百錬ノ鐵

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「セクシュアル・マイノリティ」を「障害者」呼ばわりする京大ゼミ(seminar72)の“植民地主義的”な感性

今月9日に開催された京都大学の自主ゼミ(以下「京大ゼミ」)が「セクシュアル・マイノリティ」を「障害者」の事例として取り上げたことから、LGBT当事者を中心に批判の声が上がった。

性同一性障害が脱病理化しつつある情勢の中で(もっともそれに関しては当事者間でも是々非々あるようだが)、 なんとも時代錯誤な認識と呆れるほかないが、批判を受けて主催者が発表した弁明は以下の通り。

いかにも学生らしい、自分に酔いまくった自意識過剰な文面(「――。」とか)でごちゃごちゃと書かれているけれど、一言で要約すると「差別」と感じる方が「差別」という、典型的な差別主義者の屁理屈がもっともらしく連ねてあるにすぎない。

「障害者のリアルに迫る」京大ゼミが用いる「障害」とは、「個人にその原因や責任がある」「治療すべきである」というような個人モデル(医療モデル)的な障害観(=インペアメント)ではなく、社会がつくりだすものとしての「障害」(=ディスアビリティ)という障害観が基本となっています。

社会的な抑圧や偏見にさらされ、さらに制度・政策面でも排除の対象とされてきたという点では、セクシュアル・マイノリティの人々も、「障害」(=ディスアビリティ)を経験している人々であると考え、今回のテーマの一つとして扱いました。

まず前提として、京大ゼミが「障害」という概念を《「個人にその原因や責任がある」「治療すべきである」というような個人モデル(医療モデル)的な障害観(=インペアメント)ではなく、社会がつくりだすものとしての「障害」(=ディスアビリティ)》として定義した上で「セクシュアル・マイノリティ」を論じるのであれば、「障害」は「セクシュアル・マイノリティ」の側にあるのではなく、「セクシュアル・マイノリティ」を抑圧・偏見・排除の対象として扱う「社会」の側にこそあると言うべきであろう。

また、ここからは「セクシュアル・マイノリティは障害者ではない」という発言についての、本ゼミの運営メンバーの意見です。このような発言をすることは、《他者》(=排除・抑圧される者)を生み出すことへと繋がると考えます。

そのような発言には、否定的なもの・忌避すべきものとしての障害観があると言えるのではないでしょうか(少なくともこのように受けとり、抑圧されてしまう人は存在します)。“障害者と「私たち」”というようにスラッシュを引くことで誰が傷を負うことになるのか、誰が排除されているのかーー。

もちろんこのような発言をされた方が障害者差別をしているなどということは一言も申しておりません。ただ、本ゼミでは様々なテーマを扱うにあたり、一つひとつの発言・行動が《他者》化される存在を生み出してはいないかを丁寧に検討しなければならないと考えています。

 以上の理由から、「セクシュアル・マイノリティは障害者ではない」という発言に関して、私たちは手放しで肯定できません。

あらためて指摘するのも馬鹿馬鹿しいが、「障害者」の存在を《否定的なもの・忌避すべきもの》として“他者化”するべきでないことと、「セクシュアル・マイノリティ」を「障害者」呼ばわりすることは、当然ながらまったくの別問題である。

「セクシュアル・マイノリティ」を「障害者」呼ばわりする発言に対して言うべきことは、まさに「セクシュアル・マイノリティは障害者ではない」という以外にありえない。

したがって、仮に「セクシュアル・マイノリティは障害者ではない」という発言に“排除・抑圧”されたと“受けと”る何らかの「障害者」が存在したとしても、そのような文脈を履き違えた「誤読」「曲解」に追従する必要は、いっさいない。

京大ゼミは、そうした非理性的な「障害者」の心情を手前勝手に代弁する一方で、異性愛・非シスジェンダーの多様な性のありようを「セクシュアル・マイノリティ」という雑な言葉で一括りにしたあげく「障害者」というこれまた雑なレッテルを貼りつける行為によって“排除・抑圧”される当事者の存在はどうでもいいと考えているのか。

  • なお問題のゼミに「セクシュアル・マイノリティ」として登壇した【町田さん】とは町田奈緒士(なおと)というトランス男性の当事者。あとの2名は詳細不明。

そも「セクシュアル・マイノリティは障害者ではない」という言葉を聞きたくないのなら、京大ゼミが初めから「セクシュアル・マイノリティ」を「障害者」呼ばわりしなければよかっただけの話だ。

元より京大ゼミが「セクシュアル・マイノリティ」を「障害者」呼ばわりしたことで批判を浴びたのは、そのようなくだらない言葉遊びの問題ではない。

いかなる意図や“政治的正しさ”に基づくことであろうと「同性愛」を「障害」と見なす発想の行き着く先が、まさに「同性愛」を“治療”して「異性愛」に矯正するという強制異性愛社会の体制強化にほかならないからだ。

あまつさえ京大ゼミは、そのような自身に向けられた批判を逆手に取り、批判者の「障害者」に対する差別意識をあげつらってみせる。

だが学生の本分は勉強である。賢しらぶった“意識お高い”アピールの前に《ゲイ治療》にまつわる人類の負の歴史について一から学ぶべきであろう。

もっとも一口に「セクシュアル・マイノリティ」といってもそのありようは様々で、中には「性同一性障害者」や「性嗜好障害者(一部の小児性愛者など)」のように、自ら主体的・積極的に“治療”を希望する人々も存在する。

「セクシュアル・マイノリティ」が多様であるなら「障害」という概念のとらえかたもそれぞれ異なる。京大ゼミの誤謬は、そのようなセクシュアリティの多様性・個別性から目を背け「セクシュアル・マイノリティ」という形骸化された観念に一元化する、まさしくマジョリティ目線の“植民地主義的”な感性を露呈してしまったことにある。

そうした「セクシュアル・マイノリティ」という用語自体の問題については、かねてより当事者からも指摘されてきた。要点のみ引用するが、示唆に富む内容なのでリンクをたどって全文読んでください。

「すこたんソーシャルサービス」内『ABOUT US|“LGBT”という言葉について』より抜粋(強調は引用者):

https://sukotan.jp/ABOUT_US/about_top.html

  「セクシュアル・マイノリティ」は、アメリカの学者たちが使い始めた言葉で、ヨーロッパ・アメリカ社会では、日常的・一般的に使われていません。アメリカ・カナダ等に住む当事者の方からの情報でもそれは裏付けられます。

(中略)

 また、実は英語では、どんな文脈で使うときも、「セクシュアル・マイノリティーズ」“sexual minorities”と複数形で言って、決して「セクシュアル・マイノリティ」“sexual minority”と単数形では言いません。なぜなら、多様な性のあり方に対応して、性に関する「少数派」と言っても、さまざまな当事者を含むわけで、一枚岩ではないからです。この違いが、日本で誤解を呼ぶことになるのです。

 日本語で「セクシュアル・マイノリティ」という単語を聞いた時も、極めて同質の人間で構成されている、あるひとつのグループを連想してしまいがちです。「性」に関する「少数者」はひとつの集団をなしていて、場合によっては、どこか特定の地域だけに住んでいるというイメージを持つ人もいます。「ゲイ」とくくられても、その中には、多様な人がいるのに、「全てのゲイは○○である」とまとめてみんな同じであるかのように語られてしまうことがよくあることから連想してください。

(中略)

 同性愛者と性同一性障害の人たち(広くはトランスジェンダーの人たち)の抱える課題は、共通のものも少なくありませんが、個別に異なっている部分もあります。例えば、医療の力を借りて手術が必要な性同一性障害の人たちに対して、同性愛者は、同性愛を「治す」治療を拒否します(というか医学的にも治療の対象からはずされています)。ですから、社会に対して、偏見や不利益の解消、またさまざまな保障を求めていくときも、簡単に何でもいっしょに行動できるわけではなく、それぞれが活動する中で、いっしょにできることをじっくり検討しながら進めていくのが筋です。

(後略)