百錬ノ鐵

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《トランス女性を愛さない奴は差別主義者》←このようなトンデモ思想こそが「差別」である理由

(2021年11月14日 加筆修正)

jiji氏が指摘しているように、この「国連機関」のメッセージは、あまりにも独り善がりでいろいろとおかしい。

そもそも生物学的性別を基準に恋愛やSEXのパートナーを選択するという多くの人にとって、トランス女性がその対象にならないのは生物学的性別が理由であって「ジェンダーアイデンティティ性自認)」の問題ではない。

一般的な社会生活の上で、トランス女性の「ジェンダーアイデンティティ」を尊重して〈女性〉として扱う・接するということは、トランス女性を恋愛ないしSEXの対象にすることとは違う

――というのが、トランスライツをめぐるごく一般的な考え方だと思っていたが、どうも近頃の流行は違うようだ。

そういえば昔、ゲイリブ嫌いのゲイが「(LGBT運動に反対する理由について)いくらLGBTの権利が公に認められたところで、自分が思いを寄せる人から愛されないのなら何の意味もない」と言っていたのを思い出した。

とはいえ世の中には、自身がトランス当事者でないにもかかわらず、いや「当事者」でないからこそ自分自身の意識お高いアピールのために、このようなトンデモ思想に賛同する、傍迷惑な自称「トランスアライ」が存在する。

https://twitter.com/justkiddddding/status/1114729428054040577

 感覚や感性として合う合わないは当然あるし、関係を拒絶する自由はひとりひとりの不可侵な権利だし、その選択も尊重されるべきだけど、そうした拒否の理由が特定の身体的特徴や性自認に求められた場合は、ベッドの外だろうと中だろうとまぎれもなく差別ですよ。「人の勝手」とかいう次元ではない。

まず、それを言うのなら

自身がトランスジェンダーでありながら、他のトランス女性とのSEXを(特定の身体的特徴を理由に)拒否するトランス女性(トランスレズビアン)に対しても、同じことを言うべきであろう。

ここで議論されている「差別」とは、文字通りに“差をつけて区別すること”ではなく、そのような差異を利用した《人権侵害》を指す言葉である。

しかるにレズビアンが「トランス女性」を性的対象(恋愛対象)にしようがしまいが《トランスジェンダーの権利》が侵害されることはない。よって《特定の身体的特徴や性自認》を理由に「関係(肉体関係・恋愛関係)」を“拒絶”することは《トランスジェンダー差別》にも当たらない。

あるいは《特定の身体的特徴や性自認を理由に「関係(肉体関係・恋愛関係)」“拒絶”することが「差別」であると言い張るのなら、

そもそも《(特定の)感覚や感性》を理由に「関係(肉体関係・恋愛関係)」を“拒絶”することは《(特定の)感覚や感性》に対する「差別」にはならないのか? 《身体的特徴や性自認だけでなく《感覚や感性》もまた自分自身の意志や努力で変えられない「精神的特徴」であるはずなのだが。

だいたい@justkidddddingの理屈に倣うのであれば〈異性愛者〉が〈同性愛者〉との「関係(肉体関係・恋愛関係)」を、相手が〈同性〉であることを理由に“拒絶”したとしたら《同性愛者差別》ということになってしまう。

むろん、そんな馬鹿なことを言うゲイリブ活動家は見たことがない。にもかかわらず、そのような異常な言動がまかりとおっているのが今日の「トランスジェンダー運動」の実情なのだ。

https://twitter.com/justkiddddding/status/1114729428054040577

おかしいですね。ポスターの時点から「愛さないこと」の「理由」における差別性が一貫して問題なのに、いつのまにか「愛すること」の「理由のなさ」という誰が見ても首肯できる次元に話がすり替わっている。あと、愛と差別がつねに無関係なら、The personal is politicalはどこへ行ってしまったのか

「The personal is political」とはラディカル・フェミニズムの用語で、ドメスティック・バイオレンス児童虐待など、それまで“私的(パーソナル)”とされてきた空間ないし関係性の内で隠蔽・正当化されてきた人権侵害を告発するための概念である。

「愛」やセクシュアリティといったプライバシーの領域に、赤の他人がズカズカと土足で踏み入る行為を正当化するものではないし、むしろそのような事態に陥らないよう、じゅうぶん配慮する必要がある。

あるいは「差別」の機能する社会で暮らす以上、人は誰しもが「差別」の構造から免れないといったことを言いたいのなら、

それは一種の「原罪論」であって、生物学的性別や身体的特徴に基づいてパートナーを選択することが「差別」であるか否かといった議論とはまったく別次元の問題である。

なぜならば生物学的性別を基準にしようがしまいが、前述のとおりどのような形の「愛」であっても「差別」に結びつく“可能性”はありうるのだから。

ゆえに、そのようなそのような意味合いで生物学的性別のみを、ことさら“差別的”とあげつらうのは論理矛盾であるし、ましてそうした原理原則を振りかざして、特定の個人やセクシュアリティを攻撃するのは愚の骨頂だ。 

https://twitter.com/justkiddddding/status/1114718475883180033

まず、もとのポスターでは「love」となっている箇所を、なぜ「性的関係」に限定しているのかわかりません。この時点でポスターの解釈として狭すぎる。次に、もし「性的関係」に限定したとして、「誰」に対しても「拒否できるのは当たり前」ですが、それが「何」だからと表明するのは差別になりえます。

>まず、もとのポスターでは「love」となっている箇所を、なぜ「性的関係」に限定しているのかわかりません。

「love」の概念から「性的関係」を切断・排除しようとする試みは《「精神的な同性愛」は認めるが「肉体的な同性愛」は許さない》というホモフォビアにつながっていく、それこそ“差別的”な考え方ではないか。

どうやら、この@justkidddddingなる御仁はトランスフォビアには意識がお高くてもホモフォビアにはまるで無知、無関心のようだ。

https://twitter.com/justkiddddding/status/1114718481407045632

国連のポスターもそういうことだろう。たまたま出会った「トランスジェンダーである」人を愛さない自由は当然あっても、それを相手の「トランスジェンダー」という属性に絡めて表明するのは、女性だろうと男性だろうと差別的(そもそももとのポスターは、シス男性のMtFへの偏見を撃つ狙いなのでは?)

《属性に絡めて表明》とは、一体どういうことか?

トランス女性を恋愛やSEXの対象にしない人――この場合は〈男性異性愛者〉または〈女性同性愛者〉は、

たんに生物学的性別を基準に恋愛やSEXのパートナーを選択しているだけであって、

トランスジェンダー」という“属性”だとか、またその「相手」がどのような「ジェンダーアイデンティティ」をもっているかは無関係であろう。

それをわざわざ《「トランスジェンダー」という属性に絡めて》いるのは、こうした自称「トランスアライ」くらいなものだ。

>(そもそももとのポスターは、シス男性のMtFへの偏見を撃つ狙いなのでは?)

仮にそれが《シス男性のMtFへの偏見を撃つ狙い》であっても、現実に〈男性異性愛者〉がトランス女性(あるいは生物学的に〈男性〉である人)との恋愛(性愛)を強要されることは稀なので、

実質的には〈女性同性愛者(レズビアン)〉への恫喝として機能している。

そも「女性」を愛することについて議論する上で「シスジェンダーの男性異性愛者」しか想定されず「女性同性愛者(レズビアン)」の存在が排除されるのであれば、

それは裏返しの「異性愛至上主義」「男性至上主義」に他ならない。

ようは異性愛者/同性愛者〉〈男性/女性〉の社会的・政治的力関係の非対称性をまるっきり無視した問題提起(問い)であり、またそうした非対称性に無自覚・無頓着である意識のありよう自体が「差別意識といえるだろう。

人は「完全なマジョリティ」にも「完全なマイノリティ」にもなりえない。現実に実現不可能な「政治的正しさ」を掲げるのは、けっきょくはマイノリティの中の“マジョリティ性”を針小棒大にあげつらうことで、マイノリティをさらに追い詰める口実に利用されるだけだ。  

>たまたま出会った「トランスジェンダーである」人を愛さない自由は当然あっても、それを相手の「トランスジェンダー」という属性に絡めて表明するのは、女性だろうと男性だろうと差別的

そもそもトランス女性を恋愛やSEXの対象にしない人が、なぜトランス女性を恋愛やSEXの対象にしないことを、わざわざ“表明”しなければならないのかといえば、

まさに《トランス女性を愛さない奴は差別主義者》などというトンデモ思想を喧伝する一部の「トランス活動家」だとか、またそれを無批判に受け売りする思考力ゼロの「トランスアライ」がいるからで、まさに語るに落ちている。

やれトランス女性のペニスは大きなクリトリスだのレディディックだのといった屁理屈を、当事者やそのパートナーが自分たちで納得するだけならともかく、人に押しつけるのであれば、生物学的性別を基準に恋愛やSEXのパートナーを選ぶ人は、トランス女性は対象外と表明せざるをえない。

そのようにしてトランス女性が恋愛やSEXの対象と見なされないことに、トランス女性が傷つくのだとしても、問題の本質は、そのような“表明”をせざるをえない状況を作りだしているイデオロギーやスローガンの側にこそある。

マッチポンプもいいところだ。

https://twitter.com/justkiddddding/status/1114718481407045632

人種Aのaさんがbさんに対して性的関係を拒否する事自体は完全に自由ですが、その理由としてbさんがマイノリティの民族Bであることを挙げたなら、bさんの自尊を毀損する差別になる。逆に、欧米や日本の男性による東南アジア女性への眼差しのように、他者を特定の性的存在として認識することも差別です。

>人種Aのaさんがbさんに対して性的関係を拒否する事自体は完全に自由ですが、その理由としてbさんがマイノリティの民族Bであることを挙げたなら、bさんの自尊を毀損する差別になる。

いかなる過激な民族主義者であるとしても、民族マイノリティを恋愛やSEXの対象に含めないことを「差別」だなどと言ったりしない。よって《その理由としてbさんがマイノリティの民族Bであることを挙げ》るという状況自体が、仮定として成立していない。

>逆に、欧米や日本の男性による東南アジア女性への眼差しのように、他者を特定の性的存在として認識することも差別です。

これも然りである。《他者を特定の性的存在として認識することも差別です。》というのなら、それこそ〈男性〉の異性愛者が〈女性(異性)〉という“属性”を《特定の性的存在として認識すること》も「差別」ということになるはずだ。

繰り返すが、このような異常きわまる言説がトランスジェンダー擁護にかぎって持ち出されるのは、

いかに現行の「トランスジェンダー運動」が、多くの「当事者」の意向や実態から掛け離れた異常なものであるかを示す根拠にしかなっていない。

じつのところトランス女性を性的対象に選ぶかどうかは「政治的正しさ(political correctness)」ではなく性的嗜好(sexual preference)の問題でしかない。

男性異性愛者の中にも「男の娘バー」「ニューハーフヘルス」に通う人がいるのと同じで、個人のセクシュアリティとして否定されるべきではないけれど、人に押しつけるべきでもない。

そもそも特定の“属性”を愛することと、個人としての【その人】を愛することは両立するし、現実に社会はそのようにして成り立っているはずなのに、

どうしてこの人(というか生物学的性別を否定する政治的イデオロギーにかぶれた人たち)の中では両者が排他的な二項対立に設定されているのだろうか。

だいたいさっきも言ったとおり、シスジェンダートランスジェンダーを恋愛やSEXの対象に含めないことが問題視されるのは、

裏を返せばトランス女性(この場合はトランスレズビアン)の側も、自身がトランスジェンダーであろうと恋愛やSEXの相手は身体女性がいいと考えているからだ。

生物学的性別を基準に恋愛やSEXのパートナーを選択することが「差別」と見なされるなら、その批判はまっさきにトランスジェンダーに向けられることになるであろう。

だから少しでも道理のわかる「活動家」は、少なくとも表立ってはそのようなトンデモ思想を口にしたりはしないのだ。

(2021年7月27日 追記)

なお、この2年後、問題の国連ポスターについて@justkidddddingとは異なる解釈で擁護する者が現れた。

ossie.hatenablog.jp

しかし制作者の意図がどうあろうと、@justkidddddingに見たとおり、

それをトランスジェンダーを性的対象(恋愛対象)に含まないことは「差別(トランスフォビア)」である》と解釈した上で、

なおかつそれを支持する者が存在するかぎり、

それが「性的対象(恋愛やSEX)」の問題を想定したものではないといった弁明は、何の意味もなさないのである。