「差別」に脅かされる当事者を追いつめる“妖怪どっちもどっち”の陥穽〜牧村朝子『百合のリアル』(8)
(2015年7月11日 加筆修正)
第7章『ホモフォビアとホモフォビアフォビア』の中で、牧村はレズビアンの講師の言葉を通して次のように述べている(p.223)。
「(前略)女性同性愛者を感覚的に気持ち悪いと思う人自体が魔法のように消えていなくなるわけではないのよね。それは辛いことかもしれない。でも、覚えていてね。そうした感覚は、あくまでその人の中の『区別に基づくイメージ』に向けられたものであり、『あなた自身』に向けられたものではない、ということを。人間は区別しあい、傷つけ合う生き物なの」
これはホモフォブ側の自己正当化のクリシェである、
・「同性愛」という“性”を嫌悪しているのであって「同性愛者」という“人”を嫌悪しているのではない。
・ゆえにホモフォビアはたんなる「性的嗜好」であって《同性愛者差別》にはならない。
……というレトリックを、レズビアンの側がそのまま受け売りしたものだ。
そしてこれもやはり「差別」を〈社会〉の構造から体よく切断して〈個人〉の意識の問題に還元する思考の一環である。
すなわち「差別」が“ある”と思うから「差別」を“感じる”のであって、「差別」を“ない”と思えば「差別」が“ない”ことと同じという理屈だ。ようは《私が死ねば世界も終わる》といった唯我論の類にすぎない。
もっとも、レズビアン当事者にしてみれば、世間がレズビアンである自分に悪意を向けていると想像することに耐えられないという想いがあるのだろう。
しかし現実には「異性愛者」でないことが周囲に発覚したとたん、嫌がらせやいじめなどの迫害を受けるようになっったという事例はけっして珍しくない。おそらく本書の読者の中にもそうした体験をした当事者がいるのではないか。
そのようなホモフォビアに対する嫌悪を「ホモフォビアフォビア」「差別する人たちを差別する」などと断罪し、聖人君子のような振る舞いを要求することこそ、むしろ「差別」に脅かされる当事者をいっそう追いつめる結果となるだろう。あえて言うなら、それはレイプ被害者の“落ち度”をあげつらうことで被害を過小評価する「セカンド・レイプ」と大差ない。
ただ問題は、「異性愛者」であるとか「男」であるとかいうだけで「ホモフォブ」「差別する人」と同一視する偏見にある。まさに《「レズもの」のAVが大好き》というだけの理由で《「彼女とのヌード写真いくらで撮らせてくれる?」だとか「女なんだから本当は欲しくなるでしょ?」とか言》う類の輩と決めつける短絡的な思考のことだ(p.173)。
同性愛者でなくとも「ホモフォビア」および「ホモフォブ」に怒りを覚える人はいる。異性愛者であっても「異性愛規範=異性愛主義」を批判する人はいる。
「ホモフォビア」に脅かされる人に寄り添うことができるとすれば、そのような人々ではないか。否、それはもはや“寄り添う”などといった次元ではなく、すでに「差別」を自らの問題として認識する姿勢である。ここへきて〈当事者/非当事者〉などという二項対立自体がまったく意味をなさない。
しかしその一方、自己を「非当事者」の安全圏に位置づけた上で、「当事者」の言動を基準に「差別」を容認するかしないかを決めようとする小賢しい人間もいる。「ホモフォビアフォビア」「差別する人たちを差別する」などの“どっちもどっち論”は、そうした手合いがもっとも好むレトリックだ。
裏を返せば、そのような“妖怪どっちもどっち”は「差別」を他人事として捉えている。「差別」が自分の問題であるなら、他人がどうあろうとまず自分が動けばいいではないか。
すべての人と連帯する必要はない。ただ「差別」に抗う人々との連帯の可能性に開かれていればいい。
ホモフォブやヘテロセクシストなどの明確な差別主義者、あるいは安易な相対主義や冷笑主義を盾にして自ら連帯の可能性を制限する“自覚なき差別主義者”との連帯を拒むことは、だんじて「差別」ではない。