百錬ノ鐵

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「百合」の“源流”は「エス」にあらず~『マリみて』を中心とした「百合史観」の試論

(2023年7月29日 加筆修正)

『百合特集』で注目を集める早川書房SFマガジン」2021年2月号では「百合SF」の他にも、コバルト文庫で辿る少女小説変遷史』(彩流社)の著者である嵯峨景子が、吉屋信子や伊澤みゆきに象徴される戦前の少女小説に関する論考を寄稿している。

  • 他にも百合コンテンツ情報サイト「百合ナビ」管理人へのインタビューなど、「SFマガジンの百合特集」といっても「百合SF」のみならず「百合文化」全体を俯瞰した資料性の高い内容となっている。

吉屋作品の中でも、とくに『花物語』や『屋根裏の二処女』などは、大正時代から昭和の初期にかけて当時の女学校の一部で流行していたエスなる風習を題材としたことで知られる。

あらためて説明すると「エス」とはシスター(Sister)の頭文字で、上級生と下級生が擬似姉妹的な関係性を結ぶことによって、女性同士の「友愛」を育むという一種の女学校文化である。しばしば現代の同性愛と同一視されたり、あるいは思春期特有の擬似恋愛と決めつけられることもあるが、その実態は「当事者」によって様々であったようだ。

  • ちなみに「エス」という用語自体は明治時代から存在していたが、今日の観点ではいわゆる「大正浪漫」の一環として消費されているため、主に大正時代の文化として論じられることが多い(バブル経済の崩壊後に開店したはずの「ジュリアナ東京」がバブルの象徴として取り上げられるように、メディア表象においてはしばしばこうした錯誤が起こりうる)。

なお70年代にゲイ雑誌の編集長が「百合」の元となる百合族という概念を提唱した経緯、さらには現実の「レズビアン当事者」を主体とする「Lカルチャー」と「百合カルチャー」の違いなどについては、今さらここで述べるまでもないので割愛する。

また「エス」という呼称に関しては、戦後に入っても一部で「レズビアン当事者」ないし女性カップルを「エス」と呼ぶ風習は残っていたが、当然ながら「百合族」と同様に死語となっている。

* * *

さて、ここからが本題だ。

吉屋作品に象徴される戦前の「エス小説」をもって、現代の「百合作品」の“源流”“原点”と位置づける“史観”が、まことしやかに半ば定説のごとく語り継がれてきた。 

だが、ちょっと待ってほしい。

それらの「エス小説」は、たしかにゼロ年代「百合」ブームの嚆矢となった『マリア様がみてる』に影響を与えた。

また、それまではマニアックな同人誌の業界の符丁に過ぎなかった「百合」という概念が『マリみて』のヒットによって一般層に周知されたのも事実だ。『マリみて』シリーズを実際に読破したことのない人であっても「ごきげんよう」「タイが曲がっていてよ」といった名台詞のパロディを目にしたことがあるだろう。

言い換えるなら『マリみて』が一大ブームと化すまで、一般社会においては女性同士の恋愛を表現する作品に対する需要自体が少なく、よってそのような作品群を言い表すための用語も必要とされてこなかったということだ。かつて漫画誌に登場した《女性同士の恋愛を表現する作品》――たとえば池田理代子おにいさまへ…』、吉田秋生櫻の園』、魚喃キリコ『blue』などを一般の漫画ファンは、あくまでもたんなる「少女漫画」の一つとして消費してきたのである。元より「百合同人誌」に興味のない一般漫画ファンの世界観には、そもそも「百合漫画」という概念自体が存在しないのだから当然だ。

日本国内の「百合文化」の歴史は、まさに『マリみて』以前と『マリみて』以後に分かれると断言して差し支えない。じじつ『マリみて』登場以前に「百合作品」として『マリみて』以上の社会的認知を得た作品は存在しなかったのだから。

「百合」のルーツとして一部で神格化されている吉屋信子にしても、実際は戦前文学の研究者や大正文化の愛好家に認知されるていどの存在で「社会的認知」とは程遠い(あるいは「吉屋信子」や「花物語」といった名前くらいはどこかで目にしたことがあっても、実際に読んだことがあるという人は、はたして三島や太宰などと較べてどれだけいるだろうか?)。「文学」という敷居の高さに加え、文学史において女性作家が冷遇されてきたという事情もあるにはあるが、いずれにしてもライトノベルと同じような感覚で若者たちが気軽に手に取れる作品でないことはたしかだ。

あとは、しいていえば90年代に絶大なブームを巻き起こした『美少女戦士セーラームーン』や『少女革命ウテナ』などの人気アニメ作品を「百合ブーム」の先駆けと評する向きもあるが、それらはむしろ一般的には「美少女ヒーロー物」として認知・受容されており、『マリみて』ほど「百合萌え」に特化した内容ではなかった。

よってマリみて』を中心に「百合史観」を構築するのはごく自然な試みである。だがそうした本稿の方針は、いわゆる“『マリみて』中心主義”“『マリみて』至上主義”“『マリみて原理主義”“『マリみて』信者”などに与するものではない。また『マリみて』以後に登場した百合作品の全てが『マリみて』のフォロワーないしエピゴーネンであることも意味しない。本稿では『マリみて』ブームの功罪についても述べていく。

もっとも裏を返せば『マリみて』登場以前にも、同人誌の世界で「百合文化」は細々と存在していたといえる。が、それらは同人誌という性質上、極少数のマニアに認知されるのみで、オタク・カルチャーの大勢に影響を及ぼすものではなかった。

  • まして80年代はおろか90年代においてもインターネットは民間に普及しておらず、同人誌を買うためには、それこそコミケのようなイベントや専門のショップにまで足を運んだり、アニメ雑誌の文通欄を通して作者と直接交渉するほかなかった。現代のように、自宅に居ながらにして資金の許すかぎり思うがままに同人誌を買い漁ることができるネット社会の到来など、夢のまた夢であったはずだ。

言うまでもなく『マリみて』は、業界最大手の出版社である集英社コバルト文庫から世に送り出された超メジャー作品であり「百合同人誌」の文化から出てきた作品ではない。また作者の今野緒雪も『マリみて』以前に同レーベルから『夢の宮』シリーズ(ちなみにそちらは「百合物」ではない)でキャリアを築いてきた看板作家の一人であり、アマチュアの同人作家ではなかった。

さらにいえば90年代以前の同人業界における「百合」は、オリジナル作品よりも『セラムン』『ウテナ』、さらに遡れば『ダーティペア』などといった商業アニメの二次創作が主流であった。それらの二次創作同人誌はポルノ的な色合いが強いことから「エス」の精神性とは無縁であり、またそのことから「レズ物」としてプラトニック志向の「百合物」と区別する風潮も存在したという。

  • もっとも『マリみて』に関しても当然ながら膨大な二次創作同人誌が制作され、その中には『セラムン』や『ウテナ』などと同様にポルノ的な解釈も少なくなかった。そうした同人業界の二次創作文化が『マリみて』ブームを陰で支えていたという側面もけっして無視できない。
  • しかし繰り返すが、あくまでも『マリみて』のヒットを機に「百合」という概念が一般ライト層から注目・認知されたのであって、「百合同人誌」のマニアたちが「百合」ないし『マリみて』を“流行らせた”わけではない。もしも同人マニアたちが「百合」を“流行らせる”ほどの政治力を有していたのであれば、『セラムン』や『ウテナ』の時点でそうなっていなければおかしいからだ。

いささか前置きが長くなった。話を戻すと『マリみて』の登場は、それまでの商業作品の二次創作同人誌を中心とした「百合文化」の流れから断絶したものであった。その源流を辿っていくと、やはり大正時代の「エス小説」に行き着く。

その意味で「エス小説」が『マリみて』という作品の“源流”“原点”であるという解釈は正しい。が、「百合」という文化の“源流”とまで言い切ってしまう向きには再考を要する。

なぜならば『マリみて』は、その「薔薇様」やスール制度などに象徴される独特の世界観が、良くも悪くもあまりに独特すぎるがゆえに、じつのところ後続の「百合作品」の世界観には、それほど影響を与えていないのである。

また『マリみて』ブームは、女性同士の精神的な結びつきを重視するあまり、性的な描写が必要以上に忌避されるといった弊害をも生み出し、これも昨今の多様な「百合」の表現からすると現状にそぐわないものとなっている。

なお、そのような“「エス」至上主義”とでも呼ぶべきゼロ年代「百合」ブームの精神性偏重志向に拍車をかけたのが、『マリみて』ブームに便乗する形で2003年に創刊された、日本初の百合作品専門誌百合姉妹マガジン・マガジン 編集長・中村成太郎 ※後に版元を一迅社に替えてコミック百合姫として再創刊)である。

その創刊号では、少女文化の第一人者として知られる嶽本野ばらが「エス」について解説する特集記事を掲載しているが(『Welcome to the Sister dome』P42~44)、その中で嶽本は「エス」を《明らかにエスは、百合、ビアンと異なるもの》《多くのエス的願望を抱く乙女達のそれは、一種の擬似恋愛》《エス的乙女達は、肉欲を嫌悪します。そしていわゆるプラトニック・ラブこそが、至高の恋愛》と定義した上で、そうした明らかなホモフォビア(レズボフォビア=レズビアン嫌悪)に根ざした「エス」なる性差別思想について《今、ここに高らかに「エス」という乙女しか持つことの赦されぬ最高級の恋愛を復古させましょう。》とアジってみせたのだ。それにしても「エス」を《擬似恋愛》と決めつけておきながらそれが《最高級の恋愛》とは論理が破綻している。

加えて『マリみて』は全39巻にも及ぶ一大巨編にまで発展し、リアルタイムでブームと並走していない百合初心者が後追いで気軽に手に取れる存在ではなくなってしまった。しかもシリーズ第1作が発売されたのは20年以上も前(1998年)である。

  • ちなみに『マリみて』はその登場(※ここでは文庫本第1巻の発売を指す)と同時に火が付いたわけではなく、いわゆる『マリみて』ブーム(百合ブーム)はゼロ年代に入ってからの現象であり、それもファンの口コミによるものでメディアが取り上げた結果ではなかった。

ましてや最先端のオタク・カルチャーに親しむ若い百合作家たちが、戦前の古臭い文学作品を読み込んでいるとは、到底考えにくい。影響力の面では、それこそ後述する『青い花』や『citrus』など、より現代的な世界観に根ざした百合作品からストレートに感化されているのではないだろうか。

そも『マリみて』登場以前に、文学の研究者でもない「百合」の愛好者たちがなぜ大正時代の「エス小説」を手に取ったのかといえば、現在の活況からは想像もつかないくらい、当時は女性同士の恋愛を描く作品の絶対数が少なく、大正時代の古典文学にまで遡らなければならなかったというお寒い実情がある。

しかしそうして吉屋信子あたりを(図書館で借りたりして)読んでみたはいいものの、時代特有の文体が取っつきにくく、あんがい楽しめなかった、という向きも少なくないようだ。そうした場合の「古典」とは、むしろ今の時代にそぐわない古色蒼然とした作品を敬遠するための、いわば“褒め殺し”的なレッテル貼りの意味合いもあるように思う。

すなわち21世紀の日本の「百合文化」は、戦前の「エス」とは明らかに断絶しているのだ。

あるいは『マリみて』が「エス小説」の系譜に属していたとしても、その『マリみて』すら志村貴子青い花に取って代わられ、現行の「百合文化」における威光は弱まっているのが実情だ。

太田出版「マンガ・エロティックス・エフ」に連載され、2005年に単行本第1巻が発売された志村貴子青い花』は、女子校を舞台としながらも、吉田秋生(具体的には『櫻の園』『ラヴァーズ・キス』あたり)を髣髴とさせる、より現実的かつ現代的な設定に基づいた等身大感覚のキャラクター造形が特徴で、いわば『マリみて』へのアンチテーゼとも呼ぶべき作品であった(ただし作中で『花物語』への言及がある)。その後、テン年代の百合文化を担ったサブロウタcitrus』、仲谷鳰やがて君になる』、萩埜まこと『熱帯魚は雪に焦がれる』などは、それぞれに魅力的な傑作であるものの基本的にはそうした『青い花』の作風の延長線上にある。

  • なおここでいう「そうした『青い花』の作風」とは《現実的かつ現代的な設定に基づいた等身大感覚のキャラクター造形》を指し、当然ながら何から何までが『青い花』と“まったく同じ”というわけではない。たとえば性描写(性的要素)の扱いなどはそれぞれ異なる。

また、ここで注目したいのが『マリみて』は小説(ライトノベル)、『青い花』は漫画という表現媒体の違いだ。ゼロ年代「百合」ブームの嚆矢となった『マリみて』は小説であったにもかかわらず、それ以降にヒットした「百合作品」は漫画やアニメが中心という“ねじれ”が生じていた。

ここ数年でにわかに脚光を浴びるようになった「百合SF」は脇に置くとして、ライトノベルの分野でヒットした「百合小説」といえば、鎌池和馬とある科学の超電磁砲』、入間人間安達としまむら』、みかみてれん『女同士とかありえないでしょと言い張る女の子を、百日間で徹底的に落とす百合のお話』、さらにノベルゲームにまで視野を広げるなら『アカイイト』なども挙げられようが、いずれも『マリみて』および「エス」の世界観や精神性を踏襲したものではなかった。《百合小説は歴史的経緯からも「エス」と呼ばれた少女小説群から生まれたし。》などと知ったかぶりをする馬鹿などは、せいぜい「百合小説」といっても『マリみて』しか読んだことがないに決まっている。

言い換えるなら「百合」と「エス」を同一視する発想は《百合=マリみて》というパブリック・イメージを元にしたものである。裏を返せば、それは「百合作品」といえば『マリみて』しか思いつかず、また現行の「百合文化」を追いかけてすらいない(興味がないし知ろうともしない)部外者による固定観念でしかない。「百合」は単一の起源に収斂されるほど卑小で窮屈なものでもなければ、一世紀も前の小説を焼き直しただけの退屈極まる代物でもないのである。

だが『マリみて』ブームの最中であるゼロ年代前半においても『NOIR』神無月の巫女』など百合アニメの歴史的名作がTV放映されており「百合」の愛好者たちから熱烈な支持を集めていた。さらに『NOIRバディ物のガンアクション)』と『神無月の巫女(伝奇ファンタジー+巨大ロボット)』の2作品は、『青い花』の作風を踏襲した今日の百合作品の主流からしてもきわめて異形であり、当然ながら「エス」の世界観からも掛け離れている。《百合=マリみて》という図式は、もうすでにその時点からして「百合ブーム」の実態に反していたのである。

  • なお昨今は『青い花』の作風を踏襲した十代の少女たちを主人公とする「思春期百合」が(相変わらず)主流である一方で、成人女性の恋愛模様を描く「社会人百合」の需要も高く、けっして無視できない勢力となっている。

あるいは嶽本の説に反して戦前の「エス小説」を同性愛文学の一派と位置づけたところで、同性愛をテーマにした文学作品は古今東西――それこそレスボス島の詩人サッフォーの時代から?――存在する。また百合作品は(男性キャラクターを交えず)女性キャラクター同士の関係性で完結する作品が多いことから、女子校を舞台にすることが定番となっており、そこは「エス小説」との共通点も見出せるけれど、言うまでもなく女子校は「エスの乙女たち」が作ったわけではない。こうした百合文化の特殊な事情は、たとえばトールキンの『指輪物語』がRPGのルーツといった話とはまったく異なる。

すなわち日本の百合文化は、一つの大きな流れや「文脈」に沿うのではなく、何度も世代ごとの“断絶”を繰り返すことで多様化と成熟を遂げてきたのである。

そも今日的視点からするとエス」なるものは、かつて同性愛が「精神疾患」「性的倒錯」として扱われていた、旧時代の痛々しい副産物に過ぎない(むろん、現実のレズビアン当事者の社会的認知・地位向上につながることもなかった)。

そのようなものを無批判に称揚し、あまつさえ「百合」の上位概念であるかのごとく崇め奉るのは、たんなるノスタルジーだとかアナクロニズムを越えて、害悪ですらある。せいぜい文学の研究者が時代を知る資料として目を通しておけばいいものだし、現代の「百合」を楽しむ上で何の必要もない。

ところで、ちょうど先頃、ホームレスの生活を面白コンテンツの類として興味本位で取り上げたブログ記事が批判を浴びたのは記憶に新しい。「エス」を時代背景や社会の差別構造から切り離した上で、過剰に美化された「大正浪漫」として消費する風潮にも、それと同様の欺瞞を感じるし、言うまでもなく百合コンテンツについても、そうしたいびつな消費のありように陥る危険性に注意すべきである。

* * *

それでもマリみて』は、ゼロ年代以降の百合文化における「古典(クラシック)」であるといえる。

この場合の「古典」とは、たんに“古い”ということではなく、社会的認知の向上や後続作品への影響など、百合文化の発展に大きく寄与・貢献したエポックメーキングな作品という意味だ(とはいえ21世紀も五分の一が過ぎた現時点で、20世紀の終わりかけた頃に出た作品は十分に“古い”けれど)。その意味では、ただ“古い”というだけの作品(とくに池田理代子おにいさまへ…』のような旧弊の異性愛至上主義に囚われた作品など)は「古典」と呼ぶに値しないし、一方で『青い花』は『マリみて』に次ぐ「古典」と位置づけるに値するだろう。

「百合文化」の起源だとか、あるいはその実態をめぐる議論はさておくとして、少なくともゼロ年代の「百合ブーム」が『マリア様がみてる』という一つの作品によってもたらされたことは歴史的事実だ。『マリみて』の登場がなければ「百合」はいつまで経っても日の目を見ることのないアンダーグラウンドの同人文化に留まるほかなかったであろうし、商業誌で特集記事が組まれ、それが――「SFマガジン」編集者・溝口力丸の言葉を借りれば“溶けるように”――売れていくという事態など夢のまた夢であったことは想像に難くない。

そこをいくと戦前の花物語』などの「エス小説」は、あくまでも《エス作品の古典》であっても《百合作品の古典》であるとは言い難い。なぜならば嶽本野ばらがいみじくも露呈したように、戦前の「エス」と現代の「百合」は、皮相な共通点こそあれど、その世界観も精神性も時代背景からしてまったく異なるからだ。

あるいは、そのような「エス小説」を今日の読者が「百合作品」として鑑賞するという試みは可能であるかもしれない。が、いずれにしてもそれは、後世の価値観に基づいた“後付け”の解釈でしかなく、戦前の「エス」に現代の「百合」の“源流”“原点”を求めるといった「史観」については“解釈”以前の、そも歴史認識の誤りと言わざるをえない。

繰り返すが「百合」という概念が作られたのは70年代の中頃であり(正確には百合族)、さらに「百合」がフィクション作品における女性キャラクター同士の恋愛表現を示す、いわゆる今日的な用法がなされるようになったのは80年代に入ってからのことである。したがって大正時代に「百合」などという概念が存在するはずもなく、エス小説」を「百合作品」の“古典”として持て囃すのは、ようするに「百合」の起源をことさら古めかしく見せかけて“箔を付ける”ための「歴史修正主義以外の何物でもない。

エス」の継承者といえる『マリみて』にしても、その独特の世界観を構築するにあたって「エス小説」が実際に与えた影響といえば、じつのところたんなる“元ネタ”といった程度だ。

マリみて』の設定は大正時代ではなく、制作当時(平成中期)の日本であり、他の「百合作品」と同様に、きわめて現代的な感性によって創られた作品である(ただし携帯電話など世相・流行を反映するアイテムはほとんど排除されている)。それはだんじてエス」という戦前の女学校文化の世界観ないし精神性を、現代に再現ないし“復古”するものではなかった。

すなわちマリみて』は、あくまでも「(エス小説から影響を受けた)百合小説」であって、『マリみて』自体を「エス小説」にカテゴライズすることは失当のである。

また『おにいさまへ…』『櫻の園』『blue』などの商業オリジナル作品も、リアルタイムで接してきた当時の「百合」の愛好者たちは「百合同人誌」と同様に受け入れたかもしれないが、「百合」という概念・用語自体を世間に“周知”させるには至らなかった。

  • この場合の“周知”とは、たんに一部のマニアの間で知られるということではなく、その「周り(=世間一般)」に認知され、オタク・カルチャーの趨勢に影響をもたらしたという意味である。
  • もっともオタク・カルチャー自体が、元来はアンダーグラウンドサブカルチャーであり、それこそ「世間一般」から忌み嫌われる存在であったのだという言い分もあるだろう。しかし90年代中頃から社会現象を巻き起こした『新世紀エヴァンゲリオン』の一大ブームを経て、オタク・カルチャーがポップカルチャーの一部として、良くも悪くも資本主義のマーケティングに組み込まれていったのは、それこそ“周知”の事実である。
  • オタク・カルチャーの末端に甘んじていた「百合」が社会的認知を獲得するに至った背景には、そうしたオタク・カルチャー(サブカルチャー)およびポップカルチャー地殻変動も大きく作用していた。

そこをいくとマリみて』は「百合」の存在を世間一般に周知させたと同時に、『マリみて』自体も(そのブームによって)一般世間から「百合」として認知された、初めての「百合作品」といっても過言ではない。

  • もっとも『マリみて』を「百合(すなわち女性同士の恋愛)」ではなく、ただの「友情」を描いているにすぎないのだと言い張る向きもあるが、こうしたホモフォビアヘテロセクシズム(異性愛至上主義)にもとづく奇妙な切断処理は『マリみて』やオタク・カルチャーの「百合作品」にかぎらず、一般の文芸や映画・ドラマなども含めて、広義の「同性愛」をテーマにしたあらゆる作品に対してなされうる、言うなれば「評論の形を借りたヘイトスピーチに他ならない。

だが『マリみて』という作品自体は、上掲の理由から百合作品の「(時代を超えた)スタンダード」とはなりえなかったのだ。

マリみて』ブームの収束とともに「百合ブーム」も終わったと捉える向きもあるだろうが、それは「百合文化」が元のアングラでマニアックな同人業界に逆戻りしたというわけではなく、むしろ一過性の「ブーム」を通り過ぎて確固たる「文化(カルチャー)」としての社会的地位を獲得するに至ったことを示す。その功績においては『マリみて』よりも『青い花』の影響力の方が大きかったといえるかもしれない。

今となっては数ある百合作品の「歴史的名作」の一つとして位置づけられる『マリみて』だけれど、しかしそのことが『マリみて』という作品の存在意義を貶めるわけではない。作品にとって何よりも重要な、“とてつもなく面白い”作品である、という絶対的な価値は揺るがないからだ。

LGBTやポリコレという概念すら人口に膾炙していなかった時代に書かれただけあって、今読み返すと色々と引っかかる部分もあるけれど、クラシカルでどこか敷居の高い設定とは裏腹に、良い意味での俗っぽさ――ちなみにアニメ/実写映画といった映像化作品では、こうした原作の“勘所”を再現できていなかったのが残念!――が世界観の間口を広げていて、楽しく読み進められる。戦前の封建的な性規範を内面化した骨董品のような「古典文学」を有難がるよりは、よっぽど有意義だろう。

また「エス文化」の継承者としての『マリみて』の影響力についてはきわめて限定的であると述べたが、魅力的な人物造形といった創作上の技法だとか、何よりも女性同士の恋愛を、ごく自然なこととして肯定的に描くという基本姿勢は、小説や漫画といった表現媒体の差異を越えて、私たちが「百合」を今日から未来に亘って存続させるに値する「文化」としてのレゾンデートルを確立せしめた

そして、それこそが「百合」と「エス」を隔てる、何よりも最大の“断絶”なのである。

 * * *

なお“マリみて的”な世界観を踏襲した百合作品としては『ストロベリー・パニック!』『FLOWERS』『アサルトリリィ』などを挙げることができる(これらは原作者としてクレジットされる人物は存在するものの、実質的には複数の制作スタッフが関与したメディアミックスを展開しているのも特徴である)。

  • 付言すると「エス」の因子に関しては、辛うじて『ストロベリー・パニック!』と『FLOWERS』に見出すことはできるが、『アサルトリリィ』に至っては『マリみて』の設定――具体的には、古風な女子校(その名も百合ヶ丘女学院!)という舞台、「スール制度」に倣った「シュッツエンゲルの契り」、【福沢祐巳】【小笠原祥子】【佐藤聖】といった主要キャラクターを髣髴とさせる人物造形など――を採用しながらも、そこに『魔法少女まどかマギカ』を足して二で割った荒唐無稽な世界観(昨年末にTV放映を完了したアニメ版『BOUQUET』には「きらら系百合4コマ」のノリも加味)で、いわばゼロ年代からテン年代に至るまでの百合文化の“ごった煮”というべき内容であり、戦前の「エス文化」にこじつけることはもはや困難である。

しかし、どちらかというとU-temo『百合オタに百合はご法度です!?』や守姫武士『お願い神サマ!』など、その独特の世界観を愛あるパロディとして引用するパターンが多いのではないだろうか。