百錬ノ鐵

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「百合」は“ジャンル”ではなく“解釈”である~SF評論家・牧眞司(ShindyMonkey)への反論

(2020年1月17日 公開)

(2021年12月25日 追記)

平成最後の年に、こんな議論があったらしい。

SF評論家・牧眞司「異性愛者で恋愛経験もなさそうな人が百合とか言って喜んでる」(7/28追記) - Togetter

あまりにもくだらない。昨今「百合」という用語もそれなりに定着し、新しい書き手による優れた作品が続々と世に送り出されているが、そのような百合作品を取り巻く“評論”の質といえば、未だにこのレベルかと落胆せざるをえない。

そも、作品中で逐語的に“明示されてもいない”かぎり人間関係を読み解くことができないのであれば“評論”などという行為は必要ない。

また「百合」の消費者について異性愛者で(おそらく)恋愛経験もなさそうなひと》と決めつけるのはたんなるレッテル貼りであり、自分の気に食わない相手を貶めるための人身攻撃にすぎない。

かつて、未成年女性のフィギュアスケート選手に「早く彼氏を作るべき。エッチしなきゃ(他の選手に)勝てないよ」と言い放った中年男性のコメンテーターもいたが、論理が飛躍している以前の問題として、

そのように人の恋愛経験・性経験の有無をあげつらう発言自体が(それこそ男性異性愛者固有のマチスモに根差した)セクシュアル・ハラスメントであり、もはや対話や議論の余地すらない。ゆえに、これも“評論”と呼ぶに値せず、さしずめ「5ちゃんねる」の“煽り”“釣り”と何ら変わるところがない。いったいどのような「恋愛経験」を経れば、そのような卑しい精神性に堕するのであろうか。

  • もっとも後者に関しては、さすがに後から形式的に謝罪している。
  • ただ、当初は一般の百合ユーザー(レズビアン当事者の百合同人作家も含まれる)からの反論に対して、きわめて冷笑的・挑発的な態度でのらりくらりと交わしていたにもかかわらず、同業者と思しき人物から突っ込みを入れられた途端、一転してヘコヘコとしおらしく謝りだす様は、まるでマンガのような権威主義的振る舞いで、なんとも見苦しい。このように歳を重ねたくないものである。

もっとも、ここで牧が槍玉に挙げているのは〈異性愛者〉なのだから〈同性愛者〉に対する「ヘイトスピーチ」には当たらないのだ、と解釈する人もいるだろう。しかし一般に、人が実際に異性との恋愛やSEXを経験せずとも(あるいは経験する前から)男女のラブロマンスに感情移入したり憧れを抱いたりする心理に関しては、とくに“疑問視”されることはない。

それを女性同士のラブロマンスに限って異常視・特殊視するのは、やはり「同性愛」事態を異常視・特殊視するヘテロセクシズム(異性愛至上主義)およびホモフォビア(同性愛者嫌悪)を他ならぬ牧自身が内面化している事実の証左である。

加えて豊崎《ジャンル読みの人が~》云々といった件は、そのじつ牧が提示した議題である「百合」という概念の本質とは何の関係もない。ただ、豊崎が牧の稚拙な「百合バッシング」にかこつけて、自分の言いたいこと(読書の心構え? くだらねー)に“引き寄せている”だけである。

だいたい、この文脈における《全然そうじゃない作品》の具体例(すなわち女性同士の「恋愛=百合」を実際には表現していないにもかかわらず「百合」の消費者によって「百合」と“誤読”されてしまった作品)の一つも挙げられていないのだから、抽象的すぎて何にでも当てはまってしまう。『あさがおと加瀬さん。』を想定して言うのと、たとえば櫛木理宇『少女葬』(新潮文庫)を想定するのとでは、その後の議論の流れも終着点も違ってくるはずだ。

ossie.hatenablog.jp

(2021年12月12日 追記)

>この文脈における《全然そうじゃない作品》の具体例(すなわち女性同士の「恋愛=百合」を実際には表現していないにもかかわらず「百合」の消費者によって「百合」と“誤読”されてしまった作品)

聞くところによると、これは『けいおん!』を想定していたらしく、牧眞司はこの3年後(2021年11月8日)に『『けいおん!』の奇跡、山田尚子監督の世界』(扶桑社BOOKS)を上梓した。

私自身も『けいおん!』を「百合作品」だとは考えていないが、しかしそれこそ実際の作品中で、主人公たちが「異性愛者(非同性愛者)」であると“明示”されていないにもかかわらず、その二次創作において「百合」と解釈することすらも認めない態度は、やはり無自覚の異性愛至上主義・同性愛者嫌悪に根差すものであろう。

また一方で「豊崎社長」に関しても、ちょうどそれと同時期に、TikTokを利用した書籍紹介のあり方を頭ごなしに否定する発言をして、すっかり痛々しい“老害ぶり”を晒すこととなる。自分と異なる価値観や文化を認めようとしない排他的で不寛容な精神性が、この時点でもすでに見て取れる。

* * *

それでは「百合」という概念の“本質”とは何か。

牧および豊崎が根本的に誤解しているのは、「百合」を作品の“ジャンル”として捉えている点だ。

まず議論の前提として「百合」が作品の“ジャンル”や“カテゴリー”ではなく、「作品中の人間関係」に関する“解釈”であることを確認しなければならない。

すなわち、百合漫画のアンソロジーやコミック専門店における百合コーナーの設置といったカテゴライズ(ジャンル分け)以前の問題として、作品中の女性キャラクター同士の関係性および感情が「恋愛」に相当する、あるいは「恋愛」に結びつく可能性がある、という“解釈”が必要となるわけだ。その“解釈”にもとづいて「百合」を“ジャンル/カテゴリー”として扱う行為は、あくまでも扱う者自身の問題となる。

女性の女性に対する感情が「友情」にとどまるのか、それとも「恋愛」と結びつきうるのか、それは時として読者の間でも“解釈”が分かれる場合がある。いわゆる「きらら系」の萌え4コマは女性キャラクター同士の関係性を描くものがほとんどであるが、その中でもたとえば『Aチャンネル』は「百合」だが『はるみねーしょん』は「百合」ではないという違いが生じる。

牧は自身の評論家としての矜持として《深読みをしない》ことを挙げる。これは作品中で逐語的に“明示”されるものでしか判断できないということであろう。

だが百合作品の世界観として女性キャラクター同士があらかじめ「恋人」と設定されている場合は稀であり、女性主人公が同性の「親友」に恋愛感情を寄せるといったパターンが定石となっている。

そこをいくと牧のごとく、作品中で逐語的に「恋愛」と“明示”されるものでなければ「恋愛」と認めないといった態度では、「友情」が「恋愛」に移り変わるといった性のゆらぎを表現することができず、人間の複雑で繊細な「感情」を、「友情」と「恋愛」の二項対立に“カテゴライズ(ジャンル分け)”する暴力に陥りかねない。

そも、ある《作品中の人間関係》について「同性愛」ではないと断定することは、同時に「同性愛」とは何か? という定義を規定せざるをえなくなる。しかしそのような行為は、つまるところ読者自身の「同性愛」とはかくあるべしという偏狭な思い込みを露呈する結果となりかねない。

しかし、ならばどのような「人間関係」であっても女性同士でありさえすれば「百合」なのだ、といった短絡的な“解釈”が成立しうるのかといえば、やはりそれも首肯しがたい。

元より「百合」であるか否かが作品の良し悪しや質を左右するわけではないことは言うまでもないし、女性間の「友情」がかならずしも「恋愛」に結びつくとはかぎらないことも事実だ。たんに女性キャラクター同士の関係性や感情が描かれていれば「百合」といった粗雑な「百合認定」は、それこそ豊崎の指摘する“誤読”の危険を避けられないだろう。

しかし、そこで肉体関係(いわゆるレズSEX)などの「フォーミュラ」によって“明示”されなければ「恋愛(同性愛)」と認めないのであれば、それは「同性愛」の多様なありようを一面的に規定し“狭める”ことを意味する。

とくに百合作品のテーマである女性間の「同性愛(非異性愛)」に関しては、言うまでもなく現実社会の《同性愛者(非異性愛者)差別》の構造と密接に結びついている。ゆえに現実社会と同様に、【女性を愛する女性】のキャラクターをレズビアン(非異性愛者)」と“明示”することによって、逆に「異性愛(男性を愛すること)」を強要されるというヘイトスピーチやSOGIハラを受ける可能性が高まってくる。

そうした傾向は、しばしば男性異性愛者向けのポルノ小説やポルノ映画で顕著とされるが(ただしアダルトビデオの「レズ物」は男性が登場しないことが通例である)、それらはもとより一般の――この場合の“一般”とは「異性愛(非同性愛)」の表現を指すのではなく、いわゆる非オタク文化圏の作品全般を意味する――文芸作品や実写映画においても、「レズビアン(と作品中で“明示”されるキャラクター)」はほぼ例外なくといっていいほど、男性との恋愛やSEXを要求される描写が“お約束(定石)”となっている。

そこへきてゼロ年代マリみて』ブーム以降の、主として女性キャラクター同士で完結し、男性キャラクターの介入を伴わない「百合」の恋愛表現は、日本を含めた同性愛表現の歴史の中で、むしろエポックメイキングであると言っても過言ではないだろう。そのようにして「百合」という日本のオタク・カルチャー特有の表現様式は、異性愛至上主義からの脱却に成功しつつある。

  • 異性愛至上主義からの脱却》に“成功した”のではなく、成功を“しつつある”と留保するのは、「百合」がまさに女性キャラクター間の感情や関係性を“明示”しないという特性によって、しばしばそれを《一過性の擬似恋愛》と決めつける“解釈”に晒される風潮が根強くあるためだ。
  • その意味では「百合」を語る際に好まれがちな《友達以上恋人未満》《「友情」と「恋愛感情」の間には明確な線引きなどない》というクリシェも、それが「恋愛」に至る可能性を否定し「友情(非恋愛)」の範疇に押しこめる異性愛至上主義に回収される危険性について警戒すべきである。
  • なお、現実・非現実を問わず女性のセクシュアリティについて「レズビアン」と“明示”されていなければ男性を愛せるはず(べき)、といった思い込みの愚かしさは論を俟たない。

ところが、それは同性間で完結し、異性の介入を伴わないという特性ゆえに、女性としての成熟を拒否した、幼稚な世界観と決めつけられがちなきらいがある。

しかし、そのような偏見こそ、まさしく女性の成熟には男性(を愛すること)が不可欠であると信じて疑わない異性愛至上主義に根ざした固定観念に他ならない。

元より「百合」が“解釈”である以上、それが表現の幅を“狭める”ことなどありえない。「百合」が女性同士の恋愛であるということは、極端な話、女性同士の恋愛(と“解釈”できる要素)さえ描かれていれば、その作品としての体裁は、学園青春物だろうとスポ根だろうと時代劇だろうと異世界ファンタジーだろうとミステリーだろうとノワールだろうとそれこそSFだろうと何でもアリなのだから(ちょうど議論の約1年後、今年の6月に入ってハヤカワ文庫が「百合SFフェア」を開催したのはなんとも皮肉な展開だ)。

www.hayakawabooks.com

そのような「百合」の概念について《作品解釈の可能性を“狭める”フォーミュラ》と決めつけてしまうのは、それこそ百合作品のテーマである女性同士の恋愛自体を“狭い”ものと決めつける異性愛至上主義の感性が、牧・豊崎両名の意識にどっしりと胡坐をかいているためである。

また、その意味では前述した、女性同士の「恋愛」に結びつかない関係性をも「百合」と認定されてしまうことの問題は、たんにそれが不適切であるというだけで、作品の“解釈”を“狭める”ものではない。むしろ《読解の幅》を無制限に“広げ”してしまった結果として、不適切な“解釈”と結びついたと捉えるのが妥当ではないだろうか。

あるいは、ある作品が「百合」と“解釈”されることによって、「百合」に抵抗のある読者を遠ざけてしまう可能性があるとは言えるかもしれない。もっとも、この場合に“狭め(られ)る”のは《「読解」の幅》ではなく《「読者」の幅》ということになるので、論点が変わってしまう。

しかし、実際には同性愛だろうと異性愛だろうと両性愛だろうと無性愛だろうと、とにかく面白い作品であれば何でも読んでみたい、と考えるのが“健全”な読者のあり方ではないだろうか。

それを「百合(と“解釈”されうる作品)」だから読みたくないなどと手前勝手に自己限定してしまう排他的で傲慢な読者は、けっきょくのところホモフォビア(同性愛者嫌悪)に囚われた差別主義者であり、そのようなものは切り捨てても一向に構わない。

「百合」はしばしば現実の「レズビアン」とは異なると言われるが(じじつ先述のとおり百合作品の多くに「レズビアン(と作品中に“明示”されるキャラクター)」は登場しない)、「百合」と「レズビアン」が異なるとしても、「百合」を否定する言説が現実社会の異性愛至上主義の敷衍であり、ひいては現実の「レズビアン」の存在を否定・否認する社会的・政治的力学の応用に他ならないことは自明である。

牧と豊崎は、今日の多様化した恋愛表現に対応することができず、自己の旧弊な異性愛規範を“自覚”しようともしない、じつに“狭い”感性の評論家である事実を露呈した。

令和の新時代を迎えたいま、こういった連中は平成の闇に置き去りにするのが相応しい。合掌。

* * *

なお「百合」が“ジャンル(カテゴリー)”ではなく“解釈”であるという問題については、以下の記事も参照のこと。 

ossie.hatenablog.jp