォビアに根差した「百合に挟まる男」の欲望に対して「レズビアン当事者」の立場から“お墨付き”を与える格好となっている。

じじつゼロ年代以降に「百合」が社会的認知を得る以前のフィクション作品において「レズビアン」のキャラクターは主として、男性とSEXさせられる、あるいは女性のパートナーを男性に寝取られるという役割しか与えられてこなかった。

ossie.hatenablog.jpすなわち従来の「レズビアン」とは、まさに《女同士の結び付きがその程度で崩れる一時的で脆弱なもの》であることを示す記号にすぎなかったのだ。

もっともmaelstromは「その程度」というけれど、ポリアモリーでなおかつバイセクシュアルといった事例を除けば、男女間であってもパートナーの不貞は関係性を終わらせるのに十分な理由である。

換言すれば王谷やmaelstromは《女同士の結び付き》すなわち女性間の同性愛に対して、男女間の異性愛にはない“強さ”を要求していることになる。

だがじつのところ、それこそ異性愛者〉のありようを価値基準の中心に据えたうえで、〈同性愛者〉の存在を異常視・特殊視するヘテロセクシズム(異性愛至上・中心主義)の「偏見」以外の何物でもない。

あまつさえ《女同士の結び付きがその程度で崩れる一時的で脆弱なもの》でないことを証明するために、敢えて「百合(レズビアン女性)」を〈男性(異性)〉とSEXさせるという発想は、

じつに倒錯してはいるものの、つまるところ〈非異性愛者〉に対して「異性愛」を強制するというヘテロセクシズムの試みを正当化する口実でしかない。

こうした類のヘテロセクシズム言説として他に《百人の男とSEXしてみてから、自分が“本当に「レズビアン」であるのか”を判断すべきだ》というものもあるが、本質は同じだ。そのようにして同性愛の“強さ”を“試す”という発想それ自体の傲慢さ・暴力性についても特筆すべきであろう。

たしかに、主人公たちが何らかの「試練」を乗り越えて成長するという筋書き自体は物語の定型である。しかし、ここで問題となるのはそうした構造が、

女性キャラクターに対して《男性(異性)を愛すること》を成長・成熟のための「通過儀礼」として設定する一方、〈男性(異性)〉との恋愛ないしSEXを経験しない「非異性愛」の状態を《未成熟(あるいは成熟拒否)》と決めつける「前提」に成り立っている事実だ。

そのような「偏見」を疑いもしない、独善的かつ封建的な“差別意識”の根底にはヘテロセクシズム(異性愛至上主義)と併せてミソジニー(女性蔑視)も内面化されている。

もっとも、このような世界観については〈男性〉の存在を〈女性〉が成長・成熟するための“踏み台”として記号化(非人間化)することで、むしろ《女性上位》を賛美しているのだと主張する向きもある。

しかし、いずれにせよ〈女性〉が成長・成熟するにあたっては〈男性〉の存在を不可欠とするものであり、

けっきょくのところ〈女性〉を〈男性〉に依存する――それこそ、女はペットボトルの蓋を開けるにも男に頼らざるをえないのだ、といった――非主体的な存在に貶めている。

ossie.hatenablog.jp男性異性愛者向けのポルノグラフィにおいて、そうした「百合に挟まる男」の存在は、より直截的に「ペニス」として表象されてきた。ようは《ペニスを必要としない女性同士のSEXは不完全である》という決めつけ・思い込みにすぎないが、

しかしじつのところ「男」が「百合」に“挟まる”という欲望を満たす上で「百合」を必要としているのは、まさに「男」の側なのだ。

煎じ詰めれば、それは女性同士の性愛関係に〈男性〉が介入・干渉する“試み”を正当化する、もっともらしい口実でしかない。

個々の主体性(アイデンティティ)をもつ「百合(レズビアン女性)」に対して、いったい何の権限で、そのような「試練」を課すのか。

それこそ《女同士の結び付きがその程度で崩れる一時的で脆弱なもの》という「前提」「偏見」があるがために、女性同士の恋愛を“ありのまま”に見守ることができないのではないか?

そして繰り返すがその「前提」には、やはり《男を愛さない女は未成熟・成熟拒否》《たとえ「レズビアン」であっても「女」である以上は「男」を愛せるはずだ・愛するべきだ》といったヘテロセクシズムとミソジニーに根差す《有り触れた偏見》が横たわっているのである。

あまつさえ、そのような「百合に挟まる男」に表象されるヘテロセクシズムとミソジニーに対しての批判が《コンバージョンセラピー的な差別思想》であり《クソなヘテロオタク》《なんら変わりない》とは、まさしくmaelstrom自身に当てはまる言葉で他人を攻撃しているにすぎない。

同性愛者の性的指向を“矯正”する「矯正治療(conversion therapy)」の目的は二通りある。まず同性に対する性的欲求をなくすこと。そして異性に対して性的欲求を抱くように働きかけることである。

実際の「矯正治療」は〈同性愛者(非異性愛者)〉だけでなく〈両性愛者〉も対象とされてきたが、少なくとも「バイセクシュアル女性」を男性とSEXさせたとしても〈両性愛者〉の性的指向(両性指向)を“矯正”することにはならない。よって、ここでも「百合」は〈同性愛者(非異性愛者)〉すなわち「レズビアン女性」が想定されていることになる。

また人間の性的欲求をめぐる問題に関しては、いわゆる「恋愛感情」と「性欲」を区別できるのか? 両者の線引きは存在するのか? といった、さらなる疑問も出てくる。

そこをいくと王谷が示す《異性とファックした程度で女同士のラブは揺らがんし》という事例は、両者を排他的な二項対立として設定することで、同性とは「ラブ」をするが、異性とは「ファック」をするという一つのバイセクシュアリティを理想化したものだ。

このような思想は《「精神的な同性愛」は認めるが「肉体的な同性愛」は許さない》というヘテロセクシズム言説とも相性が良く、じっさい当該ツイートは100件を超える「いいね」を獲得している(2022年10月時点)。

こうした「レズビアン」を“矯正”して〈非同性愛者〉にする試みが、〈同性愛者〉であることを認めた上で〈男性(異性)〉とSEXするように“矯正”するという方針に転換されたとして、それは《よりましな矯正治療》といえるだろうか?

否、そも「矯正治療」自体をやめるべきだ。なぜならばそれは「レズビアン」の性的主体性(セクシュアル・アイデンティティ)に干渉する《人権侵害》以外の何物でもないからだ。

言い換えるなら王谷晶は「レズビアン」をやめる必要はないから「バイセクシュアル」を目指せばいいと言っているにすぎない。

あるいは「レズビアン」に対して《女性とは「ラブ」をし、男とは「ラブ」をせずに「ファック」だけをする》という在り様を求めたところで、それはレズビアンアイデンティティの肯定・尊重ではなく、バイセクシュアルの一つの在り様を押し付けているだけである。

すなわち、そのようなレトリックはヘテロセクシズム(異性愛至上主義)」が「バイセクシズム(両性愛至上主義)」に“上位互換”されたものだ。しかし、そのじつ「レズビアン」に対して《男性(異性)を愛すること》を要求・期待している時点で、けっきょくのところバイセクシズム」とは形を変えた「ヘテロセクシズム」に他ならない。

  • 付言すると「バイセクシズム」が指し示す「バイセクシュアル」とは、あくまでも「ヘテロセクシズム」の政治的イデオロギーに基づいて言わば“超人化”された、観念・表象としてのバイセクシュアル像でしかなく、現実社会を生きる「バイセクシュアル当事者」のエンパワーメントに何ら繋がるものではない。
  • したがって「バイセクシズム」が社会に浸透しつつある状況は、現実の《バイセクシュアル差別》が解消ないし緩和されたということをまったく意味しない。
  • 元より《バイセクシュアル差別》とは、性的指向が変化・流動するというセクシュアリティに対する「差別」ではなく、その変化・流動する先に〈同性(非異性)〉を含んでいることを理由とした「差別」であり、その意味では《同性愛者差別》の延長線上にある。
  • しかしながら、一方で「バイセクシュアル(両性愛者)」が〈同性愛者〉であると同時に〈異性愛者〉としての政治的・社会的立場性を――当人の内面的なアイデンティティや“生きづらさ”などといった問題とは別に――担っていることもまた事実であり(だからこそ上に見た「バイセクシズム」のような形で「ヘテロセクシズム」の差別構造に組み込まれる)、その政治的・社会的特権性について指摘することは《バイセクシュアル差別》の告発・批判を無効化する「バイフォビア」には相当しない。

そして、そのようなバイセクシズム」を具現化するギミックこそが、まさに「百合に挟まる男」の存在なのである。

男性からすれば「レズ(※この場合は女性同士の性行為を指す。文脈上の判断から、あえてこの語を用いる)」を鑑賞しながら「レズビアン」とSEXすることで性欲と優越感を満たすことができ、「レズビアン」はその代償として女性同士で愛し合うことの承認を得る。両者の関係性は、一見するとwin-winに見えるかもしれない。

しかし、それは錯覚だ。女性が女性同士で愛し合うのに、もとより男性からの承認など必要ないからだ。

さらにいえば「レズビアン」だろうが「バイセクシュアル」だろうが、当人の内面的な自認がどうあろうと〈異性〉をパートナーとして選んだ時点で、その人は〈異性愛者〉としての社会的・政治的立場性を獲得し、併せてその社会的・政治的特権性を担うことになる。

そのような人間のありようを無批判に美化する「バイセクシズム」の表現、およびそれを無批判に肯定・称揚する評論は、たんなる表現に留まらず「百合に挟まる男」と同様に現実社会の「差別装置」として機能している。

むろん王谷が「レズビアン当事者」として「バイセクシュアル」を目指したいというのであれば(私の知ったことではないが)それは自分の私生活で実践すれば良い。もっとも「バイセクシュアル(両性愛)」とは《両性を愛する可能性》に“開かれて”いる状態を指すのだから、人が「バイセクシュアル」を“目指したい”と思った時点で(あえて“目指す”までもなく)すでに「バイセクシュアル」に“なっている”のだが。

だが、そのような「バイセクシズム」の価値観を人に押し付けるのは間違いだし、ましてや百合作品にそれを求めるべきでもないだろう。「百合」を《ヘテロセクシズム=バイセクシズム》の道具にしてはならない。

また「レズビアン当事者」である自身の作品において、そのような「バイセクシズム」を表現したならば、それは「非当事者」による「バイセクシズム」の表現と同様に、その差別性・特権性を批判されるべきである。

* * *

ところで、かつて「レズビアン・タレント」という枠組みでマスメディアに登場していたある人物(今はどこで何をしているのかわからない)も《レズビアンは「レズビアンとSEXしたい」という男性の気持ちに寄り添うべきだ》と、私に主張していた。

王谷晶にかぎらずマスメディアに登場するレズビアン・タレント」の類は、ほぼ例外なくと言っていいほど「レズビアン」の非異性指向(※この場合は、レズビアンが男性を性的対象に含めないこと)を声高に否定してみせる傾向がある。

ossie.hatenablog.jp

レズビアン当事者」であっても――否「レズビアン当事者」であるからこそ、ある意味では「非当事者」以上に「レズボフォビア」を内面化し、社会の《レズビアン差別》に過剰適応しようと試みるのだろう。

そう考えると上掲ツイートの「ファック」というマチスモじみた露悪的な物言いも、そのじつ「百合に挟まる男」を許容する社会とどうにか折り合いをつけて、この社会のマジョリティに成り上がらんと虚勢を張っているかのような痛々しさがある。

だが前述のとおり「百合に挟まる男」は、けっしてLGBTと同様に保護されるべきマイノリティなどではなく、社会最大のマジョリティである〈男性異性愛者〉の一派に他ならない。

【彼ら】は「小児性愛者」などと同様に、たしかに〈男性異性愛者〉の中では“少数派”であるかもしれないけれど、その欲望の対象となる「レズビアン女性」に対しては明らかなマジョリティであり、ゆえにその欲望の表明・公言は、それ自体が「レズビアン」に対する非物理的暴力の行使とならざるをえないのだ。

それにもかかかわらず――否、それだからこそ「百合に挟まる男」を自ら許容し、ひいては「レズビアン」との連帯を訴えることは「レズビアン当事者」にとって処世術となりうる。

しかし〈異性〉をパートナーに選ぶ人が必然して〈異性愛者〉としての社会的立場性を獲得し、その特権性から免れないのと同様に、

たとえレズビアン当事者」であっても「百合に挟まる男」と連帯するのであれば、それは「レズビアン」を迫害し、嘲笑する立場に回るということだ。

何が「差別」であるかは「当事者」が決めるという“当事者原理主義”の発想は、裏を返せば「当事者」の“お墨付き”さえ得られれば「差別」を「差別」でなくせてしまうという《差別主義者の論理》を可能にする。

レズビアン当事者」の発言であるからといって無批判に“聖域化”する考え方は、「百合」を“神聖視”する発想と同様に、けっきょくのところ「レズビアン」の存在を体良く社会から隔離する思考の一環にすぎない。