百錬ノ鐵

百合魔王オッシー(@herfinalchapter)の公式ブログです。

BL映画『窮鼠はチーズの夢を見る』尾崎世界観のフィルムレビューに残る「違和感」

三吉彩花のグラビア目当てで購入したマガジンハウス「an・an」2020年9月16日号に、今月11日公開のBL映画『窮鼠はチーズの夢を見る』行定勲・監督 水城せとな・原作)の特集記事が掲載されていた。

その中で、クリープハイプのボーカリストで作家の尾崎世界観が「フィルムレビュー」を寄せているのだが――それがなんとも“イタい”代物であった(P.112-113 ※強調・改行は引用者)。 

 男性同士の恋愛と聞けば、多少の違和感を覚える。だからこそ、ちゃんと知りたいと思った。そのために、まずは自分の偏見を隠さず、認めることが必要だった。

そもそもこうやって性について書くことがすでに息苦しい。思いもよらぬところで不適切な言葉が出て、誰かから叩かれるんじゃないかと不安になる。正しい知識は必要だけれど、それ以上に、間違ってしまった人間に厳しすぎるとも思う。多様な性が広く受け入れられることと引き換えに、間違いを許せない世の中になってきているのかもしれない。自分自身を振り返ってみても、やっぱり思い当たる節がある。過去にどれだけ許されてきて今があるのか、そう思って恥ずかしくなった。

知る以上に、許すことも大切なはずだ。だから、「男と男が」という偏見から、正直に始めてみようと思った。

まずのっけから、もう21世紀に入ってから20年も経つというのに「男性同士の恋愛」と聞いただけで《違和感を覚える。》という、ナウなヤングにバカウケの流行歌手(なんでしょ? 名前しか知らんけど)に到底似つかわしくないアナクロな認識に、読者としては「違和感」全開である。

そのような時代の波に乗り遅れた感性を、尾崎自身も自覚しているのか、以下、予防線を張るような言い訳がましい理屈が続く。

しかし「誰かから叩かれるんじゃないか」「間違ってしまった人間に厳しすぎる」などと、その言い分は自己保身に終始しており、身の回りの大切な人、あるいは見ず知らずの誰かを「間違い」によって不用意に傷つけてしまうのではないか、といった配慮が微塵も感じられない。

クリープハイプのファンにゲイは一人もいないのだろうか。ポリコレがどうのという以前に、そのていどの想像力ももてないのは作家として致命的ではないか。

差別発言が問題なのは、それが「間違い」であるだけでなく、人を“差別”する言葉であるからだ。他者に向かう言葉である以上、生身の他者から反応が返ってくるのは自明である。【尾崎世界観】を名乗りながら、その「世界観」のあまりの空疎さ、無味乾燥さに唖然とさせられる。

元より《知る以上に、許すことも大切なはずだ。》などという台詞は、差別発言によって傷つけられた側が、差別発言を真摯に反省し謝罪する人を“許す”場合に用いるものであって――それでも“許すこと”を他人に要求するべきではないし、仮に許したからといって批判してはならないということにもならない――自らの「偏見」を隠そうともせず「正しい知識」を学ぼうともしない差別者の側が口にしていいことではない。

それにしても、この「偏見」を“隠さず”にむしろ積極的に口に出したほうがいいというのは、差別者がしばしば好んで用いる屁理屈だが、翻ってそのような差別発言に対する批判については「厳しすぎる」「許すことも大切」などと沈黙を強いている。そも尾崎が「世の中」に求める議論の条件は、かくのごとく差別者の側にだけ一方的に都合の良いアンフェアなものであり、これではけっきょくのところヘイトスピーチを野放しにしろと言っているに等しい。

上掲の、自分に酔いまくった気色の悪い文面が何よりも姑息なのは、自らの差別意識を他者から批判されることを過剰におそれる一方、その言葉が他者を傷つけているという事実から都合良く目を背けることで、他者を傷つけておきながらむしろ自分こそが「被害者」で批判する他者は「加害者」なのだ、という倒錯した被害者意識をアピールすると同時に、それについて寄せられるであろう他者からの批判をもあらかじめ退けているところだ。さらに尾崎の場合はミュージシャンという立場からそれを発することで、自身を無条件に擁護するであろう年若いファンたちの同情・共感を言外に要求している。

そも今の「世の中」が《間違ってしまった人間に厳しすぎる》などと、差別者である尾崎の主観にすぎないことを既成事実のごとく前提化して勝手に話を進めているのだから、話にならない。実際は、たんに馬鹿が馬鹿ゆえに自分の馬鹿さ加減に気づかず公衆の面前で考えなしに馬鹿なことを言って大人たちから叱られているというだけの話なのに、なんとも大仰な「世界観」である。

あまつさえ尾崎は《多様な性が広く受け入れられること》《間違いを許せない世の中になってきている》ことが「引き換え」であるなどとうそぶく。これもまた、マイノリティが社会的認知を求めることでマジョリティが息苦しくなるという、まさにマジョリティ目線の差別意識に根ざした「世界観」如実に表している。

たかが娯楽映画のフワフワとした感想文であろうと、これはまぎれもなく《差別主義者の論理》を踏襲した「ヘイトスピーチそのものというほかない。

おそらく私のこの批判こそ、尾崎にとっては《思いもよらぬところで不適切な言葉が出て、誰かから叩かれるんじゃないか》という「不安」を実現するものであろう。私の言葉を尾崎がどのように捉えようと、それは尾崎自身の問題だ。尾崎が映画を観てフィルムレビューと称する「ヘイトスピーチを垂れ流すのであれば、私はそれを読んで言いたいことをいう。そこに加害者/被害者の関係性は発生しないはずだ。

 優柔不断な恭一にも、振りまわされてばかりの今ヶ瀬にも、腹を立てながら観た。でも、そこに共感もした。この2人も、許そうとしたり許されようとしながら、必死でもがいているように見えたからだ。何より、相手を身体的に受け入れるということ。許す側と許される側がつながる瞬間、そこにもまで違和感があった。ベッドの中から聞こえてくる生々しい音に、どうしても体が強張る。「男と男だろ」と凝り固まった思考が、恭一と今ヶ瀬の体と一緒になって揺れていた。

(中略)

 自分がバンドで曲を作る際、女性目線で歌詞を書くことも少なくない。そんなときはいつも、自分の弱さを女性に託している。自分の体と切り離して言葉を書きたいという気持ちを、精神的な限界を超えて、女性になら託してしまえる。そんな無責任な甘えと図々しさを、曲にして歌う。もしかしたら、男性と男性の恋愛に女性が興味を持つ理由もこれに近いのかもしれない。自分の体と切り離して恋愛を見たいという気持ちを、肉体の限界を超えて、男性になら託してしまえる。

 それでも、どうしても、切っても切れないものが残る映画だった。

 受け入れることを許す。許されることを受け入れる。そんな2人のつながりは、悲しくて綺麗だった。

男同士の痴話喧嘩といった個人間の問題と、尾崎世界観自身の差別発言に対する社会的責任という異次元の問題を“許す/許さない”という論点に摩り替えることで同一視するという、かなりの荒業を試みている(そして見事に失敗している)。

だが、じつのところ映画は話の枕でしかなく、レビュアーである尾崎自身の「自分語り」に収斂してしまう。

さらにそこへ、作詞の《女性目線》というこれまた見当外れの論点が提示される。男性同士の恋愛がテーマの映画のレビューにしては唐突で、いまひとつ文意が掴みにくいのだけれど、ようはゲイは“心が女”であるといった「偏見」を無自覚に露呈したものであろうか。

ファンタジーのBL映画を観て現実のゲイについて「正しい知識」が得られるはずがないし、そのような役割を担わせるべきでもない。それでも尾崎世界観が『窮鼠はチーズの夢を見る』の鑑賞を通して何も学ばず、自己の卑小な、凝り固まった「世界観」の中で耳を塞いている様子は伝わってくる。

  • ちなみに同誌では、稲垣吾郎が自身の連載コラム『シネマナビ!』において、草彅剛主演のトランスジェンダー映画『ミッドナイトスワン』内田英治・監督/脚本)を取り上げている(P.123)。そちらは《今の世の中、トランスジェンダーを含めLGBTQに関する問題をよく耳にしますが、本当に、人と人とが共生していけたらと思う。実際のそういう方々の感想も聞いてみたくなりますね。》というもので、どちらがより開かれた「世界観」であるかは一目瞭然だろう。

* * *

それにしても。こうしてBLや百合がメディアで取り上げられるたびに「評論の形を借りたヘイトスピーチ(=評者によるホモフォビアの無自覚な表出 ※しばしば演者ないし制作者自身が評者を兼ねる)」が付いて回るの、もういい加減どうにかなりませんかね?

……というわけで、以下は百合映画の事例:

ossie.hatenablog.jp