百錬ノ鐵

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「複合差別問題」を理解しない【思想館】が説く《差別の度合い》

元記事:

<1>
反省しない腐女子とBL作家たち:ボーイズラブホモフォビア|思想館
http://www.shisokan.jp/hansei-joseigaku/fujoshi/

<2>
24時間テレビでの性的少数者の表象と抗議者の問題|思想館
http://www.shisokan.jp/hansei-joseigaku/24-tv/

もっとも【思想館】は腐女子による《ゲイ差別》を「正義」の高見から何の“反省”もせずに断罪する一方で、「差別」を解消するという意識は持ち合わせていないようだ。

他のページ<2>を読むと、はるな愛が「24時間テレビ」に出演した際の差別的な演出に対する批判を取り上げている。

 この抗議をしている人の記事には、これからの差別問題を考える上での問題があると言わないといけない。まず、反差別という「正義」の暴力によって単線的な差別の捉え方をして、複合差別問題を置き去りにすることに繋がること。そしてもう一つの問題は、人間社会という差別社会からは、一切の差別をなくせるわけがないので、それぞれの差別の度合いを薄めていくしかないということ。あらゆる差別から自由でいられる存在は、公平中立の視座を持つ「神」なる存在だけである。

ちなみに《そしてもう一つの問題は〜》以降は、後に本文の締めとしてほぼ同じ語彙の文章がもう一度出てくる。いかにも頭の悪い人間の書く文章で、微笑ましくすらある。

さて、これはお決まりの論法であるが《一切の差別をなくせるわけがない》からといって「差別」が許容されるべきである、という結論を導くことはできない。《一切の差別をなくせるわけがない》のであれば“なおのこと”厳しく批判を怠るべきでないという結論を導くことも可能であるからだ。

そも《それぞれの差別の度合い》とはまさに「差別」を行使する側が自分たちに都合良く勝手に決めるものだ。あるいは【思想館】が適当な被差別者を捕まえてきて、その当人たちの基準で《差別の度合い》を決めさせたとしても、けっきょく被差別者を利用して「差別」を正当化していることに変わりはない。【思想館】の主張は、女性を強姦するにあたって被害者にコンドームを付けた方がいいかと訊いているのと同じだ。

また「複合差別問題」とは【思想館】の言葉を借りれば性的少数者への抗議では非常に憤っていた抗議者が、障害者問題になると鈍感になる》といったことらしいが、その原因とは《反差別という「正義」の暴力によって単線的な差別の捉え方をして》しまうことにあるという。

 政治的正しさを主張し、24時間テレビでの性的少数者の差別問題が氷山の一角であることに憤り、差別をなくしたいと思い、日常的な差別に立ち向かわないといけないと言いながら、障害者問題になるとその政治的正しさとやらはどこかに行ってしまう。障害者問題でその鈍感さなので、他の差別問題である被差別部落問題なども絡んでくると、ますます差別問題に鈍感になるのだろう。

しかし《反差別という「正義」の暴力によって単線的な差別の捉え方を》するというのは、あまりに観念的な言い回しで意味が通らない。

そこで【思想館】は《現に、この抗議者も別の差別問題には鈍感である。》ことの根拠として、当該ブログの《障害者の表象のやり方については私もあまりいい感情を持っていませんが》という記述“のみ”を挙げているのだが、当然ながら【性的少数者への抗議では非常に憤っていた抗議者】が《障害者の表象のやり方については私もあまりいい感情を持っていませんが》と書いたからといって《現に、この抗議者も別の差別問題には鈍感である。》ことの証明にはまったくならない。これもまた言葉尻のみを捉えたレッテル貼りにすぎず、甚だしい論理の飛躍である。

だいいち、「差別」について問題意識をもつことと、その意識を「抗議」という活動を通して表現することは、当然ながらまったく次元が異なる。ゆえに「差別」に対して「抗議」をしないからといって、「差別」について《鈍感である。》という帰結を導くこともできない。

実際問題として、ある「差別」に抗議する前に《一切の差別》を解決しなければならないのだとしたら、結果的に《一切の差別》に対して抗議できなくなってしまう。

ゆえに《抗議する自由》が保障される一方で《抗議しない自由》も保障されるべきである。もし抗議することが“義務”と化すなら、性的多数者の障害者に対しても性的少数者の差別への抗議を強要することになる。

そこで【思想館】が持ち出すのが「差別」の問題に優先順位をつける発想である。

(前略)24時間テレビでの少数派問題は、性的少数者よりも障害者問題のほうが深刻だ。現実問題としても、日本の歴史を振り返ってみても、性的少数者よりも障害者への差別と抑圧問題のほうが深刻である。障害者の欠格条項の歴史と今でもあるその欠格条項を考えても、障害者問題は深刻な問題だ。

一つの段落に「深刻」という語彙が三つも出てくるあたり「障害者問題」に寄せる【思想館】の切実なる想いがひしひしと伝わってくるが、どうでもいいのでそれはさておき、

 健常者の性的少数者が障害者に偏見を持って、「気持ち悪い」と思ったり、明らかな差別をすることはよくある。女性差別を得意げに主張する多数派の女たちが、性的少数者や障害者や被差別部落の者たちに、強烈な差別をすることもよくある。

……というのなら、逆に《障害者が性的少数者に偏見を持って、「気持ち悪い」と思ったり》することだってあるはずなのだから“なおのこと”《性的少数者よりも障害者への差別と抑圧問題のほうが深刻である。》とは言えなくなる。だが【思想館】の脳内で自己完結した理屈であるがゆえ、その結論に至る理路が第三者にはまったく見えない。けっきょく「差別」の優先順位も「差別」を行使する者の気分次第ということだ。

現実には障害者でなおかつ性的少数者でもあるという「ダブル・マイノリティ」も存在する(むろん、出自なども絡んでより多くの被差別のスティグマを負う人もいる)。これこそが真の意味での「複合差別問題」である。

障害者と性的少数者という概念上の属性の区分を、あたかも排他的な二項対立として捉えてしまう【思想館】の貧しい世界観こそ《単線的な差別の捉え方》の典型である。加えて《自分に当てはまる言葉で他人を攻撃する》という“トンデモさん”の典型をも忠実に踏襲している。

またそのような者の依拠する特権意識が、その特権性を指摘されたとたん被害者意識に転じるというのも一つの傾向であり、【思想館】の場合はそれが<1>における差別利権という語彙に表れている。

 差別は複合的で、男が女を差別していると一律のものではなく、多数派の女たちが少数派の男を差別している深刻な問題がある。同性の結婚も認められていない状況では、ゲイたちは多数派の女たちよりも遥かに違法な者として存在している。日本のゲイは日本社会はゲイに寛容であるからとして、あまり抗議をしたりしない。『「オカマ」は差別か 『週刊金曜日』の「差別表現」事件―反差別論の再構築へ〈VOL.1〉』(ポット出版)を見ても、むしろ、「差別利権」というものに敏感なゲイも多い。そういう状況に腐女子たちは甘えてしまって、反省することが少なかった。

ゲイの市民団体が差別表現に抗議することで(ここでは、その抗議および言及されている書籍の内容についてはあえて問わない)、いかなる「利権」とやらが発生するのか。その手の陰謀論者と違って物わかりの悪い私にはさっぱりわからないが、当の【思想館】も他人の受け売りでお茶を濁しているあたり、自身の生きた言葉として消化できていないことが明白である。

「差別」をなくせないのであれば差別利権もなくならないのであり、そして「差別」が許容されるべきものであるなら差別利権も許容されるべきという理屈になる。

【思想館】の頭は人様の揚げ足取りに全力投球するあまり、自分が何を言いたいのかもわからなくなっているらしい。

(続く)