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「百合」でなければ《レズビアン差別》は許される?~榛名千紘『この△ラブコメは幸せになる義務がある。』改題をめぐって #さんかくラブコメ

2022年3月10日。KADOKAWA主催「第28回電撃大賞・金賞」に入選した『百合少女は幸せになる義務があります』が『この△ラブコメは幸せになる義務がある。』と改題、さらには作者名やキャラクター名まで一新し、電撃文庫から刊行された。

これまで、公式ページの試し読みや選考委員のコメントなどを通して、可能な限り事前に得られた情報から同作に対する批判的考察を展開してきた。 

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そして当日。本作は、いかなる結末を迎えたのか?

――それを書くことはできない。

なぜならば本作は、すでに続刊が予定されているとのことで、現時点では三人の関係性もあやふななまま、いったん幕引きとなるからだ。

しかし通常、続刊が予定されている場合であれば、タイトルに連番が付くはずである(本作の場合は①)。それをあえて付けずに全一巻で完結するかのように見せかけ、私のようなアンチであっても「たった一巻で済むのなら、とりあえず買ってみてもいいかな」と思わせるような売り方は、出版業界最大手のKADOKAWAにしては、いささか“セコい”手口ではないか。

このような“炎上商法(一種のクィア・ベイティング)”にお付き合いして差し上げるほど暇人でもお人好しでもないから、もはや本作について語るべきことは何もない。近所の書店にて開店と同時に購入し、読了した時点で、私自身の務めは果たしたものと判断する。

ossie.hatenablog.jpむしろ私が気になって仕方ないのは、この作品、さらには「百合」という概念を取り巻くオタク業界の状況だ。

ここに、選考委員・三上延(作家)の選評を引用する。

(前略)同性に恋愛感情を抱くことと、フィクションのジャンルにすぎない「百合」が混同されていることへの違和感がどうしても拭えませんでした。同性を好きになるキャラと百合愛好家のキャラは分けた方が物語としてはすっきりしたのではないでしょうか。 

まさに《同性を好きになるキャラと百合愛好家のキャラ》“分け”た上で、なおかつ見るも無残な異性愛至上主義の愚作と成り果てたのが、本作に先行して電撃文庫から刊行された『琴崎さんがみてる』である。だいいち現実社会においても、レズビアン当事者が百合作品を愛好することは何ら珍しくなく、三上の提案は的外れといえる。

もっとも《同性に恋愛感情を抱くことと、フィクションのジャンルにすぎない「百合」が混同されている》ということは、裏を返せば作者自身が「同性を好きになるキャラ」と「百合愛好家のキャラ」をとくに区別していないということの表れである。

前述のとおり作者は、作中で「百合」および【凛華】の同性の親友に対する感情を《親友同士が禁断の道へ踏み入ってしまう物語》《友情を遥かに逸脱した劣情》《よりにもよってこんなサブカル臭の強い趣味》《エキセントリックな趣味》などと(男性主人公のモノローグである地の文という体裁を借りて)露悪的な表現で侮蔑し、貶めている。

だが、これらについても、たとえば《フィクションのジャンルにすぎない「百合」》に向けられたものであり、同性愛者(同性を好きになるキャラ)を“差別”することにはならない――といった姑息な言い逃れも通用しないということだ。

三上は「百合」を《フィクションのジャンルにすぎない》と切り捨てるけれど、「百合」が女性の同性愛の表現である以上、当然ながらそこには、現実の女性同性愛者(レズビアン)に対する認識が、無自覚のうちに反映される。

作者自身は元より、百合コンテンツのユーザー、さらには「百合」を論じる人々に関しても、その“業”から逃れることはできない。

『この△ラブコメは幸せになる義務がある。』は『琴崎さんがみてる』に勝るとも劣らない差別的な内容でありながら、そのじつユーザーからの批判は意外と弱いように見受けられる。

それは出版前の時点で、タイトルから「百合」という語句を外したことにより、いわゆる「百合作品」のカテゴライズから外れ、百合コンテンツのユーザーたちの多くが関心を失ったことも大きいようだ。

――しかし、ここで疑問が生じる。

はたして「百合作品」でないなら、その内容が異性愛至上主義に根差した《レズビアン差別》であっていいのか?

仮に、異性愛至上主義に根差した《レズビアン差別》の内容が「百合」とカテゴライズされない作品(ヘテロブコメ?)でならば許される、と発想してみよう。

だが、それは裏を返せば《女性が女性を愛し、男性を愛さない》というセクシュアリティ(レズビアニズム)の表現が、あらかじめ「百合」とカテゴライズされている作品(百合作品)の中でしか許されない、ということだ。

“棲み分け”といえば、聞こえはいいかもしれない。

だが、けっきょくのところ、そのような欺瞞は異性愛至上主義を基幹とする現実社会(異性愛至上主義社会)において、女性同性愛の表現を排除・隔離する口実に「百合」が利用されているという側面を浮き彫りにしているにすぎない。

そして、そうした発想が現実社会においても女性同性愛、ひいてはレズビアンの存在を“特殊視・異常視”する勝手な思い込みに端を発し、また同時にそれを強化していくものであることは言うまでもあるまい。

当ブログでも折に触れて述べてきたが「百合」とは本来、作品を“枠”に嵌めるジャンル・カテゴリーなどではなく、あくまでも作中における人間関係の“解釈”に他ならない。

ossie.hatenablog.jpあるいは、逆に『この△ラブコメは幸せになる義務がある。』だとか『琴崎さんがみてる』、ひいてはこれもKADOKAWA(角川文庫)から文庫化された三浦しをん『ののはな通信』などの(おうおうにして作者自身は無意識・無自覚の)異性愛至上主義に根差したレズビアン差別》の作品を、ある種のジャンル・カテゴリーとして“隔離”したうえで、その中でならば治外法権的に《レズビアン差別》を許容する、などという発想が肯定されてもならない。

たとえ作品がフィクションであっても、それを作り出すのは現実社会を生きる人間であり、そしてそれらが娯楽コンテンツとして流通するのも現実社会の問題である。ゆえに「百合」を現実社会から“隔離”することは、それこそ“現実的に”不可能だし、また同じ理由で《レズビアン差別》を現実社会から“隔離”する口実も成立しない。

* * *

最後に。補足として本作の“原典”である神無月の巫女についても述べておきたい。

じつのところ『神無月の巫女』もまた、二人の女性に一人の男性を交えた三角関係を描いた作品である。

しかし『神無月の巫女』の主人公【来栖川姫子】は女性であり、いったんは男性の【大神ソウマ】に惹かれたものの、最終的には女性である【姫宮千歌音】の愛を受け入れる(アニメ版もコミック版もストーリー展開に違いはあるが、その結末は同じ)。

こうして異性愛至上主義からの脱却を果たした『神無月の巫女』は、そのエポックメイキングな偉業を成し遂げたことによって、ゼロ年代中頃に発表された作品でありながら日本の百合カルチャーにおける「古典(歴史的名作)」たりえているのだ。

繰り返すが『この△ラブコメは幸せになる義務がある。』の元のタイトルは『百合少女は幸せになる義務があります』というものであった。

  • なお本作の改題・改名をめぐるゴタゴタについて、作者の「あとがき」では何事もなかったかのように一切言及されていない。

また電撃文庫の各巻末には『電撃文庫創刊に際して』と題し、株式会社KADOKAWA取締役会長・角川歴彦による“檄文”が掲載されている。

(前略)
 「電撃文庫」は、そのように多様化した対象に応え、歴史に耐えうる作品を収録するのはもちろん、新しい世紀を迎えるにあたって、既成の枠をこえる新鮮で強烈なアイ・オープナーたりたい。
 その特異さ故に、この存在は、かつて文庫がはじめて出版世界に登場したときと、同じ戸惑いを読書人に与えるかもしれない。
 しかし、<Changing Times,Changing Publishing>時代は変わって、出版も変わる。時を重ねるなかで、精神の糧として、心の一隅を占めるものとして、次なる文化の担い手の若者たちに確かな評価を得られると信じて、ここに「電撃文庫」を出版する。

平成16年に深夜ローカルでテレビ放映された『神無月の巫女』の登場から、早18年。
この令和4年という「新しい世紀」《既成の枠をこえる新鮮で強烈なアイ・オープナー》によって導かれた「次なる文化」が、

「百合少女(レズビアン)」も「女」であるからには「男性(異性)」を愛することが《女の幸せ》なのだ――という、

それこそかつて『神無月の巫女』が否を突きつけた封建的な異性愛至上主義のイデオロギーへの退行であるとすれば、遣り切れない。