百錬ノ鐵

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【中編・上】まさに「クィア・ベイティング」の見本のような『琴崎さんがみてる』は異性愛至上主義の下に「百合」を貶める“男尊女卑”ラブコメディだ! #琴崎さんがみてる

あらためて説明すると『琴崎さんがみてる』とは、

名門女子校に通うお嬢様キャラの【琴崎イリア】が、校内の女性カップルを見て百合妄想に耽るというという「メタ百合」とも呼べる構造のアニメ作品(※ただし声優が声を当てているものの静止画なので「漫画」と見なす解釈もあり)である。

YouTubeで全5話が公開された後、2021年10月8日にKADOKAWAライトノベル部門「電撃文庫」からライトノベル版が発売された(なお原作者は弘前龍だが、実際に小説を執筆したのは五十嵐雄策という作家)。

ところが――そのサブタイトルは『俺の隣で百合カップルを観察する限界お嬢様』

作品の舞台は女子校から共学へと移り、

さらには主人公が女性キャラクターの【琴崎入愛(※小説化に伴って「イリア」から改名)】から、その【琴崎さん】に恋愛感情を寄せる男性異性愛者【新堂瑛人】に変更となった。加えて、男性キャラクターは主人公ただ一人という、いわゆる学園ハーレム物の御都合主義的な設定をそのまま踏襲したシチュエーションである。

「メタ百合作品」であったYouTube版から一転して「百合」の世界観(女性同性愛)とは真逆である、異性愛を主軸とした男女物のラブコメディへの路線変更。あまつさえ自身も「百合キャラ」であったヒロインの【琴崎さん】までもが、男性(異性)である主人公と恋愛関係(異性愛)に陥るという。

こうした“改悪”としか言い様がない改変に対して、心ある百合コンテンツのユーザーたちは一斉に「NO」を突きつけ、小説版『琴崎さんがみてる』は発売前から“炎上”の憂き目に遭った。さらには原作者の弘前龍が『百合ナビ』および自身のTwitter上で行った“釈明”も、その無自覚の異性愛至上主義に根ざした差別的かつ独善的な発言によって、かえって火に油を注ぐ格好となった。

ただ、発売前の“炎上”という事態から、そうした背景を理解しない部外者からは「まだ読んでもいないのに批判するのは如何なものか?」というお決まりの物言いがついたのも事実である。

しかし発売前であっても、電撃文庫の公式ページで「試し読み」を閲覧することが可能だ。

作品の冒頭部分(プロローグと第1話)が無料で公開されているが、

その時点ですでに小説版『琴崎さんがみてる』が、異性愛至上主義と男尊女卑に根ざしたまごうかたなき愚作である事実は、すでに明白である。

dengekibunko.jp

マリア様がみてる』におけるひびき玲音に象徴されるとおり、ライトノベルという表現様式において、イラスト(挿絵)はたんなるおまけではなく、文章と同等のプライオリティを占める。

また原作者の弘前龍は『百合ナビ』のインタビューの中で、小説版『琴咲さんがみてる』を通して《「百合作品を男女ハーレム作品にする」という目的ではなく》《百合に触れたことがないライトノベル読者にも、百合の素晴らしさを届けたい》といった「想い」を述べている。

だが、作品冒頭に掲載されている3枚の扉絵の内、女性キャラクター同士がよくわからない会話をしている1枚を除けば、残りの2枚は【琴崎さん】を含む2名の異なる女性キャラクターがそれぞれ男性主人公に迫るというもの。これらは、それこそ「男女ハーレム作品」にありがちな意匠であり「百合の素晴らしさ」は何一つ伝わってこない。

のっけからして嫌な予感しかないが、本文も推して知るべしである。

(※以下「試し読み」から抜粋。強調は引用者)

 と、いつのまに買っていたのかお茶のペットボトルを差し出してきてくれた。

「喉が渇いたかと思いまして。百合花茶、お好きでしたよね?」

「覚えててくれたんだ」

「それはもう、瑛人さんの好物ですもの」

「そっか……あ、ちょっとそっちも貸して」

「?」

「はい、琴崎さん」

 自分の分に加え、琴崎さんの分のペットボトルのフタを開けて彼女へと戻す。

 琴崎さんがちょっと驚いたような、だけど嬉しそうな顔をした。

「ありがとうございます。わたくし、いまだに一人ではフタを開けられなくて。やっぱり男の子なんですね

【琴崎さん】は女性であるがゆえに握力が弱く、ペットボトルのフタすら自分で開けられないのだという。

――しかし、だとしたら【瑛人】が入学してくるまではどうしていたのだろうか?

ちょっと考えればすぐにおかしいとわかる不自然な人物造形だが、

ようするにこれは女性の非力さを強調することで、男性である主人公の存在意義をさりげなくアピールするという、あざとい演出なのだ。

  • じじつ、この箇所にはわざわざ挿絵まで付けられており、作者としては余程読者に印象付けたかったシーンであることがうかがえる。

その根底にあるのは、女性は男性に依存せざるをえないという男性作家の女性蔑視・男尊女卑の意識であり、

そしてそれこそが、男性を必要としない女性同士の恋愛を、男女間の異性愛よりも本質的に劣るものと位置づけ、ひいては女性同士の恋愛に対する男性の介入を正当化する《レズビアン差別》の論拠となっていることは、言うまでもないだろう。

(なお、ペットボトルのフタを開ける器具(オープナー)は、100円ショップで売っている。男性作家の男尊女卑的な意識は、同時に男性の存在意義をも消費税込110円以下に貶めているのである)

torasantei.com

ここで『百合ナビ』における原作者・弘前龍のインタビューから引用する。

YouTube版では語り部的な立ち位置の琴崎さんでしたが、小説版では琴崎さんの男性に対するトラウマをはじめとした暗い過去などにも触れており、一人の人間として深く掘り下げる内容となっております。

・小説版の主人公は男性ですが、百合を愛する同志として、ただ一人、琴崎さんの傍にいることを例外的に許された存在です。

つまり【琴崎さん】は「男性に対するトラウマ」があるから、女性同士の甘美な「百合」の世界に逃避しているという設定であるらしい。

だが女性の「百合萌え」を、男性からの逃避などといった不純かつ不健全な動機にこじつける短絡的な発想は、

これもまた《男が嫌いだから「レズ」に“走る”のだ》というレズボフォビア言説の焼き直しにすぎない。

そしてこれも同様に「男嫌い」の“治療”“克服”と称して、非異性愛者(※「レズビアン」であるとはかぎらない)の女性に男性(異性)との恋愛やSEXを強要する、男性異性愛者向けポルノの定石をなぞったものである。

しかし、引用は前後するけれど、「男性に対するトラウマ」をもつとされる【琴崎さん】が、どういうわけだか男性である主人公に対しては、出会い頭に乳房を押しつけるといった過剰なスキンシップを厭わない。

「お久しぶりですね、瑛人さん。お会いしたかったですわ……!」

「!」

 彼女はそう言うと、俺の頭を包み込むようにがばっと抱きしめてきた。

 柔らかな感触とともにびっくりするくらいいい匂いがふわりと漂う。

 変わっていない。昔からの彼女の、親愛の情を示す時の行動だ。

「ふふ、四年ぶりだというのにぜんぜん変わっていませんのね。瑛人さんの抱き心地がいたしますわ」 

これでは、【琴崎さん】は百合好き女子というより、たんなる男好きの痴女ではないか。何より「男性に対するトラウマ」をもつという設定と完全に矛盾している。初っ端から人物造形がブレブレで、わけがわからない。

(なお、作品全体を通して【琴崎さん】がこのようなスキンシップを行う相手は男性である主人公のみであり、女性キャラクターとこのような関係性になることは一切ない)

そうそう、痴女と言えば、本作には【琴崎さん】とは別に、男性主人公に唐突かつ明け透けに肉体関係(!?)を迫るビッチ系ギャル【獅子内マナ】が登場する。前述の扉絵に登場した女性キャラクターの片方だ。

以下に【マナ】のセリフを抜粋する:

(えー、エイトにはなくてもあたしにはあるし。ていうか男子の匂いで/ちょっとスイッチ入っちゃったかも

(ほらほら、もっとくっつけていい的な? なんなら触ったりめくったり/ハグしてくれてもぜんぜん/オッケーっていうか、むしろウェルカム?

「それで知ってるとか知らないとかの話だけどさ、そんなのどうでもよくない? 知らないならこれから知っていけばいいだけじゃん。付き合えばどうせ隅から隅まで色んなところを全部知ることになるんだし

「あはは、ウケるなにそれ。マジでヤバいんだけど。てかそんな難しく考えなくていいじゃん。一度しかない人生、とりあえずヤッたもん勝ちっしょ。何ならカラダだけの関係でもいいし

男性主人公【新堂瑛人】のキャラクター造形に関して、作者は『百合ナビ』のインタビューで《「百合を愛する観察者は、自分が当事者になってはいけない」つまり「琴崎さんを好きになってはいけない」と苦悩します。自分自身が男であることに起因する「肉欲」への忌避感や罪悪感》を抱えた人物と説明する。またそれゆえに『琴崎さんがみてる』は男性を主人公としながら「男女ハーレム作品」とはならないのだという。

たしかに【瑛人】は【琴崎さん】に対しても【マナ】に対しても、男性の立場から女性には積極的にアプローチすることなく受け身に徹しているようだ。

しかし、そのようにして受け身の男性主人公が女子たちから積極的にアプローチされるというシチュエーションは、それこそ「男女ハーレム作品」の定石である。

加えて【瑛人】は「幼なじみ」という特権的な立場と「百合萌え」という共通の趣味によって、男性でありながら《ただ一人、琴崎さんの傍にいることを例外的に許され》ているのだという。

しかしじつのところそうした御都合主義的な設定は、逆に【瑛人】の側が【琴崎さん】を独占する口実にすぎない。そして一人の男性が複数の美女を独占するという排他的な構造もまた、やはり「男女ハーレム作品」の基幹を成す世界観だ。

こうしたことからも『琴崎さんがみてる』は、それ自体が「百合作品」ではなく、あくまでも「百合」を題材(というかネタ)にした、異性愛者のラブコメディであるという本質を見て取ることができる。

(中編・下に続く)