百錬ノ鐵

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『会田誠展』をめぐる日本の幼稚な言論空間

昨年11月17日から東京・六本木の森美術館で開催されている(3月末日終了予定)、イラストレイター会田誠の個展『会田誠展 天才でごめんなさい』に対して、市民団体「ポルノ被害と性暴力を考える会(People Against Pornography and Sexual violence、以下「PAPSJP」)」が抗議活動を展開している。

抗議文はこちら:
http://paps-jp.org/action/mori-art-museum/group-statement/

会田作品が内包する差別性・暴力性については「PAPSJP」の抗議文の中でも指摘されているが、ここでは私自身の会田作品に対する見解やスタンスを表明することは控えたいと思う。

  • なお《差別表現》と《暴力表現》はじつのところ議論の争点が異なるが、会田作品の問題はその双方にまたがっていると思われるため、本稿では両者を文脈に応じて使い分けながらもほぼ同義として扱うことにする。

なぜなら『会田誠展』開催の是非をめぐる議論は、まだその次元にすら達していないからだ。

ネット上、とくに「twitter」での反響を見るかぎり「PAPSJP」に対する反論、あるいは反論でさえない感情的な中傷や冷笑が大半であり、まさしくネット・スラングでいうところの「炎上」「フルボッコ」の様相を呈している。

たとえば以下のようなものだ:

山口貴士?@otakulawyer
https://twitter.com/otakulawyer/statuses/296154603714654209
会田誠展:天才でごめんなさいhttp://www.roppongihills.com/feature/aidamakoto/aidamakoto.html … が気に食わない人は見に行かなければいい。表現の自由は、発表、流通、受容の機会を奪われれば、画餅と化す。他人の知る権利を侵害するな。

荻野幸太郎?@ogi_fuji_npo
https://twitter.com/ogi_fuji_npo/status/298805909419880449
フィクション、それも虚構性がはっきりとしているファンタジーの世界の架空の人物との設定上の些細な共通点(性別が同じ、人間ないしは人間と外貌が似通った生物であること)を根拠に、当事者を自称して、社会的差別について問責しようとする態度に、疑問を感じないのだろうか。

少年ブレンダ?@hibari_to_sora
https://twitter.com/hibari_to_sora/status/298745064925036544
ニコンサロン従軍慰安婦禁止スルー、会田誠抗議バカ、レスリー即タイーホ、公園のダビデ下着付けて…。これはいよいよすごい国になってきたぞw 

笹井一個?@sasaiicco
https://twitter.com/sasaiicco/status/295731979209560064
papsさんはAKB写真集の話より会田誠展に興味があるのかー。写真より絵って、やっぱり優先順位がおかしくない?まあでも絵を見て不愉快なひとが不愉快だって言えることじたいはよいことだとおもう。

会田誠抗議バカ」という言辞に象徴されるとおり、今回の「PAPSJP」の抗議については、抗議文の具体的な内容を検証する以前に、《現実の被害者が発生しない》フィクションの表現に対して“抗議”するという行為自体を不当なものとして否定する意見が目立つ。その論拠となるのは、例によって憲法第21条に定められた《表現の自由》を都合良く曲解したものだ。これによれば「PAPSJP」の活動は憲法違反》と見なされてしまう。

だが言うまでもなく《表現の自由》とは【国家】に向けて【国民】に対する「検閲」を禁じるものであって、【国民】が「性差別」「性暴力」の“表現”に対して抗議することを禁じるものではない。換言すれば“表現”に対する抗議もまたれっきとした《表現の自由》の範疇である。

あるいは“表現”に対する抗議が《他人の知る権利を侵害》することに繋がるというレトリックも無効である。市民団体の抗議は法的強制力を伴うものではなく、それにより美術館が“萎縮”して開催を中止したとしても、その判断の責任は美術館の側が負うものである。よってそれこそ《現実の被害者が発生しない》フィクションの暴力表現と同様に、何らの「実害」も発生しない。

だいいちアートと言えども“表現”である以前に商業活動であり、またそうであるからには企業倫理に基づいて《発表、流通、受容の機会》が制限されるのは当然である。むろん、このことも憲法の理念と矛盾するものではない。「オタク弁護士」とのことだが、小学校の「しゃかい」の授業からやり直したらどうだろうか。

ちなみに今回の『会田誠展』に関しては、会場の側の判断により刺激が強いと見なされた作品にはレイティングが施されているという。だが「自主規制」とは企業が独自の倫理を社会に向けて主体的に示すために行うものであり、批判者・抗議者に対するエクスキューズないし懐柔のために行うものではない。よってこれも批判・抗議の活動を“萎縮”させる理由にはならない。

そこをいくと@sasaiiccoのツイートは一見好意的であるようだが、抗議の対象に《優先順位》をつける思考もまた「フィクションの差別に目くじらを立てる暇があるなら現実の差別を解決しろ」といった紋切り型の《差別表現》容認論を焼き直しているにすぎない。これもまた抗議という“表現”そのものを(独善的な価値基準に基づいて)否認するレトリックだ。

「PAPSJP」が常に問題提起しているAV女優への人権侵害もまた、たんなる“自己責任”として他の「差別」の問題から“後回し(すなわち事実上の黙殺)”されてきた経緯がある。《現実の被害者が発生しない》というレトリックによって、現実のAV女優は「現実の被害者」と見なされてこなかったのだ。

しかるに、そうした恣意的な《優先順位》を定めるのがまさしく「差別」を追認する者の“特権”であることは論を俟たない。

人は誰しもが自己の置かれた環境に基づいて社会を認識しているのだから「差別」の問題に関してもその「興味」や見識の深さが異なるのは当然である。まして「差別」と一口に言ってもそのありようは様々であり、かならずしも物理的・法的な“被害”を伴うものだけが「差別」ではない。ある「差別」の実態に対して抗議するにあたり、社会に蔓延るあらゆる「差別」について均等の時間と労力を割いて抗議しなければならないのだとしたら、現実問題として何一つ「差別」の問題を解決できなくなる。

そもAKB48の一連の騒動に関する諸問題については、すでに国内はおろか海外からも非難の声が挙がっており、いまさら「PAPSJP」が取り上げたところで屋上屋を架すことにしかならない。

中でも《AKB写真集》の件は、発売延期、掲載誌の回収、および版元の謝罪によってすでに解決したものと思われる。それでもまだ気が済まないというなら@sasaiicco自らが《表現の自由》を行使して社会に問題提起すべきであろう。

また《まあでも絵を見て不愉快なひとが不愉快だって言えることじたいはよいことだとおもう。》として、社会の差別構造――すなわち〈強者〉が〈弱者〉に対して行使する社会的特権性――をめぐる議論が、たんなる「快・不快」という“感情論”に磨り替わっている点も見過ごせない。いくら好意に基づいたものであれ、これによって《差別表現》に対する抗議は《気に食わない人は見に行かなければいい。》として無効化されてしまう。

ただし、これに関しては「PAPSJP」の抗議文の中に《あなた方は、これらの作品を当事者が目にすることで、どれほどの深い衝撃と精神的ダメージを受けるかを想像したことがあるのでしょうか?》という記載があることから、それを受けての発言とも解釈できる。

その意味では「PAPSJP」の論調にも疑問を感じる。「当事者」とは誰か。“何”に対する「当事者」なのか。

「社会的差別」の問題に関しては同じ「社会」を生きる誰もが「当事者」と言える。そして「ファンタジーの世界」にも現実の「社会」における「差別」の力学が敷衍されている。

そのような「社会的差別」“問責”する行為について「ファンタジーの世界の架空の人物」の“人権”を主張しているかのように曲解するのは、それこそ藁人形論法でしかない。

  • しかし「社会的差別」とは同語重複である。「差別」とは「社会」における不当な権力構造を示す概念であり、それ以外の定義は成り立ちえない。この「社会的差別」という珍妙な語彙一つとっても「差別」の問題について何の「興味」も見識も有していないことの証左と言える。すなわち「差別」を“他人事”として捉えているということだ。

かくして「規制」を目的とするか否かに関わらず、フィクション表現の差別性を批判するという“表現”自体が《表現の自由》ないし《他人の知る権利》の侵害に繋がる“可能性”を提示するものとして否定されてしまう。

したがって《気に食わない人は見に行かなければいい。》という選択もまた成り立たないことになる。なぜなら《差別表現》について“気に食わないから見ない”という行為は、それ自体が“表現”の差別性を認識した上で、それに対する批判・抗議の意志を消極的に“表現”するからだ。

そも人が作品に接する形は、主体的に“見に行く”だけとはかぎらない。

AKB絡みで言えば『悪の教典』の上映中に退席した大島優子が「プロ意識がない」などとバッシングを浴びたことは記憶に新しい。だが“職務”と称して《暴力表現》の鑑賞を強制すること自体が「暴力」でありパワー・ハラスメント以外の何物でもない。

加えて大島は「この映画は嫌い」と発言したが、たんに自己の感想を率直に“表現”したにすぎない。「上映を中止せよ」「法律で規制すべし」などとは一言も言っていないし、あるいはファンに向けて「見るな」と訴求したわけではない。つまり、これもまた「実害」は何も発生していない。

表現の自由》を金科玉条に掲げるなら、むしろ大島の言動こそ肯定されるべきではないだろうか。

* * *

いずれにせよ今回の「PAPSJP」の“表現”は、法的にも、また道義的にも「正当」な手順を踏んで行われたものであることに異論の余地はない。

むろん、抗議の内容についてさらに“抗議”するのは《自由》だ。しかし抗議という“表現”そのものを否定するならそれはダブル・スタンダードに陥る。

抗議という“表現”を行使することの《自由》を認め、なおかつフィクションの表現が「差別」として機能する実態も認めた上で、そうした《差別表現》に対抗する上で「規制」という手段が妥当であるかについて議論することは、じゅうぶんに可能である。

しかし現状のネットにおける言論空間は、まずそうした前提をコンセンサスとして確立するところから始めなければならない。これでは掛け算九九もわからない幼稚園児が因数分解を解こうとしているようなもので、まさに“話にならない”のは自明だ。