百錬ノ鐵

百合魔王オッシー(@herfinalchapter)の公式ブログです。

《セクシャリティーの可変性・流動性》の下に切り捨てられる「レズビアン」のアイデンティティ(ある「人生相談」によせて)

Twitterに、このような「人生相談」の記事が流れてきた。

【相談】「レズビアンとして31年生きてきたのに、男を好きになりました」でも、セクシャリティに正解はない|生粋のレズビアン?/セクシャリティーは変化する/あなたは間違ってない #LGBTQ
https://twitter.com/lchannel_/status/1085154099912298501

一目見て、嫌な予感がした。レズビアンの「セクシャリティー(この場合は性的指向)」やアイデンティティはじつにセンシティブな問題で、ともすれば後述するとおりレズビアン差別――具体的には《異性愛=男性を愛すること》の要求――の正当化につながりかねないからだ。

おそるおそるリンクを開いてみると――まさに予感的中、模範解答の対極にある“ダメ解答”の見本のような内容であったため、戒めを込めてこうして取り上げることにした。

なお上掲ツイートは「LChannel(@lchannel)」という情報系アカウントのものだが、当該記事が掲載されているのは「恋愛コラムメディア AM」なる外部サイトである。

レズビアンとして31年生きてきたのに、男を好きになりました」でも、セクシャリティに正解はない|肉乃小路ニクヨのニューレディー恋愛駆け込み寺
https://am-our.com/love/510/16085/

今回の相談者は、レズビアンを自認している女性。
31歳まで自分はレズビアンだと思っていたのに、男性を好きになってしまって……!?

当事者であり、年長でもあるニクヨさんが、
自身のセクシャリティの捉え方と経験をふまえ、アドバイスします。

回答者は《当事者であり、年長でもあるニクヨさん》と紹介されているが、「当事者」といってもそのじつ「レズビアン当事者」ではなく、「肉乃小路ニクヨ」なるゲイ男性のライターである。

女性であるレズビアンの「セクシャリティー」に関する相談に、男性であるゲイが答えるという時点で、すでにちぐはぐな印象を受けるし、的確な回答が返ってくるのかと不安になる(ついでにいえば「セクシャリティー」という表記にもデリカシーが感じられない。これはセンスの問題だが……)。

しかしそうした性差の問題を抜きにしても、この回答者の態度はあまりに酷い。

31歳の女性が31年レズビアンだったと言い切る。
この部分に私は違和感を覚えました。
0歳児からレズビアンだったのでしょうか?
私はゲイですが、ゲイだと自覚したのは小学生で初恋をした相手が
転校生の男子だった頃からです。
あなたは随分とおませさんだったんですね。

感じ悪い冒頭ですみません。
ゲイ、レズビアンが先天的なものだという説もあるので、
あなたはそれで自分が生粋のレズビアンだと思っていたのかもしれませんが、
私はそういう風には考えません。

私はLGBTの専門家では無いですし、またその括りにあまり興味がありませんが、
当事者であることは自覚しています。
ゲイ、レズビアンというのはセクシャリティー(性的指向)という
カテゴリーになると思うので、
性的指向や恋愛感情がハッキリとしていないなら
レズビアンでもゲイでも無いのではないでしょうか。

のっけから相談者の「レズビアン当事者」としての実感や心情に寄り添おうともせず、言葉尻を捉えた厭味ったらしい揚げ足取りで、一読して不快きわまりない気分に落とされる。

ようするに回答者は《ゲイ、レズビアンが先天的なものだという説》が気に食わないようだが、そのくせ《私はLGBTの専門家では無いですし、またその括りにあまり興味がありません。》などとあらかじめ逃げを打っておく姑息さも見せる。

おまけに、口語調の文体であるから仕方がない面もあるとはいえ、そもそも文章がめちゃくちゃで性的指向や恋愛感情がハッキリとしていない》《レズビアンでもゲイでも無い》とされているのがいったい誰のことを指しているのかもわからない。

そしてあろうことか回答者は、相談者の「レズビアン」としてのアイデンティティにまでケチをつけるのだ。

あなたのレズビアンというのも性的感情や恋愛感情が芽生えてから
と考えた方が良いのではないでしょうか。
そうするとあなたは別に生粋のレズビアンではありませんね。
そこはハッキリとしておいた方が良いと思ったので、
長々と書いてみました。すみません。

「生粋のレズビアン」という語彙は相談内容にはなく、回答者が付け加えたものであるが、これは「レズビアン」を《真性レズビアン(完ビ=完全レズビアンとも))/仮性レズビアン》に二元化する硬直した発想の受け売りにすぎない。

もっとも人間の性的指向が常に流動するという立場を取るのであれば《真性レズビアン》は存在しえず、すべての「レズビアン」が《仮性レズビアン》ということになる。

しかしレズビアン」の自認・自称が当人のアイデンティティ(主体性)の問題である以上、赤の他人、ましてや男性であるゲイからその“ありよう”についてジャッジ(審判)される筋合いはない。そのような「特権」を、回答者はいったいどこから引っ張り出してきたのか。

もっとも「完ビ」については、その定義は別として、あくまでもレズビアン当事者の《男性を愛さない(愛したくない)》という主体性(アイデンティティ)を表明するものであり、それが他人の「セクシャリティー」の審判ではなく当人の自認・自称にとどまるかぎりにおいては尊重されるべきであろう。

私は今のところゲイ男性という括りですが、
この先もずっとゲイだという風にも思っていません。
歳を重ねるにつれ、人に対する見方や愛し方は変わります。

私も若い頃に比べるとグッと恋愛対象の範囲が広がってきました。
ある程度年齢がいくと歳下はだいたい可愛く見えますし、
同年代から歳上も共感や頼もしさ、年齢を重ねた魅力に目がいきます。
体型も自分が贅沢を言える身体でも無いので、
極端でなければあまりこだわりがありません。
この先もしかすると女性を好きになることもあり得るとすら思っています。

えーっ嘘!?  という声も聞こえて来そうですが、
私がこういう風に考えるようになったのも私が二丁目のミックスバーやクラブで
長年働いて来たからだと思います。
ノンケと言われていた男性が女装とならばSEX出来るというところから始まり、
いつの間にかゲイになっていたということもありましたし、
鬼レズと自らを称していた女性が結婚して子供を産んだりしています。
女性から男性になろうとしていたFTMレズビアンだった女性が
男性としてゲイと付き合うということもありました。

人のセクシャリティーはかくも多様で変動するというのを
間近に見ていると自分を決めつけるのは馬鹿らしいなと思うのです。
それよりもどんな形であれ、当事者達が生き易い社会になれば良いと思うし、
そういう多様性の応援になるのであれば、LGBTの運動も応援しがいがあるなと思うのです。

けっきょくのところ回答者は相談者のアイデンティティにまつわる切実な悩みをダシにして《人のセクシャリティーはかくも多様で変動する》という陳腐な持論をぶちたいだけのようだ。

加えて回答者による一連の回答からは、レズビアン」のアイデンティティを取るに足らない、無価値な(=馬鹿らしい)ものと“決めつけ”て、一方的に切り捨てる傲慢さがありありと伝わってくる。

さもアイデンティティごときに囚われるのではなく自分の「感情」を優先するべきだ、とでも言いたげであるが、それこそ回答者の価値観を押しつけているだけだし、また回答者自身がそうした思考の偏りに無自覚である。

そもLGBTの権利が保障されるべきであるのは、ひとえにそれが「性の自己決定権(人権)」であるためであって、《人のセクシャリティーはかくも多様で変動する》から、などという理由ではない。

換言すれば人間の「人権(性の自己決定権)」とは、まさしく“主体性(アイデンティティ)”の問題に他ならないのだ。

そこへきてセクシャリティー」の可変性・流動性などを至上の価値に置くのは、「人権」の根拠を“主体性”でない他の何かに委ねているという点で、それを“生産性”に求める杉田水脈と本質的に何も変わらない非人間的な発想である。

さてそれを踏まえた上で、性的指向は“変動”する人もいれば、しない人もいる。身も蓋もないけれど、それこそが模範解答である。

ただし、異性愛者であれば“変動”しない場合がほとんどだ。なぜなら同性を愛するように迫られるという動機が存在しないからだ。

一方で同性愛者、とくにレズビアン(女性同性愛者)のセクシュアリティを論じる時にだけ、なぜか性的指向の可変性・流動性が強調される風潮にある。

しかし何をもって性的指向が“変動”したといえるのだろうか。同性間の婚姻が法律で認められていない日本社会において、レズビアンが「レズビアン」としてのアイデンティティを保持したまま男性との結婚を選択するという話はべつに珍しくもなんともない。

そうした社会的・政治的力学の非対称性を考慮しないまま、性的指向の可変性・流動性をあげつらうのは、たとえていうなら飛行機の速度を算出するのに空気抵抗をいっさい想定しないようなもので、現実社会の差別構造を隠蔽・温存する机上の空論にすぎない。

換言すれば回答者は、異性愛至上主義の社会構造をめぐる議論を、観念的な自己啓発の問題に摩り替え、矮小化しているのだ。

加えて「レズビアン」をめぐる議論においては、そも「レズビアン」を“語る”ための言葉・語彙自体にnegativity(否定的コノテーション)が内在するという根源的な問題が横たわっている。下記の記事を参照のこと:

《人を愛さない権利》と「レズビアン」を“語る”ことの困難~「関西クィア映画祭2014」シンパからの反応:@yu_ichikawa編(2)
https://herfinalchapter.hatenablog.com/entry/20141110/p2

そして、いずれにしても相談者のアイデンティティに関する悩みは、そのじつ性的指向の問題とは何の関係もない。

引用は前後するが、相談の内容は以下のとおりである。

【お悩み】
31年間レズビアンとして生きてきました。数ヶ月で終わったことも、何年か続いたこともあります。

男性のカラダに嫌悪感すら持っていた私が、この歳になってまさかと思いましたが、友人だと思っていた旧友男性を好きになっていました。性格が好きで長く一緒に過ごしているうちに、気付けば愛情に変わっていました。彼からの好意も少し感じています。
想いは告げていません。
今まで同性しか好きになったことがなく、周りの目にも苦しみながら恋愛してきました。
なのに今さらなぜという想いで、彼に告白することもなく友人関係を続けています。

もやもやして敢えて知らない男性と肉体関係を持ち、一晩限りを何度か繰り返しました。 最初は、"男はやっぱり無理だ"と悟りたくて寝たのだと思います。
しかし蓋を開けてみれば思ったよりも悪くなく、気持ちがより混乱しています。
彼ともっと近付きたくなってしまいました。 私の周りはレズビアンばかりです。仲間に話しづらく、プライドが邪魔をし、ただ混乱しています。想いを封印するか突き進むか、どちらを選んでも不安を感じます。ご助言ください。
(31歳・女性)

 元より人間は、身体的に健康であれば誰しもがSEXをして快感を得ることができる。これも性的指向の問題ではなく、たんなる生理的反応であって、さらにいえば《性的感情や恋愛感情》も必要ない。

裏を返せば、そのような「可能性基準」の人権解釈に準拠するなら、身体的に健康でSEXが“可能”である女性は「レズビアン」であっても男性とSEXするべきであり、またそのような“可能性”を肯定するかぎりにおいて「レズビアン」に“主体性”が認められることになる。

すなわちこれは「レズビアン」が、その性的主体性(セクシュアル・アイデンティティ)を行使するにあたって条件を課されることを意味する。

しかし言うまでもなく「人権(性の自己決定権)」とは、すべての人に対して無条件に保障されるべき概念であり、よってその行使は他者の「人権」を侵害しないかぎりにおいて、“可能性”に開かれようが開かれまいが無条件に肯定されるべきである。

換言すれば「可能性基準」とは、性的指向の変化の“可能性”に開かれるべきであるとする政治的イデオロギーを「人権(性の自己決定権)」よりも上位に置くという、まさしく《人権侵害》の上にしか成り立ちえない思想なのだ。

加えて、前述のとおり異性愛至上主義を基幹とする現代社会においてレズビアン」は、意識・無意識を問わず《女性は男性を愛さなければならない》という強迫観念から免れることができない。ゆえに相談者のように、意中の人ではない男性と無為な「肉体関係」を持つといった、しばしば第三者からすると不条理で自暴自棄にも思える行動に出る。

だが、このような事例をもって《セクシャリティーの可変性・流動性》の証左とするのは、その背景にある個々の「レズビアン当事者」の生き様も葛藤も切り捨て、そうした自己の政治的イデオロギーの補強に都合の良い“モノ”として扱う行為でしかない。

そも相談の内容を見るかぎり、レズビアンである相談者は意中の男性に“告白”するなど具体的にアプローチしたり、実際に交際しているというわけでもなく、ただ自分の内面の“ゆらぎ”に戸惑っているだけである。

もちろん、人を“好きになる”ことは自由だ。しかし、ただ人を“好きになる”ことと、その人を恋愛ないしSEXのパートナーとして選ぶことは、まったくの別問題だ。

その上で、レズビアンが《男性を愛すること》よりも自身の「レズビアン」としてのアイデンティティや「プライド(あるいは仲間たちとの連帯)」を優先するなら、それについて他人から責められる謂れは何もないのである。

私の感覚からするとあなたは間違っていないと思います。
これが正解ということがないのがセクシャリティーです。
あなたは絶対に間違ってない。

植え付けられた畏れに縛られること無く、手のなる方、
自分で自分を祝福したくなる方に進めば良いのです。
他のレズビアンがあなたを責めたとしても
私はあなたを祝福したいと思います。
大丈夫。幸せになってください。

《あなたは間違っていない》《これが正解ということがないのがセクシャリティー》などと、それ自体は何人も否定しようのない(ゆえにそのじつ何も言っていないに等しい)正論めいたことをのたまいつつ、じつのところ《植え付けられた畏れに縛られること無く、手のなる方、自分で自分を祝福したくなる方に進めば良いのです。他のレズビアンがあなたを責めたとしても私はあなたを祝福したいと思います。》といい、ようするに相談者が「レズビアン」のアイデンティティを捨てて男性に“告白”するという「正解」に誘導しているのである。

そしてそれは一方で相談者が「レズビアン」のアイデンティティを優先し、意中の男性との関係性をこれまでどおり友達にとどめるという主体的な判断を取ることを、暗黙の裡に“間違い”と決めつけている。「性の自己決定権」の根拠を「セクシャリティー」の可変性・流動性に求めるなら、このように必然して人間の“主体性(アイデンティティ)”を否定せざるをえなくなるからだ。

それは一見すると「自由」を謳いながら、そのじつ「セクシャリティー」の可変性・流動性に“開かれない”という選択肢を閉ざしたダブル・バインド(二重拘束)を「レズビアン」に対して仕掛けているのだ。

  • もっとも現実の「レズビアン当事者」の中には上述のとおり「レズビアン」としてのアイデンティティを保持したまま男性との結婚を選択したという人もいるが、いずれにせよ《男性を愛すること》は【男性を愛する人】の問題であって「レズビアン」の問題ではない。
  • またそうした個別の事例とは別に概念としての「レズビアン」は――まさしく「レズビアン」が《男性を愛すること》を要求・期待される社会的・政治的圧力を可視化する上で――有効なのであり、よって性的指向の可変性・流動性を理由に「レズビアン」の存在意義を否定することは不当である。

しかし回答者は「当事者」を自認しながら、相手の男性がゲイないしアセクシュアルである可能性を、なぜ考慮しないのか? 同性愛であれ異性愛であれ、あるいは性別を前提としない恋愛の“形”であれ、恋愛とは相手があってのことなのだから、自分一人の気持ちで先走っても仕方がないだろう。

繰り返すが、性的指向は“変動”する人もいれば、しない人もいる。《変動する》などと“言い切る”のは、それこそ勝手な“決めつけ”でしかない。

問題は、やはりその人が他者とどうありたいか? どのような関係性を築きたいのか? という、まさしく“主体性(アイデンティティ)”の問題に他ならない。

人を“好きになった”からといって、かならずしもその人に“告白”しなければならない、「SEX」をしなければならない、「結婚」をしなければならない、その人の子供を産んで育てなければならない――などといちいち思い詰めてしまっては、恋愛も人生も「不自由」になるだけではないか。

性的指向や恋愛感情(性欲)は、時として当人でも制御できない場合がある。しかし他者との望ましい関係性は、自らが主体となって築いていくことができるし、またそうしなければならない。

一時の「感情」に振り回され、その都度、築き上げてきた人間関係を破壊していくような非建設的な生き方は、回答者が自分で実践するぶんには勝手にすればいいし知ったことではない。が、相談者の心の弱みにつけこんで偏向した政治的イデオロギーをすりこんでいくような自己啓発セミナーまがいの真似は慎むべきであろう。

  • あらためて強調するのも馬鹿馬鹿しいことだが、かならずしも一定の文章読解力を有する読者の目にだけ留まるわけではないだろうから注意しておく。私はなにも、相談者が「レズビアン」としてのアイデンティティを貫くべきだとか男性に“告白”するべきではないなどと言っているわけではない。
  • ただ私は「レズビアン」のアイデンティティが、かくのごとくあまりにも無下に扱われすぎている現状に違和感を抱き、またそのようなあからさまに偏向した――あまりに偏向していて、当人でさえその偏りに無自覚なほどに――政治的イデオロギーに根差した内容の言説があたかも「模範解答」であるかのとごく“拡散”されている風潮に疑義を呈すべく、あえて真逆の見方を提示したまでである。