百錬ノ鐵

百合魔王オッシー(@herfinalchapter)の公式ブログです。

ゲイリブによる娯楽フィクションの政治利用に思う

セサミストリート制作会社が"ゲイ"説を否定 「バートとアーニーは親友同士です」
ニコニコニュース(オリジナル) 2011年8月13日(土)12時01分配信
 
 アメリカの子ども向け教育番組「セサミストリート」の制作会社が2011年8月12日(現地時間)、Facebookの公式ページ上で異例の発表をした。「バート(Bert)とアーニー(Ernie)は親友同士です」。バートとアーニーとは、セサミストリートに登場する主要キャラのことである。2人は同じ家に暮らしており、ストーリー上でも仲がいいことは明らかに思えるが、なぜ「セサミストリート」の制作会社「セサミワークショップ」は、今さらこのような発表をしたのだろうか? それは、2人の仲が良すぎることが原因だった。最近ネット上で、「バートとアーニーを、"ゲイ"カップルとして結婚させよう」という動きが広まっていたのだ。制作会社がわざわざ「親友同士」とことわったのは、このうわさに対する公式の姿勢を示すためなのである。
 
 イギリスのテレグラフ紙(オンライン版、2011年8月12日付)によると、この動きは「同性愛を嫌悪する人々をうち負かし、ゲイに対する許容を広めるため」に始まった。「2人に結婚式を挙げさせよう」というオンライン嘆願書には9000人近くの人がサインし、また「バートとアーニーは結婚する」というページもFacebook内に作成された。このページには、「彼ら2人がついに幸せをつかむことを願ってる」「もう何年も前から分かってたことよ!」といったコメントが寄せられている。
 
 そして大きくなっていく動きに、とうとう「公式」が声明を出し、制作会社としての姿勢を明らかにしたというわけである。セサミワークショップの発表は以下の通り。
 
「バートとアーニーは親友同士です。彼らは、幼稚園児たちに、『人と人は、どんなに違っていても、お互いに仲良くなれるんだよ』ということを教えるために生み出されました。彼らが男性キャラクターとして認識され、また多くの人間らしい特性・特徴を持っている(セサミストリートのほとんどのキャラがそうですが)としても、それでも彼らはマペット(操り人形)であり、性的な好みは持ち合わせていません」
 これに対し、嘆願書を集めた人びとは、「2人が結婚すれば、ゲイやレズ、トランスジェンダー性同一性障害)やバイ(両性愛者)である若者たちに対するいじめ、また彼らの自殺に終止符を打つことができる」と主張している。
 
 テレグラフ紙の記事にも、この話題に対して賛否両論が集まった。「子ども向けの番組なんだから、そもそも"性的な問題"は持ちこむな」という声がいくつか見られたほか、「この2人を結婚させようってキャンペーンは、悲しいものだと思う。同性の2人は、性的なうわさなしには強い関係を結べないってことを示してるわよね」という冷静な意見もあった。
(古川仁美)

 ありていに言ってセサミワークショップの対応は最悪である。フィクション作品をどのように解釈しようとユーザーの自由であり、そうした解釈の多様性を制作者が勝手に制限することは傲慢だ。
 そして輪をかけてひどいのが古川仁美なるライターの翻訳である。テレグラフ紙の原文では「a sexual orientation(性的指向)」と記載されているのに、わざわざ「性的な好み」と誤訳することで同性愛を“異常視”している。これがたんなる無知ではなく古川自身のホモフォビアに根差したものであることは、その後に出てくる「レズ」「トランスジェンダー性同一性障害)」「バイ」といった差別的表記に明らかだ。
 しかし、その一方で《「2人に結婚式を挙げさせよう」というオンライン嘆願書》を集める運動というのも、それはそれで“気持ちが悪い”。
 解釈は自由とは言え、あくまでも解釈の一つにすぎないのである。いかに「2人が結婚すれば、ゲイやレズ、トランスジェンダー性同一性障害)やバイ(両性愛者)である若者たちに対するいじめ、また彼らの自殺に終止符を打つことができる」原文ママ)という崇高な理念に根差したものであろうと、作品の内容にユーザーが干渉する行為は形を変えた「表現規制」だ。
 日本でも百合やBLについて「非当事者が現実の同性愛者差別に関心を持つきっかけになる」という肯定的な評価がなされることがある。むろんそうした側面があることは事実だし、それ自体はじつに有意義なことであるが、
 はたして“それだけ”だろうか?
 百合やBLの存在価値は“そこ”にしかないのか?
 純粋な「作品」としての完成度や面白さをないがしろにしていいのか?
 ……という疑問も湧いてしまう。
 フィクションの世界に現実社会の倫理をもちこむことの愚については論を俟たない。むろん実情はそんな単純なものではなく、フィクションという建前の下、娯楽に形を変えたヘイトスピーチが正当化される場合も少なくはない。
 だが作品を評論する際には、この原点に常に立ち返らなければならないと思う。でなければ“政治的”に正しい作品しか存在が許されない世界になってしまう。