百錬ノ鐵

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《セクシュアリティの多様性》を黒色に塗りつぶす「セクシュアル・マイノリティ」という政治的イデオロギー

(2021年1月6日 タイトル変更/加筆修正)

LGBTは、しばしば「セクシュアル・マイノリティ」と称される。言うなれば「セクマイ」という言葉が、あたかもLGBTの代名詞のように流通している現状がある。

しかし私は、この「セクシュアル・マイノリティ」なる呼称について否定的である。

理由は様々だが、この呼称の問題点を図らずも浮き彫りにするツイートが、たまたまTLに回ってきたので記録しておく。

https://twitter.com/Yuhi_Ogino/statuses/296217141227712512
実際問題、政策等で「同性愛」という言葉が入ることは難しいし、バックラッシュされて消されやすくなると思う。だから、「性的マイノリティ」という言葉は、性同一性障害や同性愛だけでなく無性愛等も包括できるとともに、「同性愛」の隠れ蓑になる役目もある。(続く)

https://twitter.com/Yuhi_Ogino/statuses/296218642763378688
(続き)だからこそ、「性的マイノリティ」という言葉が使えなくなるということは、「同性愛」という言葉によってバックラッシュが始まり、受けられていた支援がなくなる、必要な支援が届かなくなるという事態を引き起こす可能性もある。

https://twitter.com/Yuhi_Ogino/statuses/296221337398153216
そう、隠れてる。別に悪いことなんてしてないのに。本当なら、真っ正面から戦えばいい。けれど、相手が強すぎて、体力を消耗して倒れる。でも、同時に「性的マイノリティ」に含まれる同性愛を使って、既成事実みたいなものを作る。今度はその事実を糧に戦う。(続く)

https://twitter.com/Yuhi_Ogino/statuses/296222541788352512
今は、"戦う"と"事実を作る"の行ったり来たりをしてる途中。そして最後に「同性愛」を独立させる。「性的マイノリティ」という言葉には、戦略的な意味・意義もあると考えています。遠回りっぽいけど、「急がば回れ」という言葉で表現できると思います。

まず指摘しておくが、これらは文章として成立していない。

なぜなら「主語」がないからだ。

同性愛者の存在を、埋没させたり“独立”させたりする権限を有するのは、誰なのか。

プロフィールには「虹色ソーシャルワーカーとあるが、上掲ツイートでは《「同性愛」という言葉によって、バックラッシュが始まり、受けられていた支援がなくなる、必要な支援が届かなくなる》状況が自明化されている。あまりに悲観的で、かつ一面的な物の見方である。

しかし、同性愛者が嫌悪される存在であることを前提とした文章は、それがどのような意図にもとづくものであっても、同性愛者を社会から孤立させ、そのアイデンティティ(「同性愛」という言葉)を放棄せざるをえないように追い込む効果を生む。

同性愛者を嫌悪する人が社会に存在することは事実だ。しかし社会には様々な価値観をもつ人がいることもまた事実だ。いちばんの問題は、自分がどうあるか・どうありたいかということではないのだろうか。

「社会」が何か物を言うことはありえない。一人称を主語に置かない言葉は、どこか無責任だ。

その証拠に《相手が強すぎて、体力を消耗して倒れる。》という言い草からして、すでに他人事だ。「虹色ソーシャルワーカー」というものを“めざ”しているというなら、同性愛者が《体力を消耗して倒れる》前に、なぜ自分が“支援”しようとしないのか?

そも《「性的マイノリティ」という言葉》に一括されることよって同性愛者がその個別性を否定され、他の属性に埋没してしまう状況自体が「差別」に他ならない。「虹色」どころかセクシュアリティの多様性を黒色に塗りつぶす発想だ。

言い換えるなら、現行の「差別」よりも自分の考える「差別」の方が“政治的に正しいと言っているにすぎないのである。 

だいいち「性的マイノリティ」という“言葉”自体が、学者によって政治的に作られた、一種の「政治的イデオロギーであり、当事者の意向を反映したものではない。

「すこたんソーシャルサービス」内
『“LGBT”という言葉について』
http://www.sukotan.com/ABOUT_US/about_top.html
 
 「セクシュアル・マイノリティ」は、アメリカの学者たちが使い始めた言葉で、ヨーロッパ・アメリカ社会では、日常的・一般的に使われていません。アメリカ・カナダ等に住む当事者の方からの情報でもそれは裏付けられます。
 
 では、同性愛者や性同一性障害(広くトランスジェンダー)の人たちに対して、どんな言葉が使われるかというと、頻度の上では、“LGBT”または“GLBT”が圧倒的です。Lesbian, Gay, Bisexual, Transgender の頭文字をとったものです。女性同性愛・男性同性愛・バイセクシュアル・トランスジェンダーの人たちを頭文字で並列的に並べた言葉です。それぞれが、独自に人権・市民権を獲得する運動をしてきた長い歴史が有り、それぞれの経緯や立場を尊重しつつ、いっしょに運動していこうという思いを込め、敢えて、ひとつの単語にくくらずに、対等に並べたと言われています。
 
 「セクシュアル・マイノリティ」が使われない理由は他にもあります。まず学術用語であること。もともと、「同性愛」“homosexual”という言葉さえ、医学の治療対象として作られた言葉だったので、それを拒否して、“Gay”“Lesbian”という自称を用い始めた流れがありますから、欧米の当時者が違和感を感じるのも当然です。
 
 また、実は英語では、どんな文脈で使うときも、「セクシュアル・マイノリティーズ」“sexual minorities”と複数形で言って、決して「セクシュアル・マイノリティ」“sexual minority”と単数形では言いません。なぜなら、多様な性のあり方に対応して、性に関する「少数派」と言っても、さまざまな当事者を含むわけで、一枚岩ではないからです。この違いが、日本で誤解を呼ぶことになるのです。
 
 日本語で「セクシュアル・マイノリティ」という単語を聞いた時も、極めて同質の人間で構成されている、あるひとつのグループを連想してしまいがちです。「性」に関する「少数者」はひとつの集団をなしていて、場合によっては、どこか特定の地域だけに住んでいるというイメージを持つ人もいます。「ゲイ」とくくられても、その中には、多様な人がいるのに、「全てのゲイは○○である」とまとめてみんな同じであるかのように語られてしまうことがよくあることから連想してください。
 
 したがって、当初は、「セクシュアル・マイノリティ」=同性愛者、と誤解されていた期間もありますし、今は、社会で話題になった度合に呼応して、「セクシュアル・マイノリティ」=性同一性障害の人、と認識している人も少なくありません。性同一性障害の人が戸籍を獲得する道が法的に開けたことで、「セクシュアル・マイノリティの問題は解決した」と思っている人さえいます。もちろん、性同一性障害の人たちもまだまだたくさんの問題を抱えています。「解決」はまだ先です。
 
 同性愛者と性同一性障害の人たち(広くはトランスジェンダーの人たち)の抱える課題は、共通のものも少なくありませんが、個別に異なっている部分もあります。例えば、医療の力を借りて手術が必要な性同一性障害の人たちに対して、同性愛者は、同性愛を「治す」治療を拒否します(というか医学的にも治療の対象からはずされています)。ですから、社会に対して、偏見や不利益の解消、またさまざまな保障を求めていくときも、簡単に何でもいっしょに行動できるわけではなく、それぞれが活動する中で、いっしょにできることをじっくり検討しながら進めていくのが筋です。
 
 しかし、今日本国内では、個別の呼び名よりも、「セクシュアル・マイノリティ」の方が広く行き渡りつつあります。それが新たな誤解を呼んでいるのです。とりわけ、“LGBT”の人たちをよく知らない人にとっては、やはり「セクシュアル・マイノリティ」という名の「ひとくくり」の人たちがいるらしい、という連想が働いてしまいます。しかし、これは当事者にも同じ問題を投げかけます。
 
 私は、性同一性障害虎井まさ衛さんに出会い、ゲイとしての自分のもつ課題や生き方と、虎井さんが持つ課題や生き方とは、必ずしも一致しないことがよくわかりました。お互いに語り合い、いっしょに本を出したり講演したりする中で、最初から「同じセクシュアル・マイノリティなのだから、仲良くいっしょにやりましょう」という風な「お題目」だけでは、簡単にことは進まないことも知りました。それでは「なれ合い」にしかなりません。お互いにわからないところをぶつけ、今どんな活動が必要かを知り、議論もして、そこから共通の課題を見つけつつ、信頼関係を築いていきました。“G”と“T”の間で、相互理解にはじっくり時間をかけなければいけないのです。それは、異性愛者と同性愛者が理解するのにかかる時間とそう変わらないかもしれません。そのくらいお互いに思いも状況も立場も「違って」いるのです。でも、そうした過程を経ていけば、共通の悩みもわかって、いっしょに闘える場面も見えて来ます。「セクシュアル・マイノリティ」とくくってしまうことで、当時者である私たち自身も、それぞれの違いを理解する努力を省略してわかったような気になってしまうことがあるのです。
(後略)

当たり前だが「性的マイノリティ」などというセクシュアリティは存在しない。よって同性愛者も両性愛者も無性愛者もトランスジェンダーも性嗜好障害者も、それぞれ「必要な支援」が異なってくる。

そこをいくと上掲ツイートにおける提言は、脳内で自己完結した「戦略」に酔いしれるあまり、具体性・現実性が欠如した空論と言わざるをえない。

「性的マイノリティ」という空疎な観念によって「性同一性障害」や「同性愛」や「無性愛等」の当事者が、生身の人間ではなく、特定の政治的イデオロギーに都合の良い“記号”として扱われている。じつに不気味だ。