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“一粒で二度美味しい”レズボフォビア産業のマッチポンプ~自称「LGBTQアライ」水原希子の場合 #TRP2021 #おうちでプライド2021

(2022年4月3日 加筆修正)

4月15日、レズビアン作家・中村珍の百合漫画『羣青』を原案としたNetflix限定配信の映画『彼女』(廣木隆一・監督)が公開され、レズビアンへの偏見を助長する陳腐かつ差別的な内容が酷評を浴びる中、

レズビアンの役を演じた俳優でファッションモデルの水原希子もまた、6年前にTBS系列『ニンゲン観察バラエティ モニタリングSP』でレズビアンをネタにした“ドッキリ”に加わったことで、さらなる批判を受けている。

当時のニュース記事はこちら(※強調は引用者):

水原希子、迫真の"百合演技"披露! リアルすぎて視聴者大興奮(aiba)|MEN'S CYZO

https://archive.is/3GQZG

(前略)水原は「芸能人の見られたくない秘密を見てしまったら...」と題された検証VTRに、"秘密を持つ芸能人"として登場。NHKのアニメ『おしりかじり虫』などに出演し、オーバーなリアクションでバラエティにもたびたび顔を出す声優の金田朋子(42)を相手に、"実は女性マネジャーとデキている"というスキャンダラスな設定に挑戦した。(中略)

 ニセ番組の収録で呼ばれた金田が楽屋に入るなり、水原はニセ女性マネジャーに後ろから甘えた声で抱きつき、ためらいなく頬にキスをする。まさかの現場を目撃した金田は、いつものハイテンションから一転して、唖然とした表情を浮かべたまま固まってしまった。そして女性マネジャーとの関係を見られた水原は、さっそく金田の元に歩み寄り「秘密にしてほしい」と懇願する。金田は静かにうなずいたが、半ばパニック状態のようで、目をパチクリさせながら立ち尽くすのだった。

 さらに水原は、金田の目の前でマネジャーに執拗に抱きついたり、「最近全然デートできないじゃん」と甘えた仕草を見せる。その姿はまさに"本物"といった感じで、VTRを鑑賞していたスタジオからも「めっちゃリアル!」との声が。視聴者も興奮したようで、ネット上には、「まさかの百合展開!」「こんなキレイな人に言い寄られたら女性の私でも落ちちゃう」「レズビアンにハマりすぎ」「マネジャーと芸能人の禁断の恋...。そういう漫画みたい...」などのコメントが相次ぐこととなった。

 アメリカ人の父と韓国人の母を持つ水原の、彫が深いながらもアジア系美人を思わせる顔立ちと、黒髪のショートボブから漂うクールな雰囲気が、レズビアンを題材にした百合小説や漫画に登場する独特なキャラクターを彷彿とさせたのかもしれない。(中略)

 女性マネジャーと親密なボディタッチを繰り返す水原に、金田は最後までダマされ続けた。かなり信じきっていた金田は、ドッキリだと明かされた瞬間に思わず涙ぐんでしまうほど。そして少々混乱しながら「男の人好き?」とポツリ。それを聞いた水原は「だーい好き!」と即答し、検証VTRは幕を閉じるのだった。(後略)

上掲記事にはタイトルから本文に至るまで「百合」という語彙が用いられており――加えてミックスルーツの女性に対するセクシズム・レイシズムルッキズムも見逃せない――本稿でも便宜上「百合営業」という言葉を用いているけれど、

以前に当ブログで取り上げたとおり、私自身は一概に「百合営業」自体が差別的であるとは考えていない。また、そうした「百合営業」の是非と、映画やドラマなどの創作物で異性愛者女性の俳優が「レズビアン」のキャラクターを演じることも区別されるべきであろう。

クィア・ベイティングと「百合営業」と野島伸司 #百合だのかんだの #百合 - 百錬ノ鐵

しかし「百合営業」が「レズビアン」に対する偏見・蔑視を煽動する「レズネタ」と化している場合には、当然ながら《レズビアン差別》の表現として批判されるべきとも考える。

問題視された「ドッキリ」の企画は、「同性愛者」であるレズビアンを非当事者(異性愛者)の出演者および制作者がジョークの「ネタ」として面白おかしく扱ったこと(レズネタ)自体の差別性もさることながら、

それ以上に「男の人 だーい好き!」と声高に宣言してみせたことで「非異性愛者」であるレズビアンに対する、異性愛者である水原希子自身の社会的・政治的特権性を誇示するものであり、

まさしく異性愛至上主義に根ざした、まごうかたなきレズボフォビア(レズビアン嫌悪・蔑視)の「ヘイトスピーチ(差別煽動表現)」と断言できる。

6年前の出来事を今になって蒸し返すのか、といった声もあるようだが、放映当時も問題視するレズビアン当事者は存在していた。それが今回のような“炎上”に結びつかなかったのは、ひとえに世間の「レズビアン」および《レズビアン差別》に対する無関心の表れに他ならない。

げんに私自身も、その前年に開催された「関西クィア映画祭」の宣言文において「レズビアン」に対するヘイトスピーチが行われた事実を告発したが、何の反響も得られず、実行委員会に対する謝罪・撤回・総括の要求も突っぱねられた。

「関西クィア映画祭2014」問題 まとめ - 百錬ノ鐵

さて、そうした最悪のタイミングの4月24日、水原は「東京レインボープライド2021」に「LGBTアライ」としてゲスト出演。未だ終息の気配が見えない新型コロナウィルス感染拡大の影響でオンラインのみの開催となった同イベントのネット配信中に、当該番組のレズビアン差別的な演出について「反省」の弁を述べた。

「当たり前に差別的なことをしてしまった」6年前のドッキリ企画。水原希子さんが今視聴者に伝えたい思い(伊吹早織)|BuzzFeed
https://www.buzzfeed.com/jp/saoriibuki/trp2021-kiko-mizuhara

水原希子さん「無神経すぎた」 同性愛ドッキリの番組企画に出演の過去、反省語る(國崎万智)|HUFFPOST
https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_6083e8abe4b003896e043f63

こうした水原に対する受け止め方は、レズビアン当事者の間でも様々だ。過去の差別的振る舞いを素直に認めたのは誠実で勇気ある発言と評価する向きもある一方、

これまで水原が《昨年の東京レインボープライドにも参加し、2019年にはNetflixの人気番組「クィア・アイin Japan!」に出演するなど、LGBTQコミュニティを支援する「アライ」としての立場を表明して》きたにも関わらず、

今回指摘されるまで6年もの間、謝罪の意を“表明”してこなかったという不誠実な態度や、マイノリティの祭典がマジョリティの“禊”に利用されることに違和感を拭えないのもたしかである。

とくに私が気になったのは《これは私がしてしまったことだし、文章にするのも嫌だなと思っていて、何か面と向かって伝えたいなとずっと感じていたことなんですけど。》という件だ。

水原は当世の芸能人らしくTwitterInstagram、ブログ(※こちらは何年も放置されている)といったSNSを駆使しているけれど、

《文章にするのも嫌》とあるように、そうした「反省」の弁を、より多くの人の目に留まるSNSで表明するということは、ついぞなかった。

テレビの視聴率は、たった1%でも100万人以上に相当するとされている(もっとも、これをもって100万人以上が“視た”とはいえないという説もあり)。

それに較べて、何時間にも亘るネット配信を観ている人の数など微々たるものと言わざるをえない。

またWebニュースに関しても、上掲の「BuzzFeed」「HUFFPOST」といった“意識が高い”左派・リベラル層に特化したニュースサイトでは、その影響力も高が知れている(Yahoo!ニュースなどにも転載されてはいるが、一定の掲載期間が過ぎると削除されてしまう)。

そこをいくと、仮に水原がSNSで自らの「反省」の弁を“文章にした”ならば、それを「モデルプレス」のような一般大衆向けの芸能サイトがこぞって取り上げる事態となるだろう。

水原が過去の差別的振る舞いについての「反省」を《文章にするのも嫌》と考える理由は不明だが、

そうした薄っぺらな言葉の上で「当事者」に謝罪したことにより“禊”を済ませた気でいるなら、思い違いをしているとしか言い様がない。謝罪・反省は、それ自体がゴールではなく、あくまでも出発点にすぎず、その後に何を成し遂げていくかが重要であるからだ。

しかしそのための手段として、「アライ」でござい、などとマイノリティのイベントにしゃしゃり出て“意識お高い”アピールに勤しむ行為が適切であるとは、私にはとても思えない。

そして何よりも問題なのは、こうした水原の「反省」を受け容れることができないレズビアン当事者が「反省しているのだから許すべきだ」「誰にだって間違いはあるし、人の心は変わるものだ」「6年も前の過ちをいつまでも批判されるなんて不寛容で息苦しい」として攻撃される“二次加害”が発生している事態である。

水原が、本当の意味でLGBTQを支援しているつもりなのであれば、

売名目的の「アライ」気取りだとかサルでもできる「反省」ばかりでなく、そのような「レズビアン差別主義者」たちに対して毅然とNOを突きつけるべきではないか?

元より、過去の差別的振る舞いについて“許す”ことと、それを批判し続けることは両立する。否、水原が“本当の意味で”反省しているというなら、むしろ自らが過去の差別的振る舞いについて、具体的にどこがどう“差別的”であったかを自己批判すべきであろう。

あるいは、過去の差別的振る舞いについて誰かが“許す”ことで、それから先はもう二度と誰も批判することが許されなくなるというのであれば、差別的振る舞いについて“許す”こともできなくなる。「差別」を“許す”ことより、「差別」を批判することのほうが、よっぽど有意義であるからだ。 

なお例によって「6年も前の発言なのだから仕方がない」と擁護する意見もあるが、

2015年といえば「LGBT」「セクシュアル・マイノリティ」といった用語がすっかり人口に膾炙した時期であり、また水原自身も当時24歳のいい大人だったのだから、若さゆえの無知や稚気を言い訳にするのは無理がある。

しかるに《映画の宣伝でその番組に出させていただい》たという事情から、不本意ながらどうしても当該の企画(ドッキリ百合営業)を断ることができなかったというのであれば、同じ理由で、今後ふたたび同じ企画を要求されたとしても水原は断ることができないということになる。そも当人が「正直なところ、そこ(企画内容)に対する違和感は、当時の自分にはなかったかなと思います」と述懐しているのだから、どのみちそのような情状酌量の余地も成り立たない。

ともあれ、いずれにせよ水原が今回の一件で“株を上げた”ことは事実であろう。謝罪・反省も、しないよりはしたほうがいいに決まっている(その点では、少なくとも「関西クィア映画祭」よりはるかにマシだ)。

しかし、それをいうなら、そもそも差別的な振る舞いをしないのが、いちばんいいはずだ。にもかかわらず、差別的振る舞いを“謝罪・反省”することで絶賛を浴びるなら、けっきょくのところ差別的振る舞いをするほうが「得」だということになってしまう。

人の心は変化していくものだ、と云う。しかし、そのようなマジョリティの自己啓発セミナーじみた“学び”だの“気づき”だの“感謝”だののために、いちいちマイノリティが踏みつけにされたのでは、たまったものではない。

まして水原の場合は、人の心が変化したというよりも、異性愛者女性の「百合営業(レズネタ)」が、時代の趨勢を受けて「アライ営業」に“鞍替え”しただけであり、レズビアンを「ネタ」にして金儲けしているという点で、やはり本質的には何も“変わっていない”のではないだろうか?

その点について《これまではレズビアンを皆と一緒に指差して笑い者にして金儲けしてきたけど、これからはレズビアンに理解あるアライとして儲けるということか》と喝破したレズビアン当事者のつぶやきを目にしたが、まさに言い得て妙であろう。

言い換えるなら水原は、レズビアンに対する差別・偏見を煽動する「レズネタ(ドッキリ百合営業)」で世間の人気を集めながら、

後にそれを殊勝に謝罪・反省する素振りを見せることで、さらに世間の人気を集めるという“マッチポンプに成功した。むろん水原が、予めそこまで計算して動いていたとは考えにくいけれど、それが一連の流れで起こったことのすべてだ。

このような“一粒で二度美味しい”レズボフォビアの醜悪かつ巧妙な二重構造は、まさしく「レズボフォビア産業」と呼ぶに相応しいものだ。