百錬ノ鐵

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「男のレズビアン」は男性によるレズビアン・アイデンティティの簒奪にすぎない

(2018年7月13日 追記

Malesbian……メイレズビアン

男性を意味するmaleと、レズビアンとをくっつけた言葉だ。DIVAでの説明文はちょっと悲しいことになっている。「自分で自分をレズビアンだと思っている、無害だけどちょっぴりブキミなストレート男性」。これは、掲載先がレズビアンバイセクシュアル女性向けの雑誌であり、「男子禁制よ☆」みたいなノリで書かれているからこういう表現なんだろうけど……それにしたって、ブキミ、って言い方は失礼なんじゃないかなあ。

まあ、わからなくもない。レズビアンを騙ってレズビアンイベントに入り込み盗撮するヤカラや、レズビアン向けアプリにレズビアンを自称して登録して女の子の個人情報を聞き出した後「裸の写メを送れ。さもないとお前がレズビアンだとバラすぞ」と脅すヤカラなどにつけ狙われてきた人のトラウマを思えば、ブキミ、と書いてしまった気持ちも想像できることはできる。けれど。そういう男どもの存在がゆえに、さらに「ぼくはレズビアンだ」と言い出しづらくなっている……むしろそういう男どもと自分とが同性であるということを受け止めたくなくて「ぼくはレズビアンだ」と言いたくなっているのかもしれない、レズビアンを自称する男の人たちの話を、今回はしたい。ちゃんと、したい。

ググっても出てこない、彼女にも言えない、ただ胸のうちでそっと「ぼくたちはレズビアンだ」と想像して恋をする彼ら。彼らを「メイレズビアン」という名前でレズビアンとは別にくくることを、わたし個人は、あえてしないでおこうと思う。むしろ、「レズビアン」という言葉が誰のものなのか、あらためて過去を振り返り、考えたいのだ。「男がレズビアンになれるわけないでしょ!」なんて、顔をしかめる前に。

胸のうちでそっと「ぼくはレズビアンなのかも」と思う男性たち(牧村朝子)|ハッピーエンドに殺されない

https://cakes.mu/posts/20962

牧村朝子による上掲の記事は期間限定で無料公開されていたというが、さきほど私が目にした時点ではすでに期間を過ぎていたため、どのように結ばれているのかわからない。例によって例のごとく、牧村のこうした毎度の“炎上商法”に加担するつもりはないので、課金もしたくない。

しかし牧村の結論がどうあろうと、私の論旨は表題のとおりである。

そも「男のレズビアンというのは、クィア理論の古典的なレトリックの一つだ。

クィア理論においては、レズビアンが「わたしはレズビアンだ」というアイデンティティを獲得すること自体が、レズビアンでない人々を排除したり、またレズビアンでない人々にレズビアンアイデンティティを強制する行為として糾弾の対象とされている。

「関西クィア映画祭2014」問題 まとめ

そこへきて「男のレズビアン」という言葉は、レズビアンアイデンティティを“攪乱”するための手段として「レズビアン」という概念を本来の定義である女性としてのジェンダーアイデンティティから切断し、概念自体の無効化を狙うものである。

ちなみに私が「男のレズビアン」という言葉を初めて知ったのは、2005年にナツメ社から出版された『図解雑学 ジェンダー』(加藤秀一石田仁/海老原暁子 ナツメ社))という本の中の「クィア」の項目である(文中では「レズビアンの男」と記載)。

もっとも「レズビアン」という概念の定義がどうあれ、実際の「レズビアン当事者」の中には実質的なFtMトランスジェンダーであったり、ジェンダーアイデンティティが曖昧であるという人も存在する。しかしそうした個別の事例を理由に概念の定義を否定するのは詭弁である。そも性自認が“曖昧”であるのと、明確な「シスジェンダー男性」としてのアイデンティティに依拠しているのとでは、まったく意味が異なってくる(もしそうでないなら、シスジェンダー男性とトランスジェンダー男性が対等の立場であるというおかしな話になってしまう)

元より「レズビアン」という概念は、女性が女性であることを理由に男性(異性)との恋愛やSEXを要求・期待されるという異性愛至上主義および性別二元制に基づく社会的・政治的力学を可視化するために存在する概念だ。

裏を返せばレズビアン」の概念を否定すること、あるいは概念の定義を曲解することは、まさに《女性が女性であることを理由に男性(異性)との恋愛やSEXを要求・期待されるという異性愛至上主義および性別二元制に基づく社会的・政治的力学》に対する告発・批判を無効化し、《レズビアン差別》を正当化するための算段に他ならない。

ようするにレズビアン」という言葉をなくそうとする試みは、「レズビアン」に対して《男性(異性)を愛すること》を要求・期待する行為を正当化するための算段にすぎないということだ。

牧村は「レズビアン」という言葉の成り立ちについて歴史的観点から考察しており、それはそれで読み物として興味深いものの、しかしいずれにしても「男のレズビアン」なる観念の擁護を目的としている時点で、やはりその前提にはレズビアンアイデンティティを否定する思想が横たわっているように思えてならない。

ただし牧村は、読者の気を引くために、あるいは自分の“言いたいこと”をもっともらしく見せかけるために事実を捻じ曲げて書くというひじょうに厄介な癖があるので、じゅうぶん注意が必要である。

「性的発達論」のヘテロセクシズムを隠蔽する、牧村朝子の奇怪なフロイト擁護〜『同性愛は「病気」なの?』批判

今回の件にかぎらず、牧村がマスメディア上で「レズビアン」に対して(かつては「レズビアン・タレント」として注目を集めたという“当事者性”を利用しながら)否定的な言説を撒き散らしてきたことは当ブログで検証してきたとおりである。 

詳細は記事上部の「牧村朝子」タグをクリックしていただきたいが、とりあえず直近のものとしてはこのようなものがある。

「レズビアン」は“時代遅れ”?〜牧村朝子×きゅんくんの「cakes」対談に寄せて

じっさい男性の異性愛者が「わたしはレズビアンだ」と表明したところで、それこそ“ブキミ”なやつだと思われることはあっても、「レズビアン女性」に対するような迫害を受けることはない。なぜなら男性異性愛者が女性を愛することは「異性愛」にすぎず、また異性愛者」である以上は《男性(同性)を愛すること》を社会から要求されることもありえないからだ。

それこそがまさに男性の特権であり、また男性がそうした男性としての社会的・政治的特権性に依拠しながら「わたしは『男のレズビアン』だ」と主張することは、どのように言い繕っても、男性によるレズビアンアイデンティティの簒奪に他ならない。

換言すれば《レズビアン差別》の問題とは、すなわちそのような〈異性愛者/同性愛者〉および〈男性/女性〉の社会的・政治的力関係の非対称性を指すのであり、「男のレズビアン」を称する男性が“善人”であるか“悪人”であるかといったことは何の関係もない。

ましてや「差別」を行使する者が“善人”であるからといって「差別」の行使が正当化されたり、あるいは「差別」の行使に対する告発・批判を免れるなどということがあってはならない。

このようなことは本来であれば言わずもがなであるけれど、「差別」という社会構造の問題を、善悪という「倫理」の問題に摩り替えるレトリックは、牧村にかぎらず「差別」を擁護する者たちの常套句であるため(上掲した牧村の「フロイト擁護」に際してもその詭弁が用いられている)、あえて付言しておく。

ゆえに、それは直接的・身体的暴力性を伴わずともレズビアンを騙ってレズビアンイベントに入り込み盗撮するヤカラや、レズビアン向けアプリにレズビアンを自称して登録して女の子の個人情報を聞き出した後「裸の写メを送れ。さもないとお前がレズビアンだとバラすぞ」と脅す》行為と本質的・構造的に違いがない。なぜならレズビアン」の定義に「男性」を含めることは「レズビアン女性」に対して《「男性(=男のレズビアン)」を愛すること》の要求を可能とするレトリックであるからだ。

したがって、男性としてのジェンダーアイデンティティを有する人の中に「女性的な部分(女の心)」がありうるのだとしても、そうしたありようを「男のレズビアン」という語彙で言い表すことはまったくの別問題である。ましてや男性が「レズビアン」を名乗ることは、男性が「百合」を嗜むこととか「もし自分がレズビアンだったら」と空想(妄想)することとは、何の関係もない。

あるいは牧村の表題にあるとおり《胸のうちでそっと「ぼくはレズビアンなのかも」と思う》こと自体は自由であると言えるかもしれない。だが、それはナチズムや小児性愛などといった、いかなる差別的・暴力的な欲望であってもそれらを対外的に表明しない(胸の内でそっと思う)かぎりは自由であるという話でしかない。

クィア理論に基づく「男のレズビアン」という観念がレズビアンアイデンティティの否定を目的としている以上、男性が「レズビアン」を名乗る行為は「レズビアン女性」との連帯を意味しない(そも「レズビアン女性」の側は男性との連帯など求めていない)

むしろそのような試みは「レズビアン」という概念・用語を“無意味化”することで、ようするにレズビアン」を「レズビアン」でなくするという意味であり、ゆえに「レズビアン女性」から“言葉を奪う”結果にしかなりえないのである。