百錬ノ鐵

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【思想館】の腐女子バッシングは自己を「腐女子」に投影した近親憎悪にすぎない

元記事:

反省しない腐女子とBL作家たち:ボーイズラブホモフォビア|思想館

http://www.shisokan.jp/hansei-joseigaku/fujoshi/

さて《ゲイ作家のゲイ漫画ではなく、美少年や美青年ばかりが出て実際のゲイ社会とは乖離した描写ばかりをしているボーイズラブばかりを読んでも、それでゲイを理解したことには全くならない。》とは、裏を返せば「ゲイ作家のゲイ漫画」を読めば《それでゲイを理解した》ことになる。

しかし、仮に腐女子《美少年や美青年ばかりが出て実際のゲイ社会とは乖離した描写ばかりをしているボーイズラブばかり》ではなく「ゲイ作家のゲイ漫画」ないし「ゲイの当事者が書いた文献」を読んだとしても、やはり「偏見に基づいたボーイズラブを読んでいるからには《ゲイに対する強烈な偏見を根強く持》つことになるのだという。

そして、そのような宿命を背負った腐女子《「同性愛差別に反対!」などと言うこと》《「私はゲイの味方」と思い込み、自らを「正義」の側に置》くことを意味するのだという。

しかしかく言う【思想館】もまた《多数派の女たちが少数派の男へ差別していること》を批判しているのだから、腐女子と同様に《「私はゲイの味方」と思い込み、自らを「正義」の側に置き、「同性愛差別に反対!」などと言》っていることになる。

そこで両者を隔てるのは《ゲイに対する強烈な偏見》の有無ということになる。

しかし、腐女子に限らず何事にも「偏見」をもたない人間などいるのだろうか。【思想館】は自身が《ゲイに対する強烈な偏見を根強く持》っていないことを、どのように証明するのだろうか。

仮に腐女子でない非当事者が「美少年や美青年ばかりが出て実際のゲイ社会とは乖離した描写ばかりをしているボーイズラブの代わりに「ゲイ作家のゲイ漫画」「ゲイの当事者が書いた文献」を読んだところで、やはりゲイを“理解”したことにはならない。

なぜならば、それらはゲイの「いち当事者」の視点から世界を切り取ったものにすぎず、すべてのゲイを代表するものにはなりえないからだ。

言い換えるなら、ゲイ当事者自身であっても、ゲイに対する「偏見」からは免れないのである。

もし「自分はゲイなのだから、同じゲイの気持ちが手に取るようにわかるし、また他のゲイも自分の考えに共感するはずだ」などと言う当事者がいたとしても、他の当事者から総スカンを食らうだろう。そも《同じゲイ》など存在しない。

ようは“物の言いよう”にすぎないのである。腐女子が「私はゲイを“理解”できる」と“言う”ことが問題なのは、《美少年や美青年ばかりが出て実際のゲイ社会とは乖離した描写ばかりをしている》《妄想に満ち満ちた》BLを読む者にその「資格」がないからではない。ただ、人が人を“理解”するということの困難について、あまりに無頓着でナイーブだからだ。

しかし、そのような人の言葉尻ばかりをいちいち捉えて、さも鬼の首を取ったかのように《いい加減に反省しろ》などと勝ち誇る【思想館】の姿も、ありていに言って大人げない。そうした居丈高な態度の、いったいどこに自己の「正義」に対する“反省”があるだろうか。

《自らを「正義」の側に置》くことを憎悪しながらも、いざ【思想館】自身が《自らを「正義」の側に置》くことのできる立場になったなら躊躇いもなくそれを行使する。

【思想館】の独善的な腐女子バッシングは、そのじつ自己の醜悪な内面を「腐女子」という観念化された表象に投影した近親憎悪にすぎない。

かくして、ゲイに「偏見」をもつ人間が《ゲイ差別》を批判することを否定するなら――否、《ゲイ差別》の批判にあたって「偏見」のないことを証明しなければならないのだとしたら、結果的にゲイ当事者を含めて何人も《ゲイ差別》を批判できないことになる。

それでも「ゲイ作家のゲイ漫画」ボーイズラブとでは「偏見」の度合いが違うという言い方はできるかもしれない。

しかし【思想館】が文中で触れている「オカマ論争」一つとってもわかるとおり、じつのところゲイ当事者の間でさえもコンセンサスなど存在しない。その「現実」を無視してしまったら、けっきょくはタレントや学者など“声の大きい”一部の当事者が、弱い立場の当事者を抑圧する差別構造が生み出されるだけだ。

BLの非現実性をあげつらう一方で、その反動から「現実」を単一の固定されたものとして捉えてしまうなら、けっきょくはゲイ当事者、あるいは〈異性愛者/同性愛者〉などの枠組みに当てはまらない人々の個別性を無視することになる。

むろん腐女子に限らず「偏見」「偏見」のまま放置して開き直ればいいというものではない。BLに関心をもとうともつまいと、(ゲイ当事者を含めた)私たちに必要なのは「現実のゲイ」なる観念を設定してそれを“理解”することなどではなく、「現実」と「妄想」が食い違った時に「現実」から目を背けないだけの理性を保つことではないか。

(続く)