これまでの検証を通して『琴崎さんがみてる』が「百合作品」ではなく、あくまでも「百合」をダシにした異性愛至上主義のラブコメディである事実が明らかとなった。
しかし、そうなると新たな疑問が湧くであろう。
「男女のラブコメディ」と割り切って読む分には面白いんじゃないの?――と。
これについては、まず繰り返し引用してきた、原作者・弘前龍によるTwitter上での独白に明らかなとおり、
そも『琴崎さんがみてる』とは弘前自身の《男性である自分が愛する女性と「百合」について語り合いたい》という超個人的な性癖を満たすために創られた作品である。
その歓びを一人で噛みしめるのも悪くありません。
— 弘前龍@琴崎さんがみてる (@ryu_hirosaki_17) 2021年9月8日
しかし、その瞬間、きっとムギちゃんも同じ歓びを抱いている……
私は、ムギちゃんと二人で、澪律の尊さを語り合いたいと願ってしまったのです。
それは世界に「俺」を介入させる行為であり、当時の過激派に殺されてもおかしくない思想でした。
(8/14)
『ねえ聞いて! さっき、唯ちゃんが梓ちゃんに……』
— 弘前龍@琴崎さんがみてる (@ryu_hirosaki_17) 2021年9月8日
嬉しそうに語るムギちゃんの笑顔を思い浮かべるとき……
そこには、聞き手としての「俺」が存在していました。
「俺」がいなければ、ムギちゃんは誰と唯梓を語ればいいのでしょうか?
※まだ菫が登場していなかった頃の話です。
(10/14)
ゆえにそれは《愛する女性と「百合」について語り合いたい》という特殊性癖を共有する男性読者のみが共感しうる世界観であり、
一般的な男性の百合ユーザーを含めた不特定多数の読者が感情移入することは、きわめて困難であると思われる。
また一方で弘前は『百合ナビ』のインタビューの中で『琴崎さんがみてる』を通して《百合に触れたことがないライトノベル読者にも、百合の素晴らしさを届けたい》《1人でも多くの読者が百合の沼に引きずり込まれてほしい》という狙いを語っている。
はたして、その目的は果たされているだろうか?
結論から言う――これもまた、明確に「NO!」だ。
なぜならば『琴崎さんがみてる』における「百合」は、
あくまでも作者の分身である男性主人公が、自分好みの美少女を独占するための口実でしかなく、
じつのところ、作品自体のテーマとは何の関係もないからだ。
その事実は、けっして下衆の勘繰りなどではなく、他ならぬ原作者・弘前龍自身のインタビューに明らかである。ふたたび『百合ナビ』の記事を引用しよう。
・YouTube版では語り部的な立ち位置の琴崎さんでしたが、小説版では琴崎さんの男性に対するトラウマをはじめとした暗い過去などにも触れており、一人の人間として深く掘り下げる内容となっております。
・小説版の主人公は男性ですが、百合を愛する同志として、ただ一人、琴崎さんの傍にいることを例外的に許された存在です。
裏を返せば【新堂瑛人】が〈男性〉でありながら《ただ一人、琴崎さんの傍にいることを例外的に許され》るためには、まず共通の趣味となる「百合」が必要となる。
とはいえ男女が同じ趣味を共有するということであれば「百合萌え」でなくとも、アイドルの追っかけだろうと登山だろうとフォークソングだろうと、他の趣味でもじゅうぶん成り立ってしまう。このままでは【瑛人】が【琴崎さん】の「傍」まで接近することはできても《ただ一人》《例外的に許され》るという寡占的・特権的立場を獲得するには弱い。
そこで原作者・弘前龍は、【琴崎さん】に「男性に対するトラウマ」を植えつけることによって、主人公以外の〈男性〉を排除することを可能とした。そしてダメ押しのごとく二人が通う学校には《全寮制オンリーの女子校から、自宅からの通学を含めた共学化への移行。》によって《お嬢様あふれるクラスに男子は俺一人という稀有なこと極まりない状況》が設定されている。
そして「百合」の世界観においても〈男性〉が必要とされないことから、同時に【琴崎さん】が〈男性〉から逃避する口実としても「百合」が機能することになる。
言い換えるなら【琴崎入愛】の人物造形において――というより、むしろ【新堂瑛人】が【琴崎入愛】を独占するという目的において「女性の百合萌え」と「男性に対するトラウマ」は、どうあっても不可分なのである。
そのような本作のテーマとは、やはりこれまで見てきたとおり
《女は男を愛するべきである》《男を愛することが女の成熟である》という異性愛至上主義と男尊女卑に他ならない。
じじつ【琴崎さん】が抱えていた「男性に対するトラウマ」は「百合」によっては癒されず、ただ「男(新堂瑛人=作者の分身)」を愛することによってでしか癒されない。
作品世界の中で「百合」すなわち女同士の愛は、それこそペットボトルのフタさえも男の手を借りなければ開けられないほどの、無力かつ卑小な現実逃避の手段にしかなりえていないのである。
じじつ本作の主人公たちは「百合好き」を自認しながら、その「百合」に対する評価と言えば、やれ美しいだの尊いだのといった表層的な次元に留まり、
なぜ異性愛者である自分たちが、女性間の同性愛を肯定する物語に惹かれ、追い求めずにはいられないのかといった根源的な問題については、いっさい省みられることがない。
従来、百合作品――ここではゼロ年代『マリみて』ブーム以降に隆盛した現在進行形の作品群を指す――に登場する男性キャラクターは多くの場合、女性キャラクター同士の恋愛を引き立てるための“当て馬”という位置づけがなされてきた。
裏を返せば、女性キャラクター同士の恋愛に男性キャラクターが絡むという設定自体は百合作品の定石ともいえる。kujira『GIRL×GIRL×BOY 乙女の祈り』、月子『彼女とカメラと彼女の季節』、しおやてるこ『レモネード』などが思い浮かぶし、
さらにいえばゼロ年代以降の百合文化を牽引した『マリア様がみてる』『青い花』『citrus』などがモロにそのパターンだった。
すなわち百合コンテンツのユーザーたちは『琴崎さんがみてる』について、たんに百合作品に男性キャラクターが登場するというだけの理由で拒絶していたわけではない。しばしば「百合に男が絡むなんて」といった短絡的な物言いも見かけるけれど、それは言葉の綾というものであり、誤解がないよう、くれぐれも強調しておかなければならない。
しかるに『琴崎さんがみてる』が批判されるべき理由とは、
そうした男性の異性愛者を“当て馬”に留めず、作品の主人公に据えた点に集約される。
たとえば前述した【瑛人】が見知らぬ女子からキスされる件には、
それを見た同性の親友の嫉妬心を煽情することで、二人は晴れて「百合カップル」になるという、これまた“お決まり”のオチがつく。
言い換えるなら、この二人の女性キャラクターはその片方が【瑛人】にキスした時点では「親友」の状態であり「恋人」の関係ではなかったわけが、
しかし作品のコンセプトと世界観に照らし合わせて、彼女たちが「百合カップル」になることは容易に想定できる展開であり、
なおかつ〈男性〉である主人公の立場からそのような女性同士の関係性に介入するという「ラッキースケベ」の趣向は、
やはり「百合に挟まりたい・混ざりたい男」の亜種でしかないのだ。
そして対するヒロイン【琴崎入愛】もYouTubeの時点では――〈同性愛者〉とまではいかなくても――少なくとも〈非異性愛者〉であったのに対し、
小説化に際して〈異性愛者〉という後付けの設定が加えられた。
【琴崎さん】が〈異性愛者〉であったという設定が、たとえ原作者の言うようにシリーズ制作当初からの構想であったとしても、
作品発表の時系列を追っていくと、ユーザーの立場からすれば、やはり性的指向が〈非異性愛者(≒同性愛者)〉から〈異性愛者〉へと転向したとしか捉えられないのである。
したがって『琴崎さんがみてる』という作品の世界観の基幹を成すのは、どこまでいっても男性主人公とヒロインの「異性愛」であり、
むしろ「百合」こそが『琴崎さんが見てる』という作品世界における男女のラブロマンスを引き立てるための“当て馬”にすぎないといえる。
『琴崎さんがみてる』は、さしずめそのような異性愛至上主義と男尊女卑の下に「百合」の存在価値を貶める作品だ。
そのようなものを通して「百合の素晴らしさ」が伝わることは、金輪際ありえないと断言できるし、
また仮にそのようなものによって「百合の素晴らしさ」に目覚めたという人がいたとしても、それはやはり異性愛至上主義に都合の良い「百合」のありようでしかないだろう。
もっとも、周知のとおり百合コンテンツの女性作家および女性ユーザーの大半は、いわゆる「レズビアン当事者」ではなく、異性愛者の女性たちである。
その意味で、女性異性愛者である【琴崎さん】が「百合」を嗜好することは、むしろ“現実的”ですらある。
しかし現実社会の力学に目を向けるのであれば、たとえ【琴崎さん】の性的指向や【瑛人】の性自認がどうあろうと、異性をパートナーとして選ぶからには、その誰しもが「異性愛者」としての社会的・政治的特権性から免れることはできない。
『百合ナビ』のインタビューにおいて原作者・弘前龍は主人公である【新堂瑛人】というキャラクターについて《自分自身が男であることに起因する「肉欲」への忌避感や罪悪感》を抱えた人物と語っていたが、
その「苦悩」を解消するにあたって弘前は、
あろうことか「女」の方から求めてきた(のだから仕方がない)という姑息なエクスキューズ――性加害者の典型的な言い分!――に逃げ、
そうした自身のアイデンティティにかかわる本質的な問題からは、とうとう目を背けたままである。
けっきょくのところ弘前龍という作家は、
自身が〈男性〉であり〈異性愛者〉であるという特権的な立場から「百合」を消費する行為の“業”と真摯に向き合うことなく、
たんに百合萌えなどと称する手前勝手な「肉欲」を満たすことしか頭になかった。
その“甘え”“驕り”こそが『琴崎さんがみてる』のもたらした一連の“惨状”の根源である。