百錬ノ鐵

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「必要条件」と「十分条件」を理解しない“クィア主義者”kazukazu(kazukazu881)が陥る「(裏返しの)性器至上主義」

(2021年10月26日 追記)

世の中には、論理的な思考がまったくできない人がいる。

中でもクィア理論(トランスジェンダリズム)」を信奉する人間に、それが多いと感じる。

クィア理論」は「理論」といっても、そのじつきわめて政治的なイデオロギーであり論理性とは無縁で、

むしろ性自認=善》《生物学的性別=悪》という極端な二項対立的世界観に依拠するカルト宗教と位置づけるのが妥当である。

 

 

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上掲のkazukazu(@kazukazu881 ※なおアカウント名は「kazukazu881」なのにハンドルネームは「kazukazu88」となっていてややこしいので、以下「kazukazu」で統一する)のプロフィールにはエキセントリックなポストモダン新左翼ラディカル・フェミニストクィアとある。

すなわちkazukazuはクィア理論の信奉者・支持者であり、以下に続くその知見もクィア理論の政治的イデオロギーに依拠するものと考えられる。ゆえにkazukazuを「クィア主義者」と位置づけることは何の問題もないであろう。

>同性愛者の全てが相手に惹かれる前に相手の性器や科学的に相手の生物学的性をいちいち確認する人たちだと思っているのですか?

あらためて確認しておくと「生物学的性別」とは、「性器の形状」のみならず、

性腺、乳腺、染色体、骨格、子宮の有無……など複合的に判断・判定される事柄である。

そのような「生物学的性別」を前提に恋愛やSEXのパートナーを選別する人、より正確にいうなら、恋愛やSEXのパートナーを選別する基準に「生物学的性別」を含めるという人に対して、

  • 生物学者でもないのに、どうして相手の「生物学的性別」が判断できるのか?
  • SEXする相手のホルモン量や染色体をいちいち調べているのか?

……などと食い下がるのはクィア主義者に特有の詭弁術だ。

しかしそのような問いが現状に即していないことは明らかだ。kazukazuの性的嗜好や政治的イデオロギーはともかく《英国の番組で裸の男女を下半身から明らかにしていって好みを選んでいくリアリティショー》といった番組が成立するということは、

性的対象の選別に「性器の形状」を含む考え方が、一般社会において広く共有・前提化されている証左と考えられる。それを「政治的正しさ」で頭ごなしに否定できるものではない。

元より、単純に誰かに“惹かれる”ことと、その人とSEXしたり性的なパートナーの関係性をもちたいと考えるかは別問題である。

前述のとおり「生物学的性別」自体が複合的な概念であるが、恋愛やSEXのパートナーを選別する上では「生物学的性別」のみならず、さらに性自認や性表現なども含めた、より複雑な判断が必要となる。

ゆえに「性器の形状」を含めた「複合的性別」を前提に恋愛やSEXのパートナーを選別する人が「性器の形状」のみならず同時に《見た目や声や匂い》にも“惹かれる”ことは何も矛盾しない。

性的対象の選別において「性器の形状」と《見た目や声や匂い》は、排他的な二項対立の関係性にあるわけではない。

さらにkazukazuは「同性愛」という概念の定義と、個々の「同性愛者」を自認・自称する人々――もっとも、その場合は「ゲイ/レズビアン」といったほうがいい――が、実際にどのような人を性的パートナーに選ぶかという問題を混同している。

このように「概念の定義」と「個別の事例」を混同するというのは、クィア理論の基本のき、ともいえる初歩的な詭弁術なので注意が必要だ。 

クィア主義者に特有の、なんとも嫌味ったらしい食い下がり方であるが、

しかしそれをいうのであれば、クィア主義者が絶対視する性自認ジェンダーアイデンティティ)」もまた、精神医学上の概念であり、

多くの場合は精神科医に診断されたわけではなく、当人が自分で主張しているだけである。 「生物学的性別」を判断できないのに、どうして「性自認」は勝手に判断できると思い込むのだろうか?

ホルモン量や染色体・遺伝子などと同様に「性自認ジェンダーアイデンティティ)」も“惹かれる時/惹かれる前に確認”できることではない。アイデンティティのような内面の問題を他人が窺い知ることはできないし、当人が公言していたところで人間はウソをつくこともありうる。

そも、たとえば単純に「女性が好き」といった場合に《※ただし性器の形状は「男性」に限る》《※ただしホルモン量は「男性」に限る》などと指定する人は、ごく稀であろう。

性別を一つの要素だけで決定するのではなく、複合的に判断するといっているのだから、個々の要素についていちいち詳細に“検査”する必要などない。

それでもホルモン量は、ヒトの骨格や肉付き、体臭などに影響を与えるし、SEXを快楽目的で行うだけなく子孫を残したいと考える人にとっては相手の染色体・遺伝子も重要な判断材料となるだろう。

すなわち生物学について専門的・学術的な知識をもたない人であっても、生物学の知見を利用することは可能である。電気工学の知識がない人であっても電子レンジを使って冷凍食品を温めるには何も不自由しないのと同じだ。

kazukazuの問題は十分条件」と「必要条件」の違いを理解していない点にある。

必要条件・十分条件は言葉の意味がわかれば理解できる!日常生活を例にわかりやすく | ここからはじめる高校数学

性的対象の「生物学的性別」を判断・判定する上で「性器の形状」は 「十分条件」ではないが「必要条件」ではあるという単純な事実が、イデオロギーに凝り固まった“クィア脳”には理解できないようである。

言うまでもなく「生物学的性別」が「性器の形状」のみによってされるわけではないということは、

裏を返せば「生物学的性別」の定義から「性器の形状」を除外する理由にもならないし、ましてや「性器の形状」が「生物学的性別」と“関係ない”と結論付けることもできないということだ。

そも女性ホルモン(エストロゲン)は卵巣から、男性ホルモン(アンドロゲン)は精巣(睾丸)から生成されるし、ホルモン量はペニスの機能にも影響する。じじつトランス女性の多くが女性ホルモンの摂取を望まないのは、その作用によって勃起力や精液量が弱まり、SEXの快感が減退すると考えるためだ。

この事実をもってしても「生物学的性別」の概念・定義から「性器」を除外すべきであるとするkazukazuの主張はあまりに非現実的で、トランス当事者の実感からも乖離している。

そしてこうした奇妙な切断処理が、まさに「性器の形状」で《性別》を判断することは《トランス差別》であるとするトランスジェンダリズムクィア理論)を、ゲイ/レズビアンセクシュアリティに敷衍した結果であることは言うまでもあるまい。 

したがって、

>性器を重視しない同性愛者はいくらでもいるわけで。

これは論理が飛躍しすぎで、一目見ただけではさっぱり意味が分からないだろう。

ようするに「生物学的性別」が「性器の形状」のみによって決まるわけではないことから、

kazukazuは「性器の形状」が「生物学的性別」と“無関係(!?)”であり、

ゆえに「生物学的性別」を前提に恋愛やSEXのパートナーを選別するゲイ/レズビアン《性器を重視しない同性愛者》である

……という帰結を導き出しているのだ。

しかし「生物学的性別」には当然「性器の形状」も含まれるのだから、その「生物学的性別」を前提に恋愛やSEXのパートナーを選別するゲイ/レズビアンが「性器」を“重視する”ことは自明である。

このような論点の摩り替えは、つまるところ性的対象の選別に当たって「性器」を“重視しない・すべきでない”というkazukazuの価値観(=クィア理論)を、ゲイ/レズビアンに押しつけているにすぎない。 

これはリプライ元の

《性器を含めて同じ生物学的性に惹かれる人たちは、生物学的性が同じパートナーを探す権利があるし、それを「差別」であると考えることはおかしい》

といった主旨の(きわめて的確な)意見への回答であるが、

そのような【生物学的性が同じパートナーを探す人たち】すなわち【トランスの男性や女性とホモセクシュアルな関係になることを望まない人たち】に対して

《もっと言えば、トランスの男性や女性とホモセクシュアルな関係になっても全然良いですね。》と返すのは、文章がまるで繋がっていない上に、

けっきょくは生物学的性が異なる【トランスの男性や女性】をパートナーの候補に加えるべきだという「クィア理論」を押しつけているのである。

【トランスの男性や女性】とのホモセクシュアルな関係》を拒むことによって「差別(シスセクシズム)」と見なされるのであれば、

それは自由な選択とはなりえず、強制力をもつことになる。

なぜならばゲイ/レズビアンが「差別(シスセクシズム)」から脱却するためには【トランスの男性や女性】を性的パートナーの候補に加える他ないという論理的帰結が導かれるからだ。

これがクィア理論(トランスジェンダリズム)に見るダブル・バインド(二重拘束)の罠である。

またそのようにしてkazukazuが、レズビアンをトランス女性とSEXさせることに執着していることからもわかるとおり、

元より《もし彼女がトランスジェンダーであっても愛しますか?》という問い自体が、

レズビアン」の性的主体性(性の自己決定権)を肯定・尊重するものではなく、

そのじつ「レズビアン」を「トランス差別主義者」に仕立て上げるためのレトリックにすぎないのだ。

ゆえにkazukazuの主張するとおり《性器を重視しない同性愛者はいくらでもいる》ことは、こうした“問い”の投げかけを正当化するものではない。

なぜならばセクシュアリティというプライベートな領域の問題について赤の他人が問い質したり、また他者に向けて事細かに語ることを強要すること自体が、

文字通りの「セクシュアル・ハラスメント(性的嫌がらせ)」以外の何物でもないからだ。

ましてや【生物学的性が同じパートナーを探す人たち】に対して

《科学的に相手のホルモン量や遺伝子検査をするということでもないですよね?それなら、何で生物学的性を判断するのでしょう?》と食い下がるといった、

陰湿かつ強迫的な「セクシュアル・ハラスメント」を「ポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)」の名の下に正当化する性差別思想が「クィア理論」であり「トランスジェンダリズム」なのである。

他方で、べつにクィア主義者から強制されるまでもなく、ゲイ/レズビアンの中にも【トランスの男性や女性】を性的パートナーとして選ぶ人は存在する。

だが、それはクィア主義者およびトランス主義者のいう「トランスの権利」だとか「政治的正しさ」の問題ではなく、たんなる個人の「性的嗜好の問題でしかない。

否、むしろそれ(トランスパーソンとの恋愛やSEX)を同性愛者の「性的指向(同性指向)」を理由に強要する試みこそ、

まさしく同性愛者の「性的指向」を理由とした「差別」に他ならない。

ポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)」を錦の御旗に掲げながら《Personal is Political(個人的なことは政治的なこと)》と称して個人のセクシュアリティにまで干渉する「クィア理論」および「トランスジェンダリズム」は、そのじつ政治的にちっとも“正しく”ないのである。

(文脈を考慮すると「一つの生き方」というのは「各々の生き方」と言い換えたほうが適切であろうが、さておき)

そのじつkazukazuは、人間の複雑で多元的な性的嗜好を「性器の形状」と「それ以外」に二元化しているにすぎない。

言い換えるなら、人間の性的嗜好について

「性器の形状」のみを“唯一の”判断基準とするか?

あるいは「性器の形状」を“完全に”除外するか? 

……というオールオアナッシング的な二者択一でしかとらえられない浅ましさが“クィア脳”なのである。

(そして「全か無か?」「善か悪か?」「敵か味方か?」といった単純かつ極端な二元論・二項対立を強いるのもカルトに特有の世界観である)

そして“もっと言えば”上掲したkazukazuの《性器を重視しない同性愛者はいくらでもいる》という的外れなトンデモ回答は、

たとえば「レズビアンは女同士でSEXするから変態だ」というヘイトスピーチに対して、考えなしに「性欲を伴わない同性愛もあるのだ」などと返してしまうようなもので、けっきょくは《レズビアン差別》を追認するものにしかなっていない。なぜならば《性欲が伴わない同性愛もある》にもかかわらず【女同士でSEXするレズビアン】は、やはり「変態」であるから「差別」されても仕方がないという結論が導かれてしまうからだ。

kazukazuのレトリックもこれと同じで、現実の「レズビアン当事者」を《トランス女性とSEXできる“政治的に正しいレズビアン》と《トランス女性とSEXしない“政治的に正しくない(間違った)”レズビアン》に二元化した上で、後者の「レズビアン」に対する「差別」を正当化しており、すなわち「レズビアン当事者」の中にも分断と「差別」の構造をもたらすものである。

こうしたクィア理論(トランスジェンダリズム)の排他的な二項対立的思考こそ、 むしろ裏返しの「性器至上主義」に陥っている皮肉を自覚すべし。