今月8日に日本公開された『ターミネーター』シリーズの最新作『ニュー・フェイト』が「百合萌え」の観点からも楽しめるらしく、百合ファンの間で話題になっているようだ(現時点で筆者は未観)。
とはいえ「百合」に対する無理解や偏見が根強い中、そうした盛り上がりに冷や水を浴びせようとする向きもある。
二次創作でキャラ同士の関係性にひと味加える事は賛成ですが、個人的に「これは『百合映画』です!」という主張に違和感があります。作品全体を指して『〇〇映画』という表現で“ジャンル”として片付けられ、本来の意図を捉え損ねたり現実へのエンパワメント性を削いでしまいかねない事を危惧しています https://t.co/KMLmzqPqBR
— ♡ 蓮 ⚡︎ (@CAPTAIN_X_RAY) November 12, 2019
こうした紋切型の「百合バッシング(あるいはBLバッシングでも)」を見ていて、私の方から《違和感がある》のは、作品のテーマや価値が「一つしかない」と思い込んでる点である。
作品の《本来の意図》など、往々にして作者自身も無自覚であるのに、たった一つの「意図」に束縛しようとするのは、じつに排他的で暴力的な態度ではなかろうか。
だいいち「百合映画」が《現実をエンパワメント》して何が悪いのか?
「百合映画」を好む人は「現実社会」から排除されるべきだとでもいうのだろうか?
そのような、「現実社会」の多様な価値観や感性を認めようともしない、頭の固い視野狭窄な人物に《現実をエンパワメント》することは到底無理であろう。
いちいち指摘するのも馬鹿馬鹿しいことだが、「映画」が「現実」を“エンパワメント”するのではなく、「映画」を観た「現実」の人間が、「映画」の中から自らを“エンパワメント”する何かを得るのである。
そこをいくと作品が「現実」にもたらす影響とは、いわゆるバタフライ効果(蝶の羽ばたきが嵐を引き起こすような結果につながりうるというカオス理論の概念)のようなもので、作者自身がそれをコントロールすることはできない。そして「現実」は人の数だけある。
ゆえに作者が《現実をエンパワメント》してやろうなどという、ある意味で傲慢な「意図」をもって創られた作品が、かならずしも当人の「意図」どおりに都合良く「現実」の人間を“エンパワメント”するとはかぎらない。
翻って、京アニの忌まわしいテロ事件は記憶に新しいが、それこそ『けいおん!』のような政治性のない(誤解を恐れずにいうなら)他愛もない萌えアニメが、「現実」を生きるたくさんの人々に夢と希望を与え、まさに“エンパワメント”することに成功している。
- じっさい『けいおん!』に憧れてバンドを始めるようになった女子も少なくないという(Luna監修『W100 ギタリスト』シンコーミュージック・エンタテイメント P.110-114,189)。
そも「百合」はジャンルやカテゴリー以前の、作品中の人間関係の“解釈”なのだから(詳細は後の記事にて)、それが他のテーマ――繰り返すが一つとは限らない――を排除することなどありえない。
あるとすれば、ただ「百合」を嫌悪する人が、「百合」と“解釈”される作品を一方的に排除するだけである。