百錬ノ鐵

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「百合展」狂騒曲~「百合」は「性」を排除できるか? #百合展 #百合展2018

(2019年6月26日 タイトルを変更し、加筆修正しました。なお当初の趣旨により文体が「です・ます調」となっています)

本題に入る前に、時間を昨年の7月までさかのぼります。

当時、欅坂46のアルバム『真っ白なものは汚したくなる』に収録されている『月曜日の朝、スカートを切られた』という曲が、実際の痴漢被害者からのクレームを受け、インターネット上で抗議の署名が集められるという事件がありました。

炎上! 欅坂46「月曜日の朝、スカートを切られた」はどこが問題なのか? 秋元康の歌詞にある女性蔑視思想(編集部)|LITERA(リテラ)
http://lite-ra.com/2017/08/post-3354.html

署名といっても、実質的にはプロデューサー兼作詞担当者である秋元康への意見表明であり、『月スカ』を発禁にすべきだとか公の場で流すなといった具体的な対応を要求するものではありませんでした。それに対して欅坂46のファンから、逆に秋元康に対して表現規制に屈するなと要求する署名や、また署名発起人の女性に対して抗議を取り下げるように要求する署名など、一つのアイドルソングをめぐっていくつもの署名活動が展開されるという異例の事態に発展しました。 
そんな中で、このような署名がありました。

【改稿版】秋元康氏は差別と暴力に関する声明を出すべきだ
※URLは長すぎるので省略。

発起人の濱公葉(正確には「濱 公葉 ◢│⁴⁶」と表記していますが、機種依存文字が含まれているため、本文では「濱公葉」のみの表記とします)なる人物は、自身も欅坂46のファンであり、ファンの間から件の歌詞に疑問を呈する指摘する声が上がったことは多様な意見を担保する上で有意義であると評価します。

ただ、その内容は『月スカ』を始めとする欅坂46の楽曲およびプロモーション・ビデオに対する濱公葉個人の評論や感想を長文で書き連ねたものであり、取り留めのない内容に辟易として途中で読むのをやめたという人が大半ではないでしょうか。なお一連の署名活動について、秋元プロデューサーをはじめとする関係者および欅メンバーからとくに声明が発表されることはありませんでした。

さて今年に入って、私はこの濱公葉の名前を、意外なところで目にすることになります。

ふともも展に続き「百合展」も中止に 「若者のマルイ」苦しい決断
http://news.livedoor.com/article/detail/14427300/

東京・池袋のマルイ池袋店で今月17日に開催される予定だったヴィレッジヴァンガード主催の「百合展2018」が、直前になって中止されたというニュースです。あらためて説明すると「百合」とは、いわゆる女性同士の恋愛(同性愛)をテーマにしたマンガなどの娯楽フィクションの総称です(なお上掲記事および「百合展」の説明では《女性同士の友情や恋愛を意味する》と書かれていますが、女性同士の「友情」がかならずしも「恋愛」に繋がるわけではないので、その定義は不適切です)。

註 なお「百合展2018」の東京開催は4月に延期され、会場は「ライトボックススタジオ青山」に移転とのこと。

百合展2018
http://yuriten.com/2018/

中止の決定を受け、女性ポルノ作家で自身もバイセクシュアル当事者である森奈津子(@MORI_Natsuko)が、Twitter上で声明を発表しました。 

https://twitter.com/MORI_Natsuko/status/973563128435757062
ふともも展を「性的」として抗議し中止に追い込んだフェミニストの皆様には、百合展が中止になった理由も、ぜひ、ご説明いただきたい。同性愛者差別的にならないよう説明することが可能ならば、ぜひ、ご教示ください。百合が性的?……当たり前だよ。百合は女性同士の性愛だ。性的に決まってるだろ。


https://twitter.com/MORI_Natsuko/status/973700365525778432
百合物というジャンルが確立していないうえに、同性愛者差別が人権問題だと社会で認識されていなかった四半世紀前から百合物・レズビアン物を書いてきた私には、わかる。このような作品を批判してくるのは「レズきもい」という差別主義者だけでなく、反ポルノ勢(中にはレズビアンもいる)でもあると。

 

https://twitter.com/MORI_Natsuko/status/973956734308855808
百合表現を「よい百合表現」「悪い百合表現」に分けて、「悪い百合表現」はレズビアン差別を助長するものとして叩く――どういうディストピアSFですか? そして「異性愛者向けの百合表現」があるとして、それのなにがいけないのでしょう? 異性愛者は百合物を楽しんではいけないのですか?


https://twitter.com/MORI_Natsuko/status/974223045668741120
レズビアンたちが百合展中止を嘆いている一方で、当事者ではない異性愛者女性や男性がレズビアン的表現を「よい百合」と「悪い百合」に分けて、「悪い百合」を排除しようとしているという、地獄絵図が展開されてますね。多数派の奢りに無自覚な多数派の、なんと多いことよ。


https://twitter.com/MORI_Natsuko/status/973769567699898368
百合展に対し「女性以外が見るのは、性的搾取だから中止になって当然」と主張されている方々には、バイセクシュアルの一当事者として申しあげたい。「我々女性同性愛者を、あなたがたの思想に都合よく利用するな。それこそ、我々に対する精神的レイプだ。傲慢なエセ人権派ども、すぐさま失せろ」と。

森奈津子の発言を補足しますと、上掲記事にあるとおり、そもそも今回の「百合展2018」の中止は、それ以前に同じ店舗で開催される予定であった「ふともも写真の世界展2018」が性差別的であるとの抗議を受けて中止となり、「ふともも展」でフィーチャーされていた写真家が「百合展」にも参加予定であったことから、その余波を受けて(いわば巻き添えを食らって)「百合展」のほうも取りやめになったという迂遠な事情があります。つまり「ふともも展」と異なり「百合展」に対しては誰からも抗議が来ていません。
「ふともも展」の内容およびその中止については、私はあえて評価しません。「ふともも展」を批判するのはいいとして、《性的消費》という概念はたしかに抽象的でわかりにくいですし、それなら他に“抗議”すべき差別的な表現(それこそ女性同士の恋愛を男性の代用だとか一過性の擬似恋愛と決めつけたり、女性同士のSEXを男女のそれよりも劣っていると決めつける異性愛者向けの恋愛コラムなど)は他にいくらでもあると思うからです。
ただ本件は別として、森奈津子は常日頃からバイセクシュアル女性としての当事者性を声高に主張しながらも、一方で自身も性差別的な発言を公然と垂れ流し、過去には当ブログでも批判したことがあります。

セクシズムを行使するのは「被差別者」ではなく【森奈津子】である
http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20140525/p1

もっともそのような「当事者」の言葉を借りるまでもなく《百合が性的?……当たり前だよ。百合は女性同士の性愛だ。性的に決まってるだろ。》《異性愛者は百合物を楽しんではいけないのですか?》という指摘自体は的確なものです。

https://twitter.com/MORI_Natsuko/status/973779814032306177
女性同士の愛がテーマの百合展がエロ本? あなたのようにレズビアンをエロ目線でしか見ることができない者どもに、我々同性愛・両性愛の女たちは苦しめられてきた。しばしばセクハラも受けてきた。あなたのような変なエロ目線の方はあっち行ってくださいね。気持ち悪いので。

 

https://twitter.com/MORI_Natsuko/status/973953049130450945
「男性目線のポルノ」などという女性の味方ぶった単語を使い、レズビアニズム表現をつぶそうとする……あなたこそ、レズビアンの敵では? そもそも、なぜ、あなたが「よい百合表現」「悪い百合表現」の線引をするのですか? 大変傲慢な態度ですね。驚かされました。

「ふともも展」がポルノであるかはさておき、少なくとも「百合展」の宣伝には「エロ本」呼ばわりされるに値する直接的・具体的な性表現はありませんでした。

たしかにトップページに飾られている男性写真家の、学生服を着た若い女性同士が薔薇を手に見つめ合うロマンティックな写真は、同時にモデルの女性たちの表情作りが巧みなこともあって、そこはかとなくエロスの匂いも感じ取れます。しかしこのていどの“エロティック”な表現なら、男女物のラブ・ロマンスや女性向けのファッション雑誌にはありふれています。

そのようなありふれた表現でさえ、女性同士というだけで異様かつ奇異なものに見られてしまうのは、

そのように見る側こそが、そも女性同士の恋愛ないしレズビアンの存在自体を異様かつ奇異なものとして捉える「レズボフォビア(レズビアン嫌悪)」を無意識の内に内面化しているにすぎません。

とはいえ、Twitter上では「百合展」中止の理由について「フェミ団体」ないし「LGBT団体」の圧力・検閲に屈したなどというまことしやかな憶測やデマが無責任に拡散されています。繰り返しますが「百合展」の開催を妨害した「フェミ団体」「LGBT団体」など現実にはいっさい存在しません。

一方で、「百合」というテーマが女性の同性愛という世間の偏見に晒されやすいセンシティブな要素を内包していることから、今回の「百合展」中止に便乗して「百合」に対するバッシングを行う者たちが(団体ではなく個人単位で)現れるようになりました。

しかしそれらは例外なく、当人の異性愛至上主義とレズボフォビアを表出しているだけであり――また例によって例のごとく、当人は他者の差別意識を賢しらにあげつらう一方で自身の内なる差別意識にはまったくの無自覚です――何ら傾聴に値しないどころか、それ自体がまさしくヘイトスピーチに他なりません。

そのようなセクシスト(性差別主義者)の中の一人が、なんと上述した濱公葉(@sin_itami)でした。

濱公葉は、今回の「百合展」中止を批判する森奈津子に対し、粘着的な罵倒を繰り返しています。しかしそれらは、自身の凝り固まった異性愛至上主義とレズボフォビアの差別的偏見をむき出しにした、きわめて差別的かつ醜悪きわまりないものです。

https://twitter.com/sin_itami/status/973923502842523649
性的じゃない百合だってたくさんありますよ。あなたは今、性的じゃない女性同士の関係性に萌える多くの人を敵に回しました。

 

https://twitter.com/sin_itami/status/973948883121287168
森さんご自身が過去形でしか表現していないことからも明らかですが、起源がいついかなる場合も現在の定義に当てはまるわけではありません。 私にケチをつけるのは構いませんが、百合と性的な要素を必ずしも結び付けない百合好きたちに対してもあなたは「去れ」と仰るのか?

濱公葉は、【百合好きたち】が百合作品における《性的な要素》のある表現――「百合展」もそこに含まれるという前提のようです――を是認・肯定することにより、《性的な要素を必ずしも結び付けない百合》が相対的に否定されるのだと言います。

しかし実態は真逆であり、濱公葉こそが《性的じゃない女性同士の関係性》を過剰かつ不必要に神聖視することで「女性同士の性的な関係性」という表現・解釈の可能性を一方的に否定・排除しているのです。

そも「性的じゃない女性同士の関係性」と「女性同士の性的な関係性」は言葉の上では矛盾しながらも、じつのところ共に「百合」すなわち女性同士の「恋愛関係」という事象を異なる側面から捉えた表現にすぎず、排他的な二項対立の関係にある事柄ではありません。ただ、現実のレズビアン当事者のありようと同様に「百合」の表現にも多様性があるというだけです。

元より、恋愛表現について“性的”であるか否かの判断をどのように線引きするのでしょう。たんにペニスを膣ないし肛門に挿入して射精することが「SEX」であるというなら、男性器をもたない女性同士は「SEX」ができないことになります。

あるいはディルドなどの道具を用いればいいのでしょうか。しかしいずれにしても「SEX」の成立にペニスが不可欠であるという固定観念は、まさしく「性」の意義を《生殖》に規定した上で、《生殖》に結びつかない女同士・男同士の「性」を《変態》として排除する、異性愛至上主義の最たるものです。

また女性同士にかぎらず人間の「恋愛関係」において、肉体的接触によるものでなくとも、なんらエロスや快感を伴わないのであれば、それのような「関係性」を「恋愛」と呼んで他の関係性から特化する必然性はありません。

すなわち「恋愛感情」と「性欲」の線引きも、本来であればあいまいなものであり、言うなれば「性欲」の一種として「恋愛感情」が位置づけられるという解釈すら可能なのです。

https://twitter.com/sin_itami/status/973943215228272647
「百合」とレズビアンには密接なかかわりがありますが「「百合」=レズビアン」では、ありません。「百合」は、女性同士の関係性について萌えの文脈が適用された場合に使われる用語です。(萌えとエロが必ずしも同じではないことは論をまたないと思います。)

たしかに、かつて「百合」の愛好者たちの間では、《性的じゃない女性同士の関係性》に終始する「百合物」と、《性的要素》の伴う「レズビアン物(レズ物)」が区別されていたといいます(これについては他ならぬ森奈津子自身が「百合姉妹」という百合作品の専門誌でそのように述べていました)。

が、それはあくまでも「百合」が社会的に認知されていなかったゼロ年代初頭までの話です。今ではポルノ漫画でなくとも、女性同士が性的関係に至る描写が登場する「百合漫画」は珍しくありません。

なぜなら、濱公葉が言うように「百合」を「百合物」と「レズビアン物」の二項対立で捉えるという発想は、まさしく「同性愛」の多様なありように「精神的な同性愛」と「肉体的な同性愛」という恣意的な線引きをした上で、《「精神的な同性愛」は認めるが「肉体的な同性愛」は許さない》という異性愛至上主義に基づいて〈同性愛者〉のありようを規定する《同性愛者差別》に他ならないからです。

そのような精神性偏重志向によって、よしんば「精神的な同性愛」だけは肯定されたように見えたとしても、それは異性愛至上主義に都合良く〈同性愛者〉のありようを限定した上で、異性愛至上主義に適応しない〈同性愛者〉がさらなる迫害を受ける状況を生み出すものであり、〈同性愛者〉自身の主体性および「性」の自己決定権を否定する《人権侵害》すなわち《同性愛者差別(レズビアン差別)》以外の何物でもありません。

註 ただ「百合」と「レズビアン」は異なるというのはたしかにそのとおりです。そも「レズビアン」という概念は、当人の自己認識に基づくセクシュアル・アイデンティティであり、そこをいくと一般的な「百合漫画」の中に「レズビアン」のアイデンティティを有するキャラクターは(一部の例外を除いて)登場しません。

加えて、男性器の伴わない女性同士の「性愛」を否定する考え方は、言い換えればSEXには〈男性〉の存在が不可欠であるとして(ゆえにそのような思想をもつ人は、女性同士がディルドを使用することも否定します)、女性同士の性的関係に〈男性〉が介入する行為を正当化するものです。

すなわち濱公葉が「精神的な同性愛」を特権化する一方で「肉体的な同性愛」を排除することは、

〈男性〉である濱公葉が〈女性〉のあり方を一方的に規定し、その〈女性〉を〈男性〉の支配下・庇護下に置くものであり、これは女性同士の「性」を否定しながらも、実質的には〈男性〉の〈女性〉に対する《性的搾取》の一種として位置づけられます。

そも《性的搾取》とは性的主体性の否定であり、〈男性〉である濱公葉が〈女性〉の性的主体性に基づく「性の自己決定権」を否定するのであれば、それは〈男性〉が〈女性〉の性的主体性に反して望まない性的関係を強要する行為の裏返しでしかありません。

そのようにして〈男性〉の特権的立場から「女性」の表現である「百合」に不必要かつ不寛容な分断と対立をもたらし、百合文化の多様性を否定する濱公葉のようなセクシストこそ、まさしく百合文化の「敵」と断定せざるをえません。

あるいは、このように弁明するかもしれません。濱公葉は、あくまでフィクションの「百合」についての持論を述べているのであって、現実社会の「レズビアン」を想定したものではない――と。

しかしそうであれば、まさに濱公葉が、フィクションの「女性」を表現する秋元康に対して「差別と暴力に関する声明」を要求する理由もありません。

私は件の『月スカ』の歌詞が、痴漢被害者に“泣き寝入り”を強いるものだとは思いません(そのような逐語的解釈は、いくらなんでも読解力がなさすぎです)。しかし、それでもプロの作詞家である秋元康が「痴漢」という現実社会の性犯罪、まして「スカートを切られた」という生々しい被害の体験を――たとえ欅のメンバーたちのような若い女性を抑圧する、理不尽な社会の「差別や暴力」のメタファーであるとしても――題材に選んだ以上、現実の痴漢被害者の存在について配慮することは必要であると考えます。

その意味で先述のとおり、欅坂46ファンである濱公葉が、秋元康に対して「差別と暴力に関する表明」を求めたこと自体は、勇気のある素晴らしいアクションと言えるかもしれません。

ところが濱公葉は、今回の「百合展」およびそれを支持する女性作家の森奈津子に対するバッシングを通して、レズビアンバイセクシュアルを含めた〈女性〉に対する、〈男性〉である自身の特権的な支配欲・庇護欲を露わにしたことで、皮肉にも自らの言葉を自分自身で否定する格好となってしまいました。

また森奈津子は「レズビアン」ではなくバイセクシュアルの当事者ですが、しかし女性(同性)との性的関係を公表する女性であるという側面においては「レズビアン」と同じ立場性を共有し、ゆえに《レズビアン差別》の対象となります。上述のとおり森奈津子自身が異性愛至上主義を内面化したセクシストであるとしても、その性的指向を理由に迫害されることが許されてはなりません。

その意味でも濱公葉の「ヘイトスピーチ」は、フィクションの「百合」に対する稚拙で時代遅れな持論の開陳(お断りしておきますが、それ自体が現実社会の「女性同性愛者」に対する「ヘイトスピーチ」に相当します)に留まらず、現実社会の「女性同性愛者」をダイレクトに攻撃・迫害している点で、何一つ擁護できる要素がありません。

https://twitter.com/sin_itami/status/973950424905539584

森奈津子先生から!
異性愛男性認定をいただきました!
ではここで私の中身をカミングアウトいたしましょう!
性的指向・嗜好はヘテロ寄りのジノセクシュアルフレキシブル!
性自認アジェンダー寄りのジェンダーフルイドです!
戸籍上の性別は男!
ポリアモリーロリコン

濱公葉の正体が、そのような異性愛至上主義と〈男性〉の特権性を笠に着た「レズビアン差別主義者」である事実は、濱公葉自身の性的指向とは何の関係もありません。

なぜなら異性愛至上主義は、現実社会の基幹を成す政治的イデオロギーであるがゆえに、性的指向に関わらず普遍的に共有することができるからです。それはまさに私が、かつてバイセクシュアル当事者である森奈津子の無自覚に内面化された異性愛至上主義について告発・批判したことと同じです。

同様に、濱公葉がどのような性自認をもとうと《戸籍上の性別は男》である以上は〈男性〉として〈女性〉に対する社会的・政治的特権性を享受し、ゆえにその社会的・政治的責務から免れることは不可能です。

ましてロリコンという、まさしく欅のメンバーたちを含めた若年層(グループ内のセンター・ポジションを務める「てち」こと平手友梨奈は若干16歳)の〈女性〉に対する性的搾取の構造と密接に結びついている「性的嗜好」を表明するならなおさらです。

あまつさえ濱公葉は、そうした政治的イデオロギーの問題を、自身のセクシュアリティの問題に摩り替えた上で「ジノセクシュアルフレキシブル」「アジェンダー」「ジェンダーフルイド」などといった一般的に認知されているとは言い難い難解な専門用語や概念を捲し立てることで、バイセクシュアル当事者の女性作家である森奈津子に対してマウンティング(権力性の誇示)を仕掛けています。

これは自身の差別意識を第三者から指摘されても認めようとすらしない濱公葉の見苦しい自己正当化であるだけでなく、

〈男性〉が〈女性〉を無知と決めつけ、知識をひけらかすことで優位に立とうとする「マンスプレイニング」と呼ばれる差別行為を見出すことができます。

そのような自己の〈男性〉としての社会的・政治的特権性に無自覚であり、なおかつ異性愛至上主義とレズボフォビアに凝り固まった、濱公葉のようなセクシストに対しては、「百合」からも、欅からも、「去れ!」と言うほかありません。