百錬ノ鐵

百合魔王オッシー(@herfinalchapter)の公式ブログです。

【 #オタク差別 論争】「百合/BL」は「性的嗜好」であるから規制されるべきと主張する「まなざしかぶとむし(kabutoyama_taro)」

相変わらずロリペドと同性愛とを並列視する妄言が飛び交ってるが、まさしく"自ら進んで"「自身のアイデンティティのすべてを『ロリペド(キモオタ)であること』で覆い尽くしている」者たちが自分たちを同性愛者に準えるのは、皮肉ななんてものではない、およそ醜悪極まる逆説だろう。
https://twitter.com/kabutoyama_taro/status/985132809755901952

同性愛者の当事者運動が特にこれといって同性愛嗜好(←ここは嗜好で正しい)表現物への規制反対という形を取らなかったこと、また表現物に関して現に起きている批判のほぼ全てがヘテロ男性の嗜好のあり方に向けられているという事実を見るだけでも、両者の間には何の関連性もないことは明らか。
https://twitter.com/kabutoyama_taro/status/985138585589317633

手前勝手な嗜好の無節操な垂れ流しという「行為」を、同性愛という性的指向(←ここは指向でなくてはならない)すなわち「存在様態」に準えること自体が、歴然たる同性愛者差別だろう。
https://twitter.com/kabutoyama_taro/status/985143981649444864

萌え文化については、是非論を括弧に入れても、性的関心がここまで白昼堂々かつ大規模にコミュニケートされる社会ってどうなのよ、というのはあるよな。要するに公然色情狂社会。 昔はさほどでもなかったわけだから、強調するけど是非論を括弧に入れてもこれは歴然たる顕著な変化なのだよね。
https://twitter.com/kabutoyama_taro/status/532131113007726592

萌えについて批評的なことを書くとオタクサイドからはほぼ必ず「エロ消費は昔から」「エロ消費して何が悪い」といった反応が来るのだが、こちとら「いわばエロ写真を顔に貼り付けて表を歩く新人類の台頭」を問題にしてるわけなので、そもそも話が全く噛み合っていない。
https://twitter.com/kabutoyama_taro/status/533050746971770880

萌え豚諸君に対してあえてこういう言い方をすれば、君たちの目から見ればそれは(セクシーな、あるいは可愛い)美少女かもしれないが、文化を共有しない他人の目から見れば、それは君たちの「おちんちん」にすぎないのだ。 君たちに最も見えていないもの、それは他ならぬこの事実である。
https://twitter.com/kabutoyama_taro/status/533078186158870529

彼らの趣味が加害(セクシスト)的であるかどうかを括弧に入れても「性的な嗜好へのアイデンティティ的とさえ言いうる著しい執着」は確かなわけで、じゃあそれと「いじめられ体験」とには何らかの有意味な関連性があるのか、それとも単に偶々でしかないのか?
https://twitter.com/kabutoyama_taro/status/987768345356259329

一方で、もし中学高校段階ですでに「彼らの趣味が性的でキモいから迫害される」という側面があるのだとしたら、妙な話、アニメ漫画文化の著しく性的な傾向を是正していくほうが、いじめに遭う子供たちを減らせるという話になるのだが…?
https://twitter.com/kabutoyama_taro/status/987772666076540928

Twitter上で上掲したような的外れな持論(投稿された時期も元の議題も異なるが、根本のロジックは一貫しており、当人もリプライで繋げているので一まとめにする)を常にドヤ顔で垂れ流し、口さがない人々から「まなざしかぶとむし」と揶揄されている人物がいる。

この社虫太郎(@kabutoyama_taro ※「甲山太郎」とも名乗ることもあるらしい)という人物が何者なのか、じつはよくわからない。いちおう在野の社会学者であるらしく、しょっちゅうRTで回ってくるのだが、ググっても論文や著書の一つも出てこない。一部では「フェミニスト」として認識されているようだが、フェミニズムについても同様の知ったかぶりをしてフェミニストに叱られているのを目にする(しかし馬鹿なので何を言われているのかわからず「クソリプ」を繰り返している)。よって、むしろ社会学オタク」「フェミニズムオタク」という扱いが妥当であろう。

さて、上掲したまなざしかぶとむしの議論は、“性的”であるなら規制されるのが当然だ、という短絡的かつ時代遅れな「わいせつ基準」に基づく表現規制肯定論の焼き直しにすぎない。

だが何をもって“性的”と判断するかの基準が、そのじつきわめて曖昧かつ恣意的であることは先日の「百合展」中止をめぐる議論に見たとおりだ。成人向けのポルノ漫画でなくとも、青年誌などでは男女のあからさまな性行為の描写が珍しくないにもかかわらず、それが女性キャラクター同士の恋愛表現となれば、ただうっとりと見つめ合っているだけのポスターでさえ「レズビアン」に対する《性的消費》などとバッシングを受けるのが実情である。

欅坂46」便乗署名の発起人 濱公葉(sin_itami)というレズビアン差別主義者について #百合展2018 #欅坂46
https://herfinalchapter.hatenablog.com/entry/2018/03/18/125411

加えて、まなざしかぶとむしにかぎらず「萌え」をめぐる議論においては、なぜかそれらを「エロ」と同一視する向きもあるが、本来「萌え」と「エロ」は異なった観念である。

じじつ『けいおん!』『ご注文はうさぎですか?』『はるみねーしょん』など性的要素を巧妙に排除した「萌えマンガ」も少なからず存在し、またそれらの作品がけっしてニッチな需要に留まらることなくオタク・カルチャーのメインストリームを席巻しているのは周知のとおりであろう。

もっともそれはそれで「女性」に対して《処女性》を押しつけているなどとバッシングされるのだから、もはや初めに否定ありきの難癖でしかない。

けいおん!』に「政治的正しさ」を押しつける“意識のお高い”馬鹿ども
https://herfinalchapter.hatenablog.com/entry/20150608/p1

しかし裏を返せば「萌え」とはじつのところ定義すらあやふやな観念であり、一定の流行や傾向が見出せるとしても、何らかの価値判断の対象となりうるものではない。

そこへきて《萌え=エロ》《萌え=女性差別》などといった粗雑な前提で議論を展開したとしても、女性差別》の抑止からかけ離れた、いたずらな「性(エロ)」の規制に帰結することは目に見えている。

まなざしかぶとむしは「萌え文化」を槍玉に上げながら《性的関心がここまで白昼堂々かつ大規模にコミュニケートされる社会》を「公然色情狂社会」と断じるが、裏を返せば「社会」全体が《ヘテロ男性の嗜好》に基づいて構築されていると言えるのであり、「萌え」と呼ばれるマンガ表現の流行もまたその影響下にあるという話でしかない。《昔はさほどでもなかった》というなら、それはマンガ以外の場で《性的関心が白昼堂々かつ大規模にコミュニケートされ》てきたものが、近年はオタク・カルチャーの社会的認知に伴ってマンガもそのバリエーションに加わったというだけである。

そも「ロリペド(小児性愛)」が批判されるのは、ひとえに児童虐待ないし児童性搾取の構造と結びついているからであって、それが「性的指向」ではなく「性的嗜好」であるから、などという理由ではけっしてない。

近年はクィア理論の影響から「同性愛」も「性的嗜好」であるといった暴論(というか屁理屈)が幅を利かせているが、まなざしかぶとむしの言うとおり「性的指向」と「性的嗜好」の区別は厳然と存在する。

ただしそれは、生まれつきで変えられないのが「性的指向」、自分の意志で選べるのが「性的嗜好」――といったものではない。

「同性愛」という言葉は誤解されがちであるけれど、たとえば〈女性〉という性自認を有する人が〈女性〉を愛した場合に「同性愛」という関係性が成立するのであり、「同性」を愛する(つまり自分と同じ性別だから好き)という意味ではない。

また「同性愛」はしばしば《性別を超えた愛》と表されるが、「同性愛者」の多くは《性別》を無視しているのではなく、「異性愛者」と同様に〈女性〉または〈男性〉の《性別》を愛しているのであって、ただその「指向」が逆の方向を向いているにすぎない。

言い換えれば、たんに「女性(または男性)」が好きだというだけなら「性的嗜好」であるが、人を愛する上では「愛」の主体となる自らが何者なのかという自認(アイデンティティ)が不可欠だ。そこで主体が〈男/女〉いずれかの性自認ジェンダーアイデンティティ)を有しているのであれば「性的指向」が成立するということだ。裏を返せば性自認のない人に「性的指向」の概念は成立しない(もっとも個別の「当事者」のありようは様々である)。

翻って「性的嗜好」は《性別》と無関係に成立する(ゆえに性自認をもたない人でも「性的嗜好」を有することができる)。元より「性差別(sexism)」とは〈男/女〉の《性差(性別 sex)》における社会的・政治的力関係の非対称に基づいて機能する事象であるから、《性差(性別)》と無関係な「性的嗜好」に対する「性差別」はその定義からして成立しえないことになる。

・もっとも「オタク差別」ということであれば、非実在のキャラクターに「性欲」を抱くセクシュアリティを《変態》と規定し、あまつさえその“矯正”を試みることは、「性」の本質を《生殖》に規定した上で《生殖》につながらない「性」のありようを否定する異性愛至上主義の一環となりうる。
・ただ、それを「オタク差別」と名状することが妥当か否かは別問題である。また、まなざしかぶとむしによるものも含めた一連の「オタク差別」をめぐる議論の中でそのような異性愛至上主義の批判に基づく観点は出てきていない(そうした状況自体が異性愛至上主義の根深さを示しているともいえるが)ため、ひとまず本稿では除外する。

ただし、そうした性的指向」と「性的嗜好」の定義の違いはあくまでも概念の上であって、両者は排他的な二項対立の関係にはない。まして「性的指向=無害」「性的嗜好=有害」などというレッテルを貼るためのものでは、まったくない。

「同性愛」自体が「性的指向」であるとしても、当然ながら実際の「同性愛者」は各々の「性的嗜好」を有している。たとえば〈男/女〉どちらかの性自認を有する人が「女性の長い髪が好き」「男性の鍛え上げられた筋肉が好き」といった場合には、まさに「性的指向」と「性的嗜好」が連動していることになる。

そこをいくと「性的指向」と「性的嗜好」を二極化する思考は、すなわち同性に対して恋愛感情を抱くことは「性的指向」であるが、同性とSEXすることは「性的嗜好」であるという曲解を生み出し、ひいては《「精神的な同性愛」は認めるが「肉体的な同性愛」は許さない》という異性愛至上主義の政治的イデオロギーを強化するに留まるものだ。

しかるに性的嗜好」を表現する行為がまさに“性的”であるという理由で禁じられたなら、「同性愛者」の表現も同様に抑圧されることになる。じじつLGBTのパレードにおけるゲイダンサーやドラァグクイーンなどのパフォーマンスに対しても「肌の露出が多すぎる」「かえって偏見を助長する」といった類のクレームは(「アライ」気取りの非当事者はおろか、しばしばゲイリブに否定的な当事者からも)毎回のように寄せられている(浅草のサンバカーニバルや全国各地の裸祭りはどうなるんだ? という当然の突っ込みはさておき)。

だいたい一口に「同性愛者」といってもその「存在様態」はじつに様々であり、また「アイデンティティ」のもちようも「当事者」によって異なる。

「同性愛者」は「ゲイ/レズビアン」と同一視されがちであるけれど、文字通りたんに「同性」を恋愛感情ないし性欲の対象にするというだけでは「ゲイ/レズビアン」とは呼べず、「わたしはゲイ(レズビアン)だ」というアイデンティティを獲得してこそ「ゲイ/レズビアン」と言える(その意味で、百合/BL作品の多くに「ゲイ/レズビアン(のアイデンティティを有するキャラクター)」は登場しない)。

裏を返せば「同性愛者」であっても自身の性的指向に揺らぎを感じる人もいれば、まさにアイデンティティ的とさえ言いうる著しい執着》をもつ人もいる。「わたしはゲイ(レズビアン)だ」というアイデンティティを前提に自らの世界観を構築している人もいれば、恋愛やSEXよりも仕事や趣味のほうが大事だという人もいる。また性的指向は生まれつきで変えられないという人もいれば、自分の意志で選んだのだという人もいる(ただしそれを「性的嗜好」と呼ぶのは前述のとおり誤用である)。同性と恋愛はしてもSEXはしないという人もいれば、逆に同性とSEXはしても恋愛感情はないという人もいるし、あるいは恋愛感情と性欲を明確に線引きしない人もいる。

一方でまなざしかぶとむしは「同性愛者の当事者運動」が《特にこれといって同性愛嗜好表現物への規制反対という形を取らなかった》ことを理由に、「同性愛嗜好表現物」つまり一般には「百合」や「BL」と呼ばれる表現に対する“規制”が《同性愛者差別》に当たらないとの見解を示している。

しかし実際には幾夜大黒堂『境界のないセカイ』の“自主規制”に対し、LGBT団体「レインボー・アクション」が抗議声明を発表したといった事例がある。

『境界のないセカイ』発売中止・連載打ち切り問題へのレインボー・アクションの立場表明
http://rainbowaction.blog.fc2.com/blog-entry-228.html

また「団体」ではなく一個人としては、電子コミック配信サイト「comico」が「百合/BL」の表現に対してのみ不当に厳しい規制を課している事態を告発する「当事者」もいる(※個人ブログなのであえてリンクは貼らない)。

それでも「同性愛者の当事者運動」が、一般的にはマンガ表現ないしその規制の問題について無関心であるとは言えるかもしれない。だが、それを言うなら何らかの「差別」に対して“反対”することを目的とする当事者団体もじつのところ存在しない。当事者団体の主な活動とは、もっぱらシンポジウムやパレード、お茶会といったイベントの主催だとか、当事者向けのカウンセリングなどである。

一方で上述のとおり「百合/BL」に対しては現実の「同性愛者」に対する《性的消費》であるという批判もなされているけれど、「当事者運動」が“反対”しないものは「差別」ではないと主張するまなざしかぶとむしの論法に則るのであれば、それこそ「百合/BL」の表現に対して“反対”する「当事者運動」も存在しない。

元よりフィクションの同性愛表現を消費することが現実の「同性愛者」を“消費”することになるという理屈は、論理が飛躍している。またその理屈なら、フィクションの同性愛表現を規制することは現実の「同性愛」をも“規制”することになるはずだが、それについてはあくまでもフィクションの表現が対象であることを理由に正当化するのである。ひどい論理矛盾だ。

《表現物に関して現に起きている批判のほぼ全てがヘテロ男性の嗜好のあり方に向けられている》というのも事実誤認だ。まさに「BL」を嗜好・消費する女性たち――俗に「腐女子」とも呼ばれるが、今ではこの呼び方を差別的であるとして批判する「当事者」も多い――に対する「批判」を通り越した、陰湿きわまりないバッシングの歴史を知らないのか。まなざしかぶとむしはフェミ界隈をうろちょろと走り回っているから「フェミニスト」の議論しか目に入っていないのだ。

「百合/BL」が「同性愛者」に対しての《性的消費》であるというなら、巷に氾濫する男女のラブ・ロマンスを表現するコンテンツも「異性愛者女性(言うまでもなく「異性愛者男性」に較べれば「マイノリティ」である)」に対する《性的消費》であるとして一律に規制されなければ辻褄が合わない。あるいは「百合/BL」が「同性愛者」に対する誤解や偏見を助長するというのであれば、男女のラブ・ロマンスを表現するコンテンツも「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」と呼ばれる偏った男女観をとめどなく再生産している。「百合/BL」が基本的に〈異性愛者〉の文化であるとしてもニッチな隙間産業の域を出ない実情を考えれば、後者の悪影響こそ甚大であるはずだ。

・もっとも「百合/BL」には「レズビアン/ゲイ当事者(あるいはバイセクシュアル)」の作家およびユーザーも一部に存在するが、メインとなる消費者が〈異性愛者(非同性愛者)〉であることは事実であり、また「当事者」の存在を理由に肯定するのであれば、「非当事者(異性愛者)」による同性愛表象の“消費”についてはやはり否定すべきだという結論になるだけなので、本論ではあえて脇に置く。
・また一般に「百合/BL」は「レズビアン/ゲイ当事者」のユーザーを想定していないが、かといって排除しているわけでもないことにも留意すべきである。

しかるに「百合/BL」の性的要素にだけことさら目くじらを立てる人たちは、じつのところ「同性愛(者)」に過度なまでの“健全さ”“正しさ”を要求し、ひいては「同性愛(者)」自体を異常視・特殊視する「ホモフォビア」を露呈しているにすぎない。とくに「BL/腐女子」に対するバッシングは「ホモフォビア」に加えて、女性が主体的に「性」を楽しむことに対する抑圧であり、いくら紋切型の「政治的正しさ」を装ったところでその本質にミソジニー女性嫌悪)が透けて見えている。

ところでまなざしかぶとむしは聲の形』を推しているようだが、あれもまさに「障害者女性」に対する《性的消費》ということになるだろう。じじつその映画版の輸出に際し、台湾では《聴覚障害者を商品化》しているとして上映反対運動が起こっている。

聴覚障害者を商品化? 日本映画「聲の形」の台湾上映に反対意見噴出
http://japan.cna.com.tw/news/aart/201703270002.aspx

また『聲の形』はイジメ問題をテーマにしているが、まなざしかぶとむしの《もし中学高校段階ですでに「彼らの趣味が性的でキモいから迫害される」という側面があるのだとしたら、妙な話、アニメ漫画文化の著しく性的な傾向を是正していくほうが、いじめに遭う子供たちを減らせるという話になるのだが…?》という主張は、まさにイジメの原因をイジメ被害者に求め、加害者の責任を免罪する悪質極まりないものだ。実際、私は同作が読み切りとして雑誌に掲載された時点で、そのような差別意識を読者に植えつけかねない作品であることを指摘している。

障害者を“記号化”する健常者の「レイプ・ファンタジー」~大今良時聲の形
https://herfinalchapter.hatenablog.com/entry/20130224/p1

※ただし連載開始前の読み切りを読んだ時点の感想であり、その後の連載およびアニメ版・実写版について言及したものではないことをお断りしておく。

 そも「キモい」と感じるのは、あくまでもそう感じる当人の主観の問題であり、特定のセクシュアリティが本質的に「キモい」などということはありえない。そして「同性愛」も「性的指向」である以上は“性的”であることから免れず(“性的”でない「性的指向」など語義矛盾である)、よってそれを「キモい」と感じる人間がイジメを行うことが正当化されるのであれば、必然して「同性愛者」へのイジメも正当化されてしまう。

繰り返すが「ロリペド」を手放しに肯定することができないのは、その「欲望(性欲)」の成立が〈大人/子供〉の権力構造に依拠せざるをえないからだ。それを「キモい(と感じる“健全な”人々がいる)」などという理由で頭ごなしに抑圧するのであれば、「ロリペド当事者」は自らの「欲望(性欲)」の権力性・加害性に向き合う機会を失い、ただ被害者意識をこじらせたあげく暴力的な発露(実在の児童をねらうケースばかりでなく、たとえば児童虐待サバイバーやフェミニスト、LGBTに筋違いの憎悪を向けるなど)に至る結果となるであろう。

ようするにまなざしかぶとむしは「同性愛者」を【性的でない“健全な”同性愛者】と【性的でキモい同性愛者】に分断した上で、後者についてはイジメられても仕方がないと言っているに等しいのであり、まさしく《「精神的な同性愛」は認めるが「肉体的な同性愛」は許さない》という異性愛至上主義のレトリックを踏襲しているにすぎない。

あるいは『聲の形』を観て「俺にも障害者の彼女が欲しい」という「性的嗜好」を獲得する「ヘテロ男性」もいる。

聲の形を見て「耳の聞こえない彼女が欲しい」と感想を持つことは倫理的に問題か
https://togetter.com/li/1108958

これはいささか極端な事例かもしれないが、いずれにしても問題は、どのような“消費”のされ方、さらには「性的嗜好」の表現・表明の仕方に警戒するべきかということであって、《性的消費》自体が一概に「悪」であると決めつけたところで何の解決にもならない。「表現」が実質的にマンガや映画、小説などといった商業メディアを通して具象化される行為である以上、「表現」を通して「性」を表現する試みは、自ずと《性的消費》として機能せざるをえないからだ。

この程度の道理もわからず、性的消費だの“まなざし”だのを問題にしているから「まなざしかぶとむし」などと馬鹿にされるのである。もっとも、Twitterでつまみ食いした薄っぺらなフェミ知識をひけらかして被承認欲求を満たしたい当人にとっては、むしろ世の中の何も解決しないほうが好都合なのかもしれない。