百錬ノ鐵

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レズビアンの「性の自己決定権」の正当な行使を妨げる「恥」の倫理

(2019年8月4日 タイトル変更)

(2019年11月20日 加筆修正)

 

 

これはまさに私が指摘している、レズビアンがトランス女性を性的対象に含めないことは「自由」だけれども「差別」であることには変わりない、というクィア理論やトランスジェンダリズムダブル・バインド(二重拘束)を端的に表すものだ。

もっとも文中に「レズビアン」という言葉を巧妙に避けているし、生物学的性別を前提に恋愛やSEXのパートナーを選別するという意味では異性愛者も含まれるけど、プロフィール欄に《差別はみんなダメだけど現在特にMtF差別に反対。》と記載していることから、今話題の急進的・先鋭的なトランス/クィア活動家とレズビアンの対立をめぐる論争を前提にしていることは明白なので、ここでは「レズビアン」に焦点を当てて話を進める。

また「属性」ということであれば、当然ながら「トランス女性(MtF)」だけでなく「シス男性」も含まれるのだろう。つまり井上は、レズビアンが「非異性愛」という自らの性的指向を“口に出す(対外的に表明、カミングアウトする)”こと自体を《恥ずかしいこと》と決めつけた上で、そうした非異性指向を有するレズビアンに向けて「受け入れられることを求めて口に出すな」と恫喝するのである。

これは取りも直さず、レズビアンが男性(異性)を愛さないことを《成熟拒否》と決めつけた上で《男性(異性)を愛すること》を要求・期待する異性愛至上主義の焼き直しでしかない。

ただ、レズビアンに対して《トランス女性を愛すること》を要求・期待する文脈において、実質的に「トランス女性」は「男性」のジェネリック(代替)としてレズビアンに差し向けられているにすぎない。

ようはレズビアンに対して《トランス女性を愛すること》を要求・期待する者こそが、まさしく「トランス女性」を「男性」の立場に縛り付けて“男扱い”しているのである。

そも、生物学的性別を前提に恋愛やSEXのパートナーを選別するレズビアン(の多く)は、生物学的性別を前提にパートナーを選ぶといっているだけで、トランス女性が除外されることは結果論でしかない。

なぜならばレズビアンが生物学的性別を前提にパートナーを選別することは「トランス女性」のみならず「シス男性」も性的対象から除外されるのであり、その意味では特定の「属性」を排除しているとは言えないからだ。

それをむりやりMtF差別》に結び付け、あたかもレズビアンが「トランス女性は生理的に無理」と“口に出”しているかのように印象操作するのは、それこそ《MtF差別に反対。》を建前とした《レズビアン差別》を煽動する「ヘイトスピーチに他ならない。

だいたい、なぜ人間の「属性」と「人間性」を排他的な二項対立に設定する前提を、井上は疑いもしないのだろうか。

生物学的性別を前提に恋愛やSEXのパートナーを選別する、といっても実際には「生物学的性別」だけで判断しているわけではなく、性自認や「人間性」も含めて、複合的・多元的に判断しているということだ。

その意味では性自認が〈男性/女性〉でありさえすれば「生物学的性別」はどうでもいいと言っている人こそ、むしろ人間の《性別》を一元的にとらえている。もちろん、そうしたセクシュアリティも尊重されるべきではあるけれど、いずれにせよトランス女性を性的対象にすることは「人権」でも「政治的正しさ」でもなく、「性的嗜好」の問題でしかないという《認識はもっと広がるべき》である。

井上のプロフィールを見ると、

いろんな国のいろんな人と話して、いろんな生き方を学ぶのが好き。差別はみんなダメだけど現在特にMtF差別に反対。デミ&グレイセクシュアルでデミ&グレイロマンティック、パンセクシュアル。人と人とのつながりは最終的に全部友情に基づいていると思う。 一定数通知が来ると通知切っているのでリプ見えないことが多いです。

……とあるけれど、「レズビアン」という生き方についてなにも学んでいないし、パンセクシュアルというより、異性愛至上主義が形を変えた両性愛至上主義者」にすぎないようだ。

  • なお、言うまでもなく「パンセクシュアル(全性愛)」と「バイセクシュアル(両性愛)」は意味合いが異なるのだけれど、同性愛者(非異性愛者)に対して《性別を前提しない恋愛やSEX》を要求・期待することは、結果的に《異性を愛すること(の要求・期待)》になること、またパンセクシュアルがどのように人を愛そうと相手の側(の多く)にはそれぞれの《性別(性自認)》があることから、こうした文脈ではやはり「全性愛至上主義者」ではなく「両性愛至上主義者」と呼ぶのが適切であろう。

* * *

その上で、井上の議論は、レズビアンがトランス女性と《セックスしない自由》については「権利」として“守られるべき”と認めながらも、それを“恥”という「倫理」によって妨げようとしている点が独特といえる。

レズビアン」がトランス女性を性的対象から除外することについては、二通りの解釈がある。

すなわちそれが「差別」であるとして頭ごなしに“糾弾”される一方で、それ自体は正当な「権利」であり「差別」には当たらないと認めながらも、特定の属性や身体的特徴をもつ人々を性的対象から除外することは“恥ずべきこと”であるとする「倫理」である。

両者は「差別」の認定については正反対に見えるが、じつのところレズビアン」がトランス女性を性的対象から除外するという事象をネガティブ(否定的)な状態としてとらえ、そうした正当な「権利」の行使を“糾弾”に見せかけた恫喝によって妨げようとしている点で、本質的に何ら変わりはしない。

「権利」と「倫理」の衝突をめぐるこうしたダブル・バインドは、「権利」と「倫理」がそのじつ別次元に帰属することに端を発している。ようは正当な「権利」の行使に対して、「倫理」という別次元のレトリックを持ち出すことで、その妨げを試みるものである。

仮に「権利」の行使が「倫理」によって批判される事態がありうるとすれば、それは「権利」の行使が他者の「権利」を侵害する場合であろう。しかし「レズビアン」がトランス女性を性的対象から除外することについて、それが「差別」ではないという立場を取る以上、なおもそれを「倫理」にもとづいて“糾弾”するのであれば、もはや「倫理」としての正当性すら放棄した“言いがかり”にすぎないことを露呈する格好となる。

ようはレズビアン」がトランス女性を性的対象から除外することは「権利」であると認めながらも、それが心情的には気に食わないということだろう。しかしそのような心情に何ら正当性がない以上、理性によって矯正されるべきであり、それこそ《その意見を受け入れられることを求めて口に出すな》との有難きお言葉をそっくりお返しする他ない。

* * *

かようにしてマイノリティの「権利」は、つねに「倫理」によって抑圧されてきた。

生活保護バッシング、ブラック企業、「在日特権」デマ――これらの社会問題は、法で定められた正当な「権利」の行使について《恥ずかしいこと》という「倫理」を植えつけることで、法によらずとも人間の「権利」を制限することが可能であるという事実を示す負の証左である。

「権利」があるからといって、何をしても許されるわけではない――このような「倫理」に基づいて、実質的に「レズビアン」は「性の自己決定権」を制限される。言い換えるなら「レズビアン」がトランス女性を性的対象から除外する「権利(性の自己決定権)」があること自体は認めながらも、それを行使することを“許さない”という、欺瞞に満ちたダブル・バインド(二重拘束)だ。

しかし実際には逆で、たとえ法的に「権利」が与えられていたとしても、それだけでは不十分であり、併せてそれを妨げられることなく行使できる環境を整えなければ画餅(画に描いた餅)と化すのである。

井上は《いろんな国のいろんな人と話して、いろんな生き方を学ぶ》より前に、小学校の「しゃかい」の授業から「人権」を“学ぶ”べきだろう。 

 

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※ 2019年11月20日現在、上掲したプロフィールの文言は削除されている。