百錬ノ鐵

百合魔王オッシー(@herfinalchapter)の公式ブログです。

濱公葉(sin_itami)による「レズビアン」差別発言について:追記 #百合展2018

前回の記事を公開した直後、相互フォローをしていたレズビアン当事者の方から一方的にブロックされてしまった。まさに「仲間からも撃たれるとは思わなかった」といった心境だ。

 

その方はどうも森奈津子のことをそうとう憎んでいるみたいで(それは俺だって同じだ)、今回の件で俺が森奈津子を擁護したっぽく見えるのが気に食わなかったらしい。

 

しかも、あろうことか濱公葉の言い分(というかデマに基づく悪質な印象操作)を鵜呑みにして、森奈津子が「百合」を《性的な要素》に限定して女性同士の精神的な結びつきを否定していると誤解しているのだ。

 

逆だよ! むしろ濱公葉のほうが「百合」を精神的な結びつきに限定して《性的な要素》を排除しようとしてるんじゃないか。

 

あの長いエントリーで俺が言いたかったのは、そもそも女性同士の精神的な結びつきと「性欲」を二元化して、コレは「百合」でアレは「レズビアン」、などと切り分けることは不可能だと言うこと。

 

かなりの長文だし差別問題やセクシュアリティの基礎理解がない人にはわかりにくかったかもしれないけど、森奈津子憎しでカッカしてないでちゃんと読んでほしい。俺だって森奈津子を擁護するようなマネはしたくないというのが本音。でもいくら森奈津子が憎くたって、発言を捻じ曲げて言ってもいないことを言ったことにしたり、その性的指向を否定するようなことを認めてはならない。あたりまえだ。

 

* * *

 

あと濱公葉の一連の発言で、見落としてたけどこんなのもあった。

 

https://twitter.com/sin_itami/status/974431901078269952

百合展2018のページには『女性同士の友情や愛情を意味する「百合」』とありますね。森さんが仰るように「百合」という語が単に性的な要素によってのみ規定されるとすれば、友情とはなんでしょうか? もちろん友情と性的関係は相互排他的ではないですが。

 

https://twitter.com/sin_itami/status/974431901078269952

 補足すると、私は「百合」とレズビアンは相互排他的な概念だというようには言っていません。「「百合」の全てが性的な要素や、レズビアンという言葉のみで説明可能だ」という決めつけに対して異論を提出しているだけです。それを無視する人の多いこと多いこと。

 

まず森奈津子《「百合」という語が単に性的な要素によってのみ規定される》とか「「百合」の全てが性的な要素や、レズビアンという言葉のみで説明可能だ」なんて、一言も言っていない。

 

https://twitter.com/MORI_Natsuko/status/973563128435757062
ふともも展を「性的」として抗議し中止に追い込んだフェミニストの皆様には、百合展が中止になった理由も、ぜひ、ご説明いただきたい。同性愛者差別的にならないよう説明することが可能ならば、ぜひ、ご教示ください。百合が性的?……当たり前だよ。百合は女性同士の性愛だ。性的に決まってるだろ。

 

「恋愛感情(恋愛)」と「性欲(性愛)」の線引きは恣意的なものだという話をしているだけだ。濱公葉は素で読解力がないのか認知が歪んでしまっているのか、おそらくその両方であろう。

 

また「百合」における「友情」は「恋愛」に至る過程であっても、女性同士の「友情」が「百合」であるという定義を導くのは論理の飛躍だ。女性同士の「友情」がすべて「恋愛」につながるわけではないし、むしろ「恋愛」の可能性を否定する目的で「友情」という観念が持ち出されることすらある。

 

つまり「友情」という言葉には、それが「恋愛」に至る可能性を示唆する意味と、その可能性を否定するという二面性があるということ。

 

「友情」を「性欲」に置き換えても同じことが言えるだろう。「恋愛」は「性欲」と渾然一体になった観念として捉えられる一方、そうした「性愛」を忌避して「恋愛(純愛)」を過剰に美化する風潮もある。

 

「百合」と「レズビアン」を《性的な要素》の有無に基づいて二元化する濱公葉の定義は、そのような「レズボフォビア(レズビアン嫌悪)」の延長線上にある。例によって例のごとく本人はレズビアンを嫌ってなどいないと言い張るだろうけれど、「レズボフォビア」に基づいた定義を採用し続ける以上、濱公葉は「レズボフォビア」に加担せざるをえない。「差別」とは好き嫌いといった「感情」以前に、まさしくそのような社会の「構造」の問題に他ならないのだから。

 

いずれにしても、そうした対人感情の二面性は「恋愛(精神的な同性愛)」と「性欲(肉体的な同性愛)」を排他的な二項対立の関係に置く濱公葉の凝り固まった世界観では捉えられない。濱公葉《私は「百合」とレズビアンは相互排他的な概念だというようには言っていません。》と寝言を言っているが、だとすれば《性的な要素》という恣意的な基準に基づいて「百合」と「レズビアン」を区別する必要もないはず。濱公葉は「区別」と「差別」は違うという、差別主義者のお決まりの言い訳を垂れ流しているにすぎない。

 

ただ、あらゆる「区別」が「差別」につながると短絡するのも同様に問題で(前回も述べたが「百合」と「レズビアン」の違いはたしかにあり、ただしそれは濱公葉の言う《性的な要素》の有無とは無関係ということ)、むしろ「差別」に陥る事態を回避するために必要な「区別」もある。形式論に陥ってはならない。

 

そこをいくと濱公葉および「百合展2018」が「百合」の定義に「友情」を含めているのは、「精神的な同性愛」を女性同士の「友情」の範疇に押しこめ、ひいては女性同士の「恋愛(同性愛)」の可能性を巧妙に排除する異性愛至上主義に根差した発想である。

 

またその意味で私は「百合展2018」に賛同する者でもない。思うところはいろいろある(きらら系の百合四コマ作家を軒並み排除した人選も腑に落ちない)。ただ「百合展」の中止にかこつけて、濱公葉のような異性愛至上主義とレズボフォビアに凝り固まったセクシストが、まるでどかした石の下からムカデがわらわらと湧いてくるみたいに出しゃばってくるのが気に食わないだけである。