百錬ノ鐵

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大人たちよ、【子どもたち】から「視点」を奪うな〜TVドラマ『明日、ママがいない』をめぐって

『『明日、ママがいない』問題について。作り手と受け手の想像力の相克』(杉本穂高
http://www.huffingtonpost.jp/hotaka-sugimoto/post_6694_b_4625728.html

※原文は「Film Goes With Net」内
http://hotakasugi-jp.com/2014/01/18/ashitamama-imagination-responsibility/

体言止めを無駄に多用した自己陶酔的な文体も相俟って、全体を通して“フワフワ”とした感じの文章である。

想像力、想像力とおまじないのように繰り返しているが、ようは《抗議をする前に制作者の意図を理解しろ》というそれこそ「紋切り型」の主張を焼き直しているにすぎない。

  • なお当該記事では「製作者」と記載されているが、記事の文脈で用いるなら「制作者」が正しい。両者の違いについては《映画、テレビ、ネット動画などあらゆる映像メディア、表現全般について書いてい》る記者にとっては“基本のき”なのでいちいち説明しない。

しかし当該ドラマに抗議する人々は、誰も《差別を助長する意図で作ったとある種の「紋切り型」の批判》などしていない。否、《差別を助長する意図》とやらにかぎらず、制作者の内面を視聴者がいちいち斟酌しなければならぬ道理などない。

むしろ抗議者の「意図」をそのように邪推する杉本の「想像」こそ、持論に不都合な存在を露悪的にカリカチュアライズした藁人形論法に陥っている。

そも《差別を助長する意図》に基づいて「差別」に加担する者などいない。まして公共の電波に乗せるドラマならなおさらのことである。子供を虐待死させた親であっても子供を殺すために生んだわけではないはずだ。

児童養護施設こうのとりのゆりかごの実態にせまるというようなことではなさそう。》であるなら、なおのこと「赤ちゃんポスト(「こうのとりのゆりかご」はその正式名称)」という実在の設定を用いるべきではなかった。児童養護施設に対する誤解や偏見を流布する内容は、フィクションという大義名分を笠に着たデマゴーグと言える。

たとえば震災直後の日本で《被災地では強姦事件が多発している》といった都市伝説を元にポルノまがいの扇情的なドラマを作ったとして、それが被災者を取り巻く社会にどのような影響をもたらすかを考えてみたらいい。むろん、そのこととフィクションの中で性暴力や児童虐待を描くことの是非は無関係だ。両者の論点を混同した上で前者の問題提起すら否定することこそ表現の自由》という「正義」の威を借りた“言葉狩りに他ならない。

  • むしろ「災害時性暴力」の問題は、平時でさえ可視化されにくい性暴力が、災害を前にしていっそう隠蔽されやすくなるということだ。しかしこの《性暴力が“隠蔽”されやすい》という部分が、伝言ゲームによる情報の劣化を経て《性暴力が“多発”している》という言葉に摩り替わってしまったのである。

「ドラマの内容をいちいち真に受ける馬鹿はいない」というのもお決まりの反論だ。しかしデマに基づいて人を迫害するのに、じつのところデマを信じる(真に受ける)必要はない。

デマに加担するには、ただデマに加担するだけで済む。繰り返すがデマを“信じる”あるいは“信じる”に足る証拠を示すまでもない(そも「“信じる”に足る証拠」自体がデマであるのが常だ。その最たる例が「在日特権」である)。

ところが、デマの対象とされる側には、反証・弁明の負担が一方的に課される。そこにこそ「デマ」が一種の《差別装置》として機能する仕組みがある。

当該ドラマに関しては、件の「赤ちゃんポスト」に預けられたことを理由に「ポスト」とあだ名される少女の役を務める芦田愛菜の“熱演”を評価する向きもある。しかし人が「差別」を行使する上で、芝居と違っていちいち「感情(悪意)」を込める必要はない。

ゆえに「差別=デマ」に加担しておきながら《差別を助長する意図》ではないというのは、これもまた加差別者の「紋切り型」のエクスキューズであるけれど《差別表現》やデマゴーグを正当化する何らの理由にもなりはしない。なぜなら《差別を助長する意図》に左右されず機能することこそが、まさしく「差別」という現象の本質そのものであるからだ。

加えて杉本は《もちろんドラマの製作者たちが今回完璧な仕事をしたとは言えないかもしれない。》として作品の完成度の問題に論点を摩り替えているが、これも作品の社会に及ぼす影響力や機能性とは無関係である。あげく《(そもそも完璧って何かね)》と誰も言っていないことに反論したところで、そのような無能な論敵は、無能な「映画ブロガー」の脳内にしか存在しない。

もっとも、ここで槍玉に挙げられている水島宏明の記事も《誰ひとり傷つかずに済む放送を目指すべきだ》という言辞がいかにもナイーブだ。“社会の不正を真摯に追及する人”に冷や水を浴びせてやろうと手ぐすねを引いている下衆な輩にとっては格好の餌食となりうる。

元より《誰ひとり傷つかずに済む放送》が存在しえないという単純な事実と、それを踏まえた上でなお制作者が《誰ひとり傷つかずに済む放送》“追求”する態度は、まったく矛盾なく両立する。

同様に【ドラマの製作者たち】が「完璧な仕事」をすることは不可能でも、せめて「完璧」を求めて「仕事」のクオリティの向上に努めることは可能である。「完璧な仕事」ができないからといって、はなから手を抜いた「仕事」をしていいわけでもなければ、手抜きの「仕事」が一切の批判を免れるわけでもない。

こんな小学生でもわかる理屈を、大の大人に噛み砕いて説明してやらなければならないというのも情けないが、「子どもたちの視点」を自認する大人たちはいつまでたっても純真な子供の心と知能を忘れないということだろうか。

じつのところ作品を議論する上で前提となるのは、制作者や社会的弱者の心情を手前勝手に代弁し、都合良く解釈する「想像力」ではない。先述した「作品の社会に及ぼす影響力や機能性」を、的確に解析する読解力である。

だいいち「子どもたちの視点」とは文字どおり【子どもたち】にしかもちえないものだ。あるいは大人が仮想する「子どもたちの視点」に、たまたま共感する【子ども】がいたとしても、それはむしろ、【子ども】が「大人たちの視点」に適応しただけのことだ。

《大人が「子どもたちの視点」を表現した》ということでは、けっしてない。

その意味でも、やはり【子どもたち】は、どこまでいっても大人の庇護から逃れられない存在である。だから大人は、ただ大人のすべきことをすべきであって、【子どもたち】から玩具のように「視点」を取り上げる“大人げない”真似は慎むべきだろう。