百錬ノ鐵

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「レズビアン」に保守的な《女の幸せ》をお仕着せする『彼女のカノジョ』の“無責任”

(2022年4月21日 加筆修正)

私の帰属する百合マンガの文化において、女性同士の恋愛は、きわめて肯定的ないし自然な事柄として描かれることがとっくに当たり前になっている。

かつては《友達以上恋人未満》にとどまる関係性がもてはやされ、今でもそのような作品が大半を占めるものの、近頃は初めから恋人同士という設定の作品も散見し、順調に多様性と成熟を深めているようだ。

しかし、それはあくまでもオタク・カルチャーの文脈の話だ。世間一般のドラマや映画、文学・文芸においては、未だに同性愛について「禁断」のイメージを脱しきれていないのが実情である。

端的にいって、映画(実写映画)や文芸(ライトノベルを除く)の分野における「レズビアン」の扱いは、大別すると以下の3パターンしか存在しない。

  1. 男とSEXさせられる。
  2. 女性のパートナーを男に寝取られる。
  3. ノンケ(異性愛者=非同性愛者)に片想いして失恋する。

いずれも現実社会でレズビアン当事者が直面する問題であるといえるが、作者が自由に創作できるはずのフィクション作品で、このような「物語」が何の疑問もなく再生産され、21世紀を20年も過ぎた今日に至るまで焼き直され続けているのは、

まさしく作者――多くの場合は非当事者だが、レズビアン当事者が制作に関与する作品とて例外ではない――の側に

男を愛することが《女の幸せ(あるいは成長・成熟)》であるレズビアンは「幸せ」になれない

という異性愛至上主義に基づく「異性愛規範」が根を下ろしているとしか思えない。

若手俳優が活躍できる場所を作る目的で開設された》というYouTubeのドラマチャンネル「僕等の物語」が配信する短編オムニバス『LAST SCENE』の中の1作『彼女のカノジョ』は、まさにそれを地で行く代物である。

この『彼女のカノジョ』は、ウェブニュースのタイトルにもなった主演俳優のレズビアンの男性役難しかった」という「レズビアン」への偏見・誤解に満ちた差別発言(※現在は削除)が主にLGBT当事者の間で問題視され、批判を浴びたことで目にされた方も多いかもしれない。

mantan-web.jp

しかし、ドラマ自体の内容はそれに輪をかけて最悪である。

『LAST SCENE』はカフェを舞台にしたいわゆる会話劇で、『彼女のカノジョ』も女性同士のカップルと、その場にたまたま居合わせた男女カップル、女性のマスターのやりとりのみで構成されている。

ようするに、女性カップルの片割れが男と浮気したあげく妊娠してしまい、その子供を一緒に育てるようにパートナーに迫るという筋書き。これは上掲3パターンの内《1.男とSEXさせられる》《2.女性のパートナーを男に寝取られる》を同時に満たすものである。

当然ながらレズビアンの主人公(これが「男性役」と言われていた方)は、一度の浮気までは許せても、見知らぬ男との間に出来た子供の親になることは拒否する。やがて恋人は立ち去り、主人公はその場に取り残されるが、そこにきて男女カップルが「彼女は、あなたのことが好き」「愛があれば、何でも乗り越えられるよ」と発破をかける。

だが、そのような人生設計に関わる重大な話を、カフェの会話だけで即決するように強いるのは無理がありすぎる。マルチ商法の勧誘じゃあるまいし。

主人公たちの年齢や職業は明らかではないが、まだ大学生くらいのように見える。あるていど社会的な立場や生活基盤が確立され、経済力のある社会人ならまだしも、若いうちに出産・育児という選択を取るのであれば、これから先、あきらめなければならない楽しみや夢もたくさんあるはずだ。

まして現代の日本社会で、同性カップルに対しては、異性愛者と異なり何の法的保障も存在しない。そんな同性カップルの出産・育児に関して男女カップルが口を挟むのも、そのじつマジョリティである異性愛者が依拠する社会的・政治的特権性を自覚しない無責任な態度でしかない。

それでも男女カップルが、このような縁で知り合ったことを機に、主人公たちの子育てをサポートすることを約束するのであれば、まだ救いもある。しかし主人公は、そのまま彼女を追いかけて(飲食代も支払わずに?)店を出て行ってしまい、男女カップルの方は別れ話をする。

むろん「幸せ」の形は人それぞれであるから、たとえ浮気の結果であっても生まれてきた子供を祝福し、育児を通して充実した人生を送る女性カップルも存在するかもしれない。その意味では上述したレズビアンは幸せになれない》という規範には該当しないという見方もあるだろう。現実社会においてもレズビアンが(様々な事情から)男性との結婚を選択する事例は珍しくないし、じっさいコメント欄には当事者からの共感の声もいくつか寄せられている。

しかし問題は、制作者が劇中の無責任な男女カップルと同様にレズビアン」に対して、子供を産んで育てるという保守的な《女の幸せ》をお仕着せしている点にある。

じじつ本作は、妊娠したパートナーの「――だって……一回、男の人とも――その――さ、わかるでしょ?」という言い訳に顕著であるとおり、

たとえレズビアン(非異性愛者)」であっても「女」である以上は「男(異性)」を愛するべきであるという「異性愛規範」を、無批判に追認する内容となっている。

もっとも、これに関しても「恋愛」と「性欲」は“別腹”だという解釈もできよう。しかし、そのような言葉遊びが「異性愛規範」に利用され、「レズビアン(非異性愛者)」に対して「男(異性)」との《生殖》を要求・期待する表現を正当化するのであれば、

けっきょくはこれもまた「恋愛(性愛)」の本質を《生殖》に規定する一方で、《生殖》に結びつかない同性間の「恋愛(性愛)」のありようを周縁化する、異性愛至上主義社会の体制を強化するものとなる。

体制に対する批判が欠如した表現は、たとえ制作者の側に“差別する”意図がなかったとしても、現実社会の《レズビアン差別》を無批判かつ無責任に“追認”するという形で、やはり体制に加担せざるをえないのだ。