百錬ノ鐵

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やはりホモフォビアを正当化する山本弘

(2019年6月23日 修正)

 山本弘の短編集『アイの物語』(角川書店)の表題作には、劇中の仮想空間に登場する女性戦士のキャラクターが「同性愛者」と見なされたこと(※具体的には、他の女性キャラクターとの「同性愛関係」を疑われる)を「侮辱」ととらえて激昂するという、とても「西暦2041年」を舞台にしているとは思えない、西暦2006年当時であっても時代錯誤なホモフォビア表現が登場します。

 もっとも、フィクションの登場人物の言動については「作者自身の思想とは別」というエクスキューズも成り立ちますが、ここへきて、とうとう山本自身がホモフォビアを露呈しました。

http://www.geocities.co.jp/Bookend-Soseki/5814/material2009_07_a.html
(強調はOssie)
 
134 2009年06月03日 14:57 山本弘
 
>ジェントルイエローさん
 
> 差別問題(表現を分けるためにこう書きます)が個人に属していない、とはどういう状態かと申しますと、例えば私が心の中で韓国人の事を嫌っているとして、しかし私にはそうする自由がある。人間には思想の自由、すなわち差別をする自由があるのです。
 
「好き嫌い」と「偏見」「差別」はぜんぜん違うと思いますよ。「背の低い男は嫌い」とか「中国人は嫌い」とか「オタクはキモい」とか思ってるだけなら、べつにかまわないと思うのです。さすがに個人の嗜好まで検閲するのはやりすぎですから。
 僕だってゲイ(特にガチムキ系)は気持ち悪いと思ってます。また、街中で知的障害者を見かけると、つい視線をそらしちゃいます。そう思ってしまうのは止められない。
 
 ただ、それが許されるのは、そうした感情が自分の主観であることを自覚しているうちの話です。
 それが主観であることに気づかず、客観的事実であると錯覚しはじめると、偏見や差別に発展します。
 
 たとえば、殺人犯が精神病だったというニュースを見て、「精神病の人間は危険だから、全員、社会から隔離してしまえ」とか言い出すと、それは「偏見」です。
 なぜなら、精神病の人の大半は、(病気に苦しみながらも)まっとうな日常を送っており、刑事犯罪など犯さないからです。街中で無差別に人を殺傷する者となると、何万人に1人でしかありません。たまたまそうした事件があると、センセーショナルに報じられるというだけです。
 
1.「精神病は気持ちが悪い」
 という主観が、
2.「自分から遠ざけたい」
 という願望を生み、それが
3.「精神病の人間は危険」
 という誤った説を客観的事実として信じさせ、
4.「隔離しろ」「抹殺しろ」
 という意見に発展するのだと思います。
 
(「精神病」という部分を「アニメオタク」とか「障害者」とか「韓国人」とかと入れ替えてもかまいません)
 どこがいけないかというと、2→3に移行する過程、主観が客観にすり代わる過程ではないかと思うのです。
 それが自分の主観にすぎないことを自覚していれば、3に発展することはありえないんですから。
 
 まあ、中にはそれが自分の主観であることを自覚しつつ悪意を振りまいている奴もいるでしょうけど、大半の差別者はそうじゃないと思います。
 自分が客観的事実を把握していると思いこみ、世の中を良くしようと、怒りにかられて行動する人――自分の考えが差別意識であることさえ認識しておらず、むしろ正義だと思っている人が大半ではないかと思うのです。

 どうやら山本は、ホモフォビア「好き嫌い」の問題に矮小化することによって正当化できると考えているようです。

 しかし、ホモフォビアの問題点は「嫌い」という「感情」そのものではなく、その「感情」が不当な根拠に基づいていることにあります。

 上掲した山本の発言、そして『アイの物語』における「アイビス」の台詞に象徴されるとおり、異性愛者のホモフォビアは主として「同性の同性愛者」に向けられるという特色があります。

 そしてさらに突き詰めていくと、ホモフォビアは同性愛の“精神的側面”ではなく、主に“肉体的(性的)側面”に向けられるものです。これについても、山本は「(特にガチムキ系)」という断り書きをわざわざ入れていることで自ら実証しています。

 すなわち、ホモフォビアは同性愛者をポルノの中の存在として捉える解釈に立脚するものであり、そしてそれ自体が異性愛至上主義に根ざした明確な「偏見」「差別」に他ならないのです。

 このことから、「好き嫌い」「偏見」「差別」、また「主観」「客観」を別個として規定する山本の議論は破綻を来たしています。

 加えて「検閲」の問題について述べるなら、たしかにゲイに対して「気持ち悪い」という「感情」を抱くこと自体は内心の自由であっても、それを不特定多数に向けて“表現”した時点で“内心”の範疇を越えてしまいます。よってそれを批判することもまた“表現”の自由であり、むしろそうした批判を封殺する山本の態度こそが「検閲」であると言えるでしょう。

 『アイの物語』が示すところの「ゲドシールド」とは、自らの価値観を揺るがしかねない“不都合な真実”から目を背けたいという「感情」によって構築されるものでした。そして当の山本もまた「ゲドシールド」によって自身のホモフォビアを正当化するであろうという私の推察は、やはり当たってしまいました。

 言うなれば、山本は自らが「自分の主観であることを自覚しつつ悪意を振りまいている奴」である一方、「自分の考えが差別意識であることさえ認識しておらず、むしろ正義だと思っている人」スケープゴートにすることで、己の差別意識を「シールド(守護)」しているにすぎないのです。

(2009年8月9日 追記)

>それが自分の主観にすぎないことを自覚していれば、3に発展することはありえないんですから。

↑ついでに言うとこれも間違い。げんに山本はかつてこんなことを言ってました。

http://f1.aaa.livedoor.jp/~ruri/gp03.htm
 
(前略)
 大勢の人が不快に感じているから規制せよ――この考えも非常に危険です。
 たとえば、今でもゲイに対して偏見を持ち、不快に感じている人が大勢います。それならゲイも法律で規制すべきなのでしょうか? ハンセン氏病患者は? 被差別部落出身者は? 在日韓国・朝鮮人は?
 もちろん違います。その人の主観で「不快」であっても、それが具体的な害を与えない限り、その存在は認められなければならない。なぜなら、偏見を乗り越えて共存するのが、社会の正しいあり方だからです。
 ただし、「不快なものを目にしない権利」も保障されるべきです。たとえば、街中で卑猥な行為をしたり、ポルノ写真をでっかく掲げたりするのはいけない。否応なしに目に飛びこんでくるのはまずい。
 しかし、本や雑誌は開かなくては見えないわけですから、見たくなければ手に取らなければいいだけのこと(表紙は過激なものにしないよう規制すべきかもしれませんが)。
 このホームページにしても、「秘密の部屋」を閲覧する前に確認のページを入れています。誰かにとって不快な画像が、予告なしに目に飛びこまないようにしているわけです。こういう配慮は必ず必要です。
 
http://homepage3.nifty.com/hirorin/hinitsutop.htm
 
 たとえば、ゲイ嫌いの人が、自分の意思でゲイのパーティに参加し、「まわりじゅうゲイだらけで、精神的被害を蒙った」なんて訴えたって、裁判所がまともに取り上げるはずはありません。不快な思いをしたくなかったら、行かなきゃいいんですから。
 同様に、その人の目につかないところに不快なものがあったとしても、それだけで「害がある」と主張するのは明らかに間違い。街中でウンコをするのはいけないけど、トイレでするならいい。それと同じ。
(後略)

 山本の言い分は、一見するとゲイ差別を批判しているようですが。しかし裏を返せば、同性愛者が「パーティーという私的場ではなく、公的場で何らかの活動をした場合には、「まわりじゅうゲイだらけで、精神的被害を蒙った」という主張が正当化されるという帰結になってしまいます。

 山本は、同性愛者の団体がたびたびフェスティバルやパレードといったイベントを開催していることを知らないのでしょうか?

 山本は自らのホモフォビア「自分の主観にすぎないことを自覚して」いながらも、結果として同性愛者の可視化を否定する発言をしています。このことは、オタクがしばしば好んで用いる「自覚して振舞えば正しい」というレトリックが成立しえないことの証左とも言えるでしょう。