百錬ノ鐵

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「男のレズビアン」は男性によるレズビアン・アイデンティティの簒奪にすぎない

(2018年7月13日 追記

Malesbian……メイレズビアン

男性を意味するmaleと、レズビアンとをくっつけた言葉だ。DIVAでの説明文はちょっと悲しいことになっている。「自分で自分をレズビアンだと思っている、無害だけどちょっぴりブキミなストレート男性」。これは、掲載先がレズビアンバイセクシュアル女性向けの雑誌であり、「男子禁制よ☆」みたいなノリで書かれているからこういう表現なんだろうけど……それにしたって、ブキミ、って言い方は失礼なんじゃないかなあ。

まあ、わからなくもない。レズビアンを騙ってレズビアンイベントに入り込み盗撮するヤカラや、レズビアン向けアプリにレズビアンを自称して登録して女の子の個人情報を聞き出した後「裸の写メを送れ。さもないとお前がレズビアンだとバラすぞ」と脅すヤカラなどにつけ狙われてきた人のトラウマを思えば、ブキミ、と書いてしまった気持ちも想像できることはできる。けれど。そういう男どもの存在がゆえに、さらに「ぼくはレズビアンだ」と言い出しづらくなっている……むしろそういう男どもと自分とが同性であるということを受け止めたくなくて「ぼくはレズビアンだ」と言いたくなっているのかもしれない、レズビアンを自称する男の人たちの話を、今回はしたい。ちゃんと、したい。

ググっても出てこない、彼女にも言えない、ただ胸のうちでそっと「ぼくたちはレズビアンだ」と想像して恋をする彼ら。彼らを「メイレズビアン」という名前でレズビアンとは別にくくることを、わたし個人は、あえてしないでおこうと思う。むしろ、「レズビアン」という言葉が誰のものなのか、あらためて過去を振り返り、考えたいのだ。「男がレズビアンになれるわけないでしょ!」なんて、顔をしかめる前に。

胸のうちでそっと「ぼくはレズビアンなのかも」と思う男性たち(牧村朝子)|ハッピーエンドに殺されない

https://cakes.mu/posts/20962

牧村朝子による上掲の記事は期間限定で無料公開されていたというが、さきほど私が目にした時点ではすでに期間を過ぎていたため、どのように結ばれているのかわからない。例によって例のごとく、牧村のこうした毎度の“炎上商法”に加担するつもりはないので、課金もしたくない。

しかし牧村の結論がどうあろうと、私の論旨は表題のとおりである。

そも「男のレズビアンというのは、クィア理論の古典的なレトリックの一つだ。

クィア理論においては、レズビアンが「わたしはレズビアンだ」というアイデンティティを獲得すること自体が、レズビアンでない人々を排除したり、またレズビアンでない人々にレズビアンアイデンティティを強制する行為として糾弾の対象とされている。

「関西クィア映画祭2014」問題 まとめ

そこへきて「男のレズビアン」という言葉は、レズビアンアイデンティティを“攪乱”するための手段として「レズビアン」という概念を本来の定義である女性としてのジェンダーアイデンティティから切断し、概念自体の無効化を狙うものである。

ちなみに私が「男のレズビアン」という言葉を初めて知ったのは、2005年にナツメ社から出版された『図解雑学 ジェンダー』(加藤秀一石田仁/海老原暁子 ナツメ社))という本の中の「クィア」の項目である(文中では「レズビアンの男」と記載)。

もっとも「レズビアン」という概念の定義がどうあれ、実際の「レズビアン当事者」の中には実質的なFtMトランスジェンダーであったり、ジェンダーアイデンティティが曖昧であるという人も存在する。しかしそうした個別の事例を理由に概念の定義を否定するのは詭弁である。そも性自認が“曖昧”であるのと、明確な「シスジェンダー男性」としてのアイデンティティに依拠しているのとでは、まったく意味が異なってくる(もしそうでないなら、シスジェンダー男性とトランスジェンダー男性が対等の立場であるというおかしな話になってしまう)

元より「レズビアン」という概念は、女性が女性であることを理由に男性(異性)との恋愛やSEXを要求・期待されるという異性愛至上主義および性別二元制に基づく社会的・政治的力学を可視化するために存在する概念だ。

裏を返せばレズビアン」の概念を否定すること、あるいは概念の定義を曲解することは、まさに《女性が女性であることを理由に男性(異性)との恋愛やSEXを要求・期待されるという異性愛至上主義および性別二元制に基づく社会的・政治的力学》に対する告発・批判を無効化し、《レズビアン差別》を正当化するための算段に他ならない。

ようするにレズビアン」という言葉をなくそうとする試みは、「レズビアン」に対して《男性(異性)を愛すること》を要求・期待する行為を正当化するための算段にすぎないということだ。

牧村は「レズビアン」という言葉の成り立ちについて歴史的観点から考察しており、それはそれで読み物として興味深いものの、しかしいずれにしても「男のレズビアン」なる観念の擁護を目的としている時点で、やはりその前提にはレズビアンアイデンティティを否定する思想が横たわっているように思えてならない。

ただし牧村は、読者の気を引くために、あるいは自分の“言いたいこと”をもっともらしく見せかけるために事実を捻じ曲げて書くというひじょうに厄介な癖があるので、じゅうぶん注意が必要である。

「性的発達論」のヘテロセクシズムを隠蔽する、牧村朝子の奇怪なフロイト擁護〜『同性愛は「病気」なの?』批判

今回の件にかぎらず、牧村がマスメディア上で「レズビアン」に対して(かつては「レズビアン・タレント」として注目を集めたという“当事者性”を利用しながら)否定的な言説を撒き散らしてきたことは当ブログで検証してきたとおりである。 

詳細は記事上部の「牧村朝子」タグをクリックしていただきたいが、とりあえず直近のものとしてはこのようなものがある。

「レズビアン」は“時代遅れ”?〜牧村朝子×きゅんくんの「cakes」対談に寄せて

じっさい男性の異性愛者が「わたしはレズビアンだ」と表明したところで、それこそ“ブキミ”なやつだと思われることはあっても、「レズビアン女性」に対するような迫害を受けることはない。なぜなら男性異性愛者が女性を愛することは「異性愛」にすぎず、また異性愛者」である以上は《男性(同性)を愛すること》を社会から要求されることもありえないからだ。

それこそがまさに男性の特権であり、また男性がそうした男性としての社会的・政治的特権性に依拠しながら「わたしは『男のレズビアン』だ」と主張することは、どのように言い繕っても、男性によるレズビアンアイデンティティの簒奪に他ならない。

換言すれば《レズビアン差別》の問題とは、すなわちそのような〈異性愛者/同性愛者〉および〈男性/女性〉の社会的・政治的力関係の非対称性を指すのであり、「男のレズビアン」を称する男性が“善人”であるか“悪人”であるかといったことは何の関係もない。

ましてや「差別」を行使する者が“善人”であるからといって「差別」の行使が正当化されたり、あるいは「差別」の行使に対する告発・批判を免れるなどということがあってはならない。

このようなことは本来であれば言わずもがなであるけれど、「差別」という社会構造の問題を、善悪という「倫理」の問題に摩り替えるレトリックは、牧村にかぎらず「差別」を擁護する者たちの常套句であるため(上掲した牧村の「フロイト擁護」に際してもその詭弁が用いられている)、あえて付言しておく。

ゆえに、それは直接的・身体的暴力性を伴わずともレズビアンを騙ってレズビアンイベントに入り込み盗撮するヤカラや、レズビアン向けアプリにレズビアンを自称して登録して女の子の個人情報を聞き出した後「裸の写メを送れ。さもないとお前がレズビアンだとバラすぞ」と脅す》行為と本質的・構造的に違いがない。なぜならレズビアン」の定義に「男性」を含めることは「レズビアン女性」に対して《「男性(=男のレズビアン)」を愛すること》の要求を可能とするレトリックであるからだ。

したがって、男性としてのジェンダーアイデンティティを有する人の中に「女性的な部分(女の心)」がありうるのだとしても、そうしたありようを「男のレズビアン」という語彙で言い表すことはまったくの別問題である。ましてや男性が「レズビアン」を名乗ることは、男性が「百合」を嗜むこととか「もし自分がレズビアンだったら」と空想(妄想)することとは、何の関係もない。

あるいは牧村の表題にあるとおり《胸のうちでそっと「ぼくはレズビアンなのかも」と思う》こと自体は自由であると言えるかもしれない。だが、それはナチズムや小児性愛などといった、いかなる差別的・暴力的な欲望であってもそれらを対外的に表明しない(胸の内でそっと思う)かぎりは自由であるという話でしかない。

クィア理論に基づく「男のレズビアン」という観念がレズビアンアイデンティティの否定を目的としている以上、男性が「レズビアン」を名乗る行為は「レズビアン女性」との連帯を意味しない(そも「レズビアン女性」の側は男性との連帯など求めていない)

むしろそのような試みは「レズビアン」という概念・用語を“無意味化”することで、ようするにレズビアン」を「レズビアン」でなくするという意味であり、ゆえに「レズビアン女性」から“言葉を奪う”結果にしかなりえないのである。

「同性愛」だって人間の愛の形であることに変わりはない~『あさがおと加瀬さん。』をめぐるホモフォビア言説の表出

(2018年6月8日 追記)

原作を読んだ際の印象について訊かれた高橋は「オーディションを受けるときに原作を拝読したんですが、百合作品と聞いていましたが、読み終わったあとは、人と人との恋愛ですごく素敵な話だなと感じました」と語った。

あさがおと加瀬さん。』、6月9日公開!完成披露上映会を開催|マイナビニュース
https://news.mynavi.jp/article/20180518-632434/

同性愛を題材にした作品が話題になるたび、メディア上で《これは同性愛ではなく、普遍的な「人間愛」を描いたものだ》といった類の陳腐な言説が溢れ返る事態に、私はほとほと嫌気がさしている。

なおアニメの中で「百合ップル」を演じた高橋未奈美佐倉綾音は後日、バイセクシュアルを公表している女性アイドルの最上もがと鼎談を行ったが、その中でも高橋と佐倉は次のような発言をしている。

高橋 女の子同士の恋愛だったなってことを忘れさせてくれるくらい普通に恋をしてて。私、少女マンガが大好きなんですが、百合も同じ恋愛マンガなんだなって気付かされましたね。

佐倉 すごくわかります。彼女たちって普通に恋をしているんですよね。相手が女の子とか関係なく。(攻略)

高橋 私も友達に女の子同士のカップルがいたので、違和感みたいなものはないですね。「実は付き合ってるんだ」って言われて、普通に「おめでとう!」って。それに人を好きになるって、その人のことを好きになるってことだと思うので、性別とか関係ないのかなって思いますし。ただ幸せになってほしいなと思うだけですね。

佐倉 (前略)これぐらいの年代の女の子って恋と友情って曖昧じゃないですか? 友達に対しての距離感とか。

 劇場OVAあさがおと加瀬さん。」特集、高橋未奈美 × 佐倉綾音 × 最上もが座談会&フォトギャラリー|「ただまっすぐに恋してる」女子高生同士の恋愛を女性3人はどう観る?
https://natalie.mu/comic/pp/asagaotokasesan02

 《「性別」ではなく「その人」を好きになるのだ》《「友情」と「恋愛感情」の間には明確な線引きなどない》といったクリシェ(決まり文句)も、主に異性愛者が「同性愛(者)」に“理解”を示す上で用いられるものだ。加えて《私も友達に女の子同士のカップルがいた》などと身の回りの「当時者」をダシにして自分に差別意識がないことをアピールするのは《俺には黒人の友達がいる(I have black frends)》と呼ばれる古典的なレトリックである。

しかし「性別(女性であること)」もまた「その人」のアイデンティティの一つであるのに、その事実をありのままに受け止めようとしない時点で、けっきょくは「同性愛(女性同士の「恋愛」の成立)」を否定していることに変わりはないのだ。

その意味で《恋と友情って曖昧》と解釈すること――ましてそれを「これぐらいの年代の女の子」に特化・限定することは、『あさがおと加瀬さん。』に表現される女性同士の「恋愛」を「友情(非恋愛)」で希釈し、将来的には《真性恋愛》と規定される「異性愛」に至るまでの《擬似恋愛》に貶める意味をもつ。

そも女性キャラクターのみで人間関係がほぼ完結する、明らかに「女性」というジェンダーアイデンティティを前提として人為的に構築された世界観で《性別とか関係ない》などといわれても、しらじらしいだけである。

また「女性」のジェンダーアイデンティティをめぐっては、最上が次のような発言をしている。

最上 僕、最近すごく実感したのが、やっぱり男性と女性って違う生き物なんだなって。もう脳が違うというか、思考回路が全然違う。なんというか、根本的に理解できないことってあると思うんですよね。女の子同士のほうが理解し合えることって多いですよ。

佐倉 女性ならではの経験ってありますもんね。そういう部分を最初から共有できているというのは大きいかもしれない。

高橋 男だからとか女だから、みたいな言い訳もできないし。

佐倉 性別の違いとかじゃなくて、もっと本質的な問題というか、人間として考え方や価値観の違いって話ですからね。そこまで突き詰めて考えられるのも、百合作品というか同性同士ならではだなと思います。

最上はバイセクシュアル当事者の立場から《男性と女性って違う生き物》《女の子同士のほうが理解し合える》として男女の性差を強調しているのに対し、非当事者である高橋はその流れを無視してまったく無関係に《男だからとか女だから、みたいな言い訳もできない》と横槍を入れ、それを佐倉が《性別の違いとかじゃなくて、もっと本質的な問題というか、人間として考え方や価値観の違い》と追認する。

鼎談を通して和やかな雰囲気でありながら、そのじつ会話として成り立っておらず、「当時者」の言葉を理解しようともしない「非当事者」の頑なな姿勢が伝わってくる。そも《人間としての考え方や価値観》とは何だろうか?

 もっともその意味では、仮に《女性ならではの考え方や価値観》が存在するとしても、それはすべての「女性」が“共有”できる「考え方や価値観」ではなく、まして女性同士であるからといって誰もが“理解し合える”わけではないという非情な現実を、この噛み合わない会話が図らずも示していると言える。

そも、これが男女の恋愛を表現する作品であれば、異性を愛することと「その人」を愛することの両立を、多くの人は自明のものとして受け入れる。ところが女性同士(あるいは男同士)の関係性になったとたん、本来であれば自明であるはずの「性別」と「人間」の結びつきがなしくずしに解体されてしまうのである。

女性同士の恋愛の表現について、男女の恋愛を表現する《少女マンガと同じ普通の恋》であるとうそぶきながら、そういう当人たちこそが「百合」に対して男女の恋愛と異なる“異常”な扱いをしているという論理矛盾が浮き彫りとなっている。

* * *

いちおうお断りしておくと、こうした「ホモフォビア(同性愛者嫌悪)」は原作の『加瀬さん。』シリーズの世界観や表現とは何の関係もなく、読者・観客や評論家、アニメの出演者などといった外野から一方的にもたらされる解釈である。

さらに言えば、なにもオタクカルチャー(百合/BL)に限定した話ですらない。じじつ同年四月末に日本でも公開され、男性の同性愛を美しく描いた作品として高い評価を受けた洋画『君の名前で僕を呼んで』でも、ルカ・グァダニーノ監督自ら次のような見解を表明している。

「この物語の続きについてはまだあまり話したくありません。ただひとつ言えることは、私は自分にレッテルを貼らないということ。それは登場人物にも対しても、誰に対しても同じです。だから『君の名前で僕を呼んで』はゲイ・ロマンスの話ではないと思っています。それは断固として拒否します。君の名前で僕を呼んで』は、ある青年が大人への第一歩を踏み出す物語です。青年は独自の方法で欲望を満たしていく。彼の欲望はあまりにも強く純粋で、本人も周りもそれを受け入れている。だからゲイ・ロマンスの話ではない。ここで語っているのは“欲望”についてであり、それは社会的や歴史的に、あるいは社会の思想で定義づけることはできないものなのです」

君の名前で僕を呼んでルカ・グァダニーノ監督インタビュー|i-D
https://i-d.vice.com/jp/article/vbxk4d/luca-guadagnino-call-me-by-your-name-director-interview

 作品のテーマや登場人物のセクシュアリティを表すのに「百合」や「ゲイ・ロマンス」といった語彙を用いることが“レッテル貼り”に繋がるという発想は、じつのところ現実の人間に対して「同性愛(者)」という言葉を用いてはならず、一人の「人間」として扱うべきだという、まさしく“政治的”なイデオロギーに立脚する。その意味で、むしろ監督こそ「彼の欲望」を《社会的や歴史的に、あるいは社会の思想で定義づけ》ていると言える。

元より「同性愛」とは、たとえばわたしは〈女性〉であるという自認をもつキャラクターが、他の〈女性〉に恋愛感情ないし性欲を抱いた場合に成立する“関係性”であり、その意味ではたしかに“欲望”それ自体を表す概念ではない。

「同性愛」という“関係性”と、恋愛感情ないし性欲という“欲望”は、それぞれ別次元の事象であるが、しかしだからこそ両立するのである。「ゲイ・ロマンス」なるものが《あまりにも強く純粋な欲望》を表現することができないというのは、それこそ監督自身の「ゲイ・ロマンス」さらには「ゲイ」という存在自体に対する偏見と蔑視の表明にすぎない。

あるいは「ゲイ・ロマンス」に対する偏見と蔑視が、そのじつ「ゲイ」という存在に対する偏見と蔑視の敷衍に他ならない事実は、監督自身が《それは登場人物にも対しても、誰に対しても同じ》であるとして愚直に証明しており、したがって「ゲイ・ロマンス」に対する否定的感情が現実の「ゲイ当事者」に向けられたものではないという(日本国内では主として「BL/腐女子」へのバッシングの正当化に用いられる)屁理屈も通用しない。

そも「同性愛」だって人間の愛の形であることに変わりはないにもかかわらず、「同性愛」と「人間愛」をあたかも排他的な二項対立の関係性に設定する前提自体がおかしいのだ。

あるいは『あさがおと加瀬さん。』を通して、そのような当たり前の真実に目覚めたというなら、ようはそれまで同性愛者をまともに人間として扱わず、化け物じみた《変態》と決めつけていたことの証左であろう。

せめてそのようなホモフォビア(同性愛者嫌悪)を少しでも反省するのかと思いきや、けっきょくは自分とたまたま波長の合った特定の作品を「百合作品」の定義から手前勝手に分断し、「百合作品」および「同性愛(者)」に対する自分自身の凝り固まった偏見と蔑視をさらに強化してしまう。

* * *

もっとも《百合作品と聞いていましたが(中略)人と人との恋愛》といった物言いは一つのクリシェ(決まり文句)でしかなく、考えなしの発言であっても、とくに《同性愛者差別》を目的としたものではないとする見方もあるだろう。まさに、それ自体がヘイトスピーチの正当化を目的としたクリシェでしかないのだけれど、次の発言を見るかぎりでは、少なくともその根底に根深いホモフォビア(同性愛者嫌悪)が存在する事実は疑いようもないのではないか。

作品の魅力について、高橋は「この映画を、デートムービーとして見てもらいたい。百合作品を観るのではなく、デートをする時に観る映画としてお勧めしたい」と言うと、佐倉は「相当良い雰囲気になってしまいますからね!」と便乗し、木戸も「付き合いますよ!」とアピールした。

佐倉綾音、男性だらけの客席へ人生初のブーケトス 狙った女子高生に届かず謝罪 | ORICON NEWS
https://www.oricon.co.jp/news/2111596/full/

百合作品がヒットしたとたん「百合作品」であること自体を否定されるというパラドックスは、かつては『マリア様がみてる』や『青い花』、近年では『やがて君になる』に対しても見受けられた現象である。

ある作品が「百合」と解釈ないし分類されることによって間口が狭まることになり、「百合」に興味のない“一般の”観客を遠ざけてしまうというのが否定派の言い分だ。

しかし、それこそ「百合」が嫌悪されるべきものであるという当人のホモフォビアを露呈しているにすぎない。マジョリティである男女のラブロマンスなど古今東西ありふれているのだから、女性同士の恋愛にかえって興味を覚えるという人だっているだろう。“普遍的”であるといえば聞こえはいいが、裏を返せばありきたりで型にはまった退屈な作品であるという見方もできる。

元より、そのことと女性同士の恋愛およびその表現に《変態》というレッテルを貼りつけることは別問題である。「ノーマル/アブノーマル」の枠組みはたんなる価値判断ではなく、人間のセクシュアリティの本質を《生殖》に規定する異性愛至上主義の政治的イデオロギーに他ならないからだ。

じつのところ、特定の作品を「百合」と解釈ないし分類すること自体が、作品の可能性を狭めるのではない。「百合」を一方的に嫌悪されるべきものと決めつけた上で、解釈の可能性から体良く切り捨てようとする当人の差別意識こそが、逆に「百合作品」および「同性愛(者)」に卑小な“枠”を押しつけている。

言うなれば“枠”は「百合作品」および「同性愛(者)」の側にあるのではなく、当人の差別意識の内側にこそ存在するのだ。

そも恋愛というプライベートな関係性において“普遍性”なる観点を持ち込むことにいったい何の価値があるだろうか? 愛の形は“普遍的”であるどころか、性的な事柄を含めて当人たちにしかわからない作法やこだわりが千差万別に存在するはずだ。

さらに言えば恋愛に“普遍性”を要求する思考は、まさしく人間のセクシュアリティの本質を《生殖》に規定した上で(あるいは人間のセクシュアリティに「本質(※「本能」とも呼ばれる)」が存在するという思い込みに立脚した上で)、《生殖》に結びつかないセクシュアリティを《変態》として排除・抑圧する異性愛至上主義の最たるものだ。

とはいえ現実社会において「同性愛者」の存在がマイノリティである以上、同性愛をテーマにした娯楽フィクションもやはりマイノリティとならざるをえないのかもしれない。表現という行為がアニメや映画といった商業メディアと密接に結びついている以上、収益が見込めない(売れない、カネにならない)コンテンツは価値がないという烙印を押されてしまう。

しかし観客の間口を狭めるのがいけないというなら、たとえばバスケットボールをテーマにした『スラムダンク』はバスケのルールを知らなければ楽しめないので、バスケに興味のない観客やスポーツが嫌いな観客の存在をあらかじめ排除していることになる。それにもかかわらず「百合作品」に対してだけ文句をつけるのは、やはり女性同士の恋愛(同性愛)が本質的に嫌悪されるべき《変態》であるというホモフォビア(同性愛者嫌悪)を前提としているためであろう。

あまつさえ『あさがおと加瀬さん。』を《百合作品“ではなく”デートムービーと言い張るに至っては、もはや“間口”うんぬんさえ口実にすぎず、自身の出演作に対して自身の嫌悪する「百合(同性愛)」の解釈を認めたくないというエゴイスティックな差別意識があからさまだ。かねてよりアニメ業界においては若い女性の声優をアイドル視する風潮があるけれど(おそらく本稿も、そのような「信者たち」によって“炎上”させられることは間違いない)、主演とはいえいち出演者にすぎない声優に、なぜ作品のテーマ性や世界観を規定(あるいは否定)してしまえるほどの権限が委ねられているのか、いち観客にすぎない私にはさっぱりわからない。 

追記 『コードギアス』『無限のリヴァイアス』『プラネテス』などを手掛けたアニメ監督の谷口悟朗が「週プレNEWS」内でアニメ業界の“幼児性”を指摘している。谷口によると、今や女性声優はアイドル化されているためシビアなアドバイスもできず(ダメ出しされると気分が落ち込んでその後のイベント出演などに差し障りがあるため、事務所が抗議してくるのだとか)、「セックス」という言葉を使うことについても「なぜかはばかられる雰囲気」があるのだという。
アニメ映画『あさがおと加瀬さん。』には原作どおり女性キャラクター同士の「セックス」のシーンは出てこないものの、同様に「百合」という言葉を使うことについても「なぜかはばかられる雰囲気」があるようだ。とくに高橋未奈美 の一連の発言からは「百合作品」に出演することが自身の「アイドル」としてのイメージダウンにつながりかねないという忌避感と、その“幼稚性”が如実に表れている。

幼稚性はここまできた…「コードギアス」監督がアニメ業界に警鐘http://wpb.shueisha.co.jp/2018/06/07/105837/

それにしても「百合作品」の解釈を頭ごなしに否定しながら、その代わりに出てくるのが「デートムービー」とは……あまりにも唐突で、どのような理路に基づいてそのような解釈が飛び出てきたのか記事を読んでもちんぷんかんぷんだが、さも特定の恋愛関係にあるパートナーのいない人はこの映画を楽しむ資格がないと言い放つに等しく、じつに排他的で“間口を狭める”発言である。

誰と映画を観ようと、あるいは一人で観に来ようと人の勝手ではないか。いや、それ以前にどのような映画の観方をしようと観客の自由であって、いち出演者である声優に私たち観客が指図される筋合いはないはずだ。

なお、当日のイベントでは高橋ら出演声優による「ブーケトス」も行われたとのことだが、この趣向もいただけない。

上掲した彼女たちの発言、そして何よりも日本国内において未だ同性婚が法制化されていない現状を鑑みれば、「女の子に結婚してほしい」といってもその相手はあらかじめ〈異性(男性)〉に限定されていて、〈同性(女性)〉との結婚など想定すらされていないのだろう。わざわざ百合作品の映画を観に来たのに、そのような異性愛至上主義を押しつけられたのではたまったものではない。

 

『立花館To Lieあんぐる』を「キモい」と言いつつ『聲の形』を推す「まなざしかぶとむし(kabutoyama_taro)」の見苦しさ

(2019年11月3日 加筆修正)

merryhachi『立花館To Lieあんぐる』は一迅社の百合漫画専門誌「コミック百合姫」の連載作品であり、4月からTOKYO MXにてアニメ版が放映されている。百合マンガの中でもわりと“性的”な要素の強い作品で、謳い文句にある「ラッキースケベ」「ハーレム」といった、従来は男女物のラブコメディに特有とされてきた趣向を女性キャラクター同士の恋愛関係に置き換えるという実験的な試みが注目を集めている。きわどい下ネタやお色気シーンを絡めながら、いずれも寸止めにとどまるためポルノグラフィ(成人向けコミック)には分類されない。

コミックスは現時点で第6巻まで出ており、PCゲームやドラマCDなどの付録によるお得感も手伝って百合ファンの間では知名度の高い作品であるけれど、世間一般にまで浸透しているとは言い難い。しかるに上掲したまなざしかぶとむしの「暴言」も、いわゆる「百合物」であることを含めた作品自体の特性を踏まえたものではなく、たんに「萌え絵」というだけで脊椎反射した結果と解釈できなくもない。

だが「萌え絵」だから「キモい」という理屈は筋が通らない。なぜならまなざしかぶとむしが推していた『聲の形』にも「萌え絵」が採用されており、とくにヒロイン【硝子】の内股でヒョコヒョコと歩くなよなよとした仕草やはにかんだ表情、非現実的なピンク色の髪などは、まさにステレオタイプな「萌えキャラ」のテンプレートを踏襲したものであるからだ。加えて寡黙(重度の聴覚障害者なのだから当然だが)で神秘的な人物造形は、一昔前の言葉でいうなら典型的な「綾波系」であり、男性異性愛者の庇護欲と表裏一体の加虐嗜好を煽り立てる効果を上げている。

また『聲の形』は作品のテーマとして障害の他にイジメ問題も絡めており、被害者である【硝子】が加害者であった主人公の少年【将也】と恋愛関係に至るという御都合主義的な筋書きから、Twitter上で「感動ポルノ」であるという批判がなされていた。

しかし一方で、作品に心酔する「信者」たちが、作品について批判的な意見や感想を述べる者を過剰に敵視し、感情的な罵倒や吊し上げといったネットリンチに興じていたのも事実であり、まなざしかぶとむしもそうした「信者」の一人である。 

聲の形』はいじめっこ向け感動ポルノなのか|Togetter 

 https://togetter.com/li/1027520

かく言う私もまた、一連の論争で「感動ポルノ」という言葉を用いたことで「信者」から誹謗中傷を受けた。ただしそれは作品自体の評論・批判を目的としたものではなく、むしろ「信者」たちに対しての“皮肉”“嫌味”“当てこすり”として述べたまでだ。

イジメをテーマにしたマンガに感動しただの心洗われただのと称する者たちが、自分と異なる考え方や価値観をもつ者に対して、まさしく「イジメ」を行っているのはまったく皮肉としか言い様がないし、そうした有様こそまさしく「キモオタ」そのものではないか。

ちなみに、そのような『聲の形』の「ファン」を通り越した、幼稚で傍迷惑な「信者」を指して、私は「聲豚」という言葉を造り、一般の「ファン」から区別している。

少し脱線したが、ようするに「萌え絵」も「感動ポルノ」もそれ自体がジャンルとして確立されているはずもなく、そも明確な定義すら存在しない。ゆえに立花館To Lieあんぐる』の「萌え=キモさ」をあげつらうまなざしかぶとむしが、一方で『聲の形』の「萌え=キモさ」には目を瞑り、あげく擁護の論陣まで張るという見苦しいダブルスタンダードが横行する事態となる。

そのような「萌えオタク」の一人でしかないまなざしかぶとむしだが、(かつて私が「聲豚」という言葉を造ったように)一方で「萌え豚」という語彙を用いることで「萌えオタク」の他者化および自己特権化を図るのである。

なお例によって、まなざしかぶとむしによる一連の暴言・暴論を「オタク差別」に牽強付会する向きもあるようだが、そうしたアクロバティックな論法を持ち出すまでもなく、そも「性」の表現自体を一概に有害と決めつけて公共の場から排除しようとする発想自体が、《生殖》に結びつかない「性」のありようを否定する異性愛至上主義に立脚したものであり、まさしく「性差別」以外の何物でもない。

その意味で、まなざしかぶとむしが「萌え絵」全体を攻撃するという体を装いながらも、そのじつ女性同士の恋愛を表現する『立花館To Lieあんぐる』を選択的に攻撃する一方で男女の恋愛を表現する『聲の形』を贔屓するという非対称は、まさしく「セックスフォビア(性嫌悪)」が「ホモフォビア(同性愛者嫌悪)」と同根の異性愛至上主義に依拠した感性である事実を、図らずも裏付ける証左と言えるかもしれない。

前回のエントリーでも述べたとおり「萌え」と「エロ(性的要素)」を同一視する発想がまず粗雑かつ短絡的であるし、また「萌え絵」それ自体はたんなるマンガの絵柄の流行にすぎず、なんら価値判断の対象となりうるものではない。また「性的嗜好」の中には小児性愛(ロリペド)やリョナ(エログロ)のように性差別・性暴力の構造と密接な関係にあるケースも含まれているが、かといって《性的嗜好=性差別・性暴力》であるなどと短絡することもできない。

もっともポルノグラフィにおいては、ユーザーの「性的嗜好」に応じた多様なジャンルが用意されている一方、性差別的・性暴力的な内容のものとそうでないものが明確に区別されているわけではなく、したがってゾーニングに際してはやむをえず一律的に対応せざるをえないのが現状である(よって私自身は、なにもポルノのあらゆる規制を撤廃せよと唱えているわけではなく、またコンビニにエロ本が置かれているような状況をよしとする者でもないことを付言しておく)。

しかし言うまでもなく「ポルノ」とカテゴライズされる作品でなくとも性差別的・性暴力的な内容のものは巷に氾濫しており、またそれらはポルノグラフィでないがゆえにゾーニングもできない。よって嫌なら見るなというお決まりの理屈も通用しない。

その意味で、仮に特定の「萌えマンガ」が狭義の「ポルノ」ではないとしても、そのこと自体が作品の“健全性”を示す何らの根拠にもなりえない。だが、そこへきて「萌え絵」だけを執拗にあげつらう態度は、「萌え絵」というわかりやすい記号がスケープゴートとされることによって、けっきょくのところ「萌え文化」に属さない一般作品における性差別・性暴力の表現が免罪されるという逆説を生み出すに留まるだろう。

それでも「萌え」が「性的消費」の構造と結びつくというのであれば、「キモい」などという「暴言」「悪口」こそ「イジメ」の構造に結びつく。「性欲」という感情の表明・表現が“性的”であるという理由で抑圧されるべきであるというなら、「キモい」という感情もまた“暴力的”であるから抑圧されるべきではないのか。

あるいは“暴力的”であるという理由でむやみに表現を否定するべきでないなら、たんに“性的”であるというだけの理由で表現を規制するべきでもない。

しかし、いずれにしても『立花館To Lieあんぐる』には一般的な意味での性差別・性暴力に相当する描写はいっさい登場しない(ゆえに、そこでフィクションの「百合」が現実の「レズビアン」への「性的消費」であるといった無理筋の屁理屈が必要とされることになる)。

しいて言えば、少し前に少年コミック誌のラブコメ漫画をきっかけにフェミニストの間で「ラッキースケベ」なる趣向の“暴力性”が取り沙汰されたこともあったけれど、上掲したまなざしかぶとむしの「暴言」にそのようないわゆるPC(ポリコレ)的論点はいっさいなく、ただ「萌え絵」であるがゆえに「キモい」とする論理もへったくれもない原始的な感情が吐露されているだけである。

ところであるていどネットの知識に長けた人には周知の事実であるが、ネット上の広告は、アドツールがユーザーの関心を分析した上で個別に応じた情報を自動表示するように出来ている。すなわち「萌え絵」を嫌悪するまなざしかぶとむしのTLに「萌え広告」が流れてくるのは、まさしく「萌え絵」に執着するまなざしかぶとむしの世界観を反映しているにすぎない。(広告表示の仕組みに関しては不明な点が多いため、いったん取り下げます。2019年11月3日 追記)

ところで萌え豚という語だが、この種の問題絡みでオタクという語を使うのは無駄と逃げの元なのでもうやめることを提案したい。 そもそもパブリックエネミーであるというか批判の対象となりうるのは鉄オタでもミリオタでもなければはたまたアニメオタク一般ですらなく、単に萌え豚なのだから。
https://twitter.com/kabutoyama_taro/status/993502811571740672

(註「萌え豚」という用語の定義について)最もコンパクトには、「二次元(漫画・アニメ)の女性(とりわけ少女)表現愛好を通じて社会的コンフリクトを起こしている人たち」でいいんじゃないでしょうかね。
https://twitter.com/kabutoyama_taro/status/994198304912064513

しかし 「二次元(漫画・アニメ)の女性(とりわけ少女)表現」をめぐって「社会的コンフリクト」を起こすということであれば、まさにマンガの性差別表現を告発・批判するフェミニストなどにも当てはまるだろう。

そも「差別」の定義すら周知されていない現代社会においては、むしろ「社会的コンフリクト」は「差別」を告発・批判する側によってもたらされると言ってもいい。そこへきて「社会的コンフリクト」を起こす人々の存在自体を「パブリックエネミー」と位置づけるまなざしかぶとむしの議論は、むしろ性差別表現に対する告発・批判の無効化ないし萎縮に繋がる可能性が高い。

また先ごろの「百合展」に対してフェミニストの多くが、それこそ《特にこれといって反対の形を取らなかった》ことを鑑みても、「二次元の女性表現」およびそれを“愛好”するユーザーの存在自体を「パブリックエネミー」と規定するまなざしかぶとむしの議論は、じつのところフェミニズムを始めとした昨今の反差別をめぐる議論においてもまったく共有されていない「暴論」でしかない事実を、ここで確認しておく必要がある。

だいたい世間の大多数は「萌え絵」ごときにいちいち目くじらを立てたりしないし、仮に目の前を流れてきたところで何の印象も感情もないまま通り過ぎていくだけであろう。

  • もちろん「萌え絵」を苦手とする一般人もいるだろうが、たんにオタッキーなノリが受け付けないというだけであって、そうした生理的な感覚を《女性差別》だの《性的消費》だのにこじつけたりはしない。(2018年10月19日 追記)

そこをいくと「萌え絵」に異様な敵愾心を示し、あまつさえその自己正当化に当たって「イジメ」まで容認しだす(※前回のエントリーを参照)まなざしかぶとむしもまた、しょせんは裏返しの「萌え豚」なのだ。

そんなまなざしかぶとむしが「萌え絵」を露悪的にバッシングするのは、ひとえにそのような言動によって溜飲を下げる「萌えフォビア」「セックスフォビア」の連中の歓心を買うための自己アピールでしかない。

だが、そうした浅ましいまなざしかぶとむしの被承認欲求のために皺寄せを受けるのは、まさに性的アイデンティティの表明・表現を“性的”であるという理由でマジョリティから抑圧され、さらにはそのような「性差別」に対する告発も“暴力的”であるとして無効化される「性的マイノリティ」に他ならない。

 

【 #オタク差別 論争】「百合/BL」は「性的嗜好」であるから規制されるべきと主張する「まなざしかぶとむし(kabutoyama_taro)」

相変わらずロリペドと同性愛とを並列視する妄言が飛び交ってるが、まさしく"自ら進んで"「自身のアイデンティティのすべてを『ロリペド(キモオタ)であること』で覆い尽くしている」者たちが自分たちを同性愛者に準えるのは、皮肉ななんてものではない、およそ醜悪極まる逆説だろう。
https://twitter.com/kabutoyama_taro/status/985132809755901952

同性愛者の当事者運動が特にこれといって同性愛嗜好(←ここは嗜好で正しい)表現物への規制反対という形を取らなかったこと、また表現物に関して現に起きている批判のほぼ全てがヘテロ男性の嗜好のあり方に向けられているという事実を見るだけでも、両者の間には何の関連性もないことは明らか。
https://twitter.com/kabutoyama_taro/status/985138585589317633

手前勝手な嗜好の無節操な垂れ流しという「行為」を、同性愛という性的指向(←ここは指向でなくてはならない)すなわち「存在様態」に準えること自体が、歴然たる同性愛者差別だろう。
https://twitter.com/kabutoyama_taro/status/985143981649444864

萌え文化については、是非論を括弧に入れても、性的関心がここまで白昼堂々かつ大規模にコミュニケートされる社会ってどうなのよ、というのはあるよな。要するに公然色情狂社会。 昔はさほどでもなかったわけだから、強調するけど是非論を括弧に入れてもこれは歴然たる顕著な変化なのだよね。
https://twitter.com/kabutoyama_taro/status/532131113007726592

萌えについて批評的なことを書くとオタクサイドからはほぼ必ず「エロ消費は昔から」「エロ消費して何が悪い」といった反応が来るのだが、こちとら「いわばエロ写真を顔に貼り付けて表を歩く新人類の台頭」を問題にしてるわけなので、そもそも話が全く噛み合っていない。
https://twitter.com/kabutoyama_taro/status/533050746971770880

萌え豚諸君に対してあえてこういう言い方をすれば、君たちの目から見ればそれは(セクシーな、あるいは可愛い)美少女かもしれないが、文化を共有しない他人の目から見れば、それは君たちの「おちんちん」にすぎないのだ。 君たちに最も見えていないもの、それは他ならぬこの事実である。
https://twitter.com/kabutoyama_taro/status/533078186158870529

彼らの趣味が加害(セクシスト)的であるかどうかを括弧に入れても「性的な嗜好へのアイデンティティ的とさえ言いうる著しい執着」は確かなわけで、じゃあそれと「いじめられ体験」とには何らかの有意味な関連性があるのか、それとも単に偶々でしかないのか?
https://twitter.com/kabutoyama_taro/status/987768345356259329

一方で、もし中学高校段階ですでに「彼らの趣味が性的でキモいから迫害される」という側面があるのだとしたら、妙な話、アニメ漫画文化の著しく性的な傾向を是正していくほうが、いじめに遭う子供たちを減らせるという話になるのだが…?
https://twitter.com/kabutoyama_taro/status/987772666076540928

Twitter上で上掲したような的外れな持論(投稿された時期も元の議題も異なるが、根本のロジックは一貫しており、当人もリプライで繋げているので一まとめにする)を常にドヤ顔で垂れ流し、口さがない人々から「まなざしかぶとむし」と揶揄されている人物がいる。

この社虫太郎(@kabutoyama_taro ※「甲山太郎」とも名乗ることもあるらしい)という人物が何者なのか、じつはよくわからない。いちおう在野の社会学者であるらしく、しょっちゅうRTで回ってくるのだが、ググっても論文や著書の一つも出てこない。一部では「フェミニスト」として認識されているようだが、フェミニズムについても同様の知ったかぶりをしてフェミニストに叱られているのを目にする(しかし馬鹿なので何を言われているのかわからず「クソリプ」を繰り返している)。よって、むしろ社会学オタク」「フェミニズムオタク」という扱いが妥当であろう。

さて、上掲したまなざしかぶとむしの議論は、“性的”であるなら規制されるのが当然だ、という短絡的かつ時代遅れな「わいせつ基準」に基づく表現規制肯定論の焼き直しにすぎない。

だが何をもって“性的”と判断するかの基準が、そのじつきわめて曖昧かつ恣意的であることは先日の「百合展」中止をめぐる議論に見たとおりだ。成人向けのポルノ漫画でなくとも、青年誌などでは男女のあからさまな性行為の描写が珍しくないにもかかわらず、それが女性キャラクター同士の恋愛表現となれば、ただうっとりと見つめ合っているだけのポスターでさえ「レズビアン」に対する《性的消費》などとバッシングを受けるのが実情である。

欅坂46」便乗署名の発起人 濱公葉(sin_itami)というレズビアン差別主義者について #百合展2018 #欅坂46
https://herfinalchapter.hatenablog.com/entry/2018/03/18/125411

加えて、まなざしかぶとむしにかぎらず「萌え」をめぐる議論においては、なぜかそれらを「エロ」と同一視する向きもあるが、本来「萌え」と「エロ」は異なった観念である。

じじつ『けいおん!』『ご注文はうさぎですか?』『はるみねーしょん』など性的要素を巧妙に排除した「萌えマンガ」も少なからず存在し、またそれらの作品がけっしてニッチな需要に留まらることなくオタク・カルチャーのメインストリームを席巻しているのは周知のとおりであろう。

もっともそれはそれで「女性」に対して《処女性》を押しつけているなどとバッシングされるのだから、もはや初めに否定ありきの難癖でしかない。

けいおん!』に「政治的正しさ」を押しつける“意識のお高い”馬鹿ども
https://herfinalchapter.hatenablog.com/entry/20150608/p1

しかし裏を返せば「萌え」とはじつのところ定義すらあやふやな観念であり、一定の流行や傾向が見出せるとしても、何らかの価値判断の対象となりうるものではない。

そこへきて《萌え=エロ》《萌え=女性差別》などといった粗雑な前提で議論を展開したとしても、女性差別》の抑止からかけ離れた、いたずらな「性(エロ)」の規制に帰結することは目に見えている。

まなざしかぶとむしは「萌え文化」を槍玉に上げながら《性的関心がここまで白昼堂々かつ大規模にコミュニケートされる社会》を「公然色情狂社会」と断じるが、裏を返せば「社会」全体が《ヘテロ男性の嗜好》に基づいて構築されていると言えるのであり、「萌え」と呼ばれるマンガ表現の流行もまたその影響下にあるという話でしかない。《昔はさほどでもなかった》というなら、それはマンガ以外の場で《性的関心が白昼堂々かつ大規模にコミュニケートされ》てきたものが、近年はオタク・カルチャーの社会的認知に伴ってマンガもそのバリエーションに加わったというだけである。

そも「ロリペド(小児性愛)」が批判されるのは、ひとえに児童虐待ないし児童性搾取の構造と結びついているからであって、それが「性的指向」ではなく「性的嗜好」であるから、などという理由ではけっしてない。

近年はクィア理論の影響から「同性愛」も「性的嗜好」であるといった暴論(というか屁理屈)が幅を利かせているが、まなざしかぶとむしの言うとおり「性的指向」と「性的嗜好」の区別は厳然と存在する。

ただしそれは、生まれつきで変えられないのが「性的指向」、自分の意志で選べるのが「性的嗜好」――といったものではない。

「同性愛」という言葉は誤解されがちであるけれど、たとえば〈女性〉という性自認を有する人が〈女性〉を愛した場合に「同性愛」という関係性が成立するのであり、「同性」を愛する(つまり自分と同じ性別だから好き)という意味ではない。

また「同性愛」はしばしば《性別を超えた愛》と表されるが、「同性愛者」の多くは《性別》を無視しているのではなく、「異性愛者」と同様に〈女性〉または〈男性〉の《性別》を愛しているのであって、ただその「指向」が逆の方向を向いているにすぎない。

言い換えれば、たんに「女性(または男性)」が好きだというだけなら「性的嗜好」であるが、人を愛する上では「愛」の主体となる自らが何者なのかという自認(アイデンティティ)が不可欠だ。そこで主体が〈男/女〉いずれかの性自認ジェンダーアイデンティティ)を有しているのであれば「性的指向」が成立するということだ。裏を返せば性自認のない人に「性的指向」の概念は成立しない(もっとも個別の「当事者」のありようは様々である)。

翻って「性的嗜好」は《性別》と無関係に成立する(ゆえに性自認をもたない人でも「性的嗜好」を有することができる)。元より「性差別(sexism)」とは〈男/女〉の《性差(性別 sex)》における社会的・政治的力関係の非対称に基づいて機能する事象であるから、《性差(性別)》と無関係な「性的嗜好」に対する「性差別」はその定義からして成立しえないことになる。

・もっとも「オタク差別」ということであれば、非実在のキャラクターに「性欲」を抱くセクシュアリティを《変態》と規定し、あまつさえその“矯正”を試みることは、「性」の本質を《生殖》に規定した上で《生殖》につながらない「性」のありようを否定する異性愛至上主義の一環となりうる。
・ただ、それを「オタク差別」と名状することが妥当か否かは別問題である。また、まなざしかぶとむしによるものも含めた一連の「オタク差別」をめぐる議論の中でそのような異性愛至上主義の批判に基づく観点は出てきていない(そうした状況自体が異性愛至上主義の根深さを示しているともいえるが)ため、ひとまず本稿では除外する。

ただし、そうした性的指向」と「性的嗜好」の定義の違いはあくまでも概念の上であって、両者は排他的な二項対立の関係にはない。まして「性的指向=無害」「性的嗜好=有害」などというレッテルを貼るためのものでは、まったくない。

「同性愛」自体が「性的指向」であるとしても、当然ながら実際の「同性愛者」は各々の「性的嗜好」を有している。たとえば〈男/女〉どちらかの性自認を有する人が「女性の長い髪が好き」「男性の鍛え上げられた筋肉が好き」といった場合には、まさに「性的指向」と「性的嗜好」が連動していることになる。

そこをいくと「性的指向」と「性的嗜好」を二極化する思考は、すなわち同性に対して恋愛感情を抱くことは「性的指向」であるが、同性とSEXすることは「性的嗜好」であるという曲解を生み出し、ひいては《「精神的な同性愛」は認めるが「肉体的な同性愛」は許さない》という異性愛至上主義の政治的イデオロギーを強化するに留まるものだ。

しかるに性的嗜好」を表現する行為がまさに“性的”であるという理由で禁じられたなら、「同性愛者」の表現も同様に抑圧されることになる。じじつLGBTのパレードにおけるゲイダンサーやドラァグクイーンなどのパフォーマンスに対しても「肌の露出が多すぎる」「かえって偏見を助長する」といった類のクレームは(「アライ」気取りの非当事者はおろか、しばしばゲイリブに否定的な当事者からも)毎回のように寄せられている(浅草のサンバカーニバルや全国各地の裸祭りはどうなるんだ? という当然の突っ込みはさておき)。

だいたい一口に「同性愛者」といってもその「存在様態」はじつに様々であり、また「アイデンティティ」のもちようも「当事者」によって異なる。

「同性愛者」は「ゲイ/レズビアン」と同一視されがちであるけれど、文字通りたんに「同性」を恋愛感情ないし性欲の対象にするというだけでは「ゲイ/レズビアン」とは呼べず、「わたしはゲイ(レズビアン)だ」というアイデンティティを獲得してこそ「ゲイ/レズビアン」と言える(その意味で、百合/BL作品の多くに「ゲイ/レズビアン(のアイデンティティを有するキャラクター)」は登場しない)。

裏を返せば「同性愛者」であっても自身の性的指向に揺らぎを感じる人もいれば、まさにアイデンティティ的とさえ言いうる著しい執着》をもつ人もいる。「わたしはゲイ(レズビアン)だ」というアイデンティティを前提に自らの世界観を構築している人もいれば、恋愛やSEXよりも仕事や趣味のほうが大事だという人もいる。また性的指向は生まれつきで変えられないという人もいれば、自分の意志で選んだのだという人もいる(ただしそれを「性的嗜好」と呼ぶのは前述のとおり誤用である)。同性と恋愛はしてもSEXはしないという人もいれば、逆に同性とSEXはしても恋愛感情はないという人もいるし、あるいは恋愛感情と性欲を明確に線引きしない人もいる。

一方でまなざしかぶとむしは「同性愛者の当事者運動」が《特にこれといって同性愛嗜好表現物への規制反対という形を取らなかった》ことを理由に、「同性愛嗜好表現物」つまり一般には「百合」や「BL」と呼ばれる表現に対する“規制”が《同性愛者差別》に当たらないとの見解を示している。

しかし実際には幾夜大黒堂『境界のないセカイ』の“自主規制”に対し、LGBT団体「レインボー・アクション」が抗議声明を発表したといった事例がある。

『境界のないセカイ』発売中止・連載打ち切り問題へのレインボー・アクションの立場表明
http://rainbowaction.blog.fc2.com/blog-entry-228.html

また「団体」ではなく一個人としては、電子コミック配信サイト「comico」が「百合/BL」の表現に対してのみ不当に厳しい規制を課している事態を告発する「当事者」もいる(※個人ブログなのであえてリンクは貼らない)。

それでも「同性愛者の当事者運動」が、一般的にはマンガ表現ないしその規制の問題について無関心であるとは言えるかもしれない。だが、それを言うなら何らかの「差別」に対して“反対”することを目的とする当事者団体もじつのところ存在しない。当事者団体の主な活動とは、もっぱらシンポジウムやパレード、お茶会といったイベントの主催だとか、当事者向けのカウンセリングなどである。

一方で上述のとおり「百合/BL」に対しては現実の「同性愛者」に対する《性的消費》であるという批判もなされているけれど、「当事者運動」が“反対”しないものは「差別」ではないと主張するまなざしかぶとむしの論法に則るのであれば、それこそ「百合/BL」の表現に対して“反対”する「当事者運動」も存在しない。

元よりフィクションの同性愛表現を消費することが現実の「同性愛者」を“消費”することになるという理屈は、論理が飛躍している。またその理屈なら、フィクションの同性愛表現を規制することは現実の「同性愛」をも“規制”することになるはずだが、それについてはあくまでもフィクションの表現が対象であることを理由に正当化するのである。ひどい論理矛盾だ。

《表現物に関して現に起きている批判のほぼ全てがヘテロ男性の嗜好のあり方に向けられている》というのも事実誤認だ。まさに「BL」を嗜好・消費する女性たち――俗に「腐女子」とも呼ばれるが、今ではこの呼び方を差別的であるとして批判する「当事者」も多い――に対する「批判」を通り越した、陰湿きわまりないバッシングの歴史を知らないのか。まなざしかぶとむしはフェミ界隈をうろちょろと走り回っているから「フェミニスト」の議論しか目に入っていないのだ。

「百合/BL」が「同性愛者」に対しての《性的消費》であるというなら、巷に氾濫する男女のラブ・ロマンスを表現するコンテンツも「異性愛者女性(言うまでもなく「異性愛者男性」に較べれば「マイノリティ」である)」に対する《性的消費》であるとして一律に規制されなければ辻褄が合わない。あるいは「百合/BL」が「同性愛者」に対する誤解や偏見を助長するというのであれば、男女のラブ・ロマンスを表現するコンテンツも「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」と呼ばれる偏った男女観をとめどなく再生産している。「百合/BL」が基本的に〈異性愛者〉の文化であるとしてもニッチな隙間産業の域を出ない実情を考えれば、後者の悪影響こそ甚大であるはずだ。

・もっとも「百合/BL」には「レズビアン/ゲイ当事者(あるいはバイセクシュアル)」の作家およびユーザーも一部に存在するが、メインとなる消費者が〈異性愛者(非同性愛者)〉であることは事実であり、また「当事者」の存在を理由に肯定するのであれば、「非当事者(異性愛者)」による同性愛表象の“消費”についてはやはり否定すべきだという結論になるだけなので、本論ではあえて脇に置く。
・また一般に「百合/BL」は「レズビアン/ゲイ当事者」のユーザーを想定していないが、かといって排除しているわけでもないことにも留意すべきである。

しかるに「百合/BL」の性的要素にだけことさら目くじらを立てる人たちは、じつのところ「同性愛(者)」に過度なまでの“健全さ”“正しさ”を要求し、ひいては「同性愛(者)」自体を異常視・特殊視する「ホモフォビア」を露呈しているにすぎない。とくに「BL/腐女子」に対するバッシングは「ホモフォビア」に加えて、女性が主体的に「性」を楽しむことに対する抑圧であり、いくら紋切型の「政治的正しさ」を装ったところでその本質にミソジニー女性嫌悪)が透けて見えている。

ところでまなざしかぶとむしは聲の形』を推しているようだが、あれもまさに「障害者女性」に対する《性的消費》ということになるだろう。じじつその映画版の輸出に際し、台湾では《聴覚障害者を商品化》しているとして上映反対運動が起こっている。

聴覚障害者を商品化? 日本映画「聲の形」の台湾上映に反対意見噴出
http://japan.cna.com.tw/news/aart/201703270002.aspx

また『聲の形』はイジメ問題をテーマにしているが、まなざしかぶとむしの《もし中学高校段階ですでに「彼らの趣味が性的でキモいから迫害される」という側面があるのだとしたら、妙な話、アニメ漫画文化の著しく性的な傾向を是正していくほうが、いじめに遭う子供たちを減らせるという話になるのだが…?》という主張は、まさにイジメの原因をイジメ被害者に求め、加害者の責任を免罪する悪質極まりないものだ。実際、私は同作が読み切りとして雑誌に掲載された時点で、そのような差別意識を読者に植えつけかねない作品であることを指摘している。

障害者を“記号化”する健常者の「レイプ・ファンタジー」~大今良時聲の形
https://herfinalchapter.hatenablog.com/entry/20130224/p1

※ただし連載開始前の読み切りを読んだ時点の感想であり、その後の連載およびアニメ版・実写版について言及したものではないことをお断りしておく。

 そも「キモい」と感じるのは、あくまでもそう感じる当人の主観の問題であり、特定のセクシュアリティが本質的に「キモい」などということはありえない。そして「同性愛」も「性的指向」である以上は“性的”であることから免れず(“性的”でない「性的指向」など語義矛盾である)、よってそれを「キモい」と感じる人間がイジメを行うことが正当化されるのであれば、必然して「同性愛者」へのイジメも正当化されてしまう。

繰り返すが「ロリペド」を手放しに肯定することができないのは、その「欲望(性欲)」の成立が〈大人/子供〉の権力構造に依拠せざるをえないからだ。それを「キモい(と感じる“健全な”人々がいる)」などという理由で頭ごなしに抑圧するのであれば、「ロリペド当事者」は自らの「欲望(性欲)」の権力性・加害性に向き合う機会を失い、ただ被害者意識をこじらせたあげく暴力的な発露(実在の児童をねらうケースばかりでなく、たとえば児童虐待サバイバーやフェミニスト、LGBTに筋違いの憎悪を向けるなど)に至る結果となるであろう。

ようするにまなざしかぶとむしは「同性愛者」を【性的でない“健全な”同性愛者】と【性的でキモい同性愛者】に分断した上で、後者についてはイジメられても仕方がないと言っているに等しいのであり、まさしく《「精神的な同性愛」は認めるが「肉体的な同性愛」は許さない》という異性愛至上主義のレトリックを踏襲しているにすぎない。

あるいは『聲の形』を観て「俺にも障害者の彼女が欲しい」という「性的嗜好」を獲得する「ヘテロ男性」もいる。

聲の形を見て「耳の聞こえない彼女が欲しい」と感想を持つことは倫理的に問題か
https://togetter.com/li/1108958

これはいささか極端な事例かもしれないが、いずれにしても問題は、どのような“消費”のされ方、さらには「性的嗜好」の表現・表明の仕方に警戒するべきかということであって、《性的消費》自体が一概に「悪」であると決めつけたところで何の解決にもならない。「表現」が実質的にマンガや映画、小説などといった商業メディアを通して具象化される行為である以上、「表現」を通して「性」を表現する試みは、自ずと《性的消費》として機能せざるをえないからだ。

この程度の道理もわからず、性的消費だの“まなざし”だのを問題にしているから「まなざしかぶとむし」などと馬鹿にされるのである。もっとも、Twitterでつまみ食いした薄っぺらなフェミ知識をひけらかして被承認欲求を満たしたい当人にとっては、むしろ世の中の何も解決しないほうが好都合なのかもしれない。

 

性別二元制と異性愛至上主義に囚われた『性別のない世界の話』の薄っぺらさ

Twitter上で右腹(@sgin001)という同人作家が発表した『性別のない世界の話』という漫画が、4万件以上のリツイート(いいねは13万件以上)を経て私のTLに流れてきた。

『性別のない世界の話』というくらいだから、てっきりクィア理論やジェンダーフリーのような社会構築主義に基づく政治的イデオロギーを具現化した話かと思ったら。

実際に読むとそれ以前の問題で、すっかり虚脱してしまった。なんだこりゃ。

 一読して、我が目を疑った。衝撃を受けた。私自身の《性別》にまつわる固定観念を根底から揺さぶられたから、ではない。あまりの内容の陳腐さに、である。

「性別のない世界」などといかにも大上段に構えたスケールのデカいタイトルとは裏腹に、そのじつ学校の教室と思われる閉鎖的な空間の中で、登場人物は学生カップルと思しき【ハル】と【ナオ】の二人のみ(モブキャラすら描かれない)という、きわめて排他的な人間関係によって構築された世界観。創作の上で閉鎖的・排他的な世界観を設定すること自体はべつに悪くないけれど、この二人の外側の「世界」がどうなっているのか、読者にはさっぱりわからない。作者の貧困な想像力を、ありのままに反映した格好だ。

作者の想像力の貧しさはキャラクター造形においても同様である。【ナオ】は、そのままマンガ表現に典型的な男性キャラクターの造形で男性的な話し方をするが、一方の【ハル】は、マンガ表現に典型的な女性キャラクターの造形でありながら男性的な話し方をし、スカートではなくズボンを履いて一人称は「僕」。ただし二人とも〈男/女〉の性自認をもたない、いわゆる「クエスチョニング」「Xジェンダー」などと呼ばれる人々のようであるが、そのような人々は「性別のない世界」を創世するまでもなく現実社会にもすでに存在している。

また近頃は現実社会でも「ジェンダーレス」なるファッションが注目を浴びている。ところが、そこへきて作者は、どういうわけだかよりにもよって既存の「制服(学生服)」という保守的なデザインをあえて選択し、現実社会の〈男/女〉のジェンダー(性様式)を踏襲している。ただ【ハル】に関してはそれを形式的に反転させただけである。

ファンタジー作家として、一から新たなジェンダーを創出してみせようという気概すら見いだせない。否、ジェンダーの概念がその定義上、既存の「女性/男性」の延長線上にしか存在しえないからには、作者が本気でキャラクターの《性別》をなくしたいと考えるなら「白ハゲ(Twitterでよく見かける、髪もなく服も着ていない極度に簡略化された無個性なキャラクターの漫画)」にするしかないのではないか。

しかし女性造形のキャラクターに男言葉を喋らせてズボンを履かせただけで「性別のない世界」とは笑止千万、羊頭狗肉《性別のない世界》などというラディカルな命題に反して、作者自身はむしろきわめて保守的で頑迷な女性観の持ち主のようだ。

そして何よりも最悪なのは、「性別のある世界」である現実社会における、性別二元制と異性愛至上主義に根差した差別的な固定観念を、作者がこれら自作のキャラクターを通して無批判に追認させていることだ。

 

ナオ:
同じ性別の人は恋できないとか

ハル:
なんで?

ナオ:
わ、わかんない

ハル:
その人のこと好きになっても 同じ性別だったら一緒にいちゃダメなの?

ナオ:
そうらしいよ そもそも 同じ性別の人のことを 好きにはならないんだって

 

上掲の【ナオ】のセリフが《同じ性別の人は恋“してはならない”とか》《同じ性別の人のことを好きにならない“とされている”のが「常識」なんだって》というものであったなら、性別二元制と異性愛至上主義を基幹とする現実社会の「常識」に対しての風刺となりえたかもしれない。が、実際にそうなっていない。よって、つまりこれは現実社会を生きる作者自身の「恋愛」についての持論をそのまま開陳したものと受け止める他ない。

しかし言うまでもないが「性別のある世界」である現実社会においても《同じ性別の人のことを好きになること》は成立する。一方で「恋愛」の定義を異性間のみに特権化し、同性間の「恋愛」の成立を否定・否認する思想は、今や「LGBT」という言葉がすっかり人口に膾炙した現実社会にも未だ根強く蔓延っている。後者について無批判であることで、他ならぬ作者自身が、そのような性別二元制と異性愛至上主義の差別的イデオロギーに囚われている事実を露呈してしまった。

言い換えるならこの漫画は、現実社会の〈同性愛者〉に対する類型的な「ヘイトスピーチ」を、ただ漫画の形で焼き直しただけの代物であり、すなわち「マンガの形を借りたヘイトスピーチに他ならない。

しかも「性別のない世界」と謳いながら、その世界観を体現する二人が「性別のある世界」を仮想する際に、あろうことか【ナオ】は《もしハルが女の子だったら おれは男の子になるよ 男の子だったら 女の子になる》として、現実社会の性別二元制と異性愛至上主義に基づく性役割にそのまま自ら適応しようとするのである。

この薄っぺらな世界観のくだらない漫画が露呈しているのは、こうしたいわゆる《性差否定》のイデオロギーが、じつのところ性別二元制や異性愛至上主義の解体に何ら繋がらないどころか、むしろ望みの「性別」を愛することがあらかじめ肯定・是認されている〈異性愛者〉の特権性を強化するものでしかないという残酷なくらいありのままの現実だ。

* * *

この漫画に寄せられたリプライを読むと「泣ける」「素晴らしい」「自分もその世界に行きたい」などという反応が目立つ。だが男性異性愛者の私には、このような人間としての可能性も多様性も何もかも剥奪された「世界」は、どう見てもただのディストピアとしか思えない。

あまりにも当たり前すぎることだが、人間の可能性や多様性は《性別》だけに発揮されるのではない。言い換えれば《性別》とは恋愛やSEX、ファッションだけの問題ではなく、将来の進路や職業、家庭内での役割、スポーツ、音楽や映画などの趣味など、人生と社会生活のあらゆる場面と密接に関わっている事柄である。

そこへきて「性別のない世界」を目指すということは、同時に既存の現代社会のありとあらゆる可能性と多様性を放棄するに等しい。現実社会の性別二元制に適応できない人々が、このような不自由きわまりない「世界」に隔離されなければならないとすれば、体の良いアパルトヘイトと変わらないのではないか?

私たちが生きるこの「世界」の中に《性別》が存在することで、〈同性愛者〉ないし性別二元制に適応できない人々が差別されるというのであれば、理想とすべきは《性別》をなくすことではなく、人がどのような「性」を営もうと差別されることのない「世界」ではないだろうか。

 

 

森奈津子は「性的じゃない女性同士の関係性」を否定なんかしていない #百合展2018

 

  

今月に開催を予定されていたヴィレッジヴァンガード主催の「百合展2018」が中止になったことを受け(※来月に会場を替えて延期)、バイセクシュアル当事者の女性ポルノ作家・森奈津子Twitter上で発した声明の中から《百合が性的?……当たり前だよ。百合は女性同士の性愛だ。性的に決まってるだろ。》という部分だけが、レズビアン差別主義者・濱公葉によって恣意的に切り出され、あたかも森が、女性同士の精神的な結びつきを否定して「百合」を《性的な要素》だけに矮小化しているかのような「ヘイトデマ」が横行する事態となっている。

 

だが上掲した森の発言は、ようするに女性同士の関係性における「恋愛(=非性的)」と「性愛(=性的)」の線引きは、そのじつあいまいで恣意的なものだという話をしているにすぎない。女性同士の精神的な結びつきを否定しているわけでは、まったくない。

 

ただ、そのような森の主張は、森の思想的背景(いわゆる文脈)を理解しないことには、たしかにわかりづらいのかもしれない。

 

かつて森は、現在の「コミック百合姫」の前身にあたるマガジン・マガジンの「百合姉妹」という雑誌の中で『酒とユリの日々』というコラムを連載していた(ちなみに「百合姉妹」は5号で廃刊となり、一迅社に移行して「コミック百合姫」として再出発してからは、その10号まで『森奈津子の百合道場』という人生相談の連載をもっていた)。

 

百合姉妹」5号(2004年8月号)の中に、このような記述がある(P141 ※強調は引用者)。

 

 近年、小説や映画などの創作物に関しては、「百合物」と「レズビアン物」は別のジャンルとして語られる傾向にある。つまり、精神的なものが「百合物」で、肉体関係を伴うものが「レズビアン物」なのだという。
 しかし、現実のレズビアンバイセクシュアル女性も含む)は、通常、百合的な心理も経験しているものだ。百合姉妹」の読者にも大勢のレズビアンがいることを、私は知っている。
 それだけに「リアルなレズビアン物よりも、百合というファンタジーを楽しみたい」という、主に男性による意見を聞くと、奇妙な印象を受けるのだ。
 男性が女性同士の精神的交流の美学を理解してくれることは、非常にうれしい。実際、私も、男友達と百合談義に花を咲かせることもある。百合の美学を語りあえる異性の同志の存在は、心強く思う。
 しかし、彼らが「百合はファンタジー」など主張しはじめると、私は首をかしげてしまうのだ。「じゃあ、百合を考案したのは、あなたたち男性なのか? 百合はあなたたち男性のために創られたのか?」と、意地悪な質問をしたくなるのである。
 百合は決して、男性による男性のためのファンタジーではない。古くから女性同士がひそやかにはぐくんできた愛の形なのだ。(中略)
 どうか、百合を「ファンタジー」の一言で語らないでほしい。あなたの身近なところでひそやかに展開されているかもしれない一つの美しいドラマとして、愛していただきたい。


濱公葉が依拠する《精神的なものが「百合物」で、肉体関係を伴うものが「レズビアン物」》なる二元論は、皮肉にも森自らが今から14年も前に提示したものであった。裏を返せば濱公葉の「百合」に対する認識は14年前の時点(当時は『マリみて』ブームが終息しつつあった頃)から一歩も進んでいないことになる。
 
繰り返すが「百合」が女性同士の《精神的交流の美学》だけでなく《肉体関係を伴う》ことが珍しくなくなった今日において「レズビアン物」という用語は時代遅れで、もはやアダルトビデオでしか用いられなくなった(正確に言うとAVにおいてさえ「レズ物」という表記が一般的で「レズビアン物」という座りの悪い呼び方はほとんどされない)。

 

とはいえ「百合萌え」を表明する者の中にも濱公葉のように《「精神的な同性愛」は認めるが「肉体的同性愛」は許さない》《「百合」はキレイだから好きだけど「レズ」は汚いから嫌い》という異性愛至上主義とレズボフォビア(レズビアン嫌悪)に基づく「百合観」を臆面もなく開陳する差別主義者(断っておくと森が言うように男性だけの問題ではなく女性ファンの中にも少なくない)が混じっていることも事実である。

 

これも繰り返しになるけれど、かく言う森奈津子自身は異性愛至上主義が形を変えた「両性愛至上主義者」にすぎない。また前回は話がややこしくなるのであえて軽く流したが、かねてから森はTwitter上でフェミニストレイシスト・カウンター(いわゆる「レイシストをしばき隊」界隈)に対して独自の勝手な思い込みに基づく誹謗中傷やデマを繰り返してきた(じつのところ発端のツイートの動機も、そうしたフェミニスト・バッシングの一環である)。そのような森奈津子というロートルの作家をオピニオン・リーダーのように祭り上げるつもりは毛頭ない。

 

ただ上掲した森の訴えは、14年の時を経てもなお、未だ普遍性をもっていると言える。むろん、それは喜ぶべき事態ではない。

 

森の「百合小説」は古臭くて読むに堪えないが、いつの日か上掲した森の訴えもまた「なにを当たり前のことを」と一笑に付される時が来てほしいと、男性の百合ファンである私は願ってやまないのである。

濱公葉(sin_itami)による「レズビアン」差別発言について:追記 #百合展2018

前回の記事を公開した直後、相互フォローをしていたレズビアン当事者の方から一方的にブロックされてしまった。まさに「仲間からも撃たれるとは思わなかった」といった心境だ。

 

その方はどうも森奈津子のことをそうとう憎んでいるみたいで(それは俺だって同じだ)、今回の件で俺が森奈津子を擁護したっぽく見えるのが気に食わなかったらしい。

 

しかも、あろうことか濱公葉の言い分(というかデマに基づく悪質な印象操作)を鵜呑みにして、森奈津子が「百合」を《性的な要素》に限定して女性同士の精神的な結びつきを否定していると誤解しているのだ。

 

逆だよ! むしろ濱公葉のほうが「百合」を精神的な結びつきに限定して《性的な要素》を排除しようとしてるんじゃないか。

 

あの長いエントリーで俺が言いたかったのは、そもそも女性同士の精神的な結びつきと「性欲」を二元化して、コレは「百合」でアレは「レズビアン」、などと切り分けることは不可能だと言うこと。

 

かなりの長文だし差別問題やセクシュアリティの基礎理解がない人にはわかりにくかったかもしれないけど、森奈津子憎しでカッカしてないでちゃんと読んでほしい。俺だって森奈津子を擁護するようなマネはしたくないというのが本音。でもいくら森奈津子が憎くたって、発言を捻じ曲げて言ってもいないことを言ったことにしたり、その性的指向を否定するようなことを認めてはならない。あたりまえだ。

 

* * *

 

あと濱公葉の一連の発言で、見落としてたけどこんなのもあった。

 

https://twitter.com/sin_itami/status/974431901078269952

百合展2018のページには『女性同士の友情や愛情を意味する「百合」』とありますね。森さんが仰るように「百合」という語が単に性的な要素によってのみ規定されるとすれば、友情とはなんでしょうか? もちろん友情と性的関係は相互排他的ではないですが。

 

https://twitter.com/sin_itami/status/974431901078269952

 補足すると、私は「百合」とレズビアンは相互排他的な概念だというようには言っていません。「「百合」の全てが性的な要素や、レズビアンという言葉のみで説明可能だ」という決めつけに対して異論を提出しているだけです。それを無視する人の多いこと多いこと。

 

まず森奈津子《「百合」という語が単に性的な要素によってのみ規定される》とか「「百合」の全てが性的な要素や、レズビアンという言葉のみで説明可能だ」なんて、一言も言っていない。

 

https://twitter.com/MORI_Natsuko/status/973563128435757062
ふともも展を「性的」として抗議し中止に追い込んだフェミニストの皆様には、百合展が中止になった理由も、ぜひ、ご説明いただきたい。同性愛者差別的にならないよう説明することが可能ならば、ぜひ、ご教示ください。百合が性的?……当たり前だよ。百合は女性同士の性愛だ。性的に決まってるだろ。

 

「恋愛感情(恋愛)」と「性欲(性愛)」の線引きは恣意的なものだという話をしているだけだ。濱公葉は素で読解力がないのか認知が歪んでしまっているのか、おそらくその両方であろう。

 

また「百合」における「友情」は「恋愛」に至る過程であっても、女性同士の「友情」が「百合」であるという定義を導くのは論理の飛躍だ。女性同士の「友情」がすべて「恋愛」につながるわけではないし、むしろ「恋愛」の可能性を否定する目的で「友情」という観念が持ち出されることすらある。

 

つまり「友情」という言葉には、それが「恋愛」に至る可能性を示唆する意味と、その可能性を否定するという二面性があるということ。

 

「友情」を「性欲」に置き換えても同じことが言えるだろう。「恋愛」は「性欲」と渾然一体になった観念として捉えられる一方、そうした「性愛」を忌避して「恋愛(純愛)」を過剰に美化する風潮もある。

 

「百合」と「レズビアン」を《性的な要素》の有無に基づいて二元化する濱公葉の定義は、そのような「レズボフォビア(レズビアン嫌悪)」の延長線上にある。例によって例のごとく本人はレズビアンを嫌ってなどいないと言い張るだろうけれど、「レズボフォビア」に基づいた定義を採用し続ける以上、濱公葉は「レズボフォビア」に加担せざるをえない。「差別」とは好き嫌いといった「感情」以前に、まさしくそのような社会の「構造」の問題に他ならないのだから。

 

いずれにしても、そうした対人感情の二面性は「恋愛(精神的な同性愛)」と「性欲(肉体的な同性愛)」を排他的な二項対立の関係に置く濱公葉の凝り固まった世界観では捉えられない。濱公葉《私は「百合」とレズビアンは相互排他的な概念だというようには言っていません。》と寝言を言っているが、だとすれば《性的な要素》という恣意的な基準に基づいて「百合」と「レズビアン」を区別する必要もないはず。濱公葉は「区別」と「差別」は違うという、差別主義者のお決まりの言い訳を垂れ流しているにすぎない。

 

ただ、あらゆる「区別」が「差別」につながると短絡するのも同様に問題で(前回も述べたが「百合」と「レズビアン」の違いはたしかにあり、ただしそれは濱公葉の言う《性的な要素》の有無とは無関係ということ)、むしろ「差別」に陥る事態を回避するために必要な「区別」もある。形式論に陥ってはならない。

 

そこをいくと濱公葉および「百合展2018」が「百合」の定義に「友情」を含めているのは、「精神的な同性愛」を女性同士の「友情」の範疇に押しこめ、ひいては女性同士の「恋愛(同性愛)」の可能性を巧妙に排除する異性愛至上主義に根差した発想である。

 

またその意味で私は「百合展2018」に賛同する者でもない。思うところはいろいろある(きらら系の百合四コマ作家を軒並み排除した人選も腑に落ちない)。ただ「百合展」の中止にかこつけて、濱公葉のような異性愛至上主義とレズボフォビアに凝り固まったセクシストが、まるでどかした石の下からムカデがわらわらと湧いてくるみたいに出しゃばってくるのが気に食わないだけである。