百錬ノ鐵

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婚活メディアで「男とセックス出来るレズビアン」を自己アピールする某女性ライターの責任と“特権性” #ちょうどいいブスのススメ #人生が楽しくなる幸せの法則

(2019年2月2日 加筆修正)

女性芸人・山崎ケイの著作をTVドラマ化した『ちょうどいいブスのススメ』が、すでに放映前から炎上(その結果、放映前の時点で『人生が楽しくなる幸せの法則』に改題が決定)している最中。

とある婚活系の女性メディアに掲載された、毒親育ち・既婚・レズビアンフェミニストミサンドリー(男嫌い)・元ビッチ・オタク・百合好き・ADHD・婦人科系疾患治療中で妊活中》なる肩書の女性ライターが当該ドラマの企画を酷評した内容の記事が流れてきた。

なお、以下に当該の女性ライターの提唱する「観念」について批判的な議論を展開するが、以下の理由により、本稿においてはあえて名前を伏せることにする:

  • じつのところ“そのような「観念」が存在すること(ならびにそれをこうして取り上げること)”自体が「レズビアン」に対する誤解や偏見を助長しかねない(ほどの悪質さを内包している)。
  • 現時点では世間的にまったく無名の人物であるが、やはりこうして取り上げることによって注目を浴び、不相応な影響力をもってしまう可能性がある。

近い将来、当該の女性ライターが牧村朝子氏並の知名度をもつようになったら名指しで批判するようになるかもしれない。

また当該メディアは《今を生きる女性に、表面的なモテテク、婚活や「世の中に押しつけられた女性像や常識」に縛られない自由な選択肢を提案》すると謳っているものの、その運営基盤は「結婚支援事業」を中心としたサービスを女性ユーザーに“提供”する株式会社であること。加えて当該の女性ライターがまさしく「婚活」に特化した情報を発信していることから、本稿においては便宜上「婚活メディア」と称することにする。
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000052.000018971.html

女性ライターは、当該メディアにおいて「レズビアン」である自身が女性との恋愛に“疲弊”し、男性との「法律婚」「友情婚」を選択した経緯について連載している。

https://am-our.com/marriage/539/15293/?p=2
 一口に「恋愛対象が女性」と言っても様々なグラデーションがありますが、私は「心が恋愛として求めるのは女性、セックスは男女どっちとも出来る」という感じ。なのでよく「男とセックス出来るレズビアン」と名乗っていました。セクシャリティで言うならバイセクシュアルに分類されると思います(セクシュアリティは誰にも侵されない、あくまでも自分で決めるものだと思うのですが、往々にして「はぁ?男とセックス出来るならビアンじゃなくてバイでしょ(怒)」みたいな主張を押し付けられることがあるのです。もっと自由であれ~)。

そも《女性は男性と結婚すべきである》というジェンダー規範に囚われている時点で「不自由」きわまりないように思えるが、それはさておき現実の「レズビアン当事者」のありようはたしかに多様で複雑だ。

レズビアン」はしばしば性的指向(セクシュアル・オリエンテーション)と混同される。しかしじつのところ、それは「セクシュアル・アイデンティティ(性的主体性)」として位置づけられるべき概念である。

よってこのことから女性ライターのように実際の性的指向は「バイセクシュアル」であっても、性的指向にはグラデーションがあるため、その比率によっては女性の方が好きだから「レズビアン」を名乗るという人も少なからず存在する。性的主体性(セクシュアル・アイデンティティ)の観点からすれば、そのような「当事者」のありようも尊重されるべきであることは言うまでもない。

だが同時に、そのような「当事者」のありようが「レズビアン」に対して《男性を愛すること》を要求・期待する「SOGIハラ」の正当化に利用されかねないことについても、じゅうぶん注意が必要だ。

  • むろん、この場合の“愛する”にはセックスや結婚の可能性も含まれる。
  • じつのところセックスも結婚も、恋愛感情(あるいは性欲)がなくても物理的ないし法律的に成立するけれど、後述するとおり議論の本質はそうした個別の事例ではなく、異性愛至上主義社会の構造を読み解くことにある。

連載を通してうかがい知れるのは、女性ライターがそのじつ「レズビアン当事者」のコミュニティの中に居場所がなく、孤立しているのではないかということである。

異性愛至上主義を基幹とする現代社会。「レズビアン」が《男性(異性)を愛さないこと》を理由に迫害され、《男性(異性)を愛すること》を要求・期待されている実情がある中で「男とセックス出来るレズビアン」などと声高に主張すれば、他の「レズビアン当事者」から顰蹙を買うのは当然であろう。レズビアン・コミュニティの排他性や閉鎖性をあげつらう声も聞かれるが、レズビアン・コミュニティがそのような排他性・閉鎖性を獲得しなければならなかった社会的・政治的経緯について何ら考慮しないまま、上から目線で杓子定規の「政治的正しさ」を“押し付ける”のは、それこそセクシュアル・マイノリティに対するパターナリズム以外の何物でもない。

もっとも、性的指向性自認に関わらず身体的に健康であれば誰もが《男とセックスする》ことは“出来る(物理的に可能である)”だろう。しかしここで問われるべきなのは、そうした“可能性”ではなく、当人がどのようにありたいかという“主体性(アイデンティティ)”であるはずだ。

言い換えるならレズビアン」が《男とセックス出来ない》ことが「不自由」なのではなく、《男とセックスしない》という“主体性(アイデンティティ)”が否定されていることこそが「不自由」なのである。

元より《男とセックス出来る》ことは男とセックスする人の問題であって「レズビアン」の問題ではない。よって「男とセックス出来るレズビアン」などと、「レズビアン」を《男とセックス出来る》か否かによって分類・分断する議論は前提からして破綻していと言わざるをえない。

概念の定義を議論するにあたって、個別の事例を持ち出すのは詭弁であるし、その逆も然りだ。個別の「当事者」の事例がどうあれ「レズビアン」という概念自体は《男性を愛さない女性》というセクシュアリティ(性のありよう)を可視化するために存在する。そこへきて《男とセックス出来る》ことを「レズビアン」の定義に包括するなら、そのような概念定義(の曲解)を通して「レズビアン」が《男性とセックス出来る》ことを要求・期待される事態となる。

実際、女性ライターは「フェミニスト」の立場から「ちょうどいいブス」というキャッチコピーの根底にある「ミソジニー(女性蔑視)」については「最悪でクソ」「黙れクソ」「クソみたい」「クソミソジニー」「ゲンナリ」「はぁ?????」などの語彙を駆使して強烈に“DISる”一方で、《レズビアン差別》の問題については「レズビアン当事者」の立場から言及すらしない。

婚活メディアを利用する女性は多くが異性愛者であることから《レズビアン差別》の話題は読者の関心を惹かないものと思われる。しかし、だとすれば女性ライターが女性異性愛者向けの婚活メディアに連載するコラムであえて「レズビアン」を自己アピールする必要もないはずだ。

それをわざわざ強調するのはレズビアン(非異性愛者)」が〈男性(異性)〉とセックスや結婚をするという意外性によって“キャラが立つ”と判断しているためだろう。上掲引用箇所に見たとおり、率直に言ってライターとしての技量は低く、セクシュアリティ以外に注目を集める要素が皆無であることは当人がいちばんよくわかっているのかもしれない。

たとえば同一の論旨で『ちょうどいいブスのススメ』批判を展開した他媒体の記事と比較すれば文章力や情報量、見識の差は歴然である:

「ちょうどいいブス」は処世術だが女性蔑視でもあり、呪いでもある|WEZZY
https://wezz-y.com/archives/62013

繰り返すが、いかなる「レズビアン」のあり方であってもそれ自体は否定されるべきではない。「男とセックス出来るレズビアン」が《レズビアン差別》に利用されるのは、あくまでも「男とセックス出来るレズビアン」を《レズビアン差別》に利用する者の問題であり、個々の「当事者」に責任はない、と言われればそれまでだ。

だが、その論法に倣うなら、まったく同じ理屈で「ちょうどいいブス」も肯定されてしまう。「ちょうどいいブス」が「ミソジニー」に利用されるのは、あくまでも「ちょうどいいブス」を「ミソジニー」に利用する者の問題であり、「ちょうどいいブス」を目指す山崎ケイに責任はない、と。

しかしここでいう問題の本質は、「ちょうどいいブス」や「男とセックス出来るレズビアン」といった自己実現にあるのではなく、そのような観念・表象をマスメディアの上で提唱する者の社会的・政治的責任こそが、まさしく問われているのではないだろうか。

性的指向アイデンティティに関わらず、すべての女性に《男性(異性)を愛すること》ことが規範化されている異性愛至上主義社会においては、レズビアン」であっても《男とセックス出来る女》こそが「正しいレズビアン」と見なされる。ゆえに同じ「レズビアン当事者」の中でも「男とセックス出来るレズビアン」は、〈男性(異性)〉とのセックスを望まない「レズビアン」と対等ではありえない。

むろん女性ライターは、他の「レズビアン」のありようを見下したり否定したりするつもりはないと言い張るだろう。だが、そのようにして自己の社会的・政治的特権性に無自覚・無頓着でいられること自体が「特権」に他ならない。

げんに「レズビアン」が《男性を愛さないこと》を理由として迫害や蔑視に晒されている状況下で「男とセックス出来るレズビアン」という“キャッチコピー”が社会的・政治的にどのような意味をもつか、メディアに携わる者は自覚すべきではないか。「当事者」であることは、その免罪符にならないはずだ。

まして女性ライターは、男性との「法律婚」を主体的に選択したことにより、婚姻制度が根源的に内包する社会的・政治的権威性に加担している事実に変わりはない。それにしても、婚姻制度の問題はまさしくフェミニズムのテーマの一つであるのに、「フェミニスト」を自認する女性ライターがその社会性・政治性に何の疑問ももたないばかりか「婚活」の指南までしているのは解せないところだ。

レズビアン」が「性的指向」と同義ではないように、異性愛者」もたんに「性的指向」を表すばかりでなく、異性愛至上主義社会における社会的・政治的な立場性を示す概念である。ゆえに〈男性(異性)〉との「法律婚」を選択することは、いかなるセクシュアル・アイデンティティをもとうと必然して「異性愛者」としての社会的・政治的立場性とそれに伴う特権性を獲得することになるのだ。

  • なお近頃は「クィア理論」の観点から「同性婚」の法制化も婚姻制度の強化につながるとして頭ごなしに否定する論調が幅を利かせている。
  • しかしそのような「クィア主義者」は《同性愛者が同性と結婚すること》については反対する一方で、「レズビアン(非異性愛者)」が〈男性(異性)〉との「法律婚(異性婚)」を選択した場合については何ら批判しないどころか「性的指向」の可変性・流動性を示す“生き証人”として持て囃すのである。
  • こうしたダブル・スタンダードは「クィア運動」の本質が、そのじつヘテロセクシズム(異性愛至上主義)が形を変えたバイセクシズム(両性愛至上主義)にすぎない事実を端的に物語っている。

私は別に、女性ライターに「『男とセックス出来るレズビアン』という生き方は間違っているから改めろ」と言うつもりはない。彼女自身が自己実現として「男とセックス出来るレズビアン」を自分ひとりで勝手に目指すだけならどうぞ好きにしたら、と思うだけだ。

しかしそれを、あたかも良いことのように「これが正しい『レズビアン』の生き方」と言わんばかりに提唱されると、ちょっと待てと言いたくなるのだ。

SOGIハラは笑えないし、「異性愛者」に「レズビアン」のセクシュアリティをジャッジする権利はないという声を上げる人が少しずつ増えてきているとはいえ、まだまだ世の中は「異性愛者」優位で、息をするように《レズビアン差別》をする人が多くいる。

そんな世の中で「男とセックス出来るレズビアン」のようなものが持ち上げられたら、「やっぱり『異性愛者』にとって都合よく生きるのが『レズビアン』の処世術なんだな」と思ってしまう「レズビアン当事者」や、ヘテロセクシズム(異性愛至上主義)の呪いに傷つけられる「レズビアン当事者」が出てくることは自明だ。

あと何より面倒くさいのが「『男とセックス出来るレズビアン』を目指せる『レズビアン当事者』って分かってるよな」「『男とセックス出来る』って他でもない『レズビアン当事者』が言ってるんだから」というクソみたいな言い訳をクソみたいな差別主義者(異性愛至上主義者)に与えてしまう可能性がある。ていうか既に鬼の首でもとったみたいこういうこと言ってるやつ、山ほどいると思うけど。 

元ネタはこちら:
https://am-our.com/marriage/539/16024/?p=2

私は別に、山﨑ケイに「ちょうどいいブスという考え方は間違っているから改めろ」なんて言うつもりはありません。彼女自身が処世術として「ちょうどいいブス」を自分ひとりで勝手に目指すだけならどうぞ好きにしたら、と思うだけです。

しかしそれを、あたかも良いことのように「これが賢い女の生き方」と言わんばかりに提唱されると、ちょっと待てと言いたくなるのです。

容姿いじりは笑えないし、男性に女性の容姿をジャッジする権利はないという声を上げる人が少しずつ増えてきているとはいえ、まだまだ世の中は男性優位で、息をするように女性差別をする人が多くいます。

そんな世の中で「ちょうどいいブス」のようなものが持ち上げられたら、「やっぱり男性にとって都合よく生きるのが女性の処世術なんだな」と思ってしまう女性や、ルッキズムの呪いに傷つけられる女性が出てくるかもしれません。

あと何より面倒くさいのが「“ちょうどいいブス”を目指せる女って分かってるよな」「“ちょうどいいブスを目指せ”って他でもない女が言ってるんだから」というクソみたいな言い訳をクソみたいな男に与えてしまう可能性があります。ていうか既に鬼の首でもとったみたいこういうこと言ってるやつ、山ほどいると思うけど。