百錬ノ鐵

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「百合特集」から「ヘテロ男性」の書き手を“一掃”せよ! と主張する排他的で不寛容な人々~早川書房「SFマガジン」2021年2月号『百合特集2021』をめぐって #SFマガジン #百合SF #百合特集

(2023年11月17日 加筆修正)

『Aチャンネル』完結11巻、『ゆるゆり』最新19巻、『熱帯魚は雪に焦がれる』最新8巻、TVアニメ『アサルトリリィBOUQUET』『安達としまむら』最終回……百合関連の重大トピックスが相次いだ今年12月第4週の中で、とくに世間の注目を集めたのが、25日発売の早川書房SFマガジン」2021年2月号『百合特集2021』であった。

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同誌が「百合特集」を組むのは2018年(2019年2月号)以来、これで2度目となる。いまSF業界では「百合SF」の躍進が目覚ましく、じつのところ漫画やアニメと較べてパッとしない小説分野の百合作品(いわゆる活字百合)の起爆剤になりうるのではないか、と個人的にも期待している(もっとも私個人は、SFのように世界観や設定が特殊すぎる作品や難解な文芸は苦手なので、熱心な読者にはなれなさそうだが)。

ところが、こうした「百合SF」の台頭に冷や水を浴びせるのような風潮も、一部の偏狭なSF愛好家には見受けられる。

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上掲記事は、早川書房が「百合SFフェア」を展開する1年前の議論を検証したものだが、

「百合SF」なる概念が定着したかのように見える今日においても、そうしたSF文化の新たな潮流について、一部の排他的で不寛容なSFファン(というかマニアといっていい)が拒絶反応を示す構造は健在のようだ。

飛の主張は「百合SF」の媒体から男性異性愛者の作家を排除せよというものであり、あくまでも「百合SF」という一ジャンルに限定した主張とも解釈できるが、

仮に「百合SF」の媒体から男性異性愛者を排除するのであれば、同様に他の媒体からも排除しなければ辻褄が合わない。

よって、そのじつ飛が「百合SF」に限らず、男性異性愛者が百合文化に関わること自体をネガティブにとらえていることは明白だ。

また言葉のニュアンスをあげつらうのであれば「女性作家に限定した特集」ではなくヘテロ男性の書き手を一掃》という言葉選びからも、古参SF作家の無神経さと排他性が伝わってくる。

もっとも、社会最大のマジョリティである「ヘテロ男性」が、たんに〈男性異性愛者〉であるというだけの理由で“差別”されることなどありえない。

だが、そのようにして性的指向性自認を理由に特定の人々を排除するレトリックを認めてしまうのならば、当然ながらそのレトリックは、マイノリティである〈同性愛者〉の排除にも応用可能である。

その意味で飛浩隆の発言は、やはり本質的に「性差別」そのものであると言わざるをえない。

それにしても、この場合の「男性」とは、いったい何を指すのだろうか? 誰が、どのような基準で、さらにはいかなる権限をもって、赤の他人の性別を判定するのだろうか?

性自認? 生物学的性別? 戸籍上の性別? 

あるいは、社会生活の上では〈男性〉であっても、百合作品を制作する時には〈女性〉の主人公の視点・心情にシンクロするという作家の場合、どちらに分類されるのだろうか?

かくいう私も、若かりし頃に百合小説を書いてみたことがあった。といっても習作レベルのもので、あまりに稚拙な内容ゆえ全て破棄し地球上には現存していないが、その際には自らのアバターである女性主人公の主観で精神世界を構築・探求しながら、それを文字に起こすという客観的作業は現実世界の〈男性〉としての意識にもとづいて行っていた。

それでも私は出生時も生物学的にも戸籍上も〈男性〉であり、また〈男性〉として社会生活を送ることに順応しているので、自らをあくまでも「(シスジェンダーの)男性」と認識している。よって〈女性〉としての“当事者性”を主張することはないが、かといって“男性目線”で「百合」を消費しているなどと、私の内面など知るはずもない赤の他人から頭ごなしに決めつけられるのは、やはり「クソくらえ」としか言い様がない。

* * *

いずれにせよ「百合特集」から「ヘテロ男性」の書き手を“一掃”せよ、といった排他的で不寛容な主張は、元をたどれば、ある種の「フェミニズム」の解釈に端を発しているようだ。

 

 

「フェミ勉」なるフェミニズム系の読書サークルを主宰し、自らも百合小説を執筆するという柳ヶ瀬舞(@yanagase_maiというフェミニストは、同誌における前回の「百合特集」に《男性たちの結託》による《百合の簒奪》を見出したのだという。

そのような物騒なものを、いったいどこに見出したのか。まず、それを立証しないことには話にならないはずだが、「フェミ勉」のnoteは昨年12月に開設されたようで何の説明もなかった。自らの掲げる思想について、言葉を尽くして世に問うという意志はないようだ(あるいはTLを2年分も遡れというなら傲慢である)。

しかしそこまで“当事者性”に拘泥するのであれば、ヘテロ男性」のみならず「ヘテロ女性」も排除しなければ辻褄が合わない。百合作品を手掛ける女性作家の大半が異性愛者(レズビアンから見れば非当事者)であるという実態を知らないわけではないだろう。

女性同士の恋愛やエロスにもとづく関係性を一過性のものと決めつけ、やがては男性を愛することをもって「女」の成長・成熟と見なす異性愛規範」は、当然ながら異性愛者の男性のみならず異性愛者の女性も共有している(さらには、じつのところ「レズビアン当事者」も「異性愛規範」を少なからず内面化しているのだが、そこまで言い出したらキリがないのでやめておく)。

しかるに「男性」を“一掃”するという暴力的な手段によってでしか「男性特権」を“解体”できないと信じて疑わない柳ヶ瀬の論理に則るのであれば、同様にヘテロ男性」はおろか「ヘテロ女性」をも“一掃”しないことには異性愛者特権」を“解体”できないことになる。

そこに思い至らない柳ヶ瀬舞というフェミニスト「男性特権」には過敏であっても「異性愛者特権」には鈍感なのであろう。

柳ヶ瀬は「百合」が“簒奪”されたというが、そもそもいつから「百合」がフェミニストのものになったのか。あらためて振り返るまでもなく現代の「百合」はオタク・カルチャーの一派であり(その意味では伊藤文學が70年代に定義した「百合族レズビアン当事者」ともニュアンスが異なる)、フェミニズム運動とは無関係に独自の発展を遂げてきた。その一方でフェミニストたちが持ち上げてきたのは、むしろ「BL」の方だったはずだ。

仮に「百合」とフェミニズムを結びつけようとする奇特な「フェミニスト団体」が存在したとして、それこそ柳ヶ瀬が主宰する「フェミ勉」のごとき数人規模のサークル活動にすぎなかったのではないか。そのような団体が、かつて実在したとして現実の「百合文化」の社会的認知と発展にどれほど貢献したといえるだろうか。

もとより私は男性であるが、他の男性ファンと“結託”などせず、独りで「百合」と向き合ってきた。自分なりに百合文化を研究するにあたって、色々な方の意見や証言を参考にさせていただいたが、記事を執筆するのも、百合作品を鑑賞するのも、全て「私」という個人の経験だ。

ひとえに男性である私が「百合作品」を嗜むのは、私自身の世界観を深め、豊かにするためであって、見ず知らずの誰かと“結託”したり、気に食わない他者を排除するためではない。

だから私は、百合作品を鑑賞するにあたって作者の性別など気にしないし、わざわざ詮索したいとも思わない。作者が男性(同性)であるからといって忌避することもなければ、ことさらに肩入れすることもない。今野緒雪の『マリア様がみてる』も、真田一輝(って男性作家だよね? 違ってたらごめんなさい)の『落花流水』も、私にとっては掛け替えのない宝物だ。

深く、豊かな「百合」の世界を、偏狭かつ独善的な政治的イデオロギーや身勝手なルサンチマンによって“簒奪”しようと目論む者こそ、「百合」の世界から“一掃”されるべきであろう。