百錬ノ鐵

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「関西クィア映画祭2014」からの回答(4)

(2014年12月19日 追記)

10月17日に『公開質問状(3)』を送って1ヶ月以上が経過しても、実行委員会から何の回答も得られなかったため、11月27日に再び問い合わせのメールをしたところ、それから1週間以上経った本日、実行委員の斬氏から返信がありました。

オッシーさん
 
お世話になります。
10月22日のAM11:11にお返事をお送りしておりますが、もしかしたらエラー等で誤って迷惑メールボックスに振り分けされてしまったのかもしれません。
お手数ですが、ご確認くださいますでしょうか。何卒よろしくお願い申し上げます。
(本メールの下記にも転載しておきます。)
また先回の会議で、オッシーさんとの一連のやりとりをブログとウェブサイトにも公開予定です。
またご確認いただければ幸いです。どうぞよろしくお願い致します。
 
関西クィア映画祭2014実行委員会

なんと10月22日の時点ですでに回答のメールを送信済みだったとのことでした。以下、10月22日付で送信されたという回答を転載します:

オッシーさん
 
お世話になります。関西クィア映画祭2014実行委員会の斬です。
申し訳ないことに、映画祭開催期間中である17日朝と夜、18日朝と夜のそれぞれの時点で実行委員間で確認したところ、実行委員会による検討のための時間がとれないと判断されておりました。
返答に何度もお時間を頂戴し、恐縮でございます。
そして、たびたびのご丁寧なご質問・ご意見、まことにありがとうございました。
前回の返信では、斬が文責として担当いたしましたが、今回の実行委員会で検討した結果では、斬が主に文章作成しつつも、ほとんどの部分を実行委員会で文章を作成したため、関西クィア映画祭2014実行委員会の文責とさせていただきます。
 
10月20日に臨時実行委員会を開き、14時から23時の間に、オッシーさんからのご質問・ご意見について検討いたしました。
まず、前回のこちらからの返信で申しましたとおり、「私はレズビアンだ」という文章に対する意味について以下の通り、実行委員それぞれの意味を申し上げます。
 
「私はレズビアンだ」に対しての意味
 
・「私はレズビアンだからよくない」といったネガティブイメージを持ったスティグマに対して、自分を責めなくてよい、レズビアンであることに自信を持っていいと思う、といったメッセージを含めている。
 
・「私はレズビアンだ」という部分は、他の4つと含めて、枠の例としてあげている。
 
セクシュアルマイノリティの人々が見たときに、あるひとつの主張として、広く認知されてる例として選んだ。レズビアンだということをオープンにしているとか、政治的にこういう人もいるという、社会に向けてのメッセージになると考えた。「私はレズビアンだ」と考えている人が、他者に対してそれを押し付けるように差別をすることも考えた。
 
・私の中の「レズビアンだ」という枠をこわすという意味をこめてる。誰かがレズビアンだと私に対して言ってくるならこわしたいといった文章だったら分かりやすかったかもしれない。挙げられた例は、社会状況把握のため。つらいと思う、大変だと思うことが、入っていればいいと思った。それらを可視化できればいいと思い、「私はレズビアンだ」はその中のひとつである。不可視化させたくないこととして取り上げた。
 
・シスヘテロが、「私は異性愛者だ」、「おいら、ヘテロです」といちいちいうの聞いたことありますか? (私は)皆無! そんな状況の中で、なんで同性愛者もしくはバイが、「私はビアンだ」とプライバシーを表明するのか。不公平ではないか!? 言わなくても当たり前の社会になって欲しいという願いから、「私はビアンだ」と一方が表明しなければならないという枠がこわれればいいと考えます。
 
レズビアンアイデンティティレズビアンプライドを持って、社会にアピールし、自分を肯定することは非常に大事なことだと思う。でも、それが重要で必要な場合や人もいるけど、それについて、本当はどういうことだろうかということを振り返りたい人もいるんじゃないかと考えた。あるいは、レズビアンだということで、レズビアンらしくならないといけないのだろうかという悩みも考え続けたいというメッセージを含めていた。
 
・再検討から「今年の特色」の文章を検討し、「私はレズビアンだ」という表現は差別的なので修正すべきと考えた。しかし、さらに検討を続けた結果、その文章に含められた重要な意味づけを踏まえ、「私はレズビアンだ」という表現を載せるべきだと考えた。
 
これらの意見があったため、時間を要すこととなりました。
 
次に、1通目にいただいたメールによるブログ記事の質問へのお答えと、2通目にいただいたメールにある質問のうち、答えられていなかった項目へのお答えと、3通目にいただいたメールの質問へのお答えを述べさせていただきます。
 
まずは、1通目のメールによる、ブログ記事より、質問にお答えいたします。
 

1−1.なぜ「わたしはレズビアンだ」ということが「世の中には男と女しかいない」「男は性欲をコントロールできない」「性を売るなんてよくない」「愛する人は1人にしぼるべきだ」などの明確な性差別思想と同列に置かれているのでしょうか?

 
【返答】★これらの枠の例は、関西クィア映画祭2014実行委員会では、否定的とも肯定的とも表明しておりません。したがって、どの枠も、性差別思想としての意味づけ、否定的な枠としての意味づけはありません。
 
性差別思想になる文言になるのは、他者へ押しつけた場合になると考えます。そして、実行委員会では、これらの枠の例を押しつけてはいません。例えば、「世の中には男と女しかいない」という考え方を、他の人に押し付けたら、それは性差別的な思想になりうるかもしれませんが、ある人が「世の中には男と女しかいない」という考え方によって自己を肯定することは、他者が咎めることではありません。これは、他の枠の例についても当てはまります。ある人がある特定の視点を持つことは、その人の自由です。
 
 言葉や枠の価値判断は、使う人の文脈に依存すると考えます。私たちは、先述の通り、「今年の特色」の第一段落で、価値判断を伴わない形で、枠の例示をしました。
 

1−2.むしろあなたたちこそ「多様性」などと耳当たりの良いことを言いながら「世の中には男と女しかいない」などの性差別思想を追認し、その一方でレズビアンの生き方を、クィア理論のイデオロギーに都合の良い「枠」に当てはめているのではありませんか?

 
【返答】★確かに、実行委員会では「多様性」という言葉を用いております。オッシーさんのおっしゃる「追認」という言葉が「実行委員会は性差別思想であると認識している」という意味でしたら、そのようではありません。実行委員会では「世の中には男と女しかいない」などのこれらの枠が存在しているということのみを認識し、例として挙げています。
 
オッシーさんがおっしゃるクィア理論がどのような意味で扱われているか分かりかねますが、私たちの趣旨は規約(http://kansai-qff.org/files/bylaw20140420.pdf)に記載している通りです。実行委員会では、クィア理論を明示的に扱っている認識はありません。したがって、レズビアンの生き方を、クィア理論のイデオロギーに都合の良い「枠」に当てはめてはいません。
 

1−3.なぜ「レズビアン」なのでしょうか?

 
【返答】★草案執筆時、執筆者かつ実行委員だった、とみー(10/21に実行委員を辞めました)は、以下のように述べています。
 
”10代の頃、レズビアン認知で悩んだ経験があり、一回「私はレズビアンだ」と引き受けたこともあるけれども、拒否したこともありました。その枠によって人との関わり方や、自分の存在が不安定になって、しんどくなった経験がありました”という思いから、この草案がかかれました。
 
「今年の特色」の文章作成時は、実行委員会では異論がありませんでした。そして今回、再検討した結果、「レズビアン」のままでよい、という意見とまとまりました。
 
次に、2通目にいただいたメールにある質問のうち、答えられていなかった項目へのお答えをいたします。
 

2−1・問題の差別的な宣言文は、「レズビアン」を“クィア差別者”に仕立て上げることで《レズビアン差別》を相対化・正当化する、まさに「レズビアン」に対するヘイトスピーチと言っても過言ではありません。しかるに、それが貴サイト上から撤去されるまでの間は、それを目にした人々が「レズビアン」に対する差別意識を植え付けられることになりますが、その社会的・道義的責任についてどのようにお考えでしょうか?

 
【返答】★前述の回答を踏まえ、「今年の特色」では「レズビアン」を“クィア差別者”に仕立て上げていませんし、ヘイトスピーチではありません。
 
次に、3通目にいただいたメールの質問へのお答えを述べさせていただきます。
 

3−1・あなた(斬さん)は「関西クィア映画祭」実行委員会において、どのような立場にあるお方でしょうか?
サイトを確認してもよくわからないのですが、今期映画祭の代表者はどなたになるのでしょうか?

 
【返答】★斬です。私は実行委員として参加しており、パンフレットのレイアウトとデザイン作成、当日は、クィア・スペースとクィアトイレの装飾を主に担当しておりました。今年度の実行委員会には、代表者はおりません。
 

3−2・繰り返しになりますが、「レズビアンを名乗る人々に対して批判をする意図がない」ということであれば、なぜ「わたしはレズビアンだ」ということが「世の中には男と女しかいない」「男は性欲をコントロールできない」「性を売るなんてよくない」「愛する人は1人にしぼるべきだ」などの明確な性差別思想と同列に置かれているのでしょうか?

 
【返答】★先の返答(1−1)をお答えとさせていただきます。
 

3−3・そしてこれも繰り返しとなりますが、「世の中には男と女しかいない」「男は性欲をコントロールできない」「性を売るなんてよくない」「愛する人は1人にしぼるべきだ」などの明確な性差別思想を並べ立てた文脈において、なぜ、数ある人間の性のありようの中でも、特に「レズビアン」だけを例示として引き合いに出したのでしょうか?

 
【返答】★先の返答(1−3)をお答えとさせていただきます。
 

3−4・《「今年の特色」で表現されている意味と文脈も、「枠をこわしてワクワクする秋」の意味づけも、実行委員間で異なる見解が得られ》たということであれば、いったんは問題の宣言文をサイト上から削除(パンフレット等にも掲載されているのであればそれらも回収)するべきではありませんか?

 
【返答】★10月16日の臨時実行委員会においては、「今年の特色」を撤回すべきかどうかは議論されておりませんでした。また、今回(10月20日)実行委員会による検討では、差別表現ではないと判断されたため、撤回も回収もいたしません。
 

3−5・「レズビアンを名乗る人々に対して批判をする意図がない」としても、「レズビアン」のアイデンティティを「枠」と規定した上で、それを「こわしてみよう」と要求(仮にそれが期待や提案といった“ゆるい”形であっても)することは、早い話がレズビアン当事者に対して「レズビアンをやめろ」、あるいは“現時点で”レズビアンをやめないまでも「将来的には、男性ないし非女性を愛する可能性に開かれるべきである」と干渉する行為ではありませんか?
 そしてそのような行為が、レズビアンに対する「パターナリズム」であり「ヘイトスピーチ」であるという認識はありますか?

 
【返答】★提案することは干渉することではないと実行委員会では認識しております。提案であるため、その案を棄却する自由があります。したがって、「レズビアンをやめろ」「将来的には、男性ないし非女性を愛する可能性に開かれるべきである」と干渉する行為ではありません。
 
 提案であるため、パターナリズムでもなく、ヘイトスピーチでもありません。オッシーさんがおっしゃるように、『批判されるべきは、他人を望まない「枠」に当てはめる行為であり、自分で自分のセクシュアリティアイデンティティを規定すること自体は何一つ責められるべきではないはずです。ましてや「枠」を“こわす”べきだなどと、あなたたちに指図をされる筋合いもありません。』という意見の通りだと思います。
 

3−6・問題の差別的な宣言文を書かれた人物は、当方からの指摘についてどのように捉えているのでしょうか?
また当方からの指摘を受けた上で、当人としては、なおも撤回する意思はないのでしょうか?

 
【返答】★草案を書いた者はおりますが、何度も実行委員会で検討され、文責は実行委員会全体のものとなっております。検討を重ねる中で、草案からの変更点もございます。
実行委員会全体で検討した結果、撤回する意思はございません。
 

3−7・「わたしはレズビアンだ」との文言が、「世の中には男と女しかいない」「男は性欲をコントロールできない」「性を売るなんてよくない」「愛する人は1人にしぼるべきだ」などの差別的言辞と同列に扱われているのを見て、他ならぬ【あなた(斬さん)】ご自身は、どのように感じられましたか?

 
【返答】★斬です。私はこれらの文章の決定については、実行委員会に委任した状態でした。今回のオッシーさんからのご質問・ご意見についての、実行委員会の検討には参加しております。そこでは(10月16日)、本件の「私はレズビアンだ」という文章の並び方が差別的な表現であると、私は実行委員会内で意見いたしました。しかし、検討する中で(10月20日)、文章に対する偏った読み方を私自身がおこなっていると認識しました。
 
「私はレズビアンだ」という表現は、何もレズビアンに誇りを持ってアイデンティファイしそのように名乗る人々に対して、批判しようとした文章ではなく、むしろ、レズビアンらしさが求められてしまっているような、レズビアンとは名乗らないながらも女性が性的指向であり、女性として生きよう/生きてきた/生きざるをえなかった人々が、解放されるための文言だと認識しました。ただし、このような認識は、実行委員間では異なっており、私独自の認識です。
 

3−8・「関西クィア映画祭」は、「LGBT」を「クィア」と敵対する、あるいは「クィア運動」を妨げる存在として認識しているということでしょうか?

 
【返答】★実行委員会では、「LGBT」を、「クィア」と敵対する、あるいは「クィア運動」を妨げる存在として認識していません。規約の趣旨をご参照ください。(http://kansai-qff.org/filesbylaw20140420.pdf
 

3−9・問題の差別的な宣言文の執筆者は、「LGBT」を「クィア」と敵対する、あるいは「クィア運動」を妨げる存在として認識しているということでしょうか?

 
【返答】★草案執筆者のとみーは、「LGBT」と「クィア」が敵対するとも、「LGBT」が「クィア運動」を妨げる存在だとも認識しておりません。
 
ただ、とみーは以下のように考えます。
 
“「LGBT」という表記は、4つのカテゴリーのみが前面に出ているために、その他の存在の不可視化や、人と人の分離につながりうる。そのため、私は、「LGBT」も含む、他者とつながるための、自分の性のあり方に向き合うための、「クィア」を大切にしています”
 

3−10・映画祭開催期間を過ぎた後に、宣言文を撤回ないし修正したところで、誰も読まないと思います。その上で、レズビアン当事者、および宣言文を通して「レズビアン」への差別意識を植え付けられた人々に対しての社会的・道義的責任を、貴団体はどのように取るおつもりでしょうか?

【返答】★撤回することも修正することも、前回の返答の時点では何も申しておりませんし、今回の実行委員会で検討した結果でも、撤回いたしません。社会的・同義的責任についても、これまでの質問の回答をご覧下さい。
 

3−11・「関西クィア映画祭」は、宣言文で述べられている「クィア理論」の政治的イデオロギーを“啓蒙”することを目的としているのでしょうか?

 
【返答】★1通目の返答(1−2)をご覧下さい。「関西クィア映画祭」は、「今年の特色」に関して、誰かの「クィア理論」に依拠しているわけではなく、会の規約の範囲内で、今回のように返答させていただいております。そして、「政治的イデオロギー」と言われるような対立構造を、この「今年の特色」において、書いているわけではありません。ですので、オッシーさんがおっしゃっている意味で“啓蒙”をしているわけではありません。
 

3−12・それにあたって「クィア理論」の政治的イデオロギーを裏打ちする作品を意図的にセレクトしているということでしょうか?

【返答】★関西クィア映画祭2014実行委員会は、『「クィア理論」の政治的イデオロギーを裏打ちする作品』選んでおりません。引き続き、1通目の返答(1−2)をご覧下さい。
 
以上、オッシーさんからいただいたご質問・ご意見についてお答えいたしました。
関西クィア映画祭2014の立ち位置を振り返る貴重な機会をいただき、ありがとうございました。
関西クィア映画祭2014は、10月17日から19日にかけて、総来場者数832名と、大盛況のうちに終了いたしました。
なお、11月15日(土)に、ゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ・鴨川にて、14時より、アフター企画「3(スリー)」上映会を開催いたしますので、よろしければぜひご来場ください。入場料は無料でございます。
今後ともよろしくお願いいたします。
  
関西クィア映画祭2014実行委員会

ようするに実行委員会側は、宣言文の差別性への批判に対して、それを《偏った読み方》と決めつけた上で、いわゆる《表現の多義性》を盾にして強弁するという、典型的な「ヘイトスピーチ」正当化の論理を踏襲しているにすぎません。見上げた「反差別団体」もあったものです。

突っ込みを入れていったらキリがありませんが、とくに《これらの枠の例は、関西クィア映画祭2014実行委員会では、否定的とも肯定的とも表明しておりません。》というのはひじょうに問題です。なぜなら、それはレズビアン」のアイデンティティ表明と“バーター”にする形で「世の中には男と女しかいない」「男は性欲をコントロールできない」「性を売るなんてよくない」「愛する人は1人にしぼるべきだ」などの明確な性差別思想を《多様性》として肯定することを意味するからです。

「世の中には男と女しかいない」→男でも女でもない人に対するヘイトスピーチ

「男は性欲をコントロールできない」→(男からの性暴力・性犯罪を正当化することにより)性暴力・性犯罪の被害者に対するヘイトスピーチ

「性を売るなんてよくない」→セックスワーカー(性産業従事者)に対するヘイトスピーチ

愛する人は1人にしぼるべきだ」→ポリガミー(複数の人を愛する人)に対するヘイトスピーチ

そしてそれらと「わたしはレズビアンだ」を同一視することは、まさに《「レズビアンをやめろ」「将来的には、男性ないし非女性を愛する可能性に開かれるべきである」と干渉する》という異性愛至上主義社会の《レズビアン差別》の構造を追認した上で、それに加担する行為であり、まさしく「レズビアン」への「パターナリズム」「ヘイトスピーチ」となります。

さらに自らの社会的・政治的立ち位置を「クィア」という「枠」に固定・限定することで、そうした「レズビアン」に対する「パターナリズム」「ヘイトスピーチ」を自己正当化すると共に、それに対する告発・批判を無効化することは、まさにクィア」の特権化・聖域化に他なりません。

そのような行為を「シスヘテロ」が行ったなら、疑いようもなく「パターナリズム」「ヘイトスピーチ」として誰しもが“価値判断”できる振る舞いが、なぜ「クィア」を自称しただけで許されるというのでしょうか?

《ある人がある特定の視点を持つことは、その人の自由》であるとしても、その「視点」が社会の差別構造に立脚している場合は、それを不特定多数に向けて公言した時点で政治的強制力を帯びた「押しつけ(パターナリズム)」となり、かつ「ヘイトスピーチ」として機能します。

まして当の「関西クィア映画祭」自らが、これらの言説を「レズビアン」のアイデンティティ表明と同列に置いた上で“こわす”べき「枠」として提示しています。これが《否定的表明》でなくて一体何なのでしょうか?

そして繰り返しとなりますが、「レズビアン」の性的主体性が否定・侵害されている現代社会において、「レズビアン」のアイデンティティ否定を促す言説は、たとえその要求が提案や期待といった“ゆるい”形でなされようと、必然して政治的強制力を伴います。その権力性・暴力性に無自覚であること自体が「特権」に他ならない、と言ったはずです。

《提案することは干渉することではない》という解釈は、常軌を逸しています。今年6月の都議会で、女性議員に対してなされた「早く結婚した方がいいんじゃないのか?」との“提案”が「セクハラやじ」としてフレームアップされた件を、もう忘れているのでしょうか?

あるいは在日コリアンに対して「日本国籍帰化したらどうですか?」「韓国・北朝鮮に帰国したらどうですか?」などと“提案”することも、この人たちの理解では「パターナリズム」「ヘイトスピーチ」に当たらないということになるのでしょうか。

加えて私は、そも「レズビアン」の自己規定を《自分で自分のセクを決めつけてしまう「枠」》と見なす解釈自体を否定しています。すなわち「関西クィア映画祭」が設定した議論の“前提”自体に「差別」があるということです。

よって、その“前提”を疑うことすらせずにどれだけエクスキューズを積み重ねようと「レズビアン」に対する「ヘイトスピーチ」にしかなりえません。間違った“前提”の上に正しい結論は導かれないからです。

けっきょくのところ「関西クィア映画祭」は、「差別」の問題を〈社会〉の構造から切り離し、〈個人〉の「価値判断」の問題に矮小化することで、「クィア」を称する自らの社会的・政治的特権性をも自己免罪しているのです。

しかしそのような認識は、はたして「クィア理論」の面からみても正しいと言えるのでしょうか? 《実行委員会では、クィア理論を明示的に扱っている認識はありません。》というなら、なおのこと「クィア」というきわめて政治的な観念をイベントのタイトルに“明示”するのは羊頭狗肉です。仮に「愛国映画祭」なるものがあったとして、ナショナリズムや右翼思想と無関係などという理屈が通用するでしょうか?

あげく《関西クィア映画祭2014は、10月17日から19日にかけて、総来場者数832名と、大盛況のうちに終了いたしました。》と自画自賛していますが、それは「関西クィア映画祭」のそのような独善的な思想・姿勢が評価された結果ではないでしょう。たんにソフト化すらされていない(される見通しも弱い)マイナーな映画が観られる珍しい機会だから、あるいは、いわゆる「セクマイ」関連のイベントにはとりあえず参加しておきたいから、という人が大半ではないでしょうか。

いち市民団体の見解とはいえ、呆れるほかない幼稚でお粗末な回答でしたが、雁首揃えて9時間も議論したあげく“このありさま”では、これ以上のことを望むのは不可能でしょう。先方から何か新しい動きがないかぎり、公開質問はいったん休止とします。←すいません、やっぱり続行します:『「関西クィア映画祭2014」への公開質問状(4)