百錬ノ鐵

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「ゲイ映画評が浮き彫りにする「ヘテロ男」のホモフォビアと、その正当化のレトリック

「映画がもっとおもしろくなるハリウッドチャンネル」内
甘くなくて厳しい「シングルマン」は腐女子&BLものに一石を投じる
(著:森直人)

 タイトルを見て「また紋切り型のBL叩きか」と思いきや。その内容はもっと酷い。

 ジャンルで言うとボーイズ・ラブ(BL)ものに属するかもしれないが、最近の腐女子御用達のものとは違い、内容は全然甘くない。とても厳しい。
(中略)
 ジョージが感じている孤独は、ある程度想像力を働かせば誰もが共感できるだろう。彼の“愛する者を失った悲しみ”という感情は、とても普遍的なものだからだ。
 しかし映画の後半、ジョージが若い美男子たちに注ぐ濃厚な性的目線、そして性描写――この部分を安易に普遍性という言葉に置き換えることはできない。実際、ヘテロ異性愛者)の男である筆者には生理的に乗り越えられないものを感じたのが正直なところ。
 だが、それゆえにこの映画は真に切実であり、リアルなのだと言える。
 例えば日本映画、よしながふみの人気マンガを映画化した“男女逆転”の時代劇「大奥」(10月1日公開)にも男と男のラブシーンが出てくるが、こちらは理想化された少女漫画的キャラ同士を絡ませるあっさりした表面的な描写であり、筆者にも非常に見やすい。
 無邪気に、軽く、性的本質をあえて突き詰めないからこそ成立しているBLエンタメの形である。
 だが「シングルマン」のBL描写は、生々しい性的欲望を帯びているので、同性愛志向を持たない者にとってはどこか“恐怖”の対象となる。それこそがゲイ差別の最も根源にあるものだが、この映画はそこを隠さず冷静に見据えるのである。
 監督は、超有名ファッションデザイナーであるトム・フォード。世界的セレブの彼が、わざわざ1962年を舞台に“アウトサイダーとしての同性愛者”という視点を貫いた意義はとても大きい。「ブロークバック・マウンテン」に続く名作の登場と言えるだろう。

 森は「リアル」なゲイの「性描写」に対する「生理的」な嫌悪感を表明しながらも、同時にそれが「生理的」であるがゆえに「乗り越えられない」ことを正当化する。これまた《自覚して振舞えば正しい》というお決まりのレトリックだ。
 森がゲイSEXについてどう感じようと読者の知ったことではない。だが問題は、人間のセクシュアリティ「普遍性」という恣意的な基準を当てはめ、「生理的に乗り越えられない」だの「非常に見やすい」だのと手前勝手に論評する暴力にこそある。
 森はゲイをアウトサイダーとして「普遍性」の外に放逐した上で、そうした感性が「ゲイ差別の最も根源にあるもの」であることを知りながら、、「ヘテロ異性愛者)の男」であることを理由に自己免罪する。
 一方で、中略した箇所には作品の舞台となった1960年代のアメリカに関する解説があり、さも「ゲイ差別」の問題について見識があるかのごとく装っている。だが、そのじつ「同性愛志向」などという珍妙な表記からして付け焼刃の知ったかぶりを露呈している。
 さらには、自らのホモフォビア腐女子という他者に投影した上で、腐女子もまた《無邪気に、軽く、性的本質をあえて突き詰め》ていないと決め付けるのだ。
 「理想化された少女漫画的キャラ同士を絡ませるあっさりした表面的な描写」(←酷い日本語だ)を楽しむ腐女子の感性は、「生々しい性的欲望」への「恐怖」(フォビア)と同義ではない。仮にそのような腐女子が実在したところで森との“連帯”を押し付けられる筋合いはない。
 自己のホモフォビア「普遍性」という言葉で特権化する独善性に、他人を巻き込むなと言いたい。