百錬ノ鐵

百合魔王オッシー(@herfinalchapter)の公式ブログです。

【前編】まさに「クィア・ベイティング」の見本のような『琴崎さんがみてる』は異性愛至上主義の下に「百合」を貶める“男尊女卑”ラブコメディだ! #琴崎さんがみてる

YouTubeで公開されていた百合アニメ『琴崎さんがみてる』が、その小説化にあたり、

「百合」を趣味とする女性の主人公から、その女性キャラクターに恋愛感情を抱く男性を主人公に変更したことで、

作品の世界観を根底から覆す結果となり、百合コンテンツのユーザーからの猛烈な批判に晒されている。

もっとも【琴崎さん】こと【琴崎イリア】は、作品の中で元々「レズビアン(女性同性愛者)」と明言されていたわけではない。

しかし、一方でレズビアン“ではない”とも明言されない。その上で《女性同士の恋愛を愛でる女性》という属性を付加したことで、自身もまた「レズビアン(女性同性愛者)」と解釈可能であるかのように“匂わせ”ている。

このようにして、レズビアン異性愛者女性を、あたかも「レズビアン」であるかのごとく見せかけることで世間の注目を集める手法クィア・ベイティング(queerbating)」と呼び、

さながら『琴崎さんがみてる』は(用例として事典に載せてもいいくらい)その悪しき見本と言える事例だ。

ossie.hatenablog.jpさて、こうした“炎上”を受け、作品の原作者(原案者)である弘前龍(@ryu_hirosaki_17が、百合情報サイト『百合ナビ』および自身のTwitter上で釈明を行った。yurinavi.com

YouTube版は、小説版から見るとプロローグ(1年前の話)になるような位置づけで制作しました。まだ公開されていないYouTube版5話でいくつか新しい設定を明かし、小説版へ繋げる予定でしたが情報公開の順番が前後してしまい、小説版のあらすじのほうが先に世に出てしまった結果、想定外の反響をいただいてしまった、という次第でございます。

とはいえ、YouTube版と小説版の設定がまったくの別物に見えてしまい、大きな混乱を招いてしまったのは事実です。YouTube版5話の公開時期調整も含め、もっと丁寧な導線を引くべきだったと反省しています。

それでは、上掲記事の直後に公開されたYouTube版の第5話(最終回)を観てみよう。

www.youtube.com

(【琴崎イリア】の台詞を抜粋)

そして語り部の役を担うのは/わたくし一人ではございません/実は・・・来年の春/わたくしの幼なじみが/百合の花の美しさを語り合う同志が/この猫丘学園に入学してくるのですわ/ご入学おめでとうございます/さぁ! 心ゆくまで語り合いましょう/ここは……尊き百合の花々が咲き誇るわたくしたちの楽園なのですから/今そう遠くない未来が見えたような気がいたします/ともに語り合い/切磋琢磨できる同志がいるならば/わたくしもさらなる高みへと/昇ることができるはず・・・

この期に及んでも【琴崎さん】の言う「幼なじみ」「百合の花の美しさを語り合う同志」が男性である事実は明かされていない。よって原作者のいう「導線」にもなっていない。問題の小説版に先んじてYouTube版5話」を公開していたとしても“炎上”は避けられなかったであろう(しかし、騒動を機に初めて観たが「百合」に男が混ざる云々を抜きにしても冗漫で退屈極まりないアニメである)。

次に、原作者・弘前龍のTwitter上の“釈明”を引用する。

(以下、連投ツイートを整理。強調は引用者。)

記事にもあるとおり、小説版の主人公を男性にしたことは、編集部の意向ではなく私自身の意向です。

企画初期からYouTube版と小説版をセットで構想しており、YouTube版は「百合好きのお嬢様が1人で語る」作品、小説版は「百合好きのお嬢様と百合男子が語り合う」作品にしたいと考えていました。

この「百合好きのお嬢様と百合男子」というコンセプトが百合ファンの皆様に上手く伝わらず、大きな誤解を招いてしまった気がします。

なので、そもそも弘前龍とは百合を語るに足る人物なのか、どうやってこの発想に至ったのか、補足説明あるいは自分語りをさせてください。

と言いつつ、ヘテロの話から始まるのですが……

約10年前、私は「けいおん!」のムギちゃんにガチ恋をしていました。 ムギちゃんの隣で、唯が梓に抱きつく様子を眺めている「俺」の姿をいつも妄想していました。

そして、そんな妄想こそが「琴崎さんがみてる」の原点となりました。

けいおん!」は当時、多くの一般人を百合の沼に引きずり込んだ作品です。 私もその一人で、唯梓、澪律、和憂がジャスティスでした。

彼女たちの日常をいつまでも見守っていたい、と思う一方で……

私は、ムギちゃんへの想いだけが、他と性質の違うものであることに気づきます。

ムギちゃんと結婚したい。

その気持ちを自覚した瞬間、私は大きな矛盾に直面しました。

壁や観葉植物やスッポンモドキではなく「俺」として「けいおん!」の世界に存在したいと願っている。

そんな輩には、百合男子を名乗る資格がないのではないか?

百合を愛する気持ちも、決して嘘ではないのです。

澪と律の間に挟まりたい訳ではなく、ほんの少し離れた場所で、2人の会話を聞かせてほしいのです。

漫才のような会話の中に幼馴染カップルならではの深い絆を発見した瞬間の歓びは、間違いなく本物でした。

その歓びを一人で噛みしめるのも悪くありません。

しかし、その瞬間、きっとムギちゃんも同じ歓びを抱いている…… 私は、ムギちゃんと二人で、澪律の尊さを語り合いたいと願ってしまったのです。

それは世界に「俺」を介入させる行為であり、当時の過激派に殺されてもおかしくない思想でした。

宗派によっては、自己をムギちゃんに投影する、自分がムギちゃんだと思い込む、というアプローチを取る人もいました。

「俺」の介入と比べたら、遥かに穏当な解決手段だと思います。

しかし、私はムギちゃんになることができませんでした。

何度考え直しても私は「俺」だったのです。

『ねえ聞いて! さっき、唯ちゃんが梓ちゃんに……』

嬉しそうに語るムギちゃんの笑顔を思い浮かべるとき……

こには、聞き手としての「俺」が存在していました。

「俺」がいなければ、ムギちゃんは誰と唯梓を語ればいいのでしょうか?

※まだ菫が登場していなかった頃の話です。

こうした葛藤を抱えたまま、月日は流れていきました。

劇場版の公開も続編漫画の連載も終わり「けいおん!」は少しずつ思い出に変わっていきました。

同時に、百合作品の多様化が進み「捏造トラップ」など革命的な作品も現れるようになっていきました。

今なら、当時の葛藤を、ひとつの作品に昇華できるかもしれない。

2019年「けいおん!」アニメ放送10周年を祝いながら、私は「琴崎さんがみてる」の原型となる企画書を作りました。

「百合好きのお嬢様と百合男子」というコンセプトは、約10年にわたる私の想いが結実したものです。

それから約2年。

五十嵐雄策さん、佐倉おりこさん、福原香織さん、他にも大勢の方々にご協力いただきながら「琴崎さんがみてる」プロジェクトは進展を続けてきました。

いよいよ小説版の発売という節目を迎える直前、予期せぬ形で世間をお騒がせてしまい、私自身、困惑しておりました。

今回の騒動でネガティブな誤解が広まってしまったのは、私の説明不足が原因だったと反省しています。

ご心配をおかけした関係各位にお詫び申し上げるとともに、説明の機会をくださった百合ナビ様に厚く御礼申し上げます。

そして、百合ファンの皆様に私の真意が伝わることを願っております。

女性キャラクターである【ムギちゃん】と男性である弘前が「百合」を語り合うのに、わざわざ“結婚”をする必要はないだろう。

こうした弘前の思い込みは《男女間の「友情」は成立しない》という異性愛至上主義の固定観念に囚われたものである。なぜそれが異性愛至上主義であるかというと、それは元来、女同士(あるいは男同士)の「恋愛」は成立しないという信念と表裏一体であるからだ。

そして何より、弘前の個人的かつ身勝手な性癖の問題が「俺」がいなければ、ムギちゃんは誰と唯梓を語ればいいのでしょうか?》などと、いつのまにか【ムギちゃん】の心情を斟酌して思いやるかのような態度に転嫁されている。

性加害者特有の強固な思い込みと認知の歪みに根ざした、ありていにいって、じつに気色の悪い文面である。

自身の卑しい性欲を満たすにあたって【ムギちゃん】を必要としているのは、他ならぬ弘前であり、【ムギちゃん】の側は作品世界の外側にいる弘前の存在など必要としていない。【ムギちゃん】は弘前の存在とは関係なく、ただ純粋に「百合萌え」という自身のセクシュアリティを楽しんでいるだけである。

それにもかかわらず、異性愛者である【ムギちゃん】には男性(異性)である自分が必要だと決めつける勝手な思い込みは、

まさに《女は男を愛するべきである》《男を愛することが女の成熟である》という異性愛至上主義・男尊女卑の発露に他ならない。

繰り返すが【琴咲さん】も【ムギちゃん】も作品の中で「レズビアン」と規定されているわけではない。

しかし、そもレズビアン」でなければ男性を愛せるはずだ・愛するべきだ、という思い込み自体が、まさに異性愛至上主義の最たるものではないのか。

そして【琴咲さん】や【ムギちゃん】が実際に「レズビアン」であろうとなかろうと、《女は男を愛するべきである》《男を愛することが女の成熟である》という異性愛至上主義・男尊女卑にもとづいて男性との恋愛やSEXを要求・期待するのであれば、そのような行為は必然して《レズビアン差別》として機能するのだ。

弘前澪と律の間に挟まりたい訳ではなくと弁明するが、どのように言い繕ったところで、そのようなレズビアン差別》に依拠する男の欲望は、所詮「百合に挟まりたい男」の亜種でしかない。

まして言うまでもなく、それは「男の百合萌え(百合に“萌える”男)」とはまったく別次元の問題だ。

こうした原作者・弘前龍の、何の説得力もない、冗長な“釈明”に対しても、当然のことながら多くの反論が寄せられているが、

一方で「嫌なら読むな」「読んでから批判しろ」といった、作者のシンパないし百合アンチからの皮相な“混ぜっ返し(反論ですらない)”も散見する。

しかし、公式サイトに掲載されている「試し読み」を読んだ時点で、

小説版『琴崎さんがみてる』が、異性愛至上主義と男尊女卑に根ざした、救いようのない駄作である事実はすでに明白なのだ。

(中編・上に続く)