百錬ノ鐵

百合魔王オッシー(@herfinalchapter)の公式ブログです。

#新潮45 「差別者」に“対話”“理解”を求めるべきと主張する作詞家・小室みつ子(miccorina)氏との議論をインタビュー形式でまとめてみた。 #杉田水脈 #小川榮太郎

(2018年12月8日 加筆修正)

新潮社「新潮45」2018年8月号に掲載された、自由民主党議員・杉田水脈のLGBTに対するヘイトスピーチ(以下「杉田事件」)。そして同誌10月号に掲載された自称「文藝評論家」小川榮太郎による、杉田擁護にかこつけたさらなるヘイトスピーチ(以下「小川事件」)が、その内容の深刻さと常軌を逸した醜悪さによって大きな波紋を呼び、同誌を休刊にまで追いやったのは周知のとおりです。

そんな最中、Get Wild』『SEVEN DAYS WAR』などTMネットワーク(およびTMN)の代表曲を含む歌詞の大半を手掛けたことで知られる、作詞家の小室みつ子氏(@miccorina)が、「杉田事件」および「小川事件」をめぐる一連の「論争」についての見解をTwitter上で表明しました。

しかし氏の主張は、要約すると「非当事者」が「当事者」を“置き去り”にして「差別者」を“罵って”いる(ように小室みつ子氏には見えるらしい)、“罵り”ではなく“対話”“理解”を求めるべきである、といった(事実認識からして履き違えている)薄っぺらで偽善的な「どっちもどっち論」であり、首をかしげざるをえないものでした。

氏の主張の内容に疑問を抱いた私が、氏のツイートを引用する形でリプライをしたところ、即座に小室氏よりリプライがあり、議論が展開されました。

その結果、私自身も「当事者」の【小さな声たち】を“置き去り”にして「自身の掲げる主義主張」や「正義を主張する」ために「当事者たち」を利用する「差別者」である、とのレッテルを貼られてしまいました。

ここで私自身の名誉を回復する意味も込めまして、また何よりも差別問題をめぐる「非当事者」のあり方を考える上で、小室みつ子氏と私のリプライをインタビュー形式でまとめてみたいと思います。インタビュー中に引用したツイートのURLは省略しました。必要な方は当方のTwilogから当日のツイートを辿ってください。

当日のTwilog
https://twilog.org/herfinalchapter/date-180924 

(「杉田事件」直後の2019年7月に投稿された小室みつ子氏のツイート)

あまり具体的に触れたいとは思わなかったけど、長年の友でもあり、ゲイでもある人を通じて垣間見る世界。皆それぞれ違う。カミングアウトしたくない人もいる。好きな人と法律的にもパートナーとして認められたいと思う人もいる。 理解がない人を「差別者」として罵ることで彼らが生きやすくなるのかな
https://twitter.com/miccorina/status/1022006010507079680

どんな運動にも言えることだけど、生き方を決めるのは当事者。 理解が足りない故に言葉の選び方を間違える、そういう人たちに理解をしてもらうのは罵りではないと思うのですが…。余計にLGBTへの反発が強まる恐れさえあるのではと危惧します。 法律整備は私は賛成です。選択肢があるだけでも違う。
https://twitter.com/miccorina/status/1022007397156573184

これは典型的な論理の摩り替え。杉田水脈ならびに小川榮太郎ヘイトスピーチ(さらにはそれらを無批判に掲載した「新潮45」)に抗議している人々は、ただヘイトスピーチをやめろ」と言っているだけであって、LGBTを“理解”しろなどとは言っていません。

そも「非当事者」がLGBTを“理解”してあげるという発想自体が傲慢ですし、また“理解”できなければ「差別」をするという短絡的な発想もさらに間違っています。

いまさら言うまでもありませんが、LGBTに対する偏見は、100%偏見をもつ側の問題です(さらに言えば、偏見がおうおうにして無理解に根差しているからといって、“理解”をすれば偏見がなくなるという単純な話でもない)。それなのに小室みつ子氏は、なぜ偏見そのものを批判せず、偏見を批判する側にばかり責任転嫁するのでしょうか?

元より、公の場でヘイトスピーチ(差別煽動表現)を放言する人物を「差別者」と呼ぶことは、適切な人物評であり、なぜそれが“罵り”になるのでしょうか? そのようなものは小室みつ子氏の勝手な印象にすぎないでしょう。
 
たしかにヘイトスピーチに抗議する人々の中には、過激な表現をする人も含まれているかもしれません。しかし、そのような一部分だけを取り出して抗議活動全体をあげつらうのは、「差別」に抗議する人々に対して聖人君子のような振る舞い(過度な潔癖さ)を要求することになります。裏を返せば「差別者」の側は「被差別者」の粗探しをすることで、「差別」に対する告発・批判を一方的に無効化し続けることができるのです。

こうした小室みつ子氏のアンフェアな議論は「差別」に対する抗議活動を萎縮させ、実質的に「差別者」を利するものでしかありません。 

(2019年9月「杉田事件」と「小川事件」を総括する小室みつ子氏のツイート)

自分のこの投稿(註:上掲の「杉田事件」関連ツイート)をRTをしましたが、書いたのは7月です。ほぼ同じ趣旨の投稿があってそれをRTしたので、私も同じように思っていたので…。 当事者それぞれの気持ちが置き去りにされて「善意」の異性愛者たちが誰かを罵倒する不思議…。
https://twitter.com/miccorina/status/1043887846182907904

最近SNS疲れしています; 延々と続く論争。納得できるところは歩み寄る、互いを尊重して意見として耳を傾ける。それをする方たちを見るとホッとしますが、意見が違う相手をただ罵るだけの投稿を見ると、それで何が変わるのだろう…ずっとこれが続くのかな…と思って見るのをやめることが多いです。
https://twitter.com/miccorina/status/1043890411188580352

当事者たちの、それぞれに違う小さな声を拾う人は少ない。私も全て見ているわけではない。私自身が異性愛者だから当事者それぞれを理解できるわけでもない。小さな声たちに耳を傾ける発言力のある方たちに密かに期待するのみです。
https://twitter.com/miccorina/status/1043891167488700416

あらためて読み返すと、興味深いことに気がつきました。

小室みつ子氏の態度は、まさしく《小さな声たちに耳を傾ける発言力のある方たちに密かに期待するのみであり、小室みつ子氏自らが言葉のプロとして「小さな声たちに耳を傾け」た上で「それぞれに違う小さな声」とやらを主体的に“発言”するつもりなどさらさらない(もっとも、そのような試み自体が良いか悪いかは別として)ということです。

ようは、どこまでも他人任せの他力本願。ふわふわとした薄っぺらなポエムを垂れ流しながら、自分自身は「差別」の抑止に向けて何もせず、ただ「差別者を“罵る”人」を高みから見下して一方的かつ一面的に論評する、小室みつ子の無責任で不誠実な姿勢が、冒頭から如実に示されています。

* * *

聞き手:百合魔王オッシー(@herfinalchapter)

――杉田水脈氏ならびに小川榮太郎氏のヘイトスピーチを読んだ上で、こういった皮相な感想しか出てこないということは、けっきょくのところ「異性愛者」「非当事者」である小室みつ子氏がヘイトスピーチの被害を“他人事”として過小評価しているからだと思いますよ。

小室 他人事と思うのなら別に言及しません…。

――同性愛を「生産性」がないと決めつけた上で「痴漢」のような性犯罪と同一視する「意見」の、いったいどこに“尊重して”“耳を傾ける”べき要素があるのでしょうか?

小室:そういう人の考え方を変えるにはどうすればいいのか、その先のことを考えて書いています。LGBT当事者である方たちの意見もRTしたのですが(引用者註:後述)、その方たちのご意見も読んでくださるとありがたいです。

――同性愛を“理解”できなくてもヘイトスピーチの問題は“理解”できませんか? 小室みつ子氏はご自身を「異性愛者(非当事者)」の安全圏に置いた上でヘイトスピーチを放置する言い訳をしているだけに見えますね。

小室 飛躍がすごいですね。私の過去のツィートを読んでいただけたら幸いです。

――同性愛を“理解”できないことと、マイノリティに対してヘイトスピーチという言葉の暴力をぶつけることは全く違います。《生き方を決めるのは当事者》とおっしゃいますが、「非当事者」である貴方がご自身を棚上げして上から物を言うのも“違う”のではないですか?

小室 (質問に答えず)何故私にだけリプライするのですか? 当事者の方たちのRTをしているのに、その方たちには同じリプライはなさらない? 私が異性愛者だからですか。 私は長年の友である人、そして彼の恋人や友達が生きやすくなることを願っています。それだけです。

  • これにはすっかり面喰ってしまいました。小室みつ子氏が「当事者」をダシにしておかしなことを言っているのだから、その反論は「当事者」ではなく小室みつ子氏に向かうのが当然だと思うのですが……?
  • 小室みつ子氏自身が異性愛者」としての“非当事者性”を強調した持論を展開しておきながら、都合が悪くなると「当事者」に責任転嫁するというのは、あまりに無責任なのでは?

小室 すみませんが、当事者たちはあなたにとって何なんでしょう? ご自身の掲げる主義主張のための存在に思えてきます…。私は非当事者ですがLGBTが世間から反発を受けることなく、当事者が居心地の悪い思いをしないで自然に浸透することを望んでいるから言及しました。

  • 「当事者たちはあなたにとって何なんでしょう?」このような質問には、どう答えれば納得するのでしょうか。そも私は初めからヘイトスピーチについて議論しているのであり、「当事者たち(この場合はLGBT)」については何も言っていません。よって「何なんでしょう?」と訊かれても、答えようがありません。
  • だいたいヘイトスピーチに抗議するにあたって、私個人がLGBTについてどう思うのかなど何の関係もありませんし、ましてや見ず知らずの小室みつ子氏に私の内面を詮索される筋合いもありません。

――同性愛を“理解”できない人はたくさんいるでしょうが、そういった人々のすべてがヘイトスピーチをするわけではありません。
 ヘイトスピーチをする人がいるのは、まさにヘイトスピーチが許される風潮が社会にあるからで、小室みつ子氏の言説がそれに加担しかねないことを危惧しています。
 そして杉田氏や小川氏に抗議する「異性愛者」は「当事者」を代弁したいわけはなく、ヘイトスピーチを許容しないという意志を社会に表明しているのですよ。
 言葉のプロである小室みつ子氏の目にはたしかに乱暴で粗削りに映るでしょうが、それこそ言葉尻をとらえず、もう少し寛容になられたらいかがですか?

小室 当事者の代弁ではないのですね? では、当事者のそれぞれの気持ちはどうなるのでしょう。なんなのでしょう…。

――そもそも私の掲げる「主義主張」とは「何なんでしょう」? 私はLGBTの「当事者」に向けて何も要求していませんが。
 むしろ小室みつ子氏こそ《被差別者ないし「差別」に抗議する人は世間から反発を受けるような行動をするべきではない》という“主義主張”を掲げていらっしゃるようにお見受けします。
 「当事者」が「差別者」と対話を求めることが否定されるべきではありません。ただ、小室みつ子氏や私のような「非当事者」の立場から対話だの理解だのを求めるのは、やはり無責任に思えるというだけです。
 また、問題のヘイトスピーチは本当に悪質かつ深刻なものなので「非当事者」でも抗議する人はいますが、抗議活動の中心になっているのはあくまでも「当事者」です。
 それなのに「当事者」が「非当事者」から置き去りにされていると印象付けるのは、「当事者」の“怒り”の主体性を否定することにはなりませんか?

小室 (返答はなし。これにて終了) 

すみません、いろいろツィートしてお騒がせしました; 同じ属性に見えたとしても、個はそれぞれ思いも考え方も違うよね……ってのを伝えたかったのですが。長引いてしまいました。 おやすみなさいー。
https://twitter.com/miccorina/status/1043916814143475713

こんにちは。もうひとつだけ書かせて。 問題になっている当該の雑誌にはゲイ当事者の文章も載っています。だから読んでもらって考えてもらいたいという当事者もいる。 「ゲイを理解してない人やこんな雑誌は潰せ」 これゲイだけの問題じゃないです。焚書のような流れは私達全ての首を締めます。
https://twitter.com/miccorina/status/1044177937379938304

あの議員さんはどうしようもないですが、「謝れ」と言われて謝ったとして、それで世間の理解が深まるのかな…。発言しないけど偏見が深くなる人もいるのではと危惧。
雑誌は個別の方針があるので、それが良くなければ自然に淘汰されるでしょう。炎上については、周りも騒ぎ過ぎのように思えます。
https://twitter.com/miccorina/status/1044219171897131008

「ゲイを理解してない人やこんな雑誌は潰せ」

“潰せ”などという物騒なことは、誰も言っていません。なんだか小室みつ子氏を見ていると、「差別」に抗議する人々に“歩み寄る”“耳を傾ける”どころかその実態についてロクに調査も検証もしないまま、あやふやかつ一面的な印象に基づいたレッテルを貼りつけ、頭の中で勝手にモンスターを作り上げているかのようです

元より杉田水脈氏ならびに小川榮太郎氏のヘイトスピーチに抗議している人々は、たんに掲載誌の休刊・廃刊を要求しているのではありません。そのようなヘイトスピーチが掲載されるに至った経緯を検証した上で、再発防止の手立てを講じてほしいと訴えているのであり、休刊・廃刊自体に反対する人もいます。

その意味でヘイトスピーチに抗議する人々は、新潮社に対して、まさしく小室みつ子氏の言うとおり「個別の方針」“良く”するための働きかけをしているのです。そのような働きかけを、なぜ小室みつ子氏はくだらない難癖をつけて“潰そう”とするのでしょうか?

ヘイトスピーチを掲載する雑誌に「個別の方針」があったところで、それが外部の働きかけを受けず“自然に”良くなることも淘汰されることもありえないのは、「杉田事件」がエスカレートする形で「小川事件」が引き起こされた経緯にも明らかです。

その意味では“騒ぎ過ぎ”どころか、まさしく小室みつ子氏を含めた私たちの「社会」がマスメディア上のヘイトスピーチを放置してきたことのツケが「杉田・小川事件」なのであり、その是正に向けた働きかけを“モンスター化”して妨げる小室みつ子氏は、やはり控えめに言っても「差別者」の加担者に他なりません。 

いえ、城戸さんが申し訳なく思うことなど全くないです; 私が誰とかも関係ないと思います。彼にとっての正義を主張したかったんだと思います。私はその方法に同意できなかったですが…。それだけです。こちらこそ、お気遣いまでさせてしまい、すみません。
https://twitter.com/miccorina/status/1044223218557444096

「私にとっての正義」とは、それこそ「何なんでしょう?」。有名な作詞家の先生が、社会問題について基礎的な知識もなく頓珍漢な持論をぶっているのがたまたま目に入ったから、あまりにも痛々しくてつい突っ込みを入れてしまっただけなのですが……。

それにしても《私自身が異性愛者だから当事者それぞれを理解できるわけでもない。》ということは、ようするに「異性愛者(非当事者)」である小室みつ子氏自身に「差別者」と“対話”する意思はなく、「当事者」に対して「差別者」との“対話”を要求することになるのでしょう。

しかしそれはけっきょくのところ「非当事者(異性愛者)」が安全圏から「当事者(LGBT)」を「差別者」の矢面に立たせることを意味します。なんとも身勝手で無責任な話です。

また、小室みつ子氏によれば「非当事者」が「差別者」を“罵る”ことで、LGBTが《世間から反発を受け》《居心地の悪い思い》をするとのことです。

一見もっともらしいようですが、そのじつ筋が通っていません。

「非当事者」が「差別者」を“罵る”ことで、「非当事者」が《世間から反発を受け》《居心地の悪い思い》をするならわかります。しかし、なぜ「非当事者」の代わりに「当事者」が《世間から反発を受け》《居心地の悪い思い》をすることになるのでしょうか?

それはけっきょくのところ「差別者」が「非当事者」をダシにして「差別」を正当化する言い訳をしているだけです。

仮に「差別者」を“罵る”ことで「当事者」が《世間から反発を受け》《居心地の悪い思い》をするのだとすれば、「当事者」が「差別者」を“罵る”ことは、もっとダメでしょう。だって「非当事者」よりも「当事者」が“罵る”ことのほうが「当事者」のマイナスイメージにつながるのだから。

つまり「差別」に対しての抗議活動をめぐる議論の中で「当事者/非当事者」の枠組みを持ち出すことは、たんに抗議活動を萎縮させる以外に、何の意味もないことにになります。

小室みつ子氏は、そのようにして「当事者/非当事者」の枠組みを恣意的に持ち出しながら、けっきょくは「当事者」による《表現・言論の自由》に基づいた主体的な抗議活動を「非当事者」の立場から妨げているにすぎません。

小室みつ子氏は、自身が言葉を生業とするプロの表現者でありながら《表現・言論の自由》に不寛容な人物であることが判明しました。

遡ること二十年前、TMネットワーク(TMN)の音楽と「言葉」とともに陰鬱な青春時代をくぐりぬけてきた私としては、あまりに非情で残酷な現実ですが、それもまた小室みつ子氏自身の“主体性”の行使であるというなら、受け止めるほかありません。

* * *

「杉田事件」および「小川事件」をめぐっては、「LGBT法連合会」「レインボー・アクション」など様々な当事者団体が抗議声明を発表していますし、またロバート・キャンベル氏や岡野千代氏など今回の件を機にカミングアウトした知識人もいます。 

杉田水脈議員「LGBTは生産性がない」論文の発表とその反響が(だいたい)わかる参考資料集|レイシズム監視情報保管庫
http://odd-hatch.hatenablog.com/entry/2018/09/25/180025

それなのに小室みつ子氏は、なぜそのような「LGBT当事者」の【声たち】を無視して、あくまでも「差別者」に抗議しているのは「非当事者(異性愛者)」である、という図式を作りたがるのでしょうか? そのような印象操作は事実に反しているどころか、「差別者」に抗議する「LGBT当事者」の当事者性・主体性を否定するものであり、タブロイド的な陰謀論の類と言っても過言ではありません。

《小さな声たちに耳を傾ける》ことは、「非当事者」が自分に都合の良い「当事者」の“声”だけを恣意的に抜き出して、持論の補強に利用することではありません。小室みつ子氏こそ《被差別者ないし「差別」に抗議する人は世間から反発を受けるような行動をするべきではない》という「小室みつ子氏にとっての正義を主張」するために、自分に不都合な「当事者」の【声たち】を“置き去り”にしています。

なおインタビュー中で小室みつ子氏が言及している「LGBT当事者である方たちの意見」とは、具体的にはゲイ作家・伏見憲明氏が主宰するLGBTメディア「A Day In The Life」と、当ブログではすっかりおなじみのバイセクシュアル作家・森奈津子氏によるツイートです。 

(2019年9月「小川事件」を受けて小室みつ子氏がリツイートした「当事者」のツイート)

90年代初頭、ゲイのセクシュアリティ本を出版することは大変だった。伏見の最初の本は、当時、上野千鶴子さんのフェミ本などで当てていた学陽書房へ持っていったのだが、編集者が企画を通すのは難航し、本ができた後でさえ、「えー同性愛!?」てな感じで営業さんにも一部書店さんにも不興を買った。→
https://twitter.com/noriakikoki/status/1043759046677782528

→ ちょっと前までみんな同性愛を差別してたからなあ。当事者だってね。自分たちですら自己肯定の言葉を持っていなかったのだから、とくに上の世代の人たちが差別的なのも仕方ないっちゃーしかたない。ここはそういう方々にも問題を共有してもらって、大いに学んでもらうのもいいかと。(伏見憲明
https://twitter.com/noriakikoki/status/1043762969551618048

たぶん、意識高い系ヘテロの方々でも、10年前とか20年前とかには、性的マイノリティを差別してたんだと思うよ。だって我々、嘲笑してOKの「変態」「犯罪者予備軍」扱いだったもん。で、意識高いだけに、そんな自分の「黒歴史」が許せなくて、今、過剰なまでに「新潮45」を叩いているんだと思うよ。
https://twitter.com/MORI_Natsuko/status/1043817023476625409

LGBT当事者が「新潮45をちゃんと読んでから批判してほしい。中には、我々を理解するためにも読んでほしい記事がある」と主張しても、読んでない異性愛者から叩きリプが来るぐらいだもの。もはや集団ヒステリーの域に入りつつあると思うよ。彼ら、三週間後ぐらいにハッと我に返るんじゃないかな。
https://twitter.com/MORI_Natsuko/status/1043818410566594560

「A Day In The Life」こと伏見憲明氏は(引用された箇所にかぎっては)ともかく、森奈津子氏にいたっては相も変わらず独善的な思い込みと被害妄想に根差した“下衆の勘繰り”でしかありません。

数ある「LGBT当事者である方たちの意見」の中から、なぜ「非当事者(異性愛者)」である小室みつ子氏が、わざわざそのような人物の「ご意見」を選り抜いて引用するのか? それこそ《ご自身の掲げる主義主張のため》に都合の良い「当事者の方たち」を利用しているだけでしょう。

《同じ属性に見えたとしても、個はそれぞれ思いも考え方も違う》というのであれば、「非当事者」としてすべきことは自分に都合の良い「当事者(個)」の言い分だけを鵜呑みにしたり利用したりするのではなく、「それぞれ」の言い分を検討した上で、やっぱり自分の頭で考えることだと思いますよ。 

<追記>
小室みつ子氏との議論(※上掲Twilog参照)の中で、「非当事者」が「当時者」の運動に口出しすべきではないといった旨の発言をしましたが、これはじつのところ私の本心ではなく、自身に対する批判の矛先を「当事者」に向けようとする小室みつ子氏の無責任かつ不誠実な態度を批判する意図のものでした。
時間をかけて推敲する記事とは異なり、リアルタイムでの対話ではこうした“言葉の綾”が生じる場合があります。が、いずれにしても私自身の「差別」に対する日頃のスタンスと矛盾する発言であるため、上掲インタビューでは削除させていただきました。
この場を借りて、謹んでお断りとお詫びを申し上げます。

 

 

過去の日付の記事をアップしました。

2018年5月12日付で、以下の記事を公開しました。

 『立花館To Lieあんぐる』を「キモい」と言いつつ『聲の形』を推す「まなざしかぶとむし(kabutoyama_taro)」の見苦しさ

https://ossie.hatenablog.jp/entry/2018/05/12/000000

昨日公開した『【 #オタク差別 論争】「百合/BL」は「性的嗜好」であるから規制されるべきと主張する「まなざしかぶとむし(kabutoyama_taro)」 』の続きになります。

 

過去の日付の記事をアップしました。

先日、コミケ前で行われたという山田太郎議員の演説に際して、「BL/百合」の否定・排除は《LGBT差別》とは無関係という意見が目につきます。

そこで、ずいぶん前に書いたものの発表のタイミングを逸してお蔵入り状態になっていた記事を今更アップしました。

今年の4月ごろにTwitterで話題になった「オタク差別」なる言葉をめぐる議論です。

【 #オタク差別 論争】「百合/BL」は「性的嗜好」であるから規制されるべきと主張する「まなざしかぶとむし(kabutoyama_taro)」

https://ossie.hatenablog.jp/entry/2018/08/13/140224

日付は、記事の作成が完了した「2018年4月22日」に設定しました。その後、別の話題の記事を公開し、過去ログに埋もれるような形となってしまいましたので、新規エントリーにて告知させていただきます。

結論からいうと、もちろん“安易な混同”はすべきではありませんが、実際の「BL/百合」に対するバッシングの大半は「同性愛は“キモい”から(マンガの中でも)見たくない」といった単純なホモフォビアに立脚しているので、まったく無関係と断じることもまた“安易”で“粗雑”な切断にすぎないということです。

「BL/百合」バッシングの“大半”がホモフォビアによるもので、じゃあ残りはどうなんだ? というと、もう少し頭の回る人は「現実の同性愛者」は認めるのだとしながら、同性愛者への「性的消費」に反対しているだけだと言い訳します(上掲記事で取り上げた「まなざしかぶとむし(社虫太郎)」もそのタイプ)。でも、それなら異性愛者を「性的消費」するのは構わないのか? という話になるだけなので、やっぱり頭が悪いことに変わりないですね。

 

「男のレズビアン」を擁護する牧村朝子氏の論点ずらし(+百合魔王オッシーの牧村朝子氏に対する所感)

「男のレズビアンをめぐる前回の記事の続きである。

「男のレズビアン」は男性によるレズビアンアイデンティティの簒奪にすぎない

https://ossie.hatenablog.jp/entry/2018/06/10/181110

そも牧村朝子氏が自身のブログで「男のレズビアン」について取り上げたのは、先月の下旬にTwitter上で「男のレズビアン」が話題になったのを受けてのことである(私のTLにも流れてきたが、議論を追っていないので発端はわからない)。

しかし牧村氏の記事は、じつのところ巧妙に論点をずらしている。

記事のタイトルには『胸のうちでそっと「ぼくはレズビアンなのかも」と思う男性たち』とある。だが当然ながら「男のレズビアン」が物議を醸しだしたのは、それを《胸のうちでそっと思う》にとどめず、SNS上で公言する人物が存在したからである。

言い換えるなら「男のレズビアン」なる観念の是非をめぐる議論は、次の二点に集約される。

・「男のレズビアン」なる観念そのものについての是非

・「男のレズビアン」なる観念の社会的認知・承認についての是非

《「男のレズビアン」なる観念そのものについての是非》はさておき《胸のうちでそっと思う》ことまで否定するのは、さすがに内心の自由の侵害であると考える人も多いだろう。しかし前述のとおり内心の自由を認めることは、その思想や嗜好自体の正当性をまったく意味しない。

また上掲した二点はゆるやかに独立しながらも、「男のレズビアン」が社会的認知・承認を得るにあたってはその正当性を証し立てる必要があるのだから、じつのところ論点は一つという見方もできる。

ところが牧村氏は、そこへ《胸のうちでそっと思う》ことの是非というまったく無関係な第三の論点を勝手に持ち出してきた。

言い換えるなら、牧村氏は「男のレズビアン」の不当性を主張する人々が、さも内心の自由まで否定しているかのように印象操作しているのである。

内心の自由をめぐっても是非はあるだろうが、たとえ差別的・暴力的な思想や嗜好であろうと《胸のうちでそっと思う》かぎりは問題ない、というか周りの知ったことではないので勝手にすればいいとする見方が一般的だろう。つまり牧村氏は「男のレズビアン」を擁護するにあたり、そのように否定されようのない事柄を盾にすることで「男のレズビアン」を擁護する牧村氏自身を否定されようのない立場に置き、第三者の批判をあらかじめ退けようとしているのである。

ようするに牧村氏にとって「男のレズビアン」自体の正当性すらそのじつどうでもよく、たんに牧村氏自身の承認欲求を満たすために「男のレズビアン」を“ダシにしている”にすぎないのだ。

このような牧村氏の論点ずらしは「男のレズビアン」に否定的な人々に対してはもちろん、当の「男のレズビアン」にとってもきわめて不誠実と言わざるをえない。なぜならば「男のレズビアン」自体の正当性を証し立てないかぎり「男のレズビアン」は内心の範疇に制限され、社会的な認知・承認まで得ることはありえないからだ。つまり牧村氏の議論は「男のレズビアン」を擁護しているかのように見せかけて、そのじつ当の牧村氏自身の承認欲求を満たすことにしか役に立たない。

男性が「レズビアン」を名乗ること、つまり《胸のうちでそっと思う》にとどめず社会的認知・承認までも要求する行為は、言い換えるならレズビアン女性」に対して、男性である自分を「レズビアン」として認めろ、受け容れろと迫る行為だ。これによって「レズビアン女性」は「男のレズビアン」を受容しないかぎり、「男のレズビアン」を“差別”する差別者として糾弾・恫喝に晒される事態に陥る。

だが本来は女性のジェンダーアイデンティティに基づく概念である「レズビアン」を男性が名乗ることは、まさしく男性によるレズビアンアイデンティティの侵犯であり、簒奪に他ならない。ゆえにそれはけっきょくのところ、男性異性愛者が「レズビアン女性」に性欲を向けることの受容を当の「レズビアン女性」に求めることと本質的に変わらない。

繰り返すが、男性が女性を愛することが「異性愛」である以上、シスジェンダー男性の性自認に基づく「男のレズビアン」が「同性愛者」として“差別”されることなどありえない。つまり「男のレズビアン」なる語義矛盾を肯定するのであれば、同性愛者嫌悪と異性愛至上主義に基づく《レズビアン差別》の構造について告発・批判することが不可能となる。

ゆえに「男のレズビアン」が社会的認知・承認を得たところで「レズビアン女性」の社会的認知・承認には何ら繋がらない。否、それどころかレズビアン」のありようが「異性愛者」に都合良く定義されることにより、ひいては「レズビアン」に対して「男のレズビアン」を含めた〈男性(異性)〉との恋愛ないしSEXを要求・期待する行為が正当化される事態を抑止することもできない。

* * *

さて当ブログではこれまで、上に見たような牧村朝子氏による巧妙かつ陰険な「レズビアン・バッシング」の事例の数々について折に触れて検証してきた。

しかし誤解しないでいただきたいが、私はなにも牧村氏の揚げ足を取るために牧村氏の言動を逐次チェックしているわけではない。牧村氏のマスメディアにおける発言は、Twitter上のリツイート機能で流れてきた記事をたまたま目にするだけであり、そして目にした記事の大半は、まさしく上に見たようなフワフワ・キラキラとした文体を装いながらそのじつ「レズビアン」に対する深刻な蔑視と偏見を撒き散らすものばかり、というのが実情なのだ。

周知のとおり牧村朝子氏は、かつて「レズビアン・タレント」という肩書でマスメディアに登場していた人物である。だが、現在は「レズビアン」と名乗ることをやめている(ついでに芸能事務所も辞めているので「タレント」と呼べるかも微妙である)。牧村氏によると、自分で自分に「レズビアン」などのレッテルを貼ることで、自分自身の可能性を閉ざしてしまうというのがその理由なのだそうだ。レズビアンアイデンティティの獲得を“レッテル貼り”などと決めつけること自体が、まさしく「レズビアン」に対する深刻な蔑視と偏見に他ならないのだけれど、牧村氏がどのようなセクシュアリティをもとうと私の知ったことではない。

翻って私は、ハンドルネームに明らかであるとおり百合作品を嗜好する男性異性愛者である。そのような立場の者が「レズビアン当事者(では現在の牧村氏はないのだが)」の言説を批判することは、男性異性愛者(しかも「百合萌え」)による「レズビアン」へのパターナリズムでありマンスプレイニングである、などと見なされなかねない。

だが牧村氏の一連の言説はいずれも、これまで見てきたとおり(また上掲の記事にも明らかなとおり)印象操作や論点ずらしなどのごく初歩的な詭弁術を駆使したものであり、その論理的誤謬を指摘するにあたって男女の性差を持ち出す必要はないはずだ。

げんに牧村氏自身、「レズビアン」を名乗っていた頃から自分は「レズビアン」である以前に「人間」なのだ、という話をよくしていた。そも「人間」のアイデンティティである「レズビアン」を、わざわざ「人間」と二項対立に置くこともありがちな詭弁であるが、いくらセクシュアリティが自己申告であるとはいえ、自分に都合の良い時だけ「レズビアン」としての当事者性を持ち出すのは論者としての誠実さを自ら貶めるに等しい。

「(元)レズビアン当事者」としての立場から「レズビアン」を論じる牧村氏の言説が、なぜこうも常に“外して”しまうのかといえば、けっきょくのところ牧村氏には《レズビアン差別》を批判するという意識がなく、ただ「(元)タレント」として、マジョリティである異性愛者(非同性愛者)に都合の良い言葉を忖度する習性が身についているためであろう。

そも牧村氏に言わせると、差別主義者を罵倒・嘲笑することは「差別する人たちを差別する」「ホモフォビアフォビア」になるというのだから、もはや《レズビアン差別》を批判する以前の問題であり、むしろ牧村朝子氏は実質的に《レズビアン差別》を容認する立場の人物と捉えて差し支えない。

「差別する人たちを差別する」というレトリック自体の“差別性”〜牧村朝子『百合のリアル』(5)

https://ossie.hatenablog.jp/entry/20140123/p1

だから牧村氏には「レズビアン」の主体性(アイデンティティ)を尊重する意識もなく、「レズビアン」が男性を愛することは“可能”であるかとか、男性が「レズビアン」になることは“可能”であるかといった、じつに非人間的な「可能性基準」の思考に陥ってしまうのである。

いずれにしても牧村氏が「(元)レズビアン当事者」であることを理由に、自身の「レズビアン」に対する蔑視と偏見の告発・批判を免れるのであれば――あるいは私が「百合萌え」の男性異性愛者であることを理由に、牧村氏の言説の差別性に対する告発・批判が無効化されるのであれば、それは《レズビアン差別》を容認する体の良い口実にすぎない。

だから私が牧村朝子氏を批判することが《男性異性愛者(しかも「百合萌え」)による「レズビアン」へのパターナリズムでありマンスプレイニング》であるように見えるとしても、それは錯覚であり皮相な印象批判でしかない。

が、それでも人情として印象が良くなることに越したことはない。そこで、当ブログの人名表記は原則として敬称略であるが、本記事以降、牧村朝子「氏」にかぎっては、例外的に敬称を付けることにした次第である。

追記 以上のとおり、私は「男のレズビアン」に対して否定的な見解をもつ男であるが、その私がTwitter上で「百合魔王」を自称していることについて論理矛盾と捉える向きもあるかもしれない。

しかし、そも「百合」は「レズビアン」を指す言葉ではない。正確にいうと、七〇年代後半にゲイ雑誌『薔薇族』の編集長・伊藤文學が《ゲイ=薔薇族》に対応して作った「レズビアン」の呼称は百合族である。

二一世紀の今日、「百合」という呼称はもっぱらマンガなどのオタク・カルチャーにおいて、女性キャラクター同士の恋愛を描く作品を示すものとして用いられ、新宿二丁目などの「レズビアン当事者」のコミュニティを指す「Lカルチャー」とは一線を画している。げんに百合作品の多くに「レズビアン(のアイデンティティを有する女性)」のキャラクターは登場しない。

また「Lカルチャー」が「レズビアン当事者」の当事者性に根差す文化であるのに対し、「百合」という表現自体は「女性」のジェンダーに立脚しながら、百合作品の作者および消費者は〈男/女〉双方にまたがっていて、明確に“誰のもの”と規定することはできない。

一部では「女性向けの百合」「男性向けの百合」などと線引きしようとする向きもあるけれど、そも百合作家の多くはペンネームを用いており性別すら不明である中で、そのような二項対立的分類は非実際的かつ無効であり、ようは自分の気に食わない「百合」の表現に“男性向け”とレッテルを貼って排除したいというユーザーのエゴイズムにすぎない。

話は逸れたが、いずれにしても「百合」は「レズビアン当事者」の当事者性とは無関係であり、ゆえに“レズビアンのもの”ではない以上、男性である私が「百合魔王」を称することは《レズビアンアイデンティティの簒奪》にはなりえないのである。

「魔王」とは偉そうだ、何様だ、という批判はあろうけれど、ファンタジーやRPGの世界では「魔王」という職業(?)自体が「男性」のジェンダーとして認知されており、男性が「百合魔王」を名乗ることはあくまでも「男の百合萌え」以上の意味をもたないと私は考えている。

「男のレズビアン」は男性によるレズビアン・アイデンティティの簒奪にすぎない

(2018年7月13日 追記

Malesbian……メイレズビアン

男性を意味するmaleと、レズビアンとをくっつけた言葉だ。DIVAでの説明文はちょっと悲しいことになっている。「自分で自分をレズビアンだと思っている、無害だけどちょっぴりブキミなストレート男性」。これは、掲載先がレズビアンバイセクシュアル女性向けの雑誌であり、「男子禁制よ☆」みたいなノリで書かれているからこういう表現なんだろうけど……それにしたって、ブキミ、って言い方は失礼なんじゃないかなあ。

まあ、わからなくもない。レズビアンを騙ってレズビアンイベントに入り込み盗撮するヤカラや、レズビアン向けアプリにレズビアンを自称して登録して女の子の個人情報を聞き出した後「裸の写メを送れ。さもないとお前がレズビアンだとバラすぞ」と脅すヤカラなどにつけ狙われてきた人のトラウマを思えば、ブキミ、と書いてしまった気持ちも想像できることはできる。けれど。そういう男どもの存在がゆえに、さらに「ぼくはレズビアンだ」と言い出しづらくなっている……むしろそういう男どもと自分とが同性であるということを受け止めたくなくて「ぼくはレズビアンだ」と言いたくなっているのかもしれない、レズビアンを自称する男の人たちの話を、今回はしたい。ちゃんと、したい。

ググっても出てこない、彼女にも言えない、ただ胸のうちでそっと「ぼくたちはレズビアンだ」と想像して恋をする彼ら。彼らを「メイレズビアン」という名前でレズビアンとは別にくくることを、わたし個人は、あえてしないでおこうと思う。むしろ、「レズビアン」という言葉が誰のものなのか、あらためて過去を振り返り、考えたいのだ。「男がレズビアンになれるわけないでしょ!」なんて、顔をしかめる前に。

胸のうちでそっと「ぼくはレズビアンなのかも」と思う男性たち(牧村朝子)|ハッピーエンドに殺されない

https://cakes.mu/posts/20962

牧村朝子による上掲の記事は期間限定で無料公開されていたというが、さきほど私が目にした時点ではすでに期間を過ぎていたため、どのように結ばれているのかわからない。例によって例のごとく、牧村のこうした毎度の“炎上商法”に加担するつもりはないので、課金もしたくない。

しかし牧村の結論がどうあろうと、私の論旨は表題のとおりである。

そも「男のレズビアンというのは、クィア理論の古典的なレトリックの一つだ。

クィア理論においては、レズビアンが「わたしはレズビアンだ」というアイデンティティを獲得すること自体が、レズビアンでない人々を排除したり、またレズビアンでない人々にレズビアンアイデンティティを強制する行為として糾弾の対象とされている。

「関西クィア映画祭2014」問題 まとめ

そこへきて「男のレズビアン」という言葉は、レズビアンアイデンティティを“攪乱”するための手段として「レズビアン」という概念を本来の定義である女性としてのジェンダーアイデンティティから切断し、概念自体の無効化を狙うものである。

ちなみに私が「男のレズビアン」という言葉を初めて知ったのは、2005年にナツメ社から出版された『図解雑学 ジェンダー』(加藤秀一石田仁/海老原暁子 ナツメ社))という本の中の「クィア」の項目である(文中では「レズビアンの男」と記載)。

もっとも「レズビアン」という概念の定義がどうあれ、実際の「レズビアン当事者」の中には実質的なFtMトランスジェンダーであったり、ジェンダーアイデンティティが曖昧であるという人も存在する。しかしそうした個別の事例を理由に概念の定義を否定するのは詭弁である。そも性自認が“曖昧”であるのと、明確な「シスジェンダー男性」としてのアイデンティティに依拠しているのとでは、まったく意味が異なってくる(もしそうでないなら、シスジェンダー男性とトランスジェンダー男性が対等の立場であるというおかしな話になってしまう)

元より「レズビアン」という概念は、女性が女性であることを理由に男性(異性)との恋愛やSEXを要求・期待されるという異性愛至上主義および性別二元制に基づく社会的・政治的力学を可視化するために存在する概念だ。

裏を返せばレズビアン」の概念を否定すること、あるいは概念の定義を曲解することは、まさに《女性が女性であることを理由に男性(異性)との恋愛やSEXを要求・期待されるという異性愛至上主義および性別二元制に基づく社会的・政治的力学》に対する告発・批判を無効化し、《レズビアン差別》を正当化するための算段に他ならない。

ようするにレズビアン」という言葉をなくそうとする試みは、「レズビアン」に対して《男性(異性)を愛すること》を要求・期待する行為を正当化するための算段にすぎないということだ。

牧村は「レズビアン」という言葉の成り立ちについて歴史的観点から考察しており、それはそれで読み物として興味深いものの、しかしいずれにしても「男のレズビアン」なる観念の擁護を目的としている時点で、やはりその前提にはレズビアンアイデンティティを否定する思想が横たわっているように思えてならない。

ただし牧村は、読者の気を引くために、あるいは自分の“言いたいこと”をもっともらしく見せかけるために事実を捻じ曲げて書くというひじょうに厄介な癖があるので、じゅうぶん注意が必要である。

「性的発達論」のヘテロセクシズムを隠蔽する、牧村朝子の奇怪なフロイト擁護〜『同性愛は「病気」なの?』批判

今回の件にかぎらず、牧村がマスメディア上で「レズビアン」に対して(かつては「レズビアン・タレント」として注目を集めたという“当事者性”を利用しながら)否定的な言説を撒き散らしてきたことは当ブログで検証してきたとおりである。 

詳細は記事上部の「牧村朝子」タグをクリックしていただきたいが、とりあえず直近のものとしてはこのようなものがある。

「レズビアン」は“時代遅れ”?〜牧村朝子×きゅんくんの「cakes」対談に寄せて

じっさい男性の異性愛者が「わたしはレズビアンだ」と表明したところで、それこそ“ブキミ”なやつだと思われることはあっても、「レズビアン女性」に対するような迫害を受けることはない。なぜなら男性異性愛者が女性を愛することは「異性愛」にすぎず、また異性愛者」である以上は《男性(同性)を愛すること》を社会から要求されることもありえないからだ。

それこそがまさに男性の特権であり、また男性がそうした男性としての社会的・政治的特権性に依拠しながら「わたしは『男のレズビアン』だ」と主張することは、どのように言い繕っても、男性によるレズビアンアイデンティティの簒奪に他ならない。

換言すれば《レズビアン差別》の問題とは、すなわちそのような〈異性愛者/同性愛者〉および〈男性/女性〉の社会的・政治的力関係の非対称性を指すのであり、「男のレズビアン」を称する男性が“善人”であるか“悪人”であるかといったことは何の関係もない。

ましてや「差別」を行使する者が“善人”であるからといって「差別」の行使が正当化されたり、あるいは「差別」の行使に対する告発・批判を免れるなどということがあってはならない。

このようなことは本来であれば言わずもがなであるけれど、「差別」という社会構造の問題を、善悪という「倫理」の問題に摩り替えるレトリックは、牧村にかぎらず「差別」を擁護する者たちの常套句であるため(上掲した牧村の「フロイト擁護」に際してもその詭弁が用いられている)、あえて付言しておく。

ゆえに、それは直接的・身体的暴力性を伴わずともレズビアンを騙ってレズビアンイベントに入り込み盗撮するヤカラや、レズビアン向けアプリにレズビアンを自称して登録して女の子の個人情報を聞き出した後「裸の写メを送れ。さもないとお前がレズビアンだとバラすぞ」と脅す》行為と本質的・構造的に違いがない。なぜならレズビアン」の定義に「男性」を含めることは「レズビアン女性」に対して《「男性(=男のレズビアン)」を愛すること》の要求を可能とするレトリックであるからだ。

したがって、男性としてのジェンダーアイデンティティを有する人の中に「女性的な部分(女の心)」がありうるのだとしても、そうしたありようを「男のレズビアン」という語彙で言い表すことはまったくの別問題である。ましてや男性が「レズビアン」を名乗ることは、男性が「百合」を嗜むこととか「もし自分がレズビアンだったら」と空想(妄想)することとは、何の関係もない。

あるいは牧村の表題にあるとおり《胸のうちでそっと「ぼくはレズビアンなのかも」と思う》こと自体は自由であると言えるかもしれない。だが、それはナチズムや小児性愛などといった、いかなる差別的・暴力的な欲望であってもそれらを対外的に表明しない(胸の内でそっと思う)かぎりは自由であるという話でしかない。

クィア理論に基づく「男のレズビアン」という観念がレズビアンアイデンティティの否定を目的としている以上、男性が「レズビアン」を名乗る行為は「レズビアン女性」との連帯を意味しない(そも「レズビアン女性」の側は男性との連帯など求めていない)

むしろそのような試みは「レズビアン」という概念・用語を“無意味化”することで、ようするにレズビアン」を「レズビアン」でなくするという意味であり、ゆえに「レズビアン女性」から“言葉を奪う”結果にしかなりえないのである。

「同性愛」だって人間の愛の形であることに変わりはない~『あさがおと加瀬さん。』をめぐるホモフォビア言説の表出

(2018年6月8日 追記)

原作を読んだ際の印象について訊かれた高橋は「オーディションを受けるときに原作を拝読したんですが、百合作品と聞いていましたが、読み終わったあとは、人と人との恋愛ですごく素敵な話だなと感じました」と語った。

あさがおと加瀬さん。』、6月9日公開!完成披露上映会を開催|マイナビニュース
https://news.mynavi.jp/article/20180518-632434/

同性愛を題材にした作品が話題になるたび、メディア上で《これは同性愛ではなく、普遍的な「人間愛」を描いたものだ》といった類の陳腐な言説が溢れ返る事態に、私はほとほと嫌気がさしている。

なおアニメの中で「百合ップル」を演じた高橋未奈美佐倉綾音は後日、バイセクシュアルを公表している女性アイドルの最上もがと鼎談を行ったが、その中でも高橋と佐倉は次のような発言をしている。

高橋 女の子同士の恋愛だったなってことを忘れさせてくれるくらい普通に恋をしてて。私、少女マンガが大好きなんですが、百合も同じ恋愛マンガなんだなって気付かされましたね。

佐倉 すごくわかります。彼女たちって普通に恋をしているんですよね。相手が女の子とか関係なく。(攻略)

高橋 私も友達に女の子同士のカップルがいたので、違和感みたいなものはないですね。「実は付き合ってるんだ」って言われて、普通に「おめでとう!」って。それに人を好きになるって、その人のことを好きになるってことだと思うので、性別とか関係ないのかなって思いますし。ただ幸せになってほしいなと思うだけですね。

佐倉 (前略)これぐらいの年代の女の子って恋と友情って曖昧じゃないですか? 友達に対しての距離感とか。

 劇場OVAあさがおと加瀬さん。」特集、高橋未奈美 × 佐倉綾音 × 最上もが座談会&フォトギャラリー|「ただまっすぐに恋してる」女子高生同士の恋愛を女性3人はどう観る?
https://natalie.mu/comic/pp/asagaotokasesan02

 《「性別」ではなく「その人」を好きになるのだ》《「友情」と「恋愛感情」の間には明確な線引きなどない》といったクリシェ(決まり文句)も、主に異性愛者が「同性愛(者)」に“理解”を示す上で用いられるものだ。加えて《私も友達に女の子同士のカップルがいた》などと身の回りの「当時者」をダシにして自分に差別意識がないことをアピールするのは《俺には黒人の友達がいる(I have black frends)》と呼ばれる古典的なレトリックである。

しかし「性別(女性であること)」もまた「その人」のアイデンティティの一つであるのに、その事実をありのままに受け止めようとしない時点で、けっきょくは「同性愛(女性同士の「恋愛」の成立)」を否定していることに変わりはないのだ。

その意味で《恋と友情って曖昧》と解釈すること――ましてそれを「これぐらいの年代の女の子」に特化・限定することは、『あさがおと加瀬さん。』に表現される女性同士の「恋愛」を「友情(非恋愛)」で希釈し、将来的には《真性恋愛》と規定される「異性愛」に至るまでの《擬似恋愛》に貶める意味をもつ。

そも女性キャラクターのみで人間関係がほぼ完結する、明らかに「女性」というジェンダーアイデンティティを前提として人為的に構築された世界観で《性別とか関係ない》などといわれても、しらじらしいだけである。

また「女性」のジェンダーアイデンティティをめぐっては、最上が次のような発言をしている。

最上 僕、最近すごく実感したのが、やっぱり男性と女性って違う生き物なんだなって。もう脳が違うというか、思考回路が全然違う。なんというか、根本的に理解できないことってあると思うんですよね。女の子同士のほうが理解し合えることって多いですよ。

佐倉 女性ならではの経験ってありますもんね。そういう部分を最初から共有できているというのは大きいかもしれない。

高橋 男だからとか女だから、みたいな言い訳もできないし。

佐倉 性別の違いとかじゃなくて、もっと本質的な問題というか、人間として考え方や価値観の違いって話ですからね。そこまで突き詰めて考えられるのも、百合作品というか同性同士ならではだなと思います。

最上はバイセクシュアル当事者の立場から《男性と女性って違う生き物》《女の子同士のほうが理解し合える》として男女の性差を強調しているのに対し、非当事者である高橋はその流れを無視してまったく無関係に《男だからとか女だから、みたいな言い訳もできない》と横槍を入れ、それを佐倉が《性別の違いとかじゃなくて、もっと本質的な問題というか、人間として考え方や価値観の違い》と追認する。

鼎談を通して和やかな雰囲気でありながら、そのじつ会話として成り立っておらず、「当時者」の言葉を理解しようともしない「非当事者」の頑なな姿勢が伝わってくる。そも《人間としての考え方や価値観》とは何だろうか?

 もっともその意味では、仮に《女性ならではの考え方や価値観》が存在するとしても、それはすべての「女性」が“共有”できる「考え方や価値観」ではなく、まして女性同士であるからといって誰もが“理解し合える”わけではないという非情な現実を、この噛み合わない会話が図らずも示していると言える。

そも、これが男女の恋愛を表現する作品であれば、異性を愛することと「その人」を愛することの両立を、多くの人は自明のものとして受け入れる。ところが女性同士(あるいは男同士)の関係性になったとたん、本来であれば自明であるはずの「性別」と「人間」の結びつきがなしくずしに解体されてしまうのである。

女性同士の恋愛の表現について、男女の恋愛を表現する《少女マンガと同じ普通の恋》であるとうそぶきながら、そういう当人たちこそが「百合」に対して男女の恋愛と異なる“異常”な扱いをしているという論理矛盾が浮き彫りとなっている。

* * *

いちおうお断りしておくと、こうした「ホモフォビア(同性愛者嫌悪)」は原作の『加瀬さん。』シリーズの世界観や表現とは何の関係もなく、読者・観客や評論家、アニメの出演者などといった外野から一方的にもたらされる解釈である。

さらに言えば、なにもオタクカルチャー(百合/BL)に限定した話ですらない。じじつ同年四月末に日本でも公開され、男性の同性愛を美しく描いた作品として高い評価を受けた洋画『君の名前で僕を呼んで』でも、ルカ・グァダニーノ監督自ら次のような見解を表明している。

「この物語の続きについてはまだあまり話したくありません。ただひとつ言えることは、私は自分にレッテルを貼らないということ。それは登場人物にも対しても、誰に対しても同じです。だから『君の名前で僕を呼んで』はゲイ・ロマンスの話ではないと思っています。それは断固として拒否します。君の名前で僕を呼んで』は、ある青年が大人への第一歩を踏み出す物語です。青年は独自の方法で欲望を満たしていく。彼の欲望はあまりにも強く純粋で、本人も周りもそれを受け入れている。だからゲイ・ロマンスの話ではない。ここで語っているのは“欲望”についてであり、それは社会的や歴史的に、あるいは社会の思想で定義づけることはできないものなのです」

君の名前で僕を呼んでルカ・グァダニーノ監督インタビュー|i-D
https://i-d.vice.com/jp/article/vbxk4d/luca-guadagnino-call-me-by-your-name-director-interview

 作品のテーマや登場人物のセクシュアリティを表すのに「百合」や「ゲイ・ロマンス」といった語彙を用いることが“レッテル貼り”に繋がるという発想は、じつのところ現実の人間に対して「同性愛(者)」という言葉を用いてはならず、一人の「人間」として扱うべきだという、まさしく“政治的”なイデオロギーに立脚する。その意味で、むしろ監督こそ「彼の欲望」を《社会的や歴史的に、あるいは社会の思想で定義づけ》ていると言える。

元より「同性愛」とは、たとえばわたしは〈女性〉であるという自認をもつキャラクターが、他の〈女性〉に恋愛感情ないし性欲を抱いた場合に成立する“関係性”であり、その意味ではたしかに“欲望”それ自体を表す概念ではない。

「同性愛」という“関係性”と、恋愛感情ないし性欲という“欲望”は、それぞれ別次元の事象であるが、しかしだからこそ両立するのである。「ゲイ・ロマンス」なるものが《あまりにも強く純粋な欲望》を表現することができないというのは、それこそ監督自身の「ゲイ・ロマンス」さらには「ゲイ」という存在自体に対する偏見と蔑視の表明にすぎない。

あるいは「ゲイ・ロマンス」に対する偏見と蔑視が、そのじつ「ゲイ」という存在に対する偏見と蔑視の敷衍に他ならない事実は、監督自身が《それは登場人物にも対しても、誰に対しても同じ》であるとして愚直に証明しており、したがって「ゲイ・ロマンス」に対する否定的感情が現実の「ゲイ当事者」に向けられたものではないという(日本国内では主として「BL/腐女子」へのバッシングの正当化に用いられる)屁理屈も通用しない。

そも「同性愛」だって人間の愛の形であることに変わりはないにもかかわらず、「同性愛」と「人間愛」をあたかも排他的な二項対立の関係性に設定する前提自体がおかしいのだ。

あるいは『あさがおと加瀬さん。』を通して、そのような当たり前の真実に目覚めたというなら、ようはそれまで同性愛者をまともに人間として扱わず、化け物じみた《変態》と決めつけていたことの証左であろう。

せめてそのようなホモフォビア(同性愛者嫌悪)を少しでも反省するのかと思いきや、けっきょくは自分とたまたま波長の合った特定の作品を「百合作品」の定義から手前勝手に分断し、「百合作品」および「同性愛(者)」に対する自分自身の凝り固まった偏見と蔑視をさらに強化してしまう。

* * *

もっとも《百合作品と聞いていましたが(中略)人と人との恋愛》といった物言いは一つのクリシェ(決まり文句)でしかなく、考えなしの発言であっても、とくに《同性愛者差別》を目的としたものではないとする見方もあるだろう。まさに、それ自体がヘイトスピーチの正当化を目的としたクリシェでしかないのだけれど、次の発言を見るかぎりでは、少なくともその根底に根深いホモフォビア(同性愛者嫌悪)が存在する事実は疑いようもないのではないか。

作品の魅力について、高橋は「この映画を、デートムービーとして見てもらいたい。百合作品を観るのではなく、デートをする時に観る映画としてお勧めしたい」と言うと、佐倉は「相当良い雰囲気になってしまいますからね!」と便乗し、木戸も「付き合いますよ!」とアピールした。

佐倉綾音、男性だらけの客席へ人生初のブーケトス 狙った女子高生に届かず謝罪 | ORICON NEWS
https://www.oricon.co.jp/news/2111596/full/

百合作品がヒットしたとたん「百合作品」であること自体を否定されるというパラドックスは、かつては『マリア様がみてる』や『青い花』、近年では『やがて君になる』に対しても見受けられた現象である。

ある作品が「百合」と解釈ないし分類されることによって間口が狭まることになり、「百合」に興味のない“一般の”観客を遠ざけてしまうというのが否定派の言い分だ。

しかし、それこそ「百合」が嫌悪されるべきものであるという当人のホモフォビアを露呈しているにすぎない。マジョリティである男女のラブロマンスなど古今東西ありふれているのだから、女性同士の恋愛にかえって興味を覚えるという人だっているだろう。“普遍的”であるといえば聞こえはいいが、裏を返せばありきたりで型にはまった退屈な作品であるという見方もできる。

元より、そのことと女性同士の恋愛およびその表現に《変態》というレッテルを貼りつけることは別問題である。「ノーマル/アブノーマル」の枠組みはたんなる価値判断ではなく、人間のセクシュアリティの本質を《生殖》に規定する異性愛至上主義の政治的イデオロギーに他ならないからだ。

じつのところ、特定の作品を「百合」と解釈ないし分類すること自体が、作品の可能性を狭めるのではない。「百合」を一方的に嫌悪されるべきものと決めつけた上で、解釈の可能性から体良く切り捨てようとする当人の差別意識こそが、逆に「百合作品」および「同性愛(者)」に卑小な“枠”を押しつけている。

言うなれば“枠”は「百合作品」および「同性愛(者)」の側にあるのではなく、当人の差別意識の内側にこそ存在するのだ。

そも恋愛というプライベートな関係性において“普遍性”なる観点を持ち込むことにいったい何の価値があるだろうか? 愛の形は“普遍的”であるどころか、性的な事柄を含めて当人たちにしかわからない作法やこだわりが千差万別に存在するはずだ。

さらに言えば恋愛に“普遍性”を要求する思考は、まさしく人間のセクシュアリティの本質を《生殖》に規定した上で(あるいは人間のセクシュアリティに「本質(※「本能」とも呼ばれる)」が存在するという思い込みに立脚した上で)、《生殖》に結びつかないセクシュアリティを《変態》として排除・抑圧する異性愛至上主義の最たるものだ。

とはいえ現実社会において「同性愛者」の存在がマイノリティである以上、同性愛をテーマにした娯楽フィクションもやはりマイノリティとならざるをえないのかもしれない。表現という行為がアニメや映画といった商業メディアと密接に結びついている以上、収益が見込めない(売れない、カネにならない)コンテンツは価値がないという烙印を押されてしまう。

しかし観客の間口を狭めるのがいけないというなら、たとえばバスケットボールをテーマにした『スラムダンク』はバスケのルールを知らなければ楽しめないので、バスケに興味のない観客やスポーツが嫌いな観客の存在をあらかじめ排除していることになる。それにもかかわらず「百合作品」に対してだけ文句をつけるのは、やはり女性同士の恋愛(同性愛)が本質的に嫌悪されるべき《変態》であるというホモフォビア(同性愛者嫌悪)を前提としているためであろう。

あまつさえ『あさがおと加瀬さん。』を《百合作品“ではなく”デートムービーと言い張るに至っては、もはや“間口”うんぬんさえ口実にすぎず、自身の出演作に対して自身の嫌悪する「百合(同性愛)」の解釈を認めたくないというエゴイスティックな差別意識があからさまだ。かねてよりアニメ業界においては若い女性の声優をアイドル視する風潮があるけれど(おそらく本稿も、そのような「信者たち」によって“炎上”させられることは間違いない)、主演とはいえいち出演者にすぎない声優に、なぜ作品のテーマ性や世界観を規定(あるいは否定)してしまえるほどの権限が委ねられているのか、いち観客にすぎない私にはさっぱりわからない。 

追記 『コードギアス』『無限のリヴァイアス』『プラネテス』などを手掛けたアニメ監督の谷口悟朗が「週プレNEWS」内でアニメ業界の“幼児性”を指摘している。谷口によると、今や女性声優はアイドル化されているためシビアなアドバイスもできず(ダメ出しされると気分が落ち込んでその後のイベント出演などに差し障りがあるため、事務所が抗議してくるのだとか)、「セックス」という言葉を使うことについても「なぜかはばかられる雰囲気」があるのだという。
アニメ映画『あさがおと加瀬さん。』には原作どおり女性キャラクター同士の「セックス」のシーンは出てこないものの、同様に「百合」という言葉を使うことについても「なぜかはばかられる雰囲気」があるようだ。とくに高橋未奈美 の一連の発言からは「百合作品」に出演することが自身の「アイドル」としてのイメージダウンにつながりかねないという忌避感と、その“幼稚性”が如実に表れている。

幼稚性はここまできた…「コードギアス」監督がアニメ業界に警鐘http://wpb.shueisha.co.jp/2018/06/07/105837/

それにしても「百合作品」の解釈を頭ごなしに否定しながら、その代わりに出てくるのが「デートムービー」とは……あまりにも唐突で、どのような理路に基づいてそのような解釈が飛び出てきたのか記事を読んでもちんぷんかんぷんだが、さも特定の恋愛関係にあるパートナーのいない人はこの映画を楽しむ資格がないと言い放つに等しく、じつに排他的で“間口を狭める”発言である。

誰と映画を観ようと、あるいは一人で観に来ようと人の勝手ではないか。いや、それ以前にどのような映画の観方をしようと観客の自由であって、いち出演者である声優に私たち観客が指図される筋合いはないはずだ。

なお、当日のイベントでは高橋ら出演声優による「ブーケトス」も行われたとのことだが、この趣向もいただけない。

上掲した彼女たちの発言、そして何よりも日本国内において未だ同性婚が法制化されていない現状を鑑みれば、「女の子に結婚してほしい」といってもその相手はあらかじめ〈異性(男性)〉に限定されていて、〈同性(女性)〉との結婚など想定すらされていないのだろう。わざわざ百合作品の映画を観に来たのに、そのような異性愛至上主義を押しつけられたのではたまったものではない。

 

『立花館To Lieあんぐる』を「キモい」と言いつつ『聲の形』を推す「まなざしかぶとむし(kabutoyama_taro)」の見苦しさ

(2019年11月3日 加筆修正)

merryhachi『立花館To Lieあんぐる』は一迅社の百合漫画専門誌「コミック百合姫」の連載作品であり、4月からTOKYO MXにてアニメ版が放映されている。百合マンガの中でもわりと“性的”な要素の強い作品で、謳い文句にある「ラッキースケベ」「ハーレム」といった、従来は男女物のラブコメディに特有とされてきた趣向を女性キャラクター同士の恋愛関係に置き換えるという実験的な試みが注目を集めている。きわどい下ネタやお色気シーンを絡めながら、いずれも寸止めにとどまるためポルノグラフィ(成人向けコミック)には分類されない。

コミックスは現時点で第6巻まで出ており、PCゲームやドラマCDなどの付録によるお得感も手伝って百合ファンの間では知名度の高い作品であるけれど、世間一般にまで浸透しているとは言い難い。しかるに上掲したまなざしかぶとむしの「暴言」も、いわゆる「百合物」であることを含めた作品自体の特性を踏まえたものではなく、たんに「萌え絵」というだけで脊椎反射した結果と解釈できなくもない。

だが「萌え絵」だから「キモい」という理屈は筋が通らない。なぜならまなざしかぶとむしが推していた『聲の形』にも「萌え絵」が採用されており、とくにヒロイン【硝子】の内股でヒョコヒョコと歩くなよなよとした仕草やはにかんだ表情、非現実的なピンク色の髪などは、まさにステレオタイプな「萌えキャラ」のテンプレートを踏襲したものであるからだ。加えて寡黙(重度の聴覚障害者なのだから当然だが)で神秘的な人物造形は、一昔前の言葉でいうなら典型的な「綾波系」であり、男性異性愛者の庇護欲と表裏一体の加虐嗜好を煽り立てる効果を上げている。

また『聲の形』は作品のテーマとして障害の他にイジメ問題も絡めており、被害者である【硝子】が加害者であった主人公の少年【将也】と恋愛関係に至るという御都合主義的な筋書きから、Twitter上で「感動ポルノ」であるという批判がなされていた。

しかし一方で、作品に心酔する「信者」たちが、作品について批判的な意見や感想を述べる者を過剰に敵視し、感情的な罵倒や吊し上げといったネットリンチに興じていたのも事実であり、まなざしかぶとむしもそうした「信者」の一人である。 

聲の形』はいじめっこ向け感動ポルノなのか|Togetter 

 https://togetter.com/li/1027520

かく言う私もまた、一連の論争で「感動ポルノ」という言葉を用いたことで「信者」から誹謗中傷を受けた。ただしそれは作品自体の評論・批判を目的としたものではなく、むしろ「信者」たちに対しての“皮肉”“嫌味”“当てこすり”として述べたまでだ。

イジメをテーマにしたマンガに感動しただの心洗われただのと称する者たちが、自分と異なる考え方や価値観をもつ者に対して、まさしく「イジメ」を行っているのはまったく皮肉としか言い様がないし、そうした有様こそまさしく「キモオタ」そのものではないか。

ちなみに、そのような『聲の形』の「ファン」を通り越した、幼稚で傍迷惑な「信者」を指して、私は「聲豚」という言葉を造り、一般の「ファン」から区別している。

少し脱線したが、ようするに「萌え絵」も「感動ポルノ」もそれ自体がジャンルとして確立されているはずもなく、そも明確な定義すら存在しない。ゆえに立花館To Lieあんぐる』の「萌え=キモさ」をあげつらうまなざしかぶとむしが、一方で『聲の形』の「萌え=キモさ」には目を瞑り、あげく擁護の論陣まで張るという見苦しいダブルスタンダードが横行する事態となる。

そのような「萌えオタク」の一人でしかないまなざしかぶとむしだが、(かつて私が「聲豚」という言葉を造ったように)一方で「萌え豚」という語彙を用いることで「萌えオタク」の他者化および自己特権化を図るのである。

なお例によって、まなざしかぶとむしによる一連の暴言・暴論を「オタク差別」に牽強付会する向きもあるようだが、そうしたアクロバティックな論法を持ち出すまでもなく、そも「性」の表現自体を一概に有害と決めつけて公共の場から排除しようとする発想自体が、《生殖》に結びつかない「性」のありようを否定する異性愛至上主義に立脚したものであり、まさしく「性差別」以外の何物でもない。

その意味で、まなざしかぶとむしが「萌え絵」全体を攻撃するという体を装いながらも、そのじつ女性同士の恋愛を表現する『立花館To Lieあんぐる』を選択的に攻撃する一方で男女の恋愛を表現する『聲の形』を贔屓するという非対称は、まさしく「セックスフォビア(性嫌悪)」が「ホモフォビア(同性愛者嫌悪)」と同根の異性愛至上主義に依拠した感性である事実を、図らずも裏付ける証左と言えるかもしれない。

前回のエントリーでも述べたとおり「萌え」と「エロ(性的要素)」を同一視する発想がまず粗雑かつ短絡的であるし、また「萌え絵」それ自体はたんなるマンガの絵柄の流行にすぎず、なんら価値判断の対象となりうるものではない。また「性的嗜好」の中には小児性愛(ロリペド)やリョナ(エログロ)のように性差別・性暴力の構造と密接な関係にあるケースも含まれているが、かといって《性的嗜好=性差別・性暴力》であるなどと短絡することもできない。

もっともポルノグラフィにおいては、ユーザーの「性的嗜好」に応じた多様なジャンルが用意されている一方、性差別的・性暴力的な内容のものとそうでないものが明確に区別されているわけではなく、したがってゾーニングに際してはやむをえず一律的に対応せざるをえないのが現状である(よって私自身は、なにもポルノのあらゆる規制を撤廃せよと唱えているわけではなく、またコンビニにエロ本が置かれているような状況をよしとする者でもないことを付言しておく)。

しかし言うまでもなく「ポルノ」とカテゴライズされる作品でなくとも性差別的・性暴力的な内容のものは巷に氾濫しており、またそれらはポルノグラフィでないがゆえにゾーニングもできない。よって嫌なら見るなというお決まりの理屈も通用しない。

その意味で、仮に特定の「萌えマンガ」が狭義の「ポルノ」ではないとしても、そのこと自体が作品の“健全性”を示す何らの根拠にもなりえない。だが、そこへきて「萌え絵」だけを執拗にあげつらう態度は、「萌え絵」というわかりやすい記号がスケープゴートとされることによって、けっきょくのところ「萌え文化」に属さない一般作品における性差別・性暴力の表現が免罪されるという逆説を生み出すに留まるだろう。

それでも「萌え」が「性的消費」の構造と結びつくというのであれば、「キモい」などという「暴言」「悪口」こそ「イジメ」の構造に結びつく。「性欲」という感情の表明・表現が“性的”であるという理由で抑圧されるべきであるというなら、「キモい」という感情もまた“暴力的”であるから抑圧されるべきではないのか。

あるいは“暴力的”であるという理由でむやみに表現を否定するべきでないなら、たんに“性的”であるというだけの理由で表現を規制するべきでもない。

しかし、いずれにしても『立花館To Lieあんぐる』には一般的な意味での性差別・性暴力に相当する描写はいっさい登場しない(ゆえに、そこでフィクションの「百合」が現実の「レズビアン」への「性的消費」であるといった無理筋の屁理屈が必要とされることになる)。

しいて言えば、少し前に少年コミック誌のラブコメ漫画をきっかけにフェミニストの間で「ラッキースケベ」なる趣向の“暴力性”が取り沙汰されたこともあったけれど、上掲したまなざしかぶとむしの「暴言」にそのようないわゆるPC(ポリコレ)的論点はいっさいなく、ただ「萌え絵」であるがゆえに「キモい」とする論理もへったくれもない原始的な感情が吐露されているだけである。

ところであるていどネットの知識に長けた人には周知の事実であるが、ネット上の広告は、アドツールがユーザーの関心を分析した上で個別に応じた情報を自動表示するように出来ている。すなわち「萌え絵」を嫌悪するまなざしかぶとむしのTLに「萌え広告」が流れてくるのは、まさしく「萌え絵」に執着するまなざしかぶとむしの世界観を反映しているにすぎない。(広告表示の仕組みに関しては不明な点が多いため、いったん取り下げます。2019年11月3日 追記)

ところで萌え豚という語だが、この種の問題絡みでオタクという語を使うのは無駄と逃げの元なのでもうやめることを提案したい。 そもそもパブリックエネミーであるというか批判の対象となりうるのは鉄オタでもミリオタでもなければはたまたアニメオタク一般ですらなく、単に萌え豚なのだから。
https://twitter.com/kabutoyama_taro/status/993502811571740672

(註「萌え豚」という用語の定義について)最もコンパクトには、「二次元(漫画・アニメ)の女性(とりわけ少女)表現愛好を通じて社会的コンフリクトを起こしている人たち」でいいんじゃないでしょうかね。
https://twitter.com/kabutoyama_taro/status/994198304912064513

しかし 「二次元(漫画・アニメ)の女性(とりわけ少女)表現」をめぐって「社会的コンフリクト」を起こすということであれば、まさにマンガの性差別表現を告発・批判するフェミニストなどにも当てはまるだろう。

そも「差別」の定義すら周知されていない現代社会においては、むしろ「社会的コンフリクト」は「差別」を告発・批判する側によってもたらされると言ってもいい。そこへきて「社会的コンフリクト」を起こす人々の存在自体を「パブリックエネミー」と位置づけるまなざしかぶとむしの議論は、むしろ性差別表現に対する告発・批判の無効化ないし萎縮に繋がる可能性が高い。

また先ごろの「百合展」に対してフェミニストの多くが、それこそ《特にこれといって反対の形を取らなかった》ことを鑑みても、「二次元の女性表現」およびそれを“愛好”するユーザーの存在自体を「パブリックエネミー」と規定するまなざしかぶとむしの議論は、じつのところフェミニズムを始めとした昨今の反差別をめぐる議論においてもまったく共有されていない「暴論」でしかない事実を、ここで確認しておく必要がある。

だいたい世間の大多数は「萌え絵」ごときにいちいち目くじらを立てたりしないし、仮に目の前を流れてきたところで何の印象も感情もないまま通り過ぎていくだけであろう。

  • もちろん「萌え絵」を苦手とする一般人もいるだろうが、たんにオタッキーなノリが受け付けないというだけであって、そうした生理的な感覚を《女性差別》だの《性的消費》だのにこじつけたりはしない。(2018年10月19日 追記)

そこをいくと「萌え絵」に異様な敵愾心を示し、あまつさえその自己正当化に当たって「イジメ」まで容認しだす(※前回のエントリーを参照)まなざしかぶとむしもまた、しょせんは裏返しの「萌え豚」なのだ。

そんなまなざしかぶとむしが「萌え絵」を露悪的にバッシングするのは、ひとえにそのような言動によって溜飲を下げる「萌えフォビア」「セックスフォビア」の連中の歓心を買うための自己アピールでしかない。

だが、そうした浅ましいまなざしかぶとむしの被承認欲求のために皺寄せを受けるのは、まさに性的アイデンティティの表明・表現を“性的”であるという理由でマジョリティから抑圧され、さらにはそのような「性差別」に対する告発も“暴力的”であるとして無効化される「性的マイノリティ」に他ならない。