百錬ノ鐵

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《女性差別》の構造を無視する「TRA学者」西條玲奈(r_saijo)の“差別的態度” #TRA学者の言いなりになんてならない

「TRA」とは「Trans Rights Activist」の略で《トランスジェンダーの権利》を主張する人を指す。

トランスジェンダーの権利》を主張するトランス当事者が、かならずしも政治的イデオロギーとしての「トランスジェンダリズム(※男女間の生物学的差異を否定し、当人の自己申告にもとづく「性自認」だけで性別を決定しようとする先鋭的・急進的な思想)」を支持するとは限らないのだが、

こと「TRA学者」といった場合は、おうおうにして当人はトランスジェンダーの当事者ではないシスジェンダーであるにもかかわらず、自らの政治的イデオロギー(社会構築主義クィア理論など)を実証するためにトランスジェンダーの運動を都合良く利用している事例が目につく。

 上掲の、まさしく絵に描いたようなステレオタイプの「TRA学者」である西條玲奈@r_saijo)による「論文」も、小難しい言い回しや用語で学術的に装ってはいるけれど、つまるところツイッター上に蔓延るトランス主義者の独善的で凝り固まった世界観を焼き直したにすぎない代物だ。

以下「論文」から引用していく(なお読みやすさを考慮し、原文にはない改行を加えた個所がある)。

シスジェンダーとは、典型的には、出生時にわりあてられたジェンダーと当人のジェンダーアイデンティティに不一致がない人を指す。男女どちらかの性質を人に割り当てる社会の二元論の枠組みにさしたる困難を覚えずに済んでいる人と言ってもよい。

すなわち《男女どちらかの性質を人に割り当てる社会の二元論の枠組みにさしたる困難を覚えずに済》むことを、西條を始めとするトランス主義者(TRA学者)たちは「シス特権」と呼んでいるようだ。

しかし《男女どちらかの性質を人に割り当てる社会の二元論の枠組み》について《さしたる困難を覚えずに済んでいる人》が「シスジェンダー」であると仮定するならば、トランスジェンダリズムを批判することでトランス主義者から「シス女性」のレッテルを貼られている女性たちの大半は、それに当てはまらない。

  • 元より《出生時にわりあてられたジェンダーと当人のジェンダーアイデンティティに不一致がない》ことと《男女どちらかの性質を人に割り当てる社会の二元論の枠組みにさしたる困難を覚えずに済んでいる》ことは同義ではない。
  • 《出生時にわりあてられたジェンダーと当人のジェンダーアイデンティティに不一致がない》ことは、たんにそれ以上でもそれ以下でもなく、本来であれば何らかの主観的・批判的な価値判断を伴う表現ではない。
  • そこをいくと男女どちらかの性質を人に割り当てる社会の二元論の枠組みにさしたる困難を覚えずに済んでいる人》という表現《さしたる困難を覚えずに済んでいる》などと「シスジェンダー」の内面までも一方的かつ一律的に決めつける勝手な思い込みに根ざしたものであり、そのじつトランス主義者が「シス女性」とカテゴライズする人々を“他者化”“悪魔化”するのに都合良くミスリードした曲解に他ならない。
  • よって、西條は両者を《言っても(言い換えても)よい(意味は同じである)。》というが全然よくない。
  • それにしても「わりあてる」だか「割り当てる」だか、どっちかにしてほしい。

なぜならば、

 シスジェンダーミスジェンダリングの害を回避できるのはなぜだろうか。

 その人のジェンダーアイデンティティと異なるジェンダーを他人が割り当てること自体はシスジェンダーに対しても生じうる。3節で、体格や服装、髪型などの特徴が男性のジェンダーマーカーとして機能し、「男性」として特定されたシス女性のケースを取り上げた。シス女性であってもこの間違いを不快に感じることはありうる。

 しかし、トランス女性に対するミスジェンダリングとシス女性に対する誤解は概念的に異なる。シス女性は生まれてから、通時的に固定したジェンダー帰属を享受している点にある。見知らぬ人から誤解されることがあるにせよ、このシス女性は公的な身分証明書の性別欄に「女性」と記載され続けてきたし、仕事に就く時、また医療的処置を受ける時に、自分のジェンダーアイデンティティを疑われる懸念をもつこともない。ジェンダー帰属の通時的固定性をもつがゆえに、この人は常に女性として自分の人生を見通して行動できるという感覚、すなわち自尊(self-respect)を備えている(cf. Kapusta 2016, 505)。

ミスジェンダリングがあろうとなかろうと、出生時に「女性」として“わりあてられた”人は、例外なく「女性」として「差別」を受ける。これが《女性差別》の構造であるからだ。

そのような《女性差別》の構造においては「女性」がジェンダー帰属の通時的固定性」「常に女性として自分の人生を見通して行動できるという感覚」を得たとしても「自尊(self-respect)」を得ることにはけっしてつながらない。

むしろ《女性の自尊》を挫くことによって「女性」が「男性」に依存せざるをえないように仕向け、また同時に「男性」が「女性」を“所有(モノ扱い)”しやすい環境を整備することこそが《女性差別》の構造に他ならないのだ。

他人にジェンダーが判断される場合、ジェンダーマーカーが判断の根拠として機能するのは、シス女性もトランス女性も同様である。それにもかかわらず、アイデンティティと一致したジェンダー帰属を求めて女性のジェンダーマーカーを備えるトランスジェンダーのみ非難し、シス女性を非難しないならば、その態度は差別的といえるだろう。

そもジェンダー規範が批判されるのは、それがジェンダーマーカーによる“らしさ”の押しつけにとどまらず、社会最大のマジョリティであるシスジェンダー男性異性愛者の「女性」に対する“性的モノ化”のまなざしやミソジニー(女性蔑視)を内包しているためである。

「女性当事者」自らが、そのような「男社会」で生き抜くうえで、あるていど女性蔑視的価値観を内面化してしまうこと自体はやむをえない側面もある。だが「女性当事者」の中には、そうした「男性」の価値基準に過剰適応するあまり、他の「女性」を迫害・抑圧することで“成り上がり”を画策する者もいる。

フェミニストは、そのような「名誉男性」に対しても“非難”を向けてきた――具体的には杉田水脈曽野綾子、柴田英里、鈴木涼美春名風花など――のであり、西條ごときにトランスジェンダーのみ非難し、シス女性を非難しないならば、その態度は差別的といえるだろう。》などといわれる筋合いはない。

また、これが「トランス女性」の場合であれば、たとえばテレビのバラエティ番組などで、俗にいう「オネェタレント」が若い女性タレントに対して「毒舌」と称するセクシュアル・ハラスメントやヘイトスピーチを浴びせる光景は珍しくない。

ところがトランス主義者(TRA学者)たちは、そのような「トランス女性」の“差別的態度”については積極的に“非難”することなく不問とし、それこそ《「シス女性」のみ非難し、トランスジェンダー(トランス女性)を非難しない》という“態度”を取っている。こうしたトランスジェンダリズムの御都合主義こそ“差別的”であるとして“非難”に値するだろう。

ジェンダー帰属の通時的固定性をもたない場合、同じ社会の「女性は脚の体毛を剃るべきだ」というジェンダー規範の違反や批判を行うことは、よりリスクを伴うものになりうる。

ジェンダー帰属の通時的固定性に基づく自尊を備えたシス女性でれば、この違反によって「女性なのに女らしくない」という非難を向けられることは予想するかもしれない。しかしこの非難はその人がジェンダー規範に違反することに向けられてはいても、本人が女性であることを否定するものではない。

対して、ジェンダー帰属の通時的固定性を持たない場合、「脚の体毛を剃らない」という行動が女性ではないことのジェンダーマーカーとして機能することを考慮せざるを得ないかもしれない。すなわち「やはりあなたは女性ではない」というミスジェンダリングを引き起こすリスクを予想する可能性がある。他人からのミスジェンダリングを回避しようとすれば、ジェンダー帰属を安定させる必要が生じる。そのために強力なジェンダーマーカーを備えることは、個人の意志に基づく選択としてのみならず、不利益を免れるための必要な手段ともいえるだろう。

たしかにトランス女性が《他人からのミスジェンダリングを回避》するために《強力なジェンダーマーカーを備え》た結果としてジェンダー規範の批判》に晒されるのだとすれば、当人としては甚だ不本意な事態であろう。

だが、当人が望む望まないにかかわらず、必然して獲得してしまうのが「特権」なのである。

たとえば社会最大のマジョリティである「シスジェンダーの男性異性愛者」が、いくら真摯に自らの“特権性”を自己批判したところで「特権性」から“免れる”ことなどできない。そしてその“特権性”を指摘すること自体は「非難(批判)」ではないし、まして「嫌悪」にも「差別」にもあたらない。

あるいは身体女性が「男性」にトランス(性別移行)したとしても、今度は「トランス男性」として「差別」を受けるだけであり「シス男性特権」を獲得することは不可能である。

言い換えるなら、出生時に「男性」として“わりあてられた”人であれば、その後の「性自認」のありようによってマジョリティにもマイノリティにもなりうるが、出生時に「女性」として“わりあてられた”人は「性自認」がどうあろうと「マイノリティ」にしかなりえないということである。

したがって、仮に「シス特権」なるものが存在するとしたところで、それに当てはまるのは「シス男性」のみであり、身体女性は何らその恩恵を受けていない。「シスジェンダー」の一語の下に、この〈男/女〉の社会的・政治的非対称性を無視しているのだから、トランスジェンダリズムはすでに前提から破綻している。

* * *

もっとも一方で「女性」や「トランスジェンダー」にかかわらず、「差別」が機能する社会においては誰しもが――被差別の当時者であっても!――必然して「差別」の構造に加担しうるという考え方はできるし、その意味で「トランス女性」だけをあげつらうのだとすれば、たしかに《その態度は差別的といえる》かもしれない。

だが、それを“いう”のであればレズビアン」の多くが生物学的性別を基準に恋愛やSEXのパートナーを選別すること――より正確には、恋愛やSEXのパートナーを選別する基準に「生物学的性別」を含めること(そしてその結果として「トランス女性」が一般的な「レズビアン」の性的対象から除外されること)――を以て「シスセクシズム(シスジェンダー至上主義?)」と“非難”する、トランス主義者(TRA学者)の「言説」こそが、むしろ《レズビアン嫌悪》であり“差別的”である。

また、こうした文脈における「レズビアン」とは主として「シス女性」が前提とされるが、実際にはトランス女性であっても身体女性のみを性的対象とし、トランス女性は含まないという人が少なくない。それにもかかわらず《「シス女性(のレズビアン)」のみ非難し、トランス女性を非難しないならば》やはりそうしたトランス主義者およびクィア主義者の《態度は差別的》といわざるをえないだろう。

元より「女性」を愛して「男性」を愛さない「レズビアン」が「性別」で人間を“差別”しているというのは、典型的な《レズビアン嫌悪言説》であるが、トランスジェンダリズムおよびクィア理論においては、その「男性」を「トランス女性」に置き換えただけで本質的には何も変わっていない。これは言うなれば「トランス女性」を「男性」のジェネリック(代替)として「レズビアン」に差し向ける行為である。

しかしここで重要なのは、そのようにして「トランス女性」を実質的に“男扱い(ミスジェンダリング)”しているのが、「トランス女性」を性的対象に含まない「レズビアン」ではなく、「レズビアン」に対して「トランス女性」を性的対象として差し向けるトランス主義者およびクィア主義者の側だという点だ。

あるいは「差別」が機能する社会においてはどのようなセクシュアリティであってもて「差別」の構造に結びつきうるのだという「原罪論」をぶちたいのであれば、それこそレズビアン」だけをことさらにあげつらうのは論理矛盾であるし、まさに「レズビアン」を“特殊視・異常視”する「偏見」以外の何物でもあるまい。

あまつさえ、そのようにして「レズビアン」が生物学的性別を基準に恋愛やSEXのパートナーを選別することを「差別」と断じる(こと自体の“差別性”には無自覚・無頓着である)一方で、《トランス女性のふるまいや行動》における「差別(=「女性」に対する悪性のステレオタイプを強化する)」の可能性の指摘に対しては“差別的”として退ける――このようなトランスジェンダリズムダブル・スタンダードこそが“差別的”ということだ。

だいいち一口に「トランス女性」といっても、いかにより「強力なジェンダーマーカー」を身に着けることによって「シス女性」に近づけるかの度合い(いわゆるパス度)は「当事者」ごとに異なり、その中でヒエラルキーが存在しているのが実情である。

また一方で「トランス女性」を性的対象に含むという人であっても、じつのところ相手が「トランス女性」でありさえすれば誰でもいいわけではなく、おうおうにして“パス度”の高い「トランス女性」を選ぶ傾向にある。これは「トランス女性」が、実質的に「シス女性」のジェネリック(代替)として扱われている実態を示す証左であり、形を変えた「シスセクシズム」の構造を見て取ることができる。そのような「シスセクシズム」に基づいた「トランス女性」内部のヒエラルキーにおいて【パス度の高いトランス女性】の特権性を指摘せざるをえない。

繰り返すが“特権性”を指摘すること自体は「非難(批判)」ではないし、まして「嫌悪」にも「差別」にもあたらない。だが、マイノリティの《正当な権利(この場合はレズビアンの「性の自己決定権」の行使)》を「特権」と呼ぶこと、あるいは100パーセント正当な権利の行使を1パーセントでも不当だと言い募ることは、それ自体がマイノリティの権利の正当な行使を妨げる「ヘイトスピーチに他ならないことも忘れてはならない。