百錬ノ鐵

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#新潮45 「差別者」に“対話”“理解”を求めるべきと主張する作詞家・小室みつ子(miccorina)氏との議論をインタビュー形式でまとめてみた。 #杉田水脈 #小川榮太郎

(2018年12月8日 加筆修正)

新潮社「新潮45」2018年8月号に掲載された、自由民主党議員・杉田水脈のLGBTに対するヘイトスピーチ(以下「杉田事件」)。そして同誌10月号に掲載された自称「文藝評論家」小川榮太郎による、杉田擁護にかこつけたさらなるヘイトスピーチ(以下「小川事件」)が、その内容の深刻さと常軌を逸した醜悪さによって大きな波紋を呼び、同誌を休刊にまで追いやったのは周知のとおりです。

そんな最中、Get Wild』『SEVEN DAYS WAR』などTMネットワーク(およびTMN)の代表曲を含む歌詞の大半を手掛けたことで知られる、作詞家の小室みつ子氏(@miccorina)が、「杉田事件」および「小川事件」をめぐる一連の「論争」についての見解をTwitter上で表明しました。

しかし氏の主張は、要約すると「非当事者」が「当事者」を“置き去り”にして「差別者」を“罵って”いる(ように小室みつ子氏には見えるらしい)、“罵り”ではなく“対話”“理解”を求めるべきである、といった(事実認識からして履き違えている)薄っぺらで偽善的な「どっちもどっち論」であり、首をかしげざるをえないものでした。

氏の主張の内容に疑問を抱いた私が、氏のツイートを引用する形でリプライをしたところ、即座に小室氏よりリプライがあり、議論が展開されました。

その結果、私自身も「当事者」の【小さな声たち】を“置き去り”にして「自身の掲げる主義主張」や「正義を主張する」ために「当事者たち」を利用する「差別者」である、とのレッテルを貼られてしまいました。

ここで私自身の名誉を回復する意味も込めまして、また何よりも差別問題をめぐる「非当事者」のあり方を考える上で、小室みつ子氏と私のリプライをインタビュー形式でまとめてみたいと思います。インタビュー中に引用したツイートのURLは省略しました。必要な方は当方のTwilogから当日のツイートを辿ってください。

当日のTwilog
https://twilog.org/herfinalchapter/date-180924 

(「杉田事件」直後の2019年7月に投稿された小室みつ子氏のツイート)

あまり具体的に触れたいとは思わなかったけど、長年の友でもあり、ゲイでもある人を通じて垣間見る世界。皆それぞれ違う。カミングアウトしたくない人もいる。好きな人と法律的にもパートナーとして認められたいと思う人もいる。 理解がない人を「差別者」として罵ることで彼らが生きやすくなるのかな
https://twitter.com/miccorina/status/1022006010507079680

どんな運動にも言えることだけど、生き方を決めるのは当事者。 理解が足りない故に言葉の選び方を間違える、そういう人たちに理解をしてもらうのは罵りではないと思うのですが…。余計にLGBTへの反発が強まる恐れさえあるのではと危惧します。 法律整備は私は賛成です。選択肢があるだけでも違う。
https://twitter.com/miccorina/status/1022007397156573184

これは典型的な論理の摩り替え。杉田水脈ならびに小川榮太郎ヘイトスピーチ(さらにはそれらを無批判に掲載した「新潮45」)に抗議している人々は、ただヘイトスピーチをやめろ」と言っているだけであって、LGBTを“理解”しろなどとは言っていません。

そも「非当事者」がLGBTを“理解”してあげるという発想自体が傲慢ですし、また“理解”できなければ「差別」をするという短絡的な発想もさらに間違っています。

いまさら言うまでもありませんが、LGBTに対する偏見は、100%偏見をもつ側の問題です(さらに言えば、偏見がおうおうにして無理解に根差しているからといって、“理解”をすれば偏見がなくなるという単純な話でもない)。それなのに小室みつ子氏は、なぜ偏見そのものを批判せず、偏見を批判する側にばかり責任転嫁するのでしょうか?

元より、公の場でヘイトスピーチ(差別煽動表現)を放言する人物を「差別者」と呼ぶことは、適切な人物評であり、なぜそれが“罵り”になるのでしょうか? そのようなものは小室みつ子氏の勝手な印象にすぎないでしょう。
 
たしかにヘイトスピーチに抗議する人々の中には、過激な表現をする人も含まれているかもしれません。しかし、そのような一部分だけを取り出して抗議活動全体をあげつらうのは、「差別」に抗議する人々に対して聖人君子のような振る舞い(過度な潔癖さ)を要求することになります。裏を返せば「差別者」の側は「被差別者」の粗探しをすることで、「差別」に対する告発・批判を一方的に無効化し続けることができるのです。

こうした小室みつ子氏のアンフェアな議論は「差別」に対する抗議活動を萎縮させ、実質的に「差別者」を利するものでしかありません。 

(2019年9月「杉田事件」と「小川事件」を総括する小室みつ子氏のツイート)

自分のこの投稿(註:上掲の「杉田事件」関連ツイート)をRTをしましたが、書いたのは7月です。ほぼ同じ趣旨の投稿があってそれをRTしたので、私も同じように思っていたので…。 当事者それぞれの気持ちが置き去りにされて「善意」の異性愛者たちが誰かを罵倒する不思議…。
https://twitter.com/miccorina/status/1043887846182907904

最近SNS疲れしています; 延々と続く論争。納得できるところは歩み寄る、互いを尊重して意見として耳を傾ける。それをする方たちを見るとホッとしますが、意見が違う相手をただ罵るだけの投稿を見ると、それで何が変わるのだろう…ずっとこれが続くのかな…と思って見るのをやめることが多いです。
https://twitter.com/miccorina/status/1043890411188580352

当事者たちの、それぞれに違う小さな声を拾う人は少ない。私も全て見ているわけではない。私自身が異性愛者だから当事者それぞれを理解できるわけでもない。小さな声たちに耳を傾ける発言力のある方たちに密かに期待するのみです。
https://twitter.com/miccorina/status/1043891167488700416

あらためて読み返すと、興味深いことに気がつきました。

小室みつ子氏の態度は、まさしく《小さな声たちに耳を傾ける発言力のある方たちに密かに期待するのみであり、小室みつ子氏自らが言葉のプロとして「小さな声たちに耳を傾け」た上で「それぞれに違う小さな声」とやらを主体的に“発言”するつもりなどさらさらない(もっとも、そのような試み自体が良いか悪いかは別として)ということです。

ようは、どこまでも他人任せの他力本願。ふわふわとした薄っぺらなポエムを垂れ流しながら、自分自身は「差別」の抑止に向けて何もせず、ただ「差別者を“罵る”人」を高みから見下して一方的かつ一面的に論評する、小室みつ子の無責任で不誠実な姿勢が、冒頭から如実に示されています。

* * *

聞き手:百合魔王オッシー(@herfinalchapter)

――杉田水脈氏ならびに小川榮太郎氏のヘイトスピーチを読んだ上で、こういった皮相な感想しか出てこないということは、けっきょくのところ「異性愛者」「非当事者」である小室みつ子氏がヘイトスピーチの被害を“他人事”として過小評価しているからだと思いますよ。

小室 他人事と思うのなら別に言及しません…。

――同性愛を「生産性」がないと決めつけた上で「痴漢」のような性犯罪と同一視する「意見」の、いったいどこに“尊重して”“耳を傾ける”べき要素があるのでしょうか?

小室:そういう人の考え方を変えるにはどうすればいいのか、その先のことを考えて書いています。LGBT当事者である方たちの意見もRTしたのですが(引用者註:後述)、その方たちのご意見も読んでくださるとありがたいです。

――同性愛を“理解”できなくてもヘイトスピーチの問題は“理解”できませんか? 小室みつ子氏はご自身を「異性愛者(非当事者)」の安全圏に置いた上でヘイトスピーチを放置する言い訳をしているだけに見えますね。

小室 飛躍がすごいですね。私の過去のツィートを読んでいただけたら幸いです。

――同性愛を“理解”できないことと、マイノリティに対してヘイトスピーチという言葉の暴力をぶつけることは全く違います。《生き方を決めるのは当事者》とおっしゃいますが、「非当事者」である貴方がご自身を棚上げして上から物を言うのも“違う”のではないですか?

小室 (質問に答えず)何故私にだけリプライするのですか? 当事者の方たちのRTをしているのに、その方たちには同じリプライはなさらない? 私が異性愛者だからですか。 私は長年の友である人、そして彼の恋人や友達が生きやすくなることを願っています。それだけです。

  • これにはすっかり面喰ってしまいました。小室みつ子氏が「当事者」をダシにしておかしなことを言っているのだから、その反論は「当事者」ではなく小室みつ子氏に向かうのが当然だと思うのですが……?
  • 小室みつ子氏自身が異性愛者」としての“非当事者性”を強調した持論を展開しておきながら、都合が悪くなると「当事者」に責任転嫁するというのは、あまりに無責任なのでは?

小室 すみませんが、当事者たちはあなたにとって何なんでしょう? ご自身の掲げる主義主張のための存在に思えてきます…。私は非当事者ですがLGBTが世間から反発を受けることなく、当事者が居心地の悪い思いをしないで自然に浸透することを望んでいるから言及しました。

  • 「当事者たちはあなたにとって何なんでしょう?」このような質問には、どう答えれば納得するのでしょうか。そも私は初めからヘイトスピーチについて議論しているのであり、「当事者たち(この場合はLGBT)」については何も言っていません。よって「何なんでしょう?」と訊かれても、答えようがありません。
  • だいたいヘイトスピーチに抗議するにあたって、私個人がLGBTについてどう思うのかなど何の関係もありませんし、ましてや見ず知らずの小室みつ子氏に私の内面を詮索される筋合いもありません。

――同性愛を“理解”できない人はたくさんいるでしょうが、そういった人々のすべてがヘイトスピーチをするわけではありません。
 ヘイトスピーチをする人がいるのは、まさにヘイトスピーチが許される風潮が社会にあるからで、小室みつ子氏の言説がそれに加担しかねないことを危惧しています。
 そして杉田氏や小川氏に抗議する「異性愛者」は「当事者」を代弁したいわけはなく、ヘイトスピーチを許容しないという意志を社会に表明しているのですよ。
 言葉のプロである小室みつ子氏の目にはたしかに乱暴で粗削りに映るでしょうが、それこそ言葉尻をとらえず、もう少し寛容になられたらいかがですか?

小室 当事者の代弁ではないのですね? では、当事者のそれぞれの気持ちはどうなるのでしょう。なんなのでしょう…。

――そもそも私の掲げる「主義主張」とは「何なんでしょう」? 私はLGBTの「当事者」に向けて何も要求していませんが。
 むしろ小室みつ子氏こそ《被差別者ないし「差別」に抗議する人は世間から反発を受けるような行動をするべきではない》という“主義主張”を掲げていらっしゃるようにお見受けします。
 「当事者」が「差別者」と対話を求めることが否定されるべきではありません。ただ、小室みつ子氏や私のような「非当事者」の立場から対話だの理解だのを求めるのは、やはり無責任に思えるというだけです。
 また、問題のヘイトスピーチは本当に悪質かつ深刻なものなので「非当事者」でも抗議する人はいますが、抗議活動の中心になっているのはあくまでも「当事者」です。
 それなのに「当事者」が「非当事者」から置き去りにされていると印象付けるのは、「当事者」の“怒り”の主体性を否定することにはなりませんか?

小室 (返答はなし。これにて終了) 

すみません、いろいろツィートしてお騒がせしました; 同じ属性に見えたとしても、個はそれぞれ思いも考え方も違うよね……ってのを伝えたかったのですが。長引いてしまいました。 おやすみなさいー。
https://twitter.com/miccorina/status/1043916814143475713

こんにちは。もうひとつだけ書かせて。 問題になっている当該の雑誌にはゲイ当事者の文章も載っています。だから読んでもらって考えてもらいたいという当事者もいる。 「ゲイを理解してない人やこんな雑誌は潰せ」 これゲイだけの問題じゃないです。焚書のような流れは私達全ての首を締めます。
https://twitter.com/miccorina/status/1044177937379938304

あの議員さんはどうしようもないですが、「謝れ」と言われて謝ったとして、それで世間の理解が深まるのかな…。発言しないけど偏見が深くなる人もいるのではと危惧。
雑誌は個別の方針があるので、それが良くなければ自然に淘汰されるでしょう。炎上については、周りも騒ぎ過ぎのように思えます。
https://twitter.com/miccorina/status/1044219171897131008

「ゲイを理解してない人やこんな雑誌は潰せ」

“潰せ”などという物騒なことは、誰も言っていません。なんだか小室みつ子氏を見ていると、「差別」に抗議する人々に“歩み寄る”“耳を傾ける”どころかその実態についてロクに調査も検証もしないまま、あやふやかつ一面的な印象に基づいたレッテルを貼りつけ、頭の中で勝手にモンスターを作り上げているかのようです

元より杉田水脈氏ならびに小川榮太郎氏のヘイトスピーチに抗議している人々は、たんに掲載誌の休刊・廃刊を要求しているのではありません。そのようなヘイトスピーチが掲載されるに至った経緯を検証した上で、再発防止の手立てを講じてほしいと訴えているのであり、休刊・廃刊自体に反対する人もいます。

その意味でヘイトスピーチに抗議する人々は、新潮社に対して、まさしく小室みつ子氏の言うとおり「個別の方針」“良く”するための働きかけをしているのです。そのような働きかけを、なぜ小室みつ子氏はくだらない難癖をつけて“潰そう”とするのでしょうか?

ヘイトスピーチを掲載する雑誌に「個別の方針」があったところで、それが外部の働きかけを受けず“自然に”良くなることも淘汰されることもありえないのは、「杉田事件」がエスカレートする形で「小川事件」が引き起こされた経緯にも明らかです。

その意味では“騒ぎ過ぎ”どころか、まさしく小室みつ子氏を含めた私たちの「社会」がマスメディア上のヘイトスピーチを放置してきたことのツケが「杉田・小川事件」なのであり、その是正に向けた働きかけを“モンスター化”して妨げる小室みつ子氏は、やはり控えめに言っても「差別者」の加担者に他なりません。 

いえ、城戸さんが申し訳なく思うことなど全くないです; 私が誰とかも関係ないと思います。彼にとっての正義を主張したかったんだと思います。私はその方法に同意できなかったですが…。それだけです。こちらこそ、お気遣いまでさせてしまい、すみません。
https://twitter.com/miccorina/status/1044223218557444096

「私にとっての正義」とは、それこそ「何なんでしょう?」。有名な作詞家の先生が、社会問題について基礎的な知識もなく頓珍漢な持論をぶっているのがたまたま目に入ったから、あまりにも痛々しくてつい突っ込みを入れてしまっただけなのですが……。

それにしても《私自身が異性愛者だから当事者それぞれを理解できるわけでもない。》ということは、ようするに「異性愛者(非当事者)」である小室みつ子氏自身に「差別者」と“対話”する意思はなく、「当事者」に対して「差別者」との“対話”を要求することになるのでしょう。

しかしそれはけっきょくのところ「非当事者(異性愛者)」が安全圏から「当事者(LGBT)」を「差別者」の矢面に立たせることを意味します。なんとも身勝手で無責任な話です。

また、小室みつ子氏によれば「非当事者」が「差別者」を“罵る”ことで、LGBTが《世間から反発を受け》《居心地の悪い思い》をするとのことです。

一見もっともらしいようですが、そのじつ筋が通っていません。

「非当事者」が「差別者」を“罵る”ことで、「非当事者」が《世間から反発を受け》《居心地の悪い思い》をするならわかります。しかし、なぜ「非当事者」の代わりに「当事者」が《世間から反発を受け》《居心地の悪い思い》をすることになるのでしょうか?

それはけっきょくのところ「差別者」が「非当事者」をダシにして「差別」を正当化する言い訳をしているだけです。

仮に「差別者」を“罵る”ことで「当事者」が《世間から反発を受け》《居心地の悪い思い》をするのだとすれば、「当事者」が「差別者」を“罵る”ことは、もっとダメでしょう。だって「非当事者」よりも「当事者」が“罵る”ことのほうが「当事者」のマイナスイメージにつながるのだから。

つまり「差別」に対しての抗議活動をめぐる議論の中で「当事者/非当事者」の枠組みを持ち出すことは、たんに抗議活動を萎縮させる以外に、何の意味もないことにになります。

小室みつ子氏は、そのようにして「当事者/非当事者」の枠組みを恣意的に持ち出しながら、けっきょくは「当事者」による《表現・言論の自由》に基づいた主体的な抗議活動を「非当事者」の立場から妨げているにすぎません。

小室みつ子氏は、自身が言葉を生業とするプロの表現者でありながら《表現・言論の自由》に不寛容な人物であることが判明しました。

遡ること二十年前、TMネットワーク(TMN)の音楽と「言葉」とともに陰鬱な青春時代をくぐりぬけてきた私としては、あまりに非情で残酷な現実ですが、それもまた小室みつ子氏自身の“主体性”の行使であるというなら、受け止めるほかありません。

* * *

「杉田事件」および「小川事件」をめぐっては、「LGBT法連合会」「レインボー・アクション」など様々な当事者団体が抗議声明を発表していますし、またロバート・キャンベル氏や岡野千代氏など今回の件を機にカミングアウトした知識人もいます。 

杉田水脈議員「LGBTは生産性がない」論文の発表とその反響が(だいたい)わかる参考資料集|レイシズム監視情報保管庫
http://odd-hatch.hatenablog.com/entry/2018/09/25/180025

それなのに小室みつ子氏は、なぜそのような「LGBT当事者」の【声たち】を無視して、あくまでも「差別者」に抗議しているのは「非当事者(異性愛者)」である、という図式を作りたがるのでしょうか? そのような印象操作は事実に反しているどころか、「差別者」に抗議する「LGBT当事者」の当事者性・主体性を否定するものであり、タブロイド的な陰謀論の類と言っても過言ではありません。

《小さな声たちに耳を傾ける》ことは、「非当事者」が自分に都合の良い「当事者」の“声”だけを恣意的に抜き出して、持論の補強に利用することではありません。小室みつ子氏こそ《被差別者ないし「差別」に抗議する人は世間から反発を受けるような行動をするべきではない》という「小室みつ子氏にとっての正義を主張」するために、自分に不都合な「当事者」の【声たち】を“置き去り”にしています。

なおインタビュー中で小室みつ子氏が言及している「LGBT当事者である方たちの意見」とは、具体的にはゲイ作家・伏見憲明氏が主宰するLGBTメディア「A Day In The Life」と、当ブログではすっかりおなじみのバイセクシュアル作家・森奈津子氏によるツイートです。 

(2019年9月「小川事件」を受けて小室みつ子氏がリツイートした「当事者」のツイート)

90年代初頭、ゲイのセクシュアリティ本を出版することは大変だった。伏見の最初の本は、当時、上野千鶴子さんのフェミ本などで当てていた学陽書房へ持っていったのだが、編集者が企画を通すのは難航し、本ができた後でさえ、「えー同性愛!?」てな感じで営業さんにも一部書店さんにも不興を買った。→
https://twitter.com/noriakikoki/status/1043759046677782528

→ ちょっと前までみんな同性愛を差別してたからなあ。当事者だってね。自分たちですら自己肯定の言葉を持っていなかったのだから、とくに上の世代の人たちが差別的なのも仕方ないっちゃーしかたない。ここはそういう方々にも問題を共有してもらって、大いに学んでもらうのもいいかと。(伏見憲明
https://twitter.com/noriakikoki/status/1043762969551618048

たぶん、意識高い系ヘテロの方々でも、10年前とか20年前とかには、性的マイノリティを差別してたんだと思うよ。だって我々、嘲笑してOKの「変態」「犯罪者予備軍」扱いだったもん。で、意識高いだけに、そんな自分の「黒歴史」が許せなくて、今、過剰なまでに「新潮45」を叩いているんだと思うよ。
https://twitter.com/MORI_Natsuko/status/1043817023476625409

LGBT当事者が「新潮45をちゃんと読んでから批判してほしい。中には、我々を理解するためにも読んでほしい記事がある」と主張しても、読んでない異性愛者から叩きリプが来るぐらいだもの。もはや集団ヒステリーの域に入りつつあると思うよ。彼ら、三週間後ぐらいにハッと我に返るんじゃないかな。
https://twitter.com/MORI_Natsuko/status/1043818410566594560

「A Day In The Life」こと伏見憲明氏は(引用された箇所にかぎっては)ともかく、森奈津子氏にいたっては相も変わらず独善的な思い込みと被害妄想に根差した“下衆の勘繰り”でしかありません。

数ある「LGBT当事者である方たちの意見」の中から、なぜ「非当事者(異性愛者)」である小室みつ子氏が、わざわざそのような人物の「ご意見」を選り抜いて引用するのか? それこそ《ご自身の掲げる主義主張のため》に都合の良い「当事者の方たち」を利用しているだけでしょう。

《同じ属性に見えたとしても、個はそれぞれ思いも考え方も違う》というのであれば、「非当事者」としてすべきことは自分に都合の良い「当事者(個)」の言い分だけを鵜呑みにしたり利用したりするのではなく、「それぞれ」の言い分を検討した上で、やっぱり自分の頭で考えることだと思いますよ。 

<追記>
小室みつ子氏との議論(※上掲Twilog参照)の中で、「非当事者」が「当時者」の運動に口出しすべきではないといった旨の発言をしましたが、これはじつのところ私の本心ではなく、自身に対する批判の矛先を「当事者」に向けようとする小室みつ子氏の無責任かつ不誠実な態度を批判する意図のものでした。
時間をかけて推敲する記事とは異なり、リアルタイムでの対話ではこうした“言葉の綾”が生じる場合があります。が、いずれにしても私自身の「差別」に対する日頃のスタンスと矛盾する発言であるため、上掲インタビューでは削除させていただきました。
この場を借りて、謹んでお断りとお詫びを申し上げます。