百錬ノ鐵

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シオヤギくん(Gay_yagi)、国連“トランスジェンダリズム”広告を謎理論で全力擁護するの巻

以前にも少しふれたが、件の国連によるトランスジェンダリズム広告『もし彼女がトランスジェンダーであっても愛しますか?(Would you still love her if she were transgender?)』について、

当然のことながら、トランス主義者でレズビアン差別主義者のシオヤギくん(@Gay_yagiも全面支持の態度をとっている。

その理屈がまた例によって例のごとく“謎理論”なのだが……

まず、トランスジェンダーと非当事者の関係性を考える上で「家族」「恋人」では、意味がまったく違ってくる。血縁にもとづく「家族」は選べないが、「恋人」は自分の意志で主体的に選び取る関係性であるからだ。

それをふまえたうえで、しかし任意の相手と「恋人」になる――すなわち恋愛関係・肉体関係を取り結ぶにあたって、わざわざ自分の性別を隠して(偽って)接近するというのがわからないし、あるいは「恋人」の関係にありながらパートナーがトランスジェンダーであることに気がつかないというのもわからない。

そのような非現実的かつ“恣意的”な想定をもとに、シオヤギくんは件のトランスジェンダリズム広告を全力擁護するのである。

だが仮にトランスジェンダー《暴力を振るわれたり家から追い出されたりするケース》を想定しているのであれば、たんに暴力反対といえばいいだけのことだ。

そこをいくと、トランスジェンダーを“愛する(love)”ことをしない、すなわち性的対象に含めないこと自体が「差別(discriminate)」であると主張する件の広告は、論点が摩り替っており、その意味でも不適切といわざるをえないだろう。

加えて、広告とは言葉(キャッチコピー)だけでなく、図版も用いて総合的にメッセージを発する表現である。

言うまでもなく「love」とは「恋人や性的対象」に用いる言葉で、「家族」はともかく「友達」に用いることは稀であろう。日本語には「家族愛」「親子愛」「兄弟愛」「姉妹愛」「人類愛」「隣人愛」などの語彙も存在するけれど、

いずれにしても「love(愛)」から「恋愛・性愛」の意味を排除する解釈は語義矛盾に他ならない。

そも件の広告の、同世代の男女と思しき人物がうっとりした表情で額を寄せ合う表象からロマンティック・ラブ・イデオロギーを“読む”ことができないのであれば、もはや表象を読み解く能力が欠如しているというより、トランスジェンダリズムイデオロギーに凝り固まって認知そのものが歪んでいるとしか言い様がない。

あるいは、まぁ一億歩ほど譲って、件の広告に「(トランスジェンダーを)性的対象に含めなければ差別」という意図がまったくなかったとしても、

まさしくそれを支持するシオヤギらトランス主義者が「(トランスジェンダーを)性的対象に含めなければ差別」と主張していることは何も変わらない。

その証拠に、

トランスジェンダー「当事者や団体」「性的対象に含めなければ差別」と《誰もそのような主張はしておりません》“主張”する一方で、

トランスジェンダーの恋愛やSEXを拒む人を「差別的な人」と決めつけている。

  • まさかとは思うが……もしかして「差別」ではないが「差別“的”」ではある、という意味なのだろうか? 
  • じじつ「差別」ではないが「偏見」ではある、といった(※過去記事参照)コマッしゃくれた小学生レベルの“屁理屈”を十八番とするシオヤギくんなら、じゅうぶんありうる話だ……。

あげくのはてに、私たちが日常的に用いている、恋愛関係・肉体関係を結ぶという意味での“付き合う”という俗語を、恋愛関係・肉体関係を伴わない友人との「交際(付き合い)」に摩り替えるという、極右政権顔負けのご飯論法まで駆使するのだ。

www.gentosha.jp

もっとも、以前にも他のトランス主義者について指摘したとおり、このような“病的なレベルのウソツキ”でなければ、

トランスジェンダリズムという《嘘とか欺瞞に溢れる世界》を恥も臆面もなく喧伝することなどできないのだが……。

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